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2009年8月アーカイブ

 そういえば先週末に期日前投票を済ませていた。
 自分は、前原さんが代表を務めていた時期の民主党だったら応援する気にはなれた。良い法案であれば、良い政策であれば自民党のものであろうと進んで賛成するような姿勢が当時の彼らには存在していたからだ。
 この時期の民主党が政権与党になっていれば、あるいは。
 まあ、二度とあんな民主党に戻る事はないのだろう。

 1993年を思い出す。
 2009年は、1993年からのあの数年間を再び繰り返すのだろうか。

 漫画の内容とは関係なくふと思い出したのは、絶頂期のコスモエンジニアリングの運営方針と、天羅万象を出した頃の井上純弌だった。
(分かる人が読めば、どれだけ失礼な事を述べてしまったのか分かってしまうだろう)

 雑誌の内容については数多のブログなどで語られているし、それらの意見の大多数について否定する材料を自分は持たないことを述べておく。漫画描きでもない自分が漫画の技術について語ったところで、おそらくプロ漫画家たちは「素人の戯事」としか受け止めないだろうし。
 だから、というわけではないけれど、彼らの行動力、というか「思いついた事柄を実行に移す意思の力」は賞賛に値するのではないだろうか?とも思うのだ。
 自分のように人間不信というか対人恐怖のようなものを患い創作活動(といっても同人だが)を投げ捨て方々に迷惑をかけてしまったザ・人間の屑からしてみれば、羨ましい限りだ。欲しいものに手を伸ばす事もせずに腐っていくような(自分の)生き方に比べれば、よほど充実した人生だろう。

 自分がコミックギアの今後に期待する事があるとすれば、彼らが外の声の中から忠告に値する意見をきちんと拾い上げ、それを謙虚に受け止められるかという点に尽きる。

大学受験の一日前に、北海道東方沖地震が起こった。実家は震度6、携帯どころかポケベルすら普及しているかどうかの時期であり、実家に連絡がついたのはセンター二日目が終了した夜だった。
どの道無理だと諦めていた受験ではあったが平常心を崩された自分には微塵の勝機も残されてはいなかった。
自分の故郷は年に数度は中規模の地震が起こる土地だから、住民にある程度の備えと覚悟はあった。それでも震度5(当時は6といわれた)の直撃を受けたと聞いて平静でいられるはずがない。とはいえ前後数年に多発した大規模地震の一番手として、我が故郷の被害は後々の悲劇に比べると拍子抜けするほど軽いものだった。それでも死者が出ている。怪我をした人もいる。連絡のつかぬ故郷の家族知人を思い心苦しんだ人が大勢いる。

阪神淡路大震災のインパクトが大きいので記憶に残らぬ人も多いだろうが、北海道南西沖地震もまた十分に悲劇と呼べる震災だったと思う。北海道東方沖の被害の軽さに油断していた自分たちが、ブラウン管越しに見たその惨劇にひどく打ちのめされたのを今でも覚えている。地震と言うのは、その規模もそうだが発生した土地の条件などにより被害の大きさが変わるのだろう。

阪神大震災は、一年間の浪人を経て大学に入った最初の年の一月に起こった。
関西では大きな地震は起こらないと誰もが信じていた頃の、そういう年の惨劇だった。天災であり人災であり、避けられるべき悲劇が欲深い者たちの縄張り争いや競争により踏みにじられた場でもあった。
彼ら被災地の住人が受けた苦しみや直面した惨劇の重さ大きさを疑う余地はないが、時たまではあるが関西方面の方の中に「俺達は震災を経験したんだ、お前らにはわからんよ」という態度を言動の中ににじませる方がいらっしゃる。
悲劇はどこにでもある。目を背けたくなる惨劇は沢山ある。確かに阪神大震災のあの被害はとてつもないものだったが、他の災害事件にあって苦しんだ人を軽んじていい道理があるのかと疑問に思う事がある。

実は似たような感情を沖縄の人に抱く事がある。リアルタイムでソビエトやロシアの脅威にさらされてる北海道民としてはどう対応すればいいのだろうと悩む事がある。おそらく各人には各人の悲劇があり、そんなものを相対的に比較することなど無意味に等しいと思うのだが。

 自分にも学生だった頃がある。

 同じサークルの知人(かつて友人だったかもしれない)の紹介で始めた居酒屋でのバイト。1994年の夏は前年の冷夏が嘘のように蒸し暑い日が続いていた。
 松本城の東、堀に面した小さな焼き鳥屋が自分のアルバイト先だった。夕方より働き始めて終わるのは午前1時過ぎの世界、発作さえ起こさなければ酷暑の環境は体温変化を起こしにくく自分にとってはむしろ願ったりの状況であり、この町で過ごせた一年は自分にとって有意義ではあった。
 この町で、ある意味で自分は運命的な出来事に巻き込まれている。
 他人を愛そうと思えた最後の一年だったというのもある。
 その日、自分は深夜1時過ぎまでバイト先で働いていた。
 下宿として利用していたのは大学まで徒歩数分の家で、バイト先までは緩やかな坂道を自転車でしばし進む必要があった。行きは下りで、帰りはのぼり。必然と帰宅の際には風上に向かう事が多く、自分とバイト仲間の学生はいつものように坂を上って深夜の松本市を走っていった。自転車でなければ、より道をしてたかもしれない。
 或いは、其処にとどまっていたかもしれない。
 
 自分が事件を知ったのは、翌日早朝に電話で叩き起こされてからだった。
 自分のバイト先、その周辺に毒ガスがばら撒かれていたのを知ったのは、蒸し暑い朝だった。

 ガスは、バイト先にも届いていた。まだ若い店主が店の片付けをしており、僅かにガスを吸ったのか頭痛を訴えていた。
 蒸し暑い夜だった。
 冷房を持たない貧乏学生にとって、窓を閉め切って寝るなど無謀としかいえぬ状況だった。あの現場周辺に居を構え命を落とした学生と、そうでない学生の差は、家電製品ひとつだったかもしれない。
 自分は幸運にもガスを吸わなかった。
 吸ったという自覚は無い。吸っていたかもしれないが、証明することはできない。分かっているのは、偶然が重なって生きていた事だけ。命を落とさずとも重篤な障害を抱えていた可能性もある。
 当時は、事件の理不尽さに驚き嘆くばかりだった。
 自身の幸運と犠牲者の不運を考え、それでも他人事と割り切る余裕もあった。
 だが、後年になって思う事があるのだ。
 自分は、ひょっとしたらあの時に命を落とすべきだったのかもしれない。本来自分はあの松本サリン事件で命を落とした一人だったのではないかと。馬鹿げた事かもしれないが、自分はあの夜に。

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