第二十話 黄泉道反・後編    その術師は後悔していた。  神楽聖士が唱える人類至上主義は、彼にとっては何の魅力も感じられない主張だった。犬上市の霊力を使って神楽が行おうとしていることにも、ある程度の推測ができていた。彼が神楽に与したのは、神楽一派が国内でも最強に近い勢力を手にするという一点だ。 (他の連中が黙っている筈がなかったんだ)  名家と呼ばれる集団が、あるいはそれ以上の存在が見逃すはずがない。電撃的に犬上市を占拠し霊脈を支配するのが、唯一に近い選択肢だったのではないのか。三課本部は既に屋島英美査察官によって押さえ込まれ、神楽の企みの半分以上が潰されている。本部の混乱を差し引いたとしても、一両日中に大部隊が派遣されるのは間違いないことだ。 (神楽がそれをしくじった以上、俺たちは逃げるしかないのではないか) 「その通りだね」  闇の中から、声。  振り返る間もなく、麻の黒衣に身を包んだ若者が術師の前に現れる。蓮の華の紋章を黒衣に見出した術師は、黒衣の若者が何者かを理解した。 「綾代をはじめとして総ての名家が神楽一派の処分を決定した」  黒衣の青年の背後に五つの仮面が浮かび上がる。  獣を模した、異形の面であった。  村上文彦が虚無に飲み込まれてから二日目の朝を迎えていた。      犬上市内は相変わらず封鎖されていたが、それを行っているのは警察と自衛隊であり、サイレンを鳴らした緊急車輌が市内中を走り回っている。 「武装解除はほぼ完了しました」  警官の一人がパトリシア・マッケインに報告する。訓練を受けた術師の集団を警察組織や自衛隊が拘束することは、本来なら不可能に近い。たとえ三狭山に仕掛けた罠が神楽をはじめとする多数の術師や兵士を遠距離に放逐したとしても、三狭山に全勢力が投入されたわけではない。神楽が恐れたのは、屋島査察官配下である三課の支局よりも、犬上市を縄張りとしているフリーランスの術師たちなのだ。  だがパトリシアが指揮する三課と警察組織が正式に動き出した時には、神楽の配下は無力化していた。フリーランスの術師を押さえ込むだけの武装と人員を手配していたはずなのに、それらの戦力は一夜の内に姿を消した。少なくとも神楽配下の術師は、一人として見付かることはなかった。本部に問い合わせても、返ってきたのは「そういう処理をした。一般兵の武装解除を継続せよ」という簡単なものだった。  術師の咎人は、重い罰を受ける。  人の身で人を越えた力を持つがゆえに、術師は迫害を受ける。強大な力を持つが故に、術師は自らを律する。世界を支配しうる力でありながら、それを行わない。それができない理由がある。 (綾代の家が動いたんですね)  そのような真似ができる団体は、数えるほどもない。犬上市内に在住する術師全員に気付かれることなく、神楽一派の術師を粛清したのだ。警察や自衛隊が動いても見つけられるような証拠など残さないだろう。 「手配中の神楽聖士は、再び三狭山を目指すのでしょうか」  事情を理解しているのだろう、警官はそう尋ねた。 「この地球上に逃げ場が無い以上、力を手に入れるしか生き残る術がないですもの」 「はあ」 「三狭山を囲むように多重の防護結界を構築します。周辺住民の避難を予定通りに進めましょう」  神楽一人が起す被害はそれほどの脅威ではない。  三狭山で交わっていた二つの霊脈が暴走すれば、連鎖的に他地域の特異点も反応するのだ。村上文彦が金剛杵を用いて霊脈を分断して特異点を封じたが、封印の力が働くのは一両日の間でしかない。霊脈を調律し特異点を安定させたとしても、再び市内に噴き出す魔力が市内住民の身体に変調を招くことも十分に考えられるのだ。 (初代の影法師が解放された以上、特異点の暴走だけは食い止められます。神楽が持つ因素の武具は厄介ですが)  文彦がなんとかしてくれるだろう。  本部より届いた屋島査察官の伝言も似たようなものだった。同僚として文彦がそう簡単には死なないと知っているし、たとえ死んだとしてもタダでは死なない性格と言うのを理解している。他の三課職員も同じ気持ちだ。普段より文彦と共に仕事をしているという警官は、そんなパトリシアを見て敬礼すると持ち場に戻った。  鏡に映る己の姿。  しかし、その動きは自分とは異なる。着ている服も違うのだが手足の造作や顔つきは、当人としか思えない。そこに決定的な差異を見出すとすれば、少し疲れた柔らかな笑顔だろうか。 「ただいま」  店の扉を開けて現れた男は、村上深雪に瓜二つだった。あまりに良く似ていたので店に待機していた三課職員は、それが深雪その人と信じて疑わなかった。 「大きくなったね、小雪。出逢った頃の深雪さんの面影がある」  皿を洗っていた小雪は、男と深雪を交互に見比べて固まる。他の客も似たようなものだ。たとえ双子でも、年を経てここまで似ているのは珍しい。 「そこにいるのは、文彦か。いや、違う。混じっているな」  男は、深雪その人としか言いようのない男は、少し頼りない足取りでカウンターまで進み、深雪の前で立ち止まった。 「……光司朗、さん?」  深雪の口より出た声は、普段の彼女からは想像できないものだった。女性らしい、艶を帯びた声。人の母として年を重ね、しかし女であることをなによりも主張している声。どこか小雪のそれに似ている、血のつながりを強く感じさせる声。その容姿からは決して生み出されることのない声。  そんな声を深雪は発した。身体が小刻みに震え、顔から血の気が引く。 「ただいま、深雪さん」  光司朗の言葉に、深雪は倒れこむように抱きつく。  いや。  光司朗の胸に飛び込んだのは、三課職員や小雪の知っているような深雪ではなかった。髪は長く背はやや低く、膨らむべきところが膨らんで引っ込むべきところがきちんと引っ込んだ、小雪が順調に年を重ねれば間違いなくそういう女性になるのだろうという、そういう姿である。声との違和感もなく、光司朗の胸にしがみついて嗚咽を漏らした。一人の母親ではなく、一個の女性として。小雪や三課職員が知る深雪の姿はそこにはない。 「脱皮、したのか」  誰かが茫然と、キッチンを指差して呟いた。そこには彼らが今まで深雪その人であると信じて疑わなかった「もの」が今も立っており、光司朗を見つめている。光司朗は左手を深雪の肩に添えつつ、納得したように「それ」を見つめた。 「文彦は深雪さんを守るために、自分の半身を分け与えていたんだな」  光司朗の言葉に、かつて深雪だったそれは頷くと姿を消した。文彦が使うような転移の術を使っていた。 (どこかは知らないが、半身が姿を消したとすれば本体である文彦の元に戻ったとみるべきか)  ならばそれほどの心配もないと、村上光司朗はこっそり呟いた。    目が覚めたとき、村上文彦に両腕と両脚は存在しなかった。  正確に言えば、彼の身体で人間と判別できるものは頭部と上半身の一部だった。その状態で彼は生きていた。 (死人の方が幾分マシだろう)  心臓が動いていない。  いいや、そもそも心臓が存在しない。血液も流れず、呼吸もしていない。できの悪いスプラッタムービーでもお目にかかれないような、そういうシチュエーションである。常人ならば正気を失っている。ひょっとしたら自分も正気を失っているのかもしれないが、訓練を重ね実戦経験を積んだ術師である文彦の精神は、これに耐えていた。  自分はどういうわけか生きている。それを生と呼んでいいのか疑問ではあるが、死んでいるという実感もない。術師として行動する度に鬱陶しく現れる死神の気配もない。結印も詠唱もできないが、それで魔術が封じられたわけではない。 (こんな状態で騎乗位なんで無意味だよな)  文彦は苦笑する余裕さえあった。  一度だけ意識を取り戻した時、少女はそんな冗談を口にした。視覚は回復せず言葉も断片的にしか聞こえなかったが、覚えのある声だと自覚していた。 (覚えがある、どころの話じゃない)  たとえ心臓が存在せずとも、精神が健在である以上術式は組み立てられる。そこに存在するはずの手足を認識して力を込めれば、闇が凝集して義体を構成する。手が脚が、欠損している臓器が闇より生み出され、文彦はようやく上体を起すと深呼吸した。 「五行創鍛」  印を結び魔力を収束させる。身体に欠損があるのでベル七枝を再生させた時のような、影の義体は生み出せない。魔力による物質変換術を用いて身体を組み立てようとしたのだが、魔力は文彦の外に放出されず、やむを得ず文彦は魔力の擬似物質化に変換した。  沈黙。  とりあえず立ち上がり、現状を確認することにした。内装を施していない剥き出しのコンクリート壁、配管や鉄骨もところどころ露出し、床には削られた漆喰の粉が積もっている。何処からか持ち込んだ安物のランプが唯一の照明で、出入り口に扉はついていない。二十畳はあるその部屋にある窓には、アクリルの板が打ち付けられている。建築途中、あるいはそこで放棄されたビルの類だろう。普段ならば地脈の位置で場所を特定できるが、どういうわけか文彦の魔力は身体より外に放出されない。 (身体機能に問題があるのか、ここがそういう土地か。誰かがおれの魔力を封じ込めているのか)  だとすれば、厄介なことだ。  文彦が知る限り「彼女」にそんな真似ができたなど聞いたことはない。それどころか「彼女」がここにいる理由がない。 「説明せねばなるまいっ」  馬鹿馬鹿しいほど明るく投げやりな少女の声が文彦の後頭部に突き刺さった。  文彦は反応しない。 「ねえ、こういう時はさ。どうでもいいからリアクションかましてくれないと困るのよ、せっかく明るくネタふりしていたんだし」  少女は入り口に立っていた。ベルと同じ青蘭女子中等部の制服に袖を通しており、艶のある黒髪をボブカットに整えている。どこかのコンビニで買ってきたのだろう、調理パンや飲み物の入った袋を手に少女は小走りに駆け寄り、文彦の背中を叩く。 「おっす、文彦」 「……笠間」 「いまは佐久間って名乗ってるの。やー、これでも社会生活送るのに気を遣っててね」  かつて文彦の想い人だった少女は、全身より噴き出す妖気を隠すこともなく微笑んだ。     「わたしが三狭山の特異点を封じたとき、彼女は既に千の年を過ごしていた」  温かい茶を湯呑み一杯分口にして、村上光司朗はそんな昔話を始めた。 「千寿の御子と呼ばれ術師として卓越した力を備えていた彼女は、特異点を封じることによりわたしの身に起こる変異について警告した。彼女もまた特異点封印の犠牲者なのだと理解したのは、わたしが魔人と化した後だった」  膝の上では泣き疲れて眠った妻の深雪がおり、話を聞いているのは屋島英美をはじめとする三課職員と娘の小雪。彼女たちは、文彦は間違いなく生きているという光司朗の言葉の真意を確かめようとしたのだが、彼は昔話を語り始めたのである。 「戦争により街が開かれるまでの数百年の間、わたしと彼女は鎮守の主として交代で犬上の地に留まり特異点を管理した。とはいっても霊脈の管理は三狭山の遺跡に奉じた神剣が行っていたのだが」 「神剣?」驚く英美「こちらの調査では霊槍、比良坂道標逆鉾こそ因素の武具であり三叉山の霊力を制御したものだと」  資料担当の職員が慌てて走り出す。  もしも神楽聖士の持つ法具が三狭山制御の要でなければ、文彦の仕掛けも犠牲も無駄だったということになる。その焦りを理解した光司朗は咳払いを一つ、彼らの動揺を抑えるべく話を続けた。 「霊槍と精剣を総じて神剣と呼んでいる。わたしが所有し村上一族に預けた逆鉾も、もちろん三狭山の霊脈を制御するための道具だ。だが三狭山の封印を施した術師が二名いたように、法具も二つある。黄泉道反の名を冠する因素の精剣は逆鉾に拮抗し、霊脈の流れを管理する」  光司朗としては彼らを安心させたかったに違いない。しかし結果として彼らの関心は千寿の御子なる女魔人と、彼女が持つとされるもう一つの法具に向けられる形となった。国内の術師組織に関しては相当の情報網を構築しているとの自負があった三課が掴めなかった存在である、場合によっては彼女とも戦わねばなるまい。 「千寿の御子は、今どこに」 「息子をからかって遊んでいたところまでは覚えているよ。今もそうじゃないのかね」  光司朗はあっさりと答え、英美は凍りつき、事情を知らないパトリシアは文彦の経歴書類に目を通し、小雪は目を丸くした。 「千の年を生きたということは、千の秋を過ごしたということ。その長い人生で構築した人脈を駆使すれば、できて十年そこらの組織の目を欺くことも不可能ではないだろう」 (まして術師としての能力に覚醒するかどうかもわからなかったガキに、あの年増の演技は見破れないだろうさ)  わが息子ながら不憫な奴。  とは思うものの、決して口に出すことはしない光司朗である。      笠間千秋という少女が死んだ時、文彦は術師としてあまりに未熟だった。父親である魔人、村上光司朗の封印を契機に影使いとしての能力に覚醒した文彦は、影使いを含めた諸々の術師能力を使いこなすまでに半年以上の時間を要した。無論これは当時としては記録的な早さであり三課は驚愕と共にその事実を受け止めたが、実戦で生き残れるレベルではなかった。  あの時自分にもっと力があれば千秋を守れたかもしれない。  術師として実力をつけるたびに文彦はそのような後悔の念に襲われる。文彦の存在に目をつけた組織が千秋の死を警告として提示した時、たとえそれがハッタリにすぎなかったとしても文彦は愕然とした。 (術師として生きていくということは、そういうことなんだ)  術師の力を求める者は、術師の周囲を巻き込むことも辞さないのだ。文彦が桐山沙穂に対して距離を置こうとしていたのも、そういう意味がある。  が。 「それは悪いことしたわね、うん」  牛乳パンを頬張りつつ、千秋はしみじみ頷いた。文彦に相当する魔力の収束、そして妖気。間違いなく彼女は文彦が今まで出会った中でも屈指の実力を有する異形だ。あるいは魔人かもしれない。 「ごめん、後でしゃぶったげるから許して」  魔人にあるまじき気軽さである。  当然、文彦は沈黙している。  千秋に背を向け、膝を抱えてうずくまっている。ひょっとしたら泣いているのかもしれない、そういえば肩が小刻みに震えている。 「まさか特殊なプレイが好みとか」  やはり反応は来ない。 「あー」  やがて何かに気付いたのだろう、彼女は僅かに頬を赤らめ手を叩く。 「文彦ってば男の方がいいのね。あっはっはっは、まいったなー。でも同じ穴なら女にもついてるわけだし、きっと大」  丈夫。  そう続けるべき言葉は、振り返った文彦の恨めしげな視線に止められた。千秋としては半ば本気だったのだが、引きつった笑顔で「あは、ジョークよジョーク」と済ませるに留まった。  千秋は文彦と背中合わせに腰を下ろし、やはり沈黙した。食べかけの牛乳パンを胃に流し込み、イチゴ牛乳で咽を潤す。そういう味の嗜好だったと思い出しながら、この魔人の少女が紛れもなく自分にとって初恋の相手なのだと文彦は認めざるを得なかった。  小一時間、二人はそうやって言葉も交わさずにいた。 「聞きたいことは山のようにある」  辛うじて文彦の口から出たのは、それだった。 「あたしもね、言っとく事がたくさんあるんだ」  千秋も、外見からは想像できないほどの大人びた声で返した。  自分が千数百年を生きた魔人であること。何度も何度も自分の死を演出しては新しい人生を送ろうとしていること。何度も結婚したこと、何人もの子供を生んだこと。歳をとることのできない身故に、幸せな家庭を築けなかったこと。かつて自分の息子や孫に求められたこと、その子を成してしまったこと。幸せなこと、忌まわしいこと。それらを文彦に伝えようとして、それが何の意味も持たないのだと分かっていて、彼女は沈黙した。  自分は文彦の前で「死」を演出し、消えた。今ここで現れ文彦を助けたのも、恋愛感情のためではない。妥協と使命が混じった複雑な事情の産物に過ぎない。  文彦は天井を一瞥する。 「おれは神楽の持っていた逆鉾の力に捕らえられて、虚無に放り込まれた。だけど、どうしておれは助かったんだ」  返答は言葉ではなかった。  凛。  空間が軋む。収束する魔力特有の音と共に文彦の前に現れたのは、一振りの両刃剣。逆鉾と同じ材質の、古式の刀剣だ。儀礼用とも見えるのは、刀身に掘り込まれた精緻な紋様と、刀身から鍔そして柄に至るまで一つの地金より削り出したと思しき造りのためである。 「精剣、黄泉道反」  千秋の言葉と共に剣は文彦の手に納まり、同時に文彦の魔力が周囲に解き放たれた。 「霊槍たる比良坂道標と対をなし、三狭山の霊脈を司っていた因素の武具よ。逆鉾は光司朗が管理し、剣はあたしが預かった」  あんたの親父とは何百年前も前からの付き合いでねと、バツが悪そうに呟く千秋。 「剣と鉾は対をなし同時に相反する代物。剣の加護を受けし者はいかなる様であろうと死より解き放たれ、魔力の絶縁体たる因素は所有者の妖気を世界から隠す。剣は、文彦を主として認めていたから虚無から呼び戻して命をつなぎとめたの」 「こいつを巧く使えば、神楽の逆鉾を押さえ込めるのか」  剣を虚空に消し立ち上がる文彦。解放された魔術感覚は、彼がどこにいて犬上の街がどのような状態に陥っているのかを察知させた。あるいは剣の力なのか、普段よりも高い水準で魔力が収束されているのかもしれない。 「使い手次第よ」あっさりと、千秋「だから使いこなしなさい」  これを渡すためだけに、おまえは現れたのか。  その質問を口にできるほど文彦は子供ではなかった。千秋を抱き締められるほどの大人でもなかった。文彦にできるのは自身の魔力を限りなく高密度に収束させ、決戦の場へと転移跳躍することだけだ。 「ところで騎乗位って」 「とっとといかんかぁいっ!」  うっかり振り返った文彦を、千秋は虚空へと蹴り込んだ。        因素は、究極的に圧縮されたエーテルだと考えられている。  そもそも因素自体が極めて希少であることから詳細な調査記録は存在しないとされており、加工技術が伝わっているはずもない。術師の歴史においても因素と認められた法具は数えるほどもなく、それさえ目撃証言に基づいて下された評価である。 (だが、これは紛れもなく因素を鍛えて生み出された武具だ)  神楽聖士は霊槍たる比良坂道標逆鉾を掲げるようにして構え、裂帛の気合と共にこれを振り下ろした。すると三狭山に張り巡らされた影の結界は、古びた蜘蛛の巣のように破れて消える。術を打ち消したのではなく、逆鉾より放たれる力場が魔力そのものの伝達を遮断したのである。先刻より恐るべき突風や雷撃が神楽を襲っているが、やはり逆鉾を中心とする空間で霧散してしまう。炎の竜巻に至っては鉾の切っ先で両断する始末であり、神楽は三狭山の草原を何事もないように進んでいく。  神楽の身中を支配していた絶望感は今や消えつつあった。  逆鉾の力は凄まじい。凪の名を持つ一対の妖刀、熾天使の加護を受けたという小剣、百余年を生きてなお噂でしか知らぬ法具に比する力を有しているのではないかと思うほどだ。操るべき霊脈が存在しないとしても、因素より生み出されたこの逆鉾は術師と戦うときに限っては比類なき強さを発揮するのだから。 「ならば最初より逆鉾の力を解き放っていくべきであったな」  そうすれば兵力を温存できた。いや、それでは手駒の術師が役立たずになる。なんとも皮肉な話だと神楽は自嘲し、三叉山の中腹に至った。そこはまさに霊脈の交点ともいうべき巨石が安置されている場所である。  周囲には数え切れぬほどの異形。因素より発せられる魔力絶縁の結界は異形の存在そのものを消滅させるため、彼らは神楽を遠巻きに囲むより術はない。 「雑魚は退け。貴様たち汚れた化け物に、この地の霊脈は勿体無い」  ぶん、と逆鉾を振れば力場が異形たちを薙ぎ払っていく。因素の武器の前ではいかなる防御術や結界も役には立たず、力場に取り込まれた異形は砂状に崩れ元通りにさえならない。 「……この力なら、魂を食らうものとて俺を倒すことは不可能だな」  唇の端を歪め笑みを浮かべる神楽だが、飛んできた小型ナイフに虚を衝かれ転倒する。慌てて体勢を整えるものの、今度は十数発の弾丸が襲ってきた。再び転がるようにして避ければ、寸前まで立っていた場所の地面が爆発したようにえぐれてしまう。 「サホねーさん、いま面白い冗談聞こえたっすね」  呑気そうな少女の声と共に、異形たちが姿を消す。投擲用の小型ナイフを数本手にして現れたベル・七枝は、口調とは裏腹に気合を込めてナイフを次々と投じる。放物線を描かず風を切り裂いて飛ぶ刃は、因素の力場を易々と突き抜けて神楽の身体に刺さる。咄嗟に気を練り防護の術式を組み立てようとした神楽だが、因素は神楽の術式をも封じていた。傷は浅いが、静脈の幾つかを切り裂いていたため負傷以上の出血が目立つ。 「同じ腕前同士なら、素手より刀が、刀より薙刀がはるかに有利。術が通じず素手でも敵わないんだから、懐にもぐりこまれないようにこっちだって工夫くらいするわよ」  少女の後ろから姿を見せたのは、桐山沙穂だった。神楽にしてみれば生真面目そうな少女が自動拳銃を二丁持って現れたのだから、驚くしかない。  初弾。  神楽は渾身の力で逆鉾を振るった。切っ先が銃弾にあたり軌道を逸らせたのは、神楽の業が人知を超える水準だと言える。  次弾、次々弾。  テンポよく繰り出された銃撃を神楽は続けて弾いた。タイミングさえ読めればいかに銃弾の速度であろうと対応できるという自負が神楽にはある。もっとも普段の神楽であれば、身中に気を巡らし銃弾を弾き飛ばしていただろう。 (実戦経験の少ない小娘か)  神楽は二人の少女をそう評価した。三課に正式所属しているベルについては、神楽は部下より情報を集めているのでそれなりの情報を掴んでいる。体術に優れた炎術師という変わり者だが、気の使い手である神楽の不意を討てるのだから油断できる相手ではない。沙穂について神楽は初対面であるものの、常人を越えた身体能力を有していると判断した。おそらくは身体に特異点を宿したために肉体が変化した、半魔人ともいうべき存在なのだと。  経験を積めば、この二人は恐るべき使い手となるだろう。 (しかし甘いと言わざるを得んな)  二人は遠方から狙撃することもせず生真面目にも正面から襲ってきた、しかもその攻撃は虚をつくこともせず一本調子である。ならば対処法は幾つも存在する。ところが神楽がそう思った直後、沙穂は今まで引き金を引いていなかった十数発を一気に撃ち込んだ。しかもベルが同時にナイフを連投し、二十を越える弾丸と刃がそれぞれ異なるタイミングで神楽を襲う。  実戦経験が浅いのは事実だろう。  それを補ってあまりある冷たい殺意が二人にはあった。激昂もせず、それでいて容赦のない攻撃だ。最初の攻撃全てを囮とし神楽の動きを見た上での二撃目である。逆鉾で弾こうにも同時に放たれた銃数発の弾丸は決して一直線上に並んではおらず、体術を駆使しても避けきれるほどの間合いもない。  避けることは不可能と悟った神楽は因素の結界を解き、自らの気を練り弾丸とナイフをすべて防いだ。瞬間的に圧縮した気は同時に神楽の神経をも加速させ、まさに神速の勢いを得た神楽は逆鉾を構えて突進する。体術に優れたベルはともかく沙穂の動きが身体能力に依存したものだと即座に見抜いた神楽は、真っ先に排除すべき対象として沙穂を選んだ。  逆鉾が空を裂き唸り声を上げる。  たとえ力場を発生させずとも、因素の武具そのものの力はあらゆる防御術式を無効化させる。神速の動きは沙穂の反応速度をも凌駕した。ベルさえも神楽の速度に反応できなかったので、因素の力場を解いた神楽の判断は正しいといえた。 「諸君は優れた素質を有しているが、俺の敵ではない!」  切っ先は沙穂の銃を叩き落し、続く蹴りが沙穂とベルを転倒させる。懐にもぐりこんでしまえば神楽の体術は二人を圧倒し、沙穂が言った通りとなった。  それでも彼にとって唯一にして最大の失策は力場を解いたことであり、三狭山の異形を甘く見ていたことだった。  逆鉾の刃が沙穂の首筋を捉える寸前、それはまさに電光石火の勢いで現れた。 「甘い、甘すぎるぜ!」  地面と水平に繰り出された蹴りが、神楽の全身を吹き飛ばした。逆鉾を手放さなかったのはさすがだが、反応しきれず続く拳を数発顔面に喰らい更に吹き飛んだ。 「敵対者がたった二人な訳ねえだろ。それとも先に始末したと思い込んでて、おれの接近に気付かなかったか、ええ神楽さんよ!」 「貴様っ、村上文彦っ……なのか?」  文彦以外のなにものでもない少年の叫びに、神楽は上体を起こし硬直する。見れば沙穂もベルも同様に、その動きを止めていた。ひょっとしたら、この瞬間だけ三名は全てを分かり合えていたのかもしれない、そんな表情で。 「おうよ」  そいつは確かに文彦に違いなかった、    八頭身というただ一点を除けばの話ではあるが。      二メートル近い身長は、ボディビルダーのような隆起する筋肉で満たされていた。  つまるところ実用性とは無関係の鎧のような筋肉だったのだが、彼はそれらの無駄のような筋肉さえ十分に活用しているようだった。  それでいて顔と声は文彦そのもの。 「……」  沙穂は、とりあえず沈黙した。  文彦が生きていたことは何よりも嬉しい。八頭身でなければ、現状がどうであれ駆け寄っていたかもしれない。  でも八頭身。  その点でベルは素直だった。 「うわ、師匠キモッ」  即答である。  これ以上ないほど露骨にいやな表情で後ずさり、口元に手を当てる。こんなのお師匠じゃない、こんなのあたしが知ってる師匠じゃないっすと首を振りつつ。目に涙さえ溜めている。 「なんていうか同一人物って認めたくないくらいキモッ」 「この美しい筋肉を理解しないとは、悲しいことだ」  八頭身文彦はポーズを取りつつ嘆いた。 「それはともかく、だ!」  指一本動かしても筋肉は波打つ。暗黒舞踊でもしているような不気味な仕草で八頭身文彦は神楽を指差した。  むきゃっ。  そういう擬音が聞こえてきそうな筋肉っぷりである。当然、噴出す汗の量も尋常ではなく、八頭身文彦の周囲には耐え難いほどの男臭さが充満している。彼の周囲だけ世紀末バイオレンスが繰り広げられているのではないか、沙穂もベルも神楽でさえもがそう思ったほどだ。 「いやしくも術師を導く立場にありながら、私欲のために大地の守りを乱さんとするその行為。たとえ貴様が因素の法具を手にしていようと、この村上文彦が貴様の野望を阻止してみせる!」  まるで安っぽい特撮ヒーローのように、ぐいんぐいんと手足を振りポーズをとる文彦。数歩退く沙穂とベル。唖然とする神楽。そうして生じた沈黙に、八頭身文彦は不思議そうに首をかしげた。 「……こういうもんだろ?」 「違う、激しく違う」  叫ぶ神楽。返事がわりに新しいポーズを決める八頭身文彦、更に退く女学生二名。 (こいつ、本当に村上文彦なのか)  神楽の自問はもっともだ。  顔も声も文彦そのものだ。発せられる生気の質も文彦のものと変わりはない。たとえ八頭身でも文彦の体術は尋常な水準ではなく、油断できない。  だが。 「めんどくせえな、おれは本物の村上文彦だよ。これがおれの本性なんだから」  汗臭さと共に放出される、圧倒的な量の魔力。身体に特異点を宿しているとしか思えない魔力量に神楽は息を呑む。 「それとも逃げるかい、妖怪爺さん」  あまり似合わぬ不敵な笑み、自信に満ち溢れた表情は本来の文彦にはなかったものだ。沙穂やベルの知る文彦という人間は術師としても学生としても、どこかで何かに不満を抱え、その上で自らの責任感の強さから現実に立ち向かっていた。今そこにいる八頭身文彦には、苦悩の色はない。  似てはいるが、あまりにもかけ離れた存在。 「ゆくぞ、変態術師!」 「てめえの方が変態だっ」  八頭身文彦の側頭部に炸裂する膝蹴り。  体術の達人にして筋肉塊たる八頭身文彦を昏倒せしめたのは誰であろう、 「……村上、くん?」 「おうよ」  転倒した八頭身文彦の頭をぐりぐりと踏みつけながら現れたのは、沙穂が良く知る文彦その人だった。             雷、竜巻、そして炎。  いずれも天地を結ぶ柱となり、三狭山より伸びて暗雲を貫く。事情を知らぬ犬上住民の多くでさえ、今日この時が犬上の最期ではないかと思うほどだ。自然を越えた力は唐突に現れ、やはり前触れもなく消えた。怪異が身近な闇に潜む犬上の人々とて、前日から続く異常事態の意味を察知しつつある。 「いよいよだね」  村上光司朗は窓越しに空模様を眺め、目を細めた。交差を外されていた二つの霊脈が、三狭山にて繰り出された数々の術式の影響を受けてか元に戻ろうと動き始めている。他の術師たちも気付き始めているのだろう、結界を張るために三叉山周辺に配置された術師たちからも困惑に満ちた報告が集まりつつある。 「ジンライやハヤテが動いたのもあるだろうけど、神剣が二つ揃ったことで三狭山本来の霊脈が元ある姿に戻ろうとしているのだろうな。金剛杵にどれほどの力を込めようと、そう長くは分断できないということだ」  どこか他人事のように、光司朗は事の流れを見守っている。今まで封印されていたとはいえ、三狭山を制御する術を知る数少ない一人なのだから、この事態を根本的に解決する手段を知っているのも彼だけのはずだった。多くの術師は村上文彦の実力を理解し、現状で三課が動員できる人材の中ではこれより他に適切な者が存在しないことも分かってはいる。 「それでも、あなたが御子息に一つでも助言を与えることで彼の負担は随分と減るはずではありませんか」  周辺術師との連絡に当たっていた職員の一人が、至極当然の疑問を光司朗にぶつける。 「追い詰められたとはいえ、神楽聖士は当代きっての術師の一人ですよ」 「そうだな。人間の中では相当の使い手だろう」職員の言葉を肯定する光司朗「文彦にどれほどの素質があろうと、おそらくは五年にも満たぬ期間で学びえた事は決して神楽の経験に勝ってはいないだろう。潜り抜けた修羅場の数が戦局を左右するというのなら、同じ土俵で戦った時に文彦が彼に勝つ可能性はとても低い」  絶望的と言っても良いだろうね。  どこまでも他人事のような光司朗の言葉。知らぬ者がこれだけを聞けば、なんと無責任な態度とも受け取れるだろう。実を言えば光司朗は既に打つべき手を打ち尽くしているのであり、今ここで助言を一つ二つ加えたところで戦局が左右されることはない。 「とはいえ、同じ土俵で戦ったときの話だから」  果たしてどうなることやら。  空間跳躍して本体の元へと帰還した文彦の分身を思い出し、光司朗はそもそも息子の無事を気遣う必要もないことを彼らに伝えるべきか考えることにした。  虚空より出現した村上文彦の膝蹴りを喰らった八頭身文彦は、首を支点として数度回転しつつつ地面に激突した。まるでワイヤーで身体を吊ったのではないかと思うほど見事に転がったので、神楽は反応できずにいた。 「村上文彦が二人だと」 「こんな変態と一緒にされても困るが、二人って訳じゃねえ」  八頭身文彦の後頭部をぐりぐりと踏みつけつつ、面倒そうに神楽を睨む文彦。漆黒の法衣に袖を通し白色の帯を腰や手足に巻きつけている文彦の姿は、ベルでさえ初めて見るものである。僧侶の墨染袈裟とも狩衣の類とも異なる独特の衣服は、魂を食らうものとして恐れられる術師・華門のそれに近しい。 「おれだって、こんなのが自分のもう一つの姿かと思うと反吐が出るんだ」 「?」「?」「!」  周囲の反応は概ね二種類。  既に遠ざかっていた桐山サホとベル・七枝は文彦の言葉も聞こえず首を傾げ、神楽は凍りついた。その驚き方は驚愕と恐怖が混じったもので、視線は二人の文彦に釘付けとなったまま。 「陰陽合一」  凛。  片手で印を切れば文彦の足下に埋もれる八頭身文彦の身体が光の粒子に変化し、残らず文彦の身体へと吸収され、数秒も経たずに消える。  見た目の変化はない。  頭身が増えることも、筋肉が膨らむことも。勿論金髪碧眼にもならないし、黄金のオーラを放つこともない。地味なものだ。 (文彦くんの……闇の力が消えた?)  影使いであるサホはぎょっとした。出現した時には感じられた影使いの源というべき心の闇が全く感じられないのだ。  闇でも光でもない心の力。あの八頭身文彦が持っていた圧倒的な「陽」の力が、文彦の闇を中和してしまったのか。だとすれば今の文彦は影使いの術を全く使えないことになる。 (それって、とってもマズイ状況なのでは)  助力すべきか。  手持ちの自動拳銃がまともに届く距離ではない。因素の逆鉾を持つ神楽には術も通用しない。接近すれば神楽の体術によって己が組み伏せられるのは明白で、サホにできる最良の支援が現場より去ることなのは彼女が一番理解していることだ。同じことをベルも考えていたのだろう、アーモンド形の瞳がこちらを向いている。 「あたしのも、アレには通用しないっすよ」 「わかってる」  短く、苛立たしくサホは答えた。頬を伝う汗が、今が盛夏なのだと思い出させる。時刻は正午に近いはずなのに、肌を伝う汗がやけに冷たい。あるいは三狭山に限って冷気が漂っているのではないか、そう考えるほどだ。  凛。  二人の焦りをかき消すような、魔力収束による空間の歪みが三狭山に鈴にも似た音を生み出す。 (逆鉾の結界に支配された場所で、魔力が収束できるものなの?)  凛。  鈴の音は再び響く。  サホやベルの驚きより、神楽の受けた衝撃が勝っていた。魔力は間違いなく文彦を中心に収束されており、そこには神楽が持つ比良坂道標逆鉾が因素の力場によってあらゆる魔力の伝達を遮断する結界を構築していたからだ。  凛。  三度、鈴の音。  神楽は恐慌状態に陥り、逆鉾を文彦に向けて突き出す。再び虚無を生み出して文彦を取り込もうとしたのだ。文彦がここにいる以上その手段は通用しないことを理解しているはずなのに、神楽は正常な判断力を失っているようだった。 「再び消え失せろ、村上文彦」  凛。  四度目の鈴の音は文彦の手元より生まれた。  逆鉾と同じ光沢を持つ古式の両刃剣が文彦の手に現れ、逆鉾を弾き虚無を切り裂いた。材質と造りが酷似する剣と逆鉾だが、剣の刃は淡い蒼光の輝きを帯び、刀身に刻まれた紋様が輝ける闇となって現れている。 「因素の剣!」絶叫する神楽「そんなものが、どうして貴様の手に!」 「あるものは仕方ねえよな」  文彦の手の中で、黄泉道反剣は力を解放していた。因素の武器ではなく、霊脈を操作する法具としての力をだ。  三狭山の要ともいうべき巨石は既に限界を迎えていた。  本来交わるはずのない霊脈の交点を維持していたそれは、文彦がありったけの魔力を込めた金剛杵によって機能停止状態にあった。もちろん霊脈は元ある姿に戻ろうとし、巨石に力を加える。これが文彦と金剛杵でなければ、弾指の間ほども特異点の分断などという真似はできなかっただろう。 「保って三日」  右手に黄泉道反剣、左手には引き抜いたばかりの金剛杵を構え、文彦は巨石の上に立っていた。 「あんたは、その三日が我慢できなかった。いいや、その三日の時間さえ惜しかった」  神楽の押さえた情報の中に黄泉道反剣は記載されていなかった。光司朗は何も語らず、その所有者たる佐久間千秋は三課という組織を完全に出し抜いている。神楽の調べた限り三狭山の霊脈を支配できる法具は比良坂道標逆鉾ただ一つだけであり、だからこそ彼は光司朗を封じ込め村上一族を味方に引き入れようとした。  法具はただ一振りだけでよい。  拮抗するものがあれば、三叉山の特異点を独り占めすることが不可能となる。部下を犠牲にしてまで三狭山攻略を急いだのも、犬上市を武装占拠しようとしたのも、三狭山の特異点を我がものとするためではないか。 「なあ」息を吐く文彦「あんたひとりでモノにできるような霊脈じゃねえんだぞ。どのみち処刑とかは免れねえけど、せめて最悪の事態だけは回避しておかねえか?」 「ふざけるな」  低く唸る神楽。  どれほどの力を込めようと、文彦のように反応しない逆鉾を憎憎しく見つめ、これを杖のように地に突き立てる。 「永遠に生きてなにが楽しいんだよ」 「貴様は死の恐怖を知らんから言えるのだ!」  屍同然の状態から自力で蘇った文彦は「あぁ、そうですか」と生返事。 「俺は死なぬ。生きて、生きて、生きて!」 「そんな生は死にも劣る」  凛。  五度目の鈴の音が、剣と金剛杵より発せられた。金剛杵によって押さえ込まれていた二つの霊脈は完全に交わり、特異点が蘇る。そこから放出される膨大な量の精気は犬上市全域に広がりいきとしいけるものを変異させるだけの力と量を有していたが、それらは文彦の剣によって完全に制御されていた。  収束し、凝集する圧倒的な量の魔力。 「これが欲しいんだろ」  虚空に浮かぶ魔力の塊を指す文彦。 「こんなものが欲しくて、あんたは色んなものを巻き込んできたんだろ」  剣の力なくば制御できないほどの力がそこにはある。神楽が追い求めてきた、永遠の命を約束するだけの力だ。夢遊病患者のように神楽は歩き出し、それに直手で触れる。  身中に流れ込む魔力の奔流。  一個の人間では生み出し得ぬ密度と量。生物の限界を突破するために必要な全てがそこにある。 「おおお、おおおお」  抱きこむように魔力塊を取り込む神楽。光も音もなくそれは神楽の身中に吸い込まれ。  数秒の静寂、そして。  三狭山の山頂が吹き飛んだ。  術式という形にこだわらなくとも、魔力は人間の意思や願望を実現する力を持つ。  もちろんそれは精気や霊脈の力のようなものが「魔力」状態に励起している必要があり、そんなものが世界中に満ちていることは滅多にない。  滅多には。  つまり、過去に例は存在しているのだ。小規模の特異点が暴走する、あるいは霊脈そのものが活性化して潜在的な魔力の密度が高まることもある。時代の節目、戦争の狂気、星の巡り、果ては人類が未だ知りえぬ何かによって世界に魔力が満ちるのだ。そのような時には多数の異形と共に多数の術師が世に現れる。  術式のような系統立てられた技術を知らぬ、素質と才能のみで術式を組み立てるものたち。彼らは強い意思や願望で魔力に干渉し、術を発動する。それらは洗練されたものとは程遠く荒削りであり、暴走の危険性をはらんでいる。  未完成の術師ほど恐ろしいものはない。術師とは魔力の生ける増幅装置であり、特異点を宿した時にはこれが致命的に働く。潜在意識下の欲求や衝動を具現化させてしまう彼らの魔術は、特異点という無尽蔵の動力を得て果てしなく暴走するのだ。  生存欲求が強ければ、細胞が爆発的に増殖して肉の海を生み出す。  生殖欲求が強ければ、原始の汚濁となって無数の生命を生み出しては取り込んでいく。  かつて任侠である音原組の衆を可憐な乙女に変え桐山沙穂に迫ろうとした異形よりもおぞましい存在に、術師は変わり果てる。術師を統制する戒律が暗黙の内に存在するのも、綾代の家と呼ばれる集団が存在するのも、すべては人間の術師が転じて生じる名状し難き化生の脅威が潜在しているためだ。  かつて桐山沙穂が、あと一歩でなるはずだった存在。  神楽聖士を救うものは誰もいなかった。百余年を若い姿で過ごし更に永遠の命を求めた男は、しばらく前より既に魂の安定と正気を失っていた。彼が暴走しなかったのは、執念にも似た集中力が持続されていたからだ。霊槍たる比良坂道標逆鉾の因素が神楽の魔力暴走を未然に防いでいたのも大きい。  いずれにせよ今は逆鉾もなく、神楽の身中には莫大な量の魔力が吸い込まれている。放置しても破滅が待っていた神楽の身体は、彼が許容できる限界を遥かに超える魔力が細胞の一つ一つを変化させる。神楽が目指したもの、永遠という時を生きる不滅の存在になりたいという欲求を具現化する存在へと変わろうとしている。  凛。  村上文彦は地面に突き刺さった比良坂道標逆鉾を引き抜き、金剛杵を腰帯に差した。三狭山の霊脈を制御する二つの法具は、文彦の手の中で共に輝いている。  目の前には、圧倒的な量の魔力を自ら飲み込んだ神楽聖士。三狭山の霊脈を自身の支配下に置くと豪語していた神楽だが、霊脈交合で生じた魔力を受け止めきれず地に転がり胸をかきむしる。やがて神楽の身体は痙攣を止め、風船のように膨らみ始める。 (やはり生存欲求が際立ったか)  村上文彦は印を結ぶ。ベル・七枝に術式を教えた時よりも数段早い動きで、即興では決して組み立てられないような複雑な術式を編み上げ、地に満ちる魔力を収束させる。 「天の三法、地の五法」  凛。  空気が震える。文彦の足下より影が伸び三狭山を包むように影が伸びる。麓には五角形が、頂には三角形が。結界として生み出されたそれは桐山サホやベル・七枝をはじめとする三課職員たちを飲み込むと三狭山の外へと転移させ、三叉山中腹の空間を閉じ込めた。立体的に伸びる影、質量を持った闇としか形容できない漆黒の線が宙に術式の紋様を描く。  凛。  直後、神楽は人間であることをやめた。四方八方に増殖する細胞は未分化の培養組織機にも似て、しかし周囲に存在する固形物を取り込んでは同化していく。その速度たるや爆発的なものであり、空間転移で退かねば文彦も肉の海に飲み込まれていただろう。事実、三狭山の中腹から山頂部にかけてが一秒も経たずに飲み込まれた。取り込めば取り込むほど、かつて神楽であった肉塊の増殖は加速する。一呼吸する間に山一つが飲み込まれるのだから、結界を張らねば逃げる間もなく犬上の土地自体が肉の海に沈んだに違いない。神剣は先刻より霊脈の力の供給を停止しており、肉の海は自身が抱え込んだ魔力を無制限に増幅してその質量を増やしている。  筒状の結界にあふれる肉塊。  文彦が宙に舞う数秒の間に結界の半分以上が肉の海で満たされていた。もはや文彦に着地すべき場所もなく、肉の海より伸びる無数の触腕は結界内唯一の異物たる文彦の身体を飲み込み同化を果たそうとする。 (もって結ぶ御柱、四法を成す)  宙にあって術式を完成させた文彦は、これを解き放った。三角形と五角形より影が伸び、肉の海を貫くようにして宙に四角形を描く。立体的に生み出された三つの図形は肉塊を完全に飲み込み、文彦は再び転移して結界の外に飛び出した。  そこは三狭山の中腹だった。  転移により降り立った文彦の近くには、何事が起こったのか理解できていないサホとベルがいる。彼女たちは文彦の術式により遠方に転移したはずなのだが、ジンライとハヤテの働きにより三狭山に戻ったのだろう。彼らの視線の先、要たる巨石の上に闇色の格子が浮いていた。  三角。  四角。  五角。  三種の図形が複雑に組み合い生み出された立体の格子は、一軒家ほどの大きさがあった。その内部には前時代のワイヤーフレームで描いたような三叉山があり、生々しいゲル状の肉塊が内部に満たされ波打っている。  神楽だった肉塊。 「お師匠、あれ」  サホは沈黙し、代わりにベルが問う。あれ、としか形容のできない肉塊を指差し、声を震わせている。 「あれは何かの異形なのですか」 「違う」短く文彦は返した「あれは人間だ。死を拒み生き続けることを望み、無尽蔵の魔力を得てその望みを叶えた人間だ」  ベルは絶句する。 「知っておけ、あれが特異点に取り込まれた人間の姿だ」  肉の海が取り込んだ三叉山は、文彦が術式により生み出したものだ。三狭山に己の影を張り巡らせた文彦は三狭山の情報を読み取り、それを結界の内部で再現したのだ。  たとえ魔人であろうと一個の人間が持つ魔力で構築できるものではない。が、神剣を通じて三狭山より供給される無尽蔵の霊力を利用することで文彦は「閉じられた世界」を作り上げることに成功した。その閉鎖された世界に、かつて神楽だった存在は閉じ込められている。  閉じられた世界は少しずつ形を変え、格子を描く図形の数が増えていく。単純な筒状だった結界は縮小を始め、その形状を複雑なものに変えていく。その間にも肉の海は爆発的な増加を続け、既に結界の内部を満たしていた肉塊は自身の細胞を押し潰しつつも増殖を繰り返していく。 「……もう、元には戻せないんですか」 「全部の細胞が特異点となって、しかも魔力を増幅してる。見た目は大したことないけど、アレは犬上の街を埋めるくらいの量はあるんだぞ」  下手なダムの貯水量より多い肉の海の全部から特異点を取り除くことなど、文彦でも無理だ。  ベルとて神楽に同情したわけではない。己の欲望のために三課という組織を動かし、数え切れないほどの命を奪ってきた神楽だ。ベルは己が正義の味方などと自惚れたりはしないが、神楽の変わり果てた姿には生理的な嫌悪感を抱いた。  凛。  結界の中で肉の海は増殖を続けた。己の細胞を押し潰し、なお増えて潰し続け、その膨圧に肉の海は凝集し結晶化を始める。  凛。  結晶化は結界の内部全域で始まった。一度始まったそれは増殖の速度にも勝る勢いで内部に進み、結晶を砕かんと膨れ上がる肉の海と領土を奪い合う。それでも勢いは結晶化に分があり、サホとベルの見ている前で肉の海は中心に至るまで全てが結晶となった。  金属質の光沢を持ち、緑青にも似た彩を含んだ結晶。それは。 「まさか」  息を呑むサホ。影使いとしての知識を文彦より与えられていた彼女は、それがなんであるのかを理解した。 「因素だよ」間が空く「特異点が暴走した人間のなれの果てが、因素なんだよ」  文彦の言葉と共に、かつて神楽聖士だった因素の剣は結界より解かれて三狭山の地に刺さった。      神楽聖士の破滅と共に、神楽一派が起こした騒動は収束に向かった。  地方支局に潜在していた同調者の存在、事実上の機能停止に追い込まれた三課の復旧など、解決すべき問題は山積みではある。査察官の一人が起した問題の大きさに三課の存続そのものを危ぶむ声も大きく、手放しで喜べる状況ではない。 「皮肉なものだね、もと査察官殿」  かつて神楽だった因素の剣を前に、屋島英美査察官は感情を押し殺した声で呟いた。求める道、思想的に相容れない間柄でも実力は高く評価していた。異形を討つという点において彼の強さは周囲を惹き付けるものがあったのだ。そうでなければ、たとえ打算でも相当数の離反者が生じるわけがない。 (どれほどの奇麗事を並べようとも異形を憎む術師は多い。私の主張に異を唱えるものは決して消えたりしない)  英美とて己の考えが正しいとは思っていない。神楽一派に限らず、彼女に反感を抱くものは少なからず存在する。異形と人間が共存できる場所は犬上や石杜のような特異点都市に限られるし、その共存形態さえ試行錯誤の上で何とか維持しているにすぎないのだ。相容れないと両者が認識すれば、人間という種は絶望的な戦いに身を置かねばならなくなる。 (局所局所で勝利できても、戦争を始めれば人類規模での破滅は回避できない)  異形を掃討しようとする連中は後を絶たないだろう。私怨や人類正義を振りかざし、復讐のために異形と戦う術師も多い。神楽というカリスマを失ったことで、そういう術師の統制が難しくなるかもしれない。組織の建て直しは間違いなく難しいものになる。 「三狭山の封印に問題はないか」  居合わせた職員が直ぐに応える。三狭山の処分は半分以上が片付き、市民生活も元通りとなっている。断罪すべき反乱術師たちは既に処分され、武装勢力も生き残りの大半は警察などに拘束済みである。 「それで」   すっかり陽も傾いた三狭山の麓、撤収の始まった現場検証の拠点。  夕凪も過ぎて涼しい風の流れ始めた街を眺め、英美は言葉を絞り出した。 「なーんで、あんたはそこでいじけているのかね」  今まで意識しないようにしていたが、横には村上文彦が膝を抱えてうずくまっていた。  ちなみに八頭身。  分身体ほどの筋骨隆々としたものではないが、ちょっとしたプロスポーツ選手など足下にも及ばぬほどの見事な身体つきである。父である光司朗の言葉が正しければ、それこそが文彦本来の「成長した姿」であり、顔つきも精悍なものになっている。  が。 「キモイって……こんなのおれじゃないって、ムキムキなのは趣味じゃないって……ううっ」  あれほど文彦を師匠と慕っていたベル・七枝も、文彦に対して好意を寄せていた桐山沙穂も、そこにはいなかった。  三狭山の封印が完了した瞬間、文彦の身体は小学校高学年ほどの容姿から現在のような巨躯に一気に変じたという。それを間近で目撃してしまった二人の少女は泣き出し、その場から逃げ去ったのだ。 「ああ、そう」  そうとしかコメントのつけようがない。 「……千秋にも逃げられた」 「……」  そういえば使い魔のハヤテも姿が見えない。  英美はしばし沈黙し、それから文彦の側頭部を蹴り飛ばした。  三狭山を巡る事件が完全に片付いた頃、犬上市内の学校は新学期に突入した。 「村上は?」 「さ、さあ」  ちっとも登校してこない文彦に同級生は心配し、事情を知りすぎたクラス委員長は引きつった笑みを浮かべたという。