21世紀初頭、どこぞの新聞社が各界の著名人に「21世紀の日本像」をインタビューした記事を載せていた。その中にマツタケの栽培に関する研究の第一人者(おそらく小川真博士クラスの研究者)に「マツタケの人工栽培は実現するか」という問いを掛けていた。
対する返答は、誌面を読む上で文意を汲み取るならば
「人材と予算を集結して頑張れば10年でできる。10年頑張って駄目なら、不可能だ」
という内容だった。
さて10年が経った。
人材と予算を集結したという話は寡聞にして知らず、菌学会は内部分裂を起こしたかのようにきのこ学会が誕生し、マツタケの人工栽培に成功したという話も聞かない。ほぼ全国各地の林業試験場が隠れ目標として「マツタケの人工栽培」を掲げていながらも全国区で連携を行っているという話も聞かない。
マツタケに食品としての価値を見出していた世代は、今の四十代より上だろう。ギリギリでバブル景気の恩恵を受け、美食飽食なるものを知っていた世代だ。もちろんそれより下の世代でも食に金をかける者、食べ物にこだわる者は少なくないだろう。だが世代として見た場合、十年前より200万円も平均収入が減った(地方在住のものにとっては半減という表現でもいい)働き盛りの三十代より下の世代にとって、マツタケという食品は最初から購入対象足りえない高嶺の花に成り果てた。
購入対象として扱われないから、その食材を美味と認識もしない。
味が分からないとしても、適度に手の届く食材であればハレの日の食事に選ばれることもある。かつてマツタケという茸は、そのギリギリの位置にあった。
例えるならば鯨肉と同じ現象がマツタケで起こるだろう。
輸入物、それこそ朝鮮半島やカナダそれに中国産で我慢できる世代というのは「マツタケを食べる習慣」を身につけている世代なのだ。
マツタケは、この十年で商業的価値を大きく失った。
マツタケそのものというよりも、購買層側の事情だが。外生菌根菌の生理生態そのものは大変に興味深いし学術的にも研究価値があると思う。とはいえマツタケ研究ってのはこのジャンルにおける旗印のようなもので、それこそ人生をかけて幾人もの逸材が散っていった分野でもある。
その価値が、失われようとしているわけだ。
研究も大事だが、国民がマツタケを珍重する空気を残す努力も必要だと思う。高嶺にしか咲かない花を求めるのは酔狂な登山客だけだ。低地を這いつくばって生きている我々には、首を上に向ける余力すらないのだから。