「大体ね、予想はしていたんですよ」  最初に口を開いたのはベル七枝だった。 「蛭子だか人間兵器だか知りませんけど、結局は超越者の一種です。魔族に近しいが魔族とは異なり、もちろん人間でもない。人間の限界を突破した存在、三課じゃ決して認めてませんけど」 「ふうん」  自身も半分は超越者認定されているのだが、そんなことを知らない桐山沙穂が感情の起伏がない声で返す。 「本当だったら母体と一緒に消滅するはずが、師匠の魔力とか精気とかそういうのを吸収して一気に生命体としての形を得たんです。だから」 「生まれてからも村上くんからエネルギーを吸収し続けたら急成長するってこと?」 「ええ。しかも刷り込みはバッチリ効いているから、生まれてきた子は師匠を親というか『大切なもの』って思い込んでいるわけです。おまけに急成長したら初期の人格形成や異性認識の基礎に師匠が大きな影響を及ぼすのは必至で」  そこまで言って、ベルは言葉を止めた。 「成長するのに必要な力を無差別に集めていたら夢魔や吸血鬼と同列の処罰できますけど、あの子の場合は師匠のチカラのみを吸収してます。しかも、あの子が成長したいと願っているのは」  またも嘆息。 「師匠を一人の異性として意識して、それにつりあう女性になりたいと願って成長したわけなんです。彼女は」  彼女。  その言葉を振り絞るのにどれだけの労力が必要だったのか。人ひとり殴り殺すより大きな疲労感の果てに、ベルは事実を認めた。  視界の片隅には見慣れぬ少女が文彦に抱きついている。年の頃は十五か十六、童女のように無邪気な笑顔で胸を押し付け頬をすり寄せもする。 「ぱぁぱ、だいすき」  何度もその言葉を繰り返す少女。 「だいすきー」  言葉に悪意はない。  悪意はないからこそ、傍観者に過ぎないベルと沙穂は硬直する。二人がいるのはカレー屋の壁際客席で、文彦はカウンターで仕込みの手伝いに追われていた。玉ねぎの皮むきという単純にして奥深い作業を黙々と続ける文彦の姿に、遊んでとねだっていた少女も興味を示して一緒に皮むきを始める。 「ぱぁぱ、これ楽しいね」 「ああ」  嘘偽りない少女の笑顔に、文彦も珍しく笑顔で応える。それが壁際の二人には滅多にというか今までに見せたことのない素敵な笑顔だったから、ますます彼女達は不機嫌になり落ち込むことになった。  影法師村上文彦  アキラ  赤子を抱いて帰宅した直後、妹の小雪は問答無用の勢いで真っ赤に焼けたフライパンを兄の顔面に叩きつけようとした。  両親は「初孫だ初孫だ」と喜び、それ以外の客はそそくさと逃げ出し、十数分で三課をはじめとする犬上市の有力な術師たちが店内を占めることとなった。 『……蛭子の、呪法でしょ』  佐久間千秋の一言に多くの術師が硬直した。文彦は否定せず、それが店内の温度を数度下げることになる。 『まともな人間じゃない。魔人でもない。異形でもない。人間とほぼ同じ素材で造られているけど、根本で全く違う』 「赤ん坊だ」  赤子を抱きしめたまま、振り下ろされたフライパンを靴の裏で受け止め答える文彦。 「おれが育てる」 『自分の女関係振り返ってから寝言は口にしなさい』  逆上気味に髪を逆立たせて指突きつける千秋。 「悪いのはおれか」 『本命を一人に絞らないあたり、悪党よ』 「それ以前の問題だろうが!」 『たとえ自分から手を出さなくても、拒めなかった時点で同罪! 男としての誠意を示せずに何が子育てよ!』  びしっと突きつけられた指は揺れるように動き、周囲にいた沙穂とベルにも向けられる。  二人の少女、可能な限り好意的に解釈すれば村上文彦と関係のある女性は千秋を含めて三名しかいない。 「わかった」静かに、文彦は決意の眼差しで三人を見た「この子がひとり立ちできるまで誰とも付き合わないし、周りにいた女の子とも距離を置く」 『ちょっと待ちなさいよ文彦』「それって横暴です師匠」「わたしは村上君さえ良ければ一緒に子育てくらいするわよ」  三者三様の返事をして、再び沈黙。 『そこまでして育てる理由は何よ。中途半端な同情? 子育てが贖罪だとでも』 「自分の子供を育てるのに理由なんてないだろ」 『遺伝情報は別でしょ。あるかどうか怪しいものだけど、DNA鑑定したって証明できるわよ』 「設計図は別だけど、身体構成に必要なエネルギーをこっちで供給しちまったんだ。たとえ血のつながりがなくても、この子は」  凛。  言いかけて、直後。  文彦が抱いていた赤子は僅かに震え「ほぎゃあ」と泣いた。同時に周囲に存在した魔力や精気が吸収されようとして、文彦は咄嗟に黄泉道反剣を召喚して周囲との間に結界を張り、自身の身体を通じて霊脈の力を赤子に与える。とはいえ身体を襲う虚脱感は尋常ではなく、膝さえつかずに立っているのが不思議なほどだ。 『……文彦っ!?』 「これが、いちばん大きな理由かもな」  赤子を落とさぬよう必死に抱えながら、強がってみせる。  周囲の魔力や精気を吸収するのは異形や魔人などでも時折現れる形質ではあるが、この赤子の場合は限度を超えていた。文彦だから、犬上という土地だから、他に被害を出さずに済んでいるのかもしれない。 「おれ以外では育てられねえ。綾代の連中なら話は別だろうけど」 『こういうのは、あっちが専門でしょ』 「蛭子の生き残りとして処分されそうなのを頼み込んで引き取ったんだよ。だから、これ以上は頼めない」  嘆息。  それで大体の事情を理解してしまった。蛭子呪法を使った大門家を処罰するべく派遣された文彦が、現場で綾代家の術師たちとの間で相当危険な約束を交わしたのは間違いない。 「おれが育てる限り、この子は普通に生きられるんだ。だったら、おれはできるだけのことをする」 『ふうん』  文彦が抱いているものを見て、千秋の声のトーンが低くなった。 『ま、そんなに時間はかからなさそうだし。いいわよ、あたしは別に文彦の婚約者ってわけでもない腐れ縁のオトモダチだもんね』  と捨て台詞を残し、千秋は店から消える。 「……?」 「ぱぁぱ、苦しいよ。もすこしやさしくだっこして?」  ぞわり。  違和感は腕の下から。  今更のように意識をそこに向ければ、もはや赤子ではない全裸の「少女」を抱きしめている自分の姿があった。十歳くらいだろうか、爪先立ちで文彦に抱きしめられ、少し辛そうでも嬉しそうに擦り寄っている少女は文彦を見て、こう呼んだ。 「ぱぁぱ?」  ふと周囲を見渡せば、誰もが似たような反応を示していた。ただ一人、赤子のために粉ミルクと紙おむつを買おうと思っていた母、深雪だけが「ちっ」と悔しそうに舌打ちしていただけである。