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はざままさと: 2009年7月アーカイブ

 自分の身体に合った吸入薬を手に入れるまでは、発作に苦しみながら夜中まで起き途中で酸欠で意識を失うのが常だった。
 季節の変わり目。
 天候不順。
 無茶な運動。
 煙草の副流煙。
 アルコールの匂い。
 香水。
 秋と冬の気温。
 寒暖差。
 標高差。
 カビ。
 刺激物が発作の引き金になった事すらあった。
 冬の日に、外を5分ほど歩くだけで発作に襲われた。走れば30秒とかからなかった。
 どこまでいけば致命的な酸欠状態になるのか、身体が覚えてしまったほどだ。気圧や湿度の変化を肺と気管の粘膜が敏感に察知して、短期間の天候予測が出来たほどだ。
 その代わり、当たり前の生活が出来なかった。
 発作さえ起こらなければ常人と何ひとつ変わらぬ生活を送る事が出来る身体は、言い換えれば発作が起こらなければ健常者としての行動を強いられた。精神論を持ち出す者もいたが、その精神で普段の生活をギリギリ支えていたと言っても彼らは耳を貸してくれず、失望した視線をこちらに投げかけるだけだった。

 発作止めの吸入薬との出会いは、自分の生活を一般人に近付けてくれた。
 限度はあったがアルコールの摂取も可能になった。隣で煙草を吸われても耐える事が出来た。刺激物の多い薬品を扱う実験も慣れる事が出来た。
 
 それでも発作止めは、予防薬ではない。
 息苦しさで目が覚めるのが、秋冬の姿になった。
 文字通り気管がつまり、酸欠の苦しみで目が覚めるのだ。目覚めの爽やかさは其処には無く、鈍い頭痛と肺に刺す痛み、全身の気だるさと吐き気。そういうものがまとめて毎日襲ってきた。極稀にではあるが、吸入薬でも対処できない発作を起こして救急車で運ばれる事もあった。
 多くの人が当たり前のようにできる事の数々が、自分にとっては生命の危機に直結し得るものだった。どれほど軽い発作に思えても、その時の体調次第では肺炎を併発することすらある。実際に肺炎と認定された事もあったし、咳き込んだものに血が混じっていた事など日常茶飯事であった。
 そういう意味では、健常者に比べてほんの少しだけだが自分は死というものを意識してきたのかもしれない。

 高校の三年間、寮生活だった。
 ルームメイトに恵まれはしたが、ルーズに見えて容赦なく厳しい寮則が存在し、また喘息の発作がトドメになった。
 眠れずに机に突っ伏し、眠ったかと思えば実は酸欠で意識を失っていただけという日々をどれだけ繰り返したか、思い出すことも出来ない。心配したルームメイトが寮教諭をに連絡し、夜中に病院に連れ込まれた事も数限りない。
 当時は既に吸入薬は存在したが、過去に心臓にやや負荷の掛かる病気を(一時的にではあるが)患った身としては、脈拍が一気に200近くまで跳ね上がるような副作用を持つ吸入薬には手が出せなかった。
(そのクスリを後年になって服用したら右手右足の痙攣が生じるというオマケ付だった)
 冬に、少し薄着で外を5分も散歩すれば重い発作が起こった。
 軽く汗をかくだけでもアウトだった。
 今思えば常夏の環境ならば発作の頻度も抑えられたかもしれないが、当時はそこまで気が廻らなかった。何をすれば発作が起こるのか、手探りで調べていくしかなかった(そして条件が揃うたびに寝込むハメになった)
 酸欠の苦しみは、打撲や裂傷のそれとは一味違う。
 首を縛る時の苦しみとも違う。
 己の内側で空気の出入りが勝手に塞がってしまう感覚は、喘息もちになら分かっていただけるだろう。なまじ他の臓器が健在である分、身体は酸素を求める。油断すれば命を落とすが、早々には死に至らない苦しみが何時間も続く。それを毎晩のように経験した。14歳の頃から、ずっとだ。長くは生きれないなーと当時は割と真剣に思った。
 後年になり比較的安全な吸入薬と体質変化により喘息の発作そのものは治まっているが、あの時の苦しみを思い出すたびに、気が遠くなる。

気分転換を兼ねてブログを整理してみた。ついでにデザインも。

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