第六話 いにしへの  小多良悠衣は苦悩していた。  一年前までランドセルを背負っていたとは到底信じられない見事な乳房を隠すように、悠衣は学生鞄を抱え込む。胸がコンプレックスなのか、その年頃にしては短すぎるスカートに意識が向けられることはなく、悠衣はいつもの癖で大股で歩き回る。悩んでいる時なら、尚更に。 (忠以さん、まだ授業終わらないのかな)  悠衣と前方忠以が出逢ったのは、随分前の話だ。彼女がこの街に引っ越してきた時、隣の家に前方の家族が住んでいたのだから。五つ年上の忠以は優しくて、出逢った頃から悠衣は彼のことが好きだった。  小学校に入る前からだ。  悠衣の苦悩はそこから始まった。部屋に入り浸る近所の女の子から妹分に昇格するまで四年、そこから一人の女の子として意識してもらうまでに四年かかった。面倒見が良く優しい忠以は、悠衣の前では良い兄として振舞おうとしていた。それは悠衣を大事にしたいという気持ちの表れでもあったが、その優しさが彼女にとっては辛かった。  だから小学生最後の日、悠衣は忠以にその気持ちを伝えた。一年以上、家庭教師として色々教えてくれた忠以に、悠衣は泣きながら告白した。  返答は、骨が折れそうなほど強烈で情熱的な抱擁と、窒息しそうなくらいに長いキスだった。背が高く見た目も良い忠以は、中学生の頃から女子の人気があった。彼が高校に進学してからは、その人気が加速したと言って良いくらいだ……その忠以が自分の告白を受け入れてくれたのが、今でも信じられない。  自分は遊ばれているのだろうか。  不安になる。自分より綺麗な女の子は沢山いる、忠以が部長を務める吹奏楽部は全国大会の常連高で、忠以の名前と顔は実は割と知られている。しかも、体育会系に近い鍛え方をする吹奏楽部を率いているから、忠以はちょっとした運動部の選手並に引き締まった身体だ。同級生と一緒に歩いているところを写真に撮られ、少女向けの投稿誌に掲載されたこともある。 (……会いたいなぁ)  今日はバレンタインだ。  年度末の試験を終えて、悠衣はその足で忠以が通う高校に向かっていた。自分のような子供が押しかけて迷惑かもしれないけど、学校が終わって直ぐに忠以に会いたかったのだ。中学校に上がってからも家庭教師として忠以は毎日のように来てくれるし、映画を見に行ったり海水浴にも連れて行ってもらった。だが一緒に出かけても、傍から見れば仲の良い兄妹なのだろう。 「あなた、前方君の妹さんでしょ? お兄さんを紹介してくれない?」  そう学校の先輩に頼まれたことも一度や二度ではない。  自分の立場はそういうものなのだと、何度も打ちのめされたが忠以への気持ちは変わらない。諦めるくらいなら最初から告白などしない。 「でも」  高校の門、そこに群れる各地の女学生や私服の女性達を見て、悠衣は絶望的な気分に陥った。  それは、ある意味で年中行事と化していた。 「毎年毎年、物凄いものがありますな」  放送部の撮影機材を借り出して、樽のような男子生徒がビデオカメラを手に感心する。確かに校舎の窓より覗く校門の景色、つまり十名や二十名ではきかない様々な少女や女性が放課後の瞬間を待ち構えている様子は、壮観の一言に尽きる。 「本命はバスケ部の仲森氏、対抗は吹奏楽部の前方氏。大穴として考えられるのは、夏休み明けに成長期を迎えた『ヤツ』ですが」  樽男はやれやれと首を振りながら、隣にいた同級生を見た。 「さすがに彼女持ちは余裕ですな、佐伯君」 「その彼女と喧嘩して三日前から口もきいてもらえない僕の現状を誰よりも知ってて、なにを羨ましそうにいうかな」  窓枠に肘をついてやさぐれていた隆を一瞥し、樽男は「へっ」と世の中の全てに憎悪を向けるような狂信的テロリストにも似た表情を浮かべる。 「夏木さんなら、朝から佐伯君に声をかけるタイミングを計ってましたよ……このままだと放課後の混乱に巻き込まれそうですから、早いところ動いた方が良いかと」  樽男の溜息と共に、隆は血相を変えて教室に飛び込んだ。  入れ違いにやってくるのは、樽男が対抗と評した忠以である。 「相変わらず飽きねえなあ」  苦笑しつつ、どこか他人事のように外の景色を眺めている。 「なあ……お前もカメラ廻すくらいなら、恋人探したらどうだ」 「真理です」肩をすくめる樽男「私も隣に住んでいる可愛い女の子に告白されたりすれば、あるいは人生変わっていたかもしれません」  固まる忠以。  樽男は「それじゃあ邪魔者はこの辺で」と、どうにも気の抜けた声をかけて教室に戻り、そうして下校前のHRが始まる。  ある者は、それを狂騒劇と表現した。  そつなく笑顔を振りまく者。  妹以外には興味を示さぬ者。  半年ほど前の体験により女性不審に陥っている者。  先刻謝り倒してようやく許しを得たのに義妹が押しかけて再び修羅場になった者。  人の数だけドラマがあるとはよく言うが、攻める側も受ける側も純情と純粋という二つの言葉を織り交ぜ、それでいて狐狸のマヤカシにも似た駆け引きが水面下で繰り広げられている。  ああ。  ここは人の立ち入る世界ではないのかもしれない。悠衣は自分がうっかり踏み込んだ場所がどれほど恐ろしいところなのかを目撃してしまった。恋愛というのは生き残りを賭けた戦いなのだ、どれほどの容姿や才能に恵まれようと意中の人を振り向けさせられないのであれば、その人間は敗北者なのだ。そして、この校門前に集った娘達は、容赦ない戦いに臨むことを覚悟した猛者だったのだ。  彼女達は周囲の敵を蹴落とすことに躊躇したりしない。 (……だめ、この人たちには逆立ちしても勝てません)  泣きそうな顔で悠衣は、その光景を見ていた。元より自分が愛されているのか不安になる少女である。もはや自分は忠以の前にはいられないとさえ考え、ふらふらとその場を離れようとし、 「来てくれてたんだね、悠衣ちゃん」  その手を掴まれる。  温かく大きな手、優しい手、悠衣が一番好きな手だ。走ってきたのだろう、少しばかり息切れしつつ声の主は、それでも嬉しそうだった。 「忠以さん」 「今日は家庭教師の日だから、びっくりした……でも嬉しい」  周りにいた女性たちが、忠以が現れたので嬌声を上げ、彼と親しげに話をしている悠衣にあからさまな敵意を向ける。悠衣を妹とばかり考えていた幾人かは露骨に不快な表情を見せ、悠衣への罵声を浴びせる者もいる。 「ご、ごめんなさい。あたし、迷惑ですよね。こんな……あたしみたいなのが学校のところにきちゃって」 「どうして」  首を傾げる忠以。悠衣は言葉を出せず、唇を噛む。悪意ある視線を全身に受け、息が詰まりそうだ。 「だ、だって」知らず涙声になる「あたし、コドモだし忠以さんに甘えてばかりだし。ただの妹分なのに……」  その先にいうべき悠衣の言葉は、忠以の唇によって塞がれてしまった。  忠以を狙っていた女性の何割かが悲鳴を上げ、  そうではない大部分の野次馬どもは歓声を上げる。  混乱しつつ唇の感触にへなへなと脱力した悠衣を、忠以はお姫様でも扱うように抱きかかえて走り去った。窓越しに一部始終を見ていた教師達は笑い転げ、それを収録していた樽男は貴重なテープを「もったいないですが」と取り出して踏み砕いた。  こうして悠衣は忠以の恋人として周囲に祝福され、忠以にはめでたくロリコンの称号が与えられることになる。  その日の夜。 「隆おにいちゃん、あたしもお姫様だっこしてほしいなあ」 「……あと2キロ軽くなったらね」  同じ真似をガールフレンド相手にさんざんやらされ腰を痛めた隆は、情けない姿勢でうずくまりつつ義妹の要求を突っぱねた。