第一話 あさぼらけ  洒落にならないほど寒い冬の午前五時。  六畳二間の安アパートの一室で、安っぽいデジタル式の置時計が朝を告げる。見てくれに負けないほど安っぽい電子音が、これまた安っぽい楽曲を延延と奏で続ける。音のやかましさよりも曲の恥ずかしさが目覚しに良いからと、デパートの店員は自慢していた。  なるほど最初はその通りだったと、布団の中で丸くなりながら佐伯隆は寝ぼけた顔で何度も頷いた。 (でも慣れると案外悪くないんだよなあ、この曲も)  睡眠時間を確保したいという隆の本能は、彼の音楽センスを変化させた。人類が持つ適応力の大きさを垣間見せる瞬間である。どのみち父親が再婚したので隆は早朝に起きて弁当を作る必要はなく、また学校に近いアパートを借りていたので始業寸前まで惰眠を貪ることもできるようになっていた。目覚まし時計の設定をそのままにしているのは、単に面倒だからに過ぎない。 (あと二時間は余裕で寝られるなあ)  そんなことすら考えている。二度寝の楽しさを知れば、なかなか止められるものではない。もぞもぞと布団の中でカブトムシの幼虫の如く身体を丸める隆。  置時計は相変わらず恥ずかしい曲を奏でている。  数分後。  隆が眠る布団から腕が伸びた。断じて隆のものではない細く小さな手は勘で置時計の位置を探り、ばしばしと畳を叩く。五回目の挑戦でスイッチに触れた手は安心したのか布団の中に引っ込む。 「んもー、駄目じゃない……近所迷惑だよ、おにいちゃん」 「……悪ぃ」 「それじゃあ、おやすみなさぁい」  もぞもぞと一つの布団の中で二つ分の声と身体が動く。  コンマ数秒後。 「ちょっと待てぇえっ!」  眠気など完全に吹き飛んだ隆が、匍匐全身で布団から這い出した。冬場だというのに全身より汗を噴き出して、呼吸が荒い。コンマ数秒の間は隆の心臓と脳波が完全に停止した時間であり、彼の意識が涅槃を垣間見た瞬間でもあった。 「起きなさい、えりかさん!」  問答無用で掛け布団を剥ぎ取れば、パジャマ姿の少女がもぞもぞと寝転がっている。義妹のえりかである。 「おにいちゃん、朝から怒鳴ってると近所迷惑だよ」 「いいから正座っ」  問答無用でえりかを布団の上に正座させ、隆自身も畳の上に座る。エアコンが温風を噴き出すモーター音が耳障りだが、構わず隆は義妹に詰問した。 「とても大切な質問です、えりかさん。あなたの部屋はどこですか?」 「となり」  何の迷いもなく彼女は即答した。隆は深く深く息を吐く、これ以上興奮するのは心身共に良くないし返答次第では更なるダメージを受けるのは目に見えている。 「では、えりかさんが今まで寝ていたのは?」 「ここ」  何がいけないのか本気で不思議そうに、小首を傾げるえりか。隆は畳に両手をつき、肺の中に残った空気の全てを絞り出す。  大丈夫。自分はまだ大丈夫だと内なる声で言い聞かせながら。 「……どうして?」 「だって寒いし」 「電気毛布も湯たんぽも、えりかさんの部屋には完全装備しているでしょっ!」 「寒いのは、おにいちゃんだよ」  屈託の無い笑顔を浮かべるえりか。 「あたしのこと気遣ってストーブとか電気毛布とか嬉しいけど、おにいちゃんが寒いの嫌なの。だから、えりかが温めてあげる」  沈黙。  隆は無言で窓際の天井を指す。そこには先刻より温風を吹き出しているエアコンがあり、それを見た義妹は屈託の無かったはずの笑顔を硬直させたまま額に汗を浮かべた。 「あははは」 「わははは」 「あははは」 「わははは」 「あははは、駄目よおにいちゃん。いくらエアコンで身体が温まっても、心が冷えたままだと人生やっていけないと思うの」 「ていっ」  握りこぶしに真顔で力説する義妹の顔面に、隆はフルスイングで枕を投げつけた。      佐伯義兄妹の一日は、概ねこんな調子で始まっている。