すだれ越しに聞こえる蝉時雨が、今が夏の盛りだと告げている。  千年前と同じ、蝉の声。  頬に触れる風の匂いは変わったが、季節はいつものように変わっていく。退屈だが、かけがえのない日常。山も川も変わり人の暮らしも変わってしまったが、変わらないものだった少しは残っている。  ……ぃんみんみんみんみんみぃ。しゃわしゃわしゃわしゃわ。  一方をかき消さないように交互に繰り返される蝉時雨。年代物の、しかし手入れの行き届いた平屋建ての日本家屋。その縁側に少女が一人、腰掛けていた。井戸水で冷やした西瓜を切って載せた盆が傍らにあり、少女は半分ほどそれを黙って齧り、種を庭に吹き飛ばした。運が良ければ植え込みに落ちて芽を出し、運が良くなければ翌朝までに小鳥か鼠の餌となり、運が悪ければカビが生えて朽ちるだけだ。  ふと、蝉時雨が止む。  どうしたものかと少女が見上げれば、彼女より少しばかり年下に見える少年が、一抱えあるスポーツバッグを背負いながら立っていた。少女から数歩離れた場所にいた少年の顔には、紅葉型の赤い痣や引っかき傷それに真っ赤に焼けたフライパンを何度も何度も何度も叩きつけたような痕があった。そのくせ化膿も炎症もせず異常のない顔を憮然とした表情で固めて、少女の前に立っていた。 「家、追い出された」 『そう』  笑いも泣きも怒りもせず、憐憫の情をたっぷり込めた声で少女は食べ終わった西瓜の皮を少年の顔に投げつけた。  べちゃる。  半端にかじった、赤白い果肉に瓜の汁気と少女の唾液でべとべとになった西瓜の皮が、少年の上唇から鼻頭にかけてを情熱的に愛撫する。少年は貌を犯されるままにして、ずり落ちた西瓜の皮を剥がして捨てた。皮は庭の土埃にまみれつつ三度転がり、動かなくなる。気の早い青蝿が唸るような羽音を立てて汁に群がる。  少女は次に、己の尻を受け止めていた座布団をむしるように引き抜いて、手首を返しながら少年の顔に叩きつけた。汗を吸って湿り気と女の匂いが染み込んだ座布団が、斜めに捩じれるように回りつつ少年の顔にぶち当たる。  首が、少しばかり後ろに揺れる。少年は片手で座布団を受け止め、汁を拭うように顔を座布団に押し当てる。その様がどういうわけか卑猥に見えるので、少女は顔を赤らめ勢いよく立ち上がると少年の手を掴み縁側に座らせる。 『行く当て、あるの』 「わからない」  地面を眺めたまま、少年。 「とにかく今は家に戻れない」 『当たり前よ、どあほう』  少女もまた地面を眺め、転がった西瓜の皮に蝿と蟻が群がり始めているのを横目で見ながら、卑怯なのはあたしも一緒かと小さく呟いた。 「佐久間に頼るなんて図図しい真似だよな」 『まあ腐れ縁だし』  ぐいと少年の首に腕を廻して引っ掛けて、身体ごと引き寄せる。身体が軽いから少女の方から抱きついてもいるが、揃って庭を見ているので向かい合うことはない。  ……ぃんみんみんみんみんみぃ。しゃわしゃわしゃわしゃわ。  蝉時雨が再び夏の空に響く。    影法師・村上文彦 億年の孤独      日が傾く頃、それまで熱を帯びていた地面に吸い込まれるように数滴の雫が落ちた。  最初は数滴。  朝顔の葉が次に揺れる。古びた竹を編んだ掛け棚に蔓を這わせた朝顔の葉が鍵盤弦を叩く木槌のように、交互に交互に揺れ出す。いつの間に覆ったのか灰褐色の低い雲は、抱え込んでいた雨粒を残らず吐き出そうとしている。あれほどまでに乾いていた庭土が黒々ぬめぶめとしてぬかるむほどになり、蹴るように脱ぎ捨てられた男物のサンダルが泥水に沈む。  空気のすべてを震わせるほどの雨音。  黒く焼いた屋根瓦を叩く音、重ねた瓦で踊る水音、雨どいを抜け葦簾を渡りごばぐばと敷き詰めた砂利により、すこしばかり濁った水が地の奥に消える。垣根の向こうでは鞄を頭に乗せ走りゆく会社員や部活帰りの学生達の足音がまばらに聞こえるのみ。黒漆を塗り手入れの行き届いた板垣の向こう側に視線を動かす輩はいない。  かき消されるは、二つの吐息。  簾の向こう側、畳の上で這い擦る音。卓袱台の上には、すこしばかり冷めた麦飯と、小茄子の麹漬が転がっている。益子焼の茶碗が傾き麦粒が散り、市松柄に塗り分けた黒赤の漆椀から蜆赤出汁の湯気と香気が僅かに立ち昇る。  揺れる卓袱台。  擦れる畳の音が止まる。衣擦れと息を呑む短い悲鳴。呼気。雨音は一層の激しさを増し、屋根を揺さぶる。畳表に突き立てられる爪の、イグサを引っかき滑る耳障りな振動。小さな嗚咽。家屋の主たる少女が、肺を潰したかのように弱弱しく名を呼ぶ。  連呼する。  息を吸うたびに、吐くたびに。それこそが少女の存在理由であるかのように、言葉にならないほど呼気を細かく刻みながら、少女は誰かの名を呼び続け。  それが唐突に止まる。  衣擦れの音も、かきむしる音も今はない。夕立にしてはやけに長い雨音だけがあたりを支配する。それでも少女の耳に届くのは荒くなった己の呼吸と心音が二人分だ。雨が洗い冷ました山からの風も、肌に張り付く汗の熱さを吹き飛ばすことはできない。背に敷いた藍染の浴衣だけが彼女の汗と汁を吸い、畳の冷たさを布一枚分を隔てて伝えてくれる。  心臓が未だ激しく鳴っている。鼓動に合わせて己の胸が小刻みに震え、それが相手にも伝わっているようだ。それが可笑しくて愛しくて、少女は己の手を相手の背に再び廻した。  日が沈み雨が止み夏虫と蛙の声が雨音にとって代わるのを聞きながら、少女は少年の首に浅く噛み付いた。    猪口にしては大ぶりの、黄瀬戸の器。  柿渋で重ねた卓袱台にそれが二つ。間には備前の一升徳利が口を空けて、麹の香りが強く漂う。猪口の中には同じ吟香の、淡い琥珀色の液体。最初に辛く、口の中で甘く、舌の裏にほろ苦く、咽の奥で熱い。徳利の半分以上を、既に少女があけている。初夜に臨む生娘のように落ち着かぬ気分を紛らせようと、一向に赤くならぬ頬を時折膨らませながら差し向かう少年の様を、時折上目遣いに覗う。  生娘でもあるまいに。  つい先刻にそれを自ら証明してみせた少女は己の迂闊さを心底呪いながら。少年は猪口をひと啜りしただけで、後は益子の小鉢に持った壬生菜の浅漬けを箸で突いて黙っている。事が終わり、冷めた飯の続きを済ませ汗を共に湯船で流し、今こうして晩酌につき合わせているのは少女の我侭か。あるいは拒めたかもしれぬものを流れに委ねた少年の弱さか。  時折吹く夜風と、夏虫の音。  気が済むまでこの家にいればいい。  肌を重ねた時、そう本心を口にしてしまった。それが許される立場ではないと知っていながら、少年に向かいしがみつき、数年の時をかけて隠していた言葉を吐いてしまった。少年もまた、同じである。置かれた立場を考えれば、こうして睦みあうことなど到底許容されることではない。だが少年にとっては生まれて初めて惚れ抜いた、少女にしても一度ならず添い遂げることを夢に見た、そういう相手である。無邪気で幼い恋を楽しめた、あの頃とは違う。いやさ、二人とも見た目はまるで変わりはしない。変わるはずがない。  後先を考えずに生きられるのであれば、これほど悩むものか。  言ってはならぬ愚痴を酒と共に胃に戻す少女。とっておきの酒なのに、とても不味い。空になった猪口を置き、面倒くさいと徳利を指に引っ掛け、浴びるように口をつけて残りの酒を呷る。少年が心配して声を掛けるが、その時には既に徳利の中身は空である。徳利は畳の上を二度跳ねて転がり、少女は卓袱台に伏せた。寝間着代わりに巻きつけているのは木綿織の筒袖で、蜻蛉と立矢模様が茜で染めてある。悪酔いでもしたのかと少年は慌てて膝立ちし、伏していた少女を抱き起こす。  と。  少女は泣いていた。ぼろぼろと粒の涙をこぼし、目蓋が腫れようと構わうものかと、泣いていた。彼女はきっと少年を睨み、色違いの筒袖を着た彼の胸に顔を押し付けた。太い木綿に噛み付くように、少女の唸り声が胸に響く。  壊れ物を扱うように身体ごと抱き寄せて、少女の肩に顎を乗せる。  夏虫が鳴く。  すすり泣く声が静かになるのは、半刻の後。  海からの風が雨雲を押し退けたのか、月が南天の頂に上る頃には、海を覆う空は濁った藍を一面に広げ端の端で海と融けていた。十六夜に近しき真夏の月は水面に映る頃とは異なり朱濁の彩りも消え、純白の面を今はわずかに蒼に染め抜く。  地に影を落とすほどの、眩い月。  草も木も眠るという時刻である。こうも明るい夜であれば、物の怪も跳梁跋扈を忘れて名月に見入る。  月。  しゃれこうべのような月。  鏡のような月。  今は陽の光を受けて夜を強く強く照らしている太陰の極み。解いた筒袖を肩に掛け、少年と少女は縁側に腰を下ろす。寄り添うように、自然と重なる影。  なあ。千秋。  弱弱しく恥ずかしげに少年が少女の名を呼ぶ。  それだけで女は達してしまいそうなほどの悦びに肉を疼かせながら、  いま誰よりも女である少女は、  なによこのど助平、  と、表には出さず冷たく返す。心臓の高鳴りを気取られぬように、身体ごと押し付けるように、いからせた肩をあてる。ぐりぐりと、強情な子犬のように身体を擦りつけ己の匂いを染みつけようとする。  構わずに少年は続ける。  高校を卒業したら、調理師の学校に行こうと思う。  少女の手を握り、珍しく力を込めすぎた声で呟く。指先が、掌が、肘が、震えている。当たり前の男と女のように、他愛のない夢を口にした少年が、心底辛そうに言葉を選ぶ。中学生の頃は恥ずかしくも当たり前のように語ることのできた夢が、二人にとってはあまりにも辛い。  千秋は甘いものが好きだから、おれ菓子職人になる。  辛いはずなのに、心から幸せそうに少年は笑顔を見せる。  学校で資格を取って、しっかりした店で修行して、一人前になったら店を開くんだ。小さくても構わないから、おれたちの店を。  おれたち。  少年は真剣だった。  おれたちみたいな変わり者でも普通に暮らせる街に行って、眺めるだけでも幸せになれるようなお菓子をたくさん作って、千秋とか子供とかが美味しい美味しいって嬉しそうに食べてくれて。  ひとつひとつの話をつなげるたびに、少年の言葉に力がこもり震える。恥ずかしげに、でも迷わぬ声と瞳で、彼は目の前の少女の手を強く握った。  これは冒涜なのだ。  世の闇に沈んで初めて語る、人並の幸せな未来。父親を取り戻すためにひとでなしとなり、数え切れぬほどの命を奪い、それを果たした時に彼は多くのものを喪っていた。  月影の東に住まう物の怪たちが少年を王たる器と認めて久しい。当たり前の日々など戻ってくるはずがない。そういう世界で生きる宿業だと、自身でもわかっている。少年は心の中で泣いている。気付きたくなかった、思い出したくなかった、人として当たり前のように暮らして当たり前のように老いていく、当たり前の生涯。どれほどの金を積もうと、二度と手に入らない。愛しいものも親しいものも、少年を残して去っていく。時間という牢獄。不死なるが故に逃れ得ない罪と罰。  少年はその生き方を選んでしまったのだ。  横には、彼と同じ存在がいる。千年よりはるかに長い時を過ごしてきた少女が、ただ一人の理解者として、ただ一人少年の絶望的な孤独を受け止められるものとして、そこにいる。  りぃん。  鈴のような、硬く澄んだ音が鳴った。 「もう、時間なのか」  少年の声から感情が消えていた。唇の端より血が滲むほど強くかみ締めながら、少年は泣き叫ぶのを我慢した。代わりに少年は、少女を強く抱き寄せた。少女の身体を包んでいた筒袖が外れ、縁側に落ちる。 「どうして」  少女の濡れた髪の匂いに包まれながら、かすれる声で問う。 「どうして千秋がおれの不始末を背負わなきゃいけないんだ」  りぃん。  鈴の音は、少女から聞こえていた。  藍色の闇でも濁すことのできない、燃えるような深い紅。髪が、瞳が、身体に巡るものすべてが紅に染まる。かつて少年の身の内に宿り行き場を失い暴走しかけていたものが、肌を重ねることで移っていた。移ることを知っていて、彼女は一つになることを望んでいた。少年もまた理解していた。互いに結末を知りながら、止めることなどできなかった。 『菓子屋って、いいよね』  恨みごとも言い訳も吐かず、少女は精一杯の笑顔を浮かべた。少年の唇を奪い、鼻の頭を軽く咬む。  りぃん。  三度目の鈴の音が響き、少女の胸元に小さな図形が現れた。三角と四角と五角形を組み合わせた複雑な図形が、同心円の内部を歯車時計の細工のように緻密な軌道を描いている。  理解することも困難な様式。 『……あと千年くらい待ってあげるからさ』  きっと見つけ出してよね。  りぃん。  鈴の音が四度鳴り、少女の身体は赤色の光になった。夕闇よりもなお濃い紅の輝きは散らず、百合の花にも似た文様を描く血玉に変じる。それは少年の手をすり抜け、虚空に浮かぶ法円に吸い込まれて消えた。  風が吹く。  思い出したように潮の味を乗せたそれは、縁側に落ちた茜染の筒袖を揺らす。少年は姿勢を崩し衣を手繰り、胸元に引き寄せ、少女のぬくもりと匂いが微かに残るそれを抱いて泣いた。  咆えた。  少女が少年の名を連呼したように、彼は今はそこにいない女の名を呼び続けた。現在にも過去にも未来にもいない少女の、消えつつある匂いと温もりを忘れまいと抱いて、そして泣いた。涙も流さず、声も出さずに咆えて泣いた。    夜が明け、彼は平屋の家屋を出た。  庭の朝顔だけが、少年を見送った。