第十三話 ひのきのけん  闇が広がる。  湿り気を帯びた冷気が、そこが森の中だと告げている。耳を澄ませば、夜風に擦れる木の葉の音や虫の鳴き声も耳に届くはずだ。 (聞こえない)  露を吸って柔らかな森の土を踏んでも、ベル・七枝の耳には何の音も届かなかった。  聴覚が失われたのではない。  心臓の音と、全身に巡る血の流れが生み出す音が、本来聞こえるべき周囲の全てをかき消しているのだ。彼女は意識を失う一歩手前の緊張感に支配され、それを自覚した上でそこに臨んでいた。即ち、戦場にだ。 (お師匠は、森羅万象の全てに心身を任せろって言ってた)  その場にはいない少年術師の助言を思い出し、自分がその境地に達するには果てしなく遠い道のりが待ち構えていることを痛感した。  人工物の多い都市ならば、異形の気配を追うのは容易だ。  ところが森の中には、人にあらざる気配がこれでもかというほど存在している。十年余を越えて育つ樹木には大小さまざまの木霊が宿り、そこを根城とする無害な異形も少なからず住み着いている。日の差す内はまだしも、日付も変わり街の灯さえも数を減らす頃ともなれば、闇に溶け込む異形を特定するのは不可能に近い。  それでも追わなければならない。  異形を倒せるのは術者だ、その術者が責務を放棄すれば誰も術者を頼ろうとはしない。  ベルが追っているのは凶悪な異形だ。他所より迷い込み、犬上の街に至るまでに十数名の警察官に深刻な傷を負わせた存在だ。正面から戦えば、炎術と気法を修めた彼女の敵ではない。だが人手不足の三課では彼女を援護できるだけの人材を確保できず、結果として彼女の独走を赦してしまった。 「大丈夫です、わたしは影法師の直弟子ですよ」  三課事務員が心配して引きとめようとした時、ベルは己の心細さを隠すように強がってみせた。  確かに影法師は驚くほど腕が立ち、そして実戦経験が豊富だ。単独で活動する術師としては、おそらく「北の特異点都市」を事実上支配している連中を除けばトップクラスの実力者だろう。彼女はその影法師に師事し、術師としての基礎を叩き込まれたのだ。それまでに影法師の教えを受けた術師はなく、唯一無二の弟子としての自負がある。たとえ影使いと炎術師の差はあっても、術師としての強さを師匠より継いだという自信もある。  逃げたくないし、逃げるわけにもいかない。 (時刻の期限まで七十分)  あと一時間ほどで事件の管轄が犬上市の三課から他地域に移行する。魔物を根絶させるべく過激な行動を起こしている神楽査察官たちは、管轄権を奪って犬上市に侵入を果たそうとするだろう。三課の管轄下、いや屋島英美査察官の管理下にある唯一の特異点都市である犬上市には、直属の部下であるベルにさえ伏せられた幾つもの秘密がある。 (そして秘密は、お師匠に関わっている)  確たる証拠はないが、間違いないと直感が告げている。  神楽査察官が事あるごとに犬上市に手を出そうとしているのも、彼の目的を達成する上で犬上市の秘密を狙っているのだ。だから屋島査察官は彼女を影法師の家へと下宿させたのではないのか。肌を重ねても彼女を咎めず、それどころか詳細な報告を求めたのではないのか。  呼吸を整える。  大丈夫、自分は強い。  職員相手に口にした言葉は決して嘘ではない。師と慕う影法師と共に、短期間の間に幾つもの異形を討ち滅ぼし封じてきたのだ。熟考し経験を次回に活かす余裕こそないが、鍛え上げた身体は無意識という形で最良の手段を導き出すと信じている。 「焔雀」  掌に現れた小さなコインを握り締めれば、その甲に小さな炎が生まれる。闇を濁すには不十分な、蛍よりも弱弱しい魔術の炎だ。赤青白の、勾玉のような小さな炎が三つ巴に回転して円を描き、それが一つの形を生み出す。 『呼んだかね』  それは小さな小さな鳥だった。夜店の飴細工よりもはるかに小さく、そして細緻な姿の鳥だった。尾羽は孔雀に似て、しかし翼の造作は大鵬を思わせるものがある。冠を戴く頭には三角四角五角の紋様が刻まれ、羽ばたき巻き起こすのは熱風だ。 「悪意ある異形を見つけて」 『造作もない』  声が聞こえたわけではないが、そう小鳥が答えたとベルは理解できた。  ふいと炎の息を吐き、焔雀と呼ばれた小鳥の異形は闇夜に消える。  それから数秒後。  ばちり、ばちりと周囲の森で木の葉が弾ける。蜂の針穴より細い炎の嘴が木々の葉を貫き、僅かに焦がしているのだ。音は、掠れるほどの小さなもの。たとえ聴覚が上手に機能しても、聞き取るのは至難の業だ。彼女がそれを察知できたのは、火の粉としか形容できないものが現れては消えているからだ。  炎は動く、ベルはそれを目で追う。  かすかな炎は表れては消え、やがてある一点で大きく弾けた。踏み込むには遠く、しかし認識できるほどの距離。ベルは渾身の力を込め、虚空を蹴り上げた。  凛。  トレッキングシューズが炎に包まれる。炎は螺旋を描き、螺旋は一条の槍となって虚空を貫き、先刻火の粉が弾けた闇に炸裂した。  凛。  鼓動の激しい音さえかき消してしまうような絶叫が森に響き、それから不気味なほど静寂な時間が訪れる。 (……任務、完了)  それだけを認識するとベルは焔雀を消し、そのまま次の任務に移行した。  中学生の夏休みは短い。  高校受験が存在しない中高一貫校の青蘭女子であっても、休みは短い。授業もそれなりに厳しい。名門と呼ばれる学校とて看板に胡坐をかいていられる時代ではないから、生徒の個性を伸ばすという方針で様々なタレントをかき集める。運動に秀でたもの、学力に秀でたもの。名士を親に持つ生徒も少なくない。  ベル・七枝を青蘭女子に編入させたのは、三課査察官であり彼女の直属上司である屋島英美だ。わざわざ青蘭女子を選んだ意味は当初知らされていなかったが、教師たちはベルの裏稼業に理解を示していた。 「優秀な術師を輩出することは、未来への投資です」  編入時に理由を尋ねた時、理事長を名乗る老婦人は穏やかな顔で答えた。 「術師の仕事は奇麗事じゃないですよ」 「理解しているつもりです」  本当だろうか?  ベルは理事長が微笑んだ時、面にこそ出さなかったものの言いようのない怒りを感じた。どうみても戦後復興期、高度経済成長の頃に青春を過ごしたとしか思えない能天気さだ。若い頃に社会主義とかに夢を抱いていた世代かもしれないが、個人の主義主張に口出しするほどベルに余裕はない。  術師が相手にする異形というのは、人の心が生み出す闇だ。そして人の心が持つ闇というのは、人間が抱え込む矛盾に由来する。心身ともに不安定な年頃の子供たちが一箇所に集うのは、下手な怨念より厄介なものを生み出す事が多い。 (それでなくとも、閉鎖された環境は人を歪ませるのに)  人間は生まれながらにして善である。  理事長はそれを繰り返していた。良家の令嬢として育ち、人生の修羅場や怨念というものを回避して今に至った女性なのだと、ベルは後で知る。知る前から、そんな気はしていたが。 「欲望に忠実なだけ、バケモノの方が好感を持てることも……ある」  いちばん最初にベルに魔術を教えた者の言葉を口にして、彼女は拳を強く握った。  金星の名を戴くスコットランドの魔女は、人間の美しさと醜さを共に説いた。ベル自身、生まれ育った地で様々なものを見聞し、術師となってからはそれより多くの物事を体験した。人の善意も悪意も共に見て、その上で性善説を主張できるほど彼女は強くない。  拳骨に血と涎が付着している。  ベルのものではない、人間の血だ。足下には、折れたての前歯が数本、血と共に転がっている。  折られた前歯より少し離れた場所に、中等部の生徒と思しき女子中学生が数名、前歯と同じような状態で倒れている。一人は鼻が潰れ、一人は前歯が数本折れ、一人は後頭部を打撲されたのか顔面から地面に埋まり、その他はどうってことのない怪我で、どうしようもないほどの恐怖に怯え互いに庇いあうように震えていた。彼女たちの半分はベルの同級生で、残りの半分は同じ学年の娘達だ。  彼女たちは、その犯罪歴で判断すれば善良な市民だ。誰にも怪我を負わせず、誰の財産も奪わず、誰の命も奪っていない。拳銃も毒ガスも手榴弾も対人地雷も大口径ライフルも携行型地対空ミサイルランチャーも、およそ生命健康を損ねる以外に使い道のない器具とも縁のない生活を送っている。国家の情報網に危険人物と認定されることも、遺伝資源に致命的な損傷を及ぼすようなバイオテロを起したことも、倫理上不適切な書籍を出版したことも、一国経済を傾けるほどの損失を企業に与えたことも、もちろんない。そのままなら歴史に名を残すことなく生涯を終えるであろう娘達だ。  彼女たちは、ごく普通の娘達だ。  普通の娘が持つ、年頃の娘達が持つ心の闇を抱えていた。学校という閉ざされた環境で、自身の矛盾を誤魔化しながら、イレギュラーな存在を排除することで自己を保とうとする。普通の少女達だ。  だから。  ベルの教科書がカッターナイフのようなものでズタズタに切り刻まれ、  体育の授業中に、ベルの制服の内側に接着剤を大量に流し込まれ、  教室の机と椅子が、ベルの分だけ廊下に放り出され、  しかし彼女は最初それが同級生達の嫌がらせとは気付かなかった。まず最初に疑ったのは敵対した術師の仕業であり、術師に敵対的な魔物の悪戯だ。桐山沙穂がそうであるように多数の制服や教科書のストックを有しているベルはそれほどショックを受けず、考えたとしても周囲に迷惑をかけずに魔物を討ち滅ぼすことだけだった。  全く傷ついた様子のない彼女に同級生たちは焦り、その態度と心の強さからベルへの敵意を増幅させた。そうして、自分たちでは慎ましいと思っていた嫌がらせがまるで役に立たないことを自覚し、直接行動に出ることを決めた。彼女たちはベルを校舎裏の人気のない場所に呼び出し、どうでもよい理由で因縁をつけたのだ。  暴力によって異分子を排除する方法は原始的かつ効率の良いやり方だ。  それだけにベルは激怒した。彼女たちはベルの身体に致命的な損傷を及ぼすような器具を手に、襲ってきた。  対応は素早かった。にやにやと口を開いていた女生徒の鼻が潰れ、驚いた女生徒の前歯がまとめて折れる。悲鳴を上げようとした生徒が踵落しに沈み、その他の生徒は逃げ出す前に平手打ち一発で戦意を喪失していた。ただの平手打ちではない、掌底気味の構えに気を乗せた一撃だ。歯の根どころか顎関節に異常を来たすほどの強烈な衝撃が全身を襲い、女学生達は吹き飛ぶ。ほぼ全員が泣きじゃくり、失禁する者さえいた。  先刻までベルに向けられていた悪意は、今では恐怖と保身に替わっていた。時折殺意に近いものが向けられても、ベルが石畳を踏み砕き、錆び付いていたバレーボール用の鉄柱を蹴り一発で圧し折るのを見れば、敵意など完全に失せる。  悲鳴と嗚咽は日本語にはなっていない。  全員を叩きのめした後。  ようやくベルは、襲撃してきた同級生達が、魔物に支配されたり術によって操られたのではなく……自らの破壊衝動と強迫観念そして歪んだ仲間意識からベルを襲ったのだと理解した。 (ああ)  これは集団リンチだったのだ。  だとすれば、これまで教室で起こっていた数々の出来事も納得はできる。確かに自分の中に流れている日本人の血は半分もないし、髪の毛や瞳の色も違う。骨格の造りや肌の色も、今まで過ごしてきた文化体系も違う。ベルの存在は排除すべき異分子なのかもしれない。  呆れ、それ以外の感慨も持たずベルは拳骨の汚れをウェットティッシュで拭き取る。人間の前歯を折るほどの強打を食らわせながらも、彼女の拳は皮膚一枚傷ついてはいなかった。  知らず溜息が漏れる。 (群れて、圧倒的優位に立って、贄を求める。自分が大多数の一員であると自覚し、少数派を迫害することで自身の存在を安定させようとする。人間としては当たり前の欲求と本能)  安心を得るために犠牲を欲求する感情。  残酷な事件を報道するテレビ番組や、近所で暇を持て余した主婦が立てるゴシップ紛いの噂話と大差はない。少しばかりの同情と、そこから得られる圧倒的な安心感が欲しいのだ。火事というのは対岸で見るに限る、己の裾が焦げるまで火に迫るのは病的な放火魔か勇敢な消防士だけである。 (この子たちは、自分が消し炭になることなんて考えたことあるのかしら)  這って逃げようとする一人を髪ごと掴んで引き戻し、手首をひねる。ぶちぶちという音と共に、脱色され染め直した跡のあるセミロングの髪の毛が数百本、束で抜ける。毛根を傷めてはいないが、快楽とは程遠い刺激が彼女の神経を刺激し、絶叫を上げさせようとして身体が硬直した。彼女は同級生達を煽動してベルへの嫌がらせを企てた中心人物の一人で、表立って周囲を操るのではなく、別個にリーダーを立てて自身の意見を通すタイプの人間だった。 (何も知らないと思うけど)  一応は規則だからと、ベルは今までよりきつい口調で喋った。 「第零種対策員職務妨害その他諸々の現行犯って奴で、あなたたち全員拘束するから」  それから数秒もたたず、パトカーのサイレン音が青蘭女子の周辺で鳴り響いた。最初それが冗談かハッタリだろうと考えていた女生徒たちも、武装した警察官がベルの背後に駆けつけるのを見て蒼ざめた。 「拘束しなさい」 「はっ」  ベルの冷たい言葉、敬礼する警官たち。手錠ではなく樹脂製の拘束具で手足を縛られるに至り、女生徒たちは己の身に起こる事の一端を理解した。  言葉にならない絶叫。  しかし誰も来ない。喧嘩沙汰になれば駆けつけてくるはずの教師も、正義感を持った高等部名物の先輩も来ない。まるでそこが閉ざされた世界であるかのように、女生徒たちに救いの手を差し伸べるものはいなかった。 (これが……「理解」ってやつ?)  理事長の言葉を思い出し不快そうに眉を寄せるベル。背後では錯乱した女生徒達がベルに助けを求めている、彼女たちは心からの謝罪なるものを口にし、自分たちが同級生であることや、あるいは地元の名士を両親に持つことを口にして、その知恵が廻る限りの全てを尽くして現状を脱するべく説得を試みようとした。 「七枝さんっ」 「大丈夫よ、またとない社会見学できるんだから」 「……社会……?」 「連行して」  無言で敬礼し、女生徒達はパトカーの中に放り込まれる。悲鳴を上げるものには猿ぐつわが噛まされ、モノクロの扉が無慈悲な音を立てて閉まった。来たときと同じ盛大なサイレンを鳴らしてパトカーは去っていく。  異形との関連性が無いと判断されるまでそう時間はかからない。むしろ秘密維持と称しての脅しめいた警告に女生徒達は震え上がり、同様の警告は両親にも届けられるだろう。 「くそっ」  やり場のない怒りを込めて折れた鉄柱を踏めば、それらは融解してただの鉄塊に戻った。呼吸を荒げ肩を上下していたベルは鉄塊を蹴り飛ばし、未だやり残している幾つかの仕事を片付けるべく学校を抜け出して街に消えた。  世界の半分は憎しみで作られている。  だが残り半分が愛で作られているという保証などどこにもない。  ベル七枝に魔術の基礎を教えたスコットランドの魔女は、日本へと旅立つベルにその言葉を贈った。楽園はどこにもない、約束の地も今はない。だから人間ってのは、その場その場で最善を尽くすしかない、悔いの残るやり方をしても後に引きずってはいけないと。  一緒に日本に来てくれないかと、ベルは魔女を誘った。  魔女は首を振った。本物のエールもポーターもスタウトもピルスナーも無い、あるのは米を混ぜた薄っぺらい色のラガーがあるだけだ。ビール好きの魔女は樽のような豊かな胴体を揺らし、笑ってベルを見送った。  誰かを頼ることができないのなら、一人で何でもできるようになるしかない。  それがベルの信念だった。 「立派な考え方だが、やり過ぎではあるまいか」  同級生達を叩きのめした後、補佐に現れた市井の術師が惨状を一瞥して肩をすくめた。中堅営業マンと思しき壮年の男は柔和そうな表情を崩さない。 「やりすぎかしら」 「もっと穏便に済ませられる実力が、君にはあるだろう?」  たしなめられ、しばし考え込むベル。 「そうね。どうしようもないほどえげつなくて無修正本番でアブノーマルでフェティッシュで、一度眠りに付いたら十二時間決して覚めることなく発情モードにスイッチが入って脳内で延々と自我と自尊心を辱められ続ける淫夢の符を、彼女たちの枕に仕込むとか」 「ごめんなさい私が悪かった」  次に目が覚めた時には性の奴隷となってしまうような呪符を人数分取り出したベルに、男は頭を下げた。  術師としてのベルは確かに優秀だ。  新人として扱われても問題のない年齢なのに、市井の中堅術師たちを上回る封印数と実戦経験を積んでいる。それらが極短期間であることに多くの関係者は驚くが、それゆえに彼女の扱いに苦慮した。単独行動を好む優秀な術者は独走しやすく、その分だけ危機に陥りやすい。影法師ほどの実力を有していれば余計な人員が逆に足手まといになることはあっても、ベルにはそこまでの力はまだ備わってはいない。  よって。 「まあまあ、袖すり合うのも多生の縁ってね」  気が付くとベルは「術師」桐山沙穂を押し付けられていた。  三課における影法師の立場を微妙なものにした、問題の女である。身中に特異点を有し、同級生という立場を不当に行使して影法師に接近し必要以上の関係を結ぼうとした女だ。特異点処理の際に記憶を喪失し、その上でなお影法師に接近し、結局こちら側の業界に首を突っ込むことになった女。  好ましくない表現を駆使すれば、師匠を独占し堕落させようとする毒婦にして淫婦。実は肉体関係に限って言えばベルは沙穂など足下にも及ばぬ数々の行為を企て実行しているのだが、そんなものは大した絆ではないと彼女は考えている。  桐山沙穂は、影使いとしての能力を得ているのだ。  ベルが得られなかった影使いの能力をだ。たとえ特異点の封印時に切り離した人格に与えられた能力だとしても、それは術師として通常考えられる話ではない。特異点の影響で素養を獲得したとしても、術式を行使するためには流派ごとの差こそあれ基本的な知識の習得と技術的な訓練が必要なはずだ。まして影使いの術は、その性質から修業には極めて長い時間と手間を要する。 (特殊な例って言われてる師匠だって、術式を安定させるまで半年以上かかった)  それさえ術師の世界では驚異的な数字だ。だが沙穂は当たり前のように影使いの術を操っている、その事実が持つ意味を彼女が理解している様子はない。 (桐山沙穂という女が特殊なのか、それとも師匠は影使いを量産できる何かを持っているのか)  いずれにせよ、影法師がそこまでする何かが沙穂にはある。  沙穂が影使いとして行動することは、影法師と彼女がただならぬ仲であると触れ回っているようなものだ。影法師唯一無二の弟子という自負の強いベルにとって、それは許容し難い事実だ。それに犬上市や影法師を狙っているであろう神楽査察官は、沙穂が影使いだと知れば必ず動く。  ならば。 「サホ、あんた拳銃専門よ。ぺーぺーの術でサポートされたらこっちの身が保たないもの、あたしが許可するまで術は絶対使わないでよね」 「……そりゃ、構わないわよ。ジンライ君もいるし、影の術って消耗激しいから」  ベルの真意に気付かぬ沙穂は、パートナーとしてベルに認められたと思ったのか少し嬉しそうに応じた。魔力により強化された筋力は拳銃の反動に耐えるだけの強さを沙穂に与えていたし、理系である彼女にとって得体の知れない魔術を使うくらいなら拳銃の方が多少なりとも納得できるからだ。もちろん、それが非合法であることは既に諦めている。合法的手段で敵対する術師や異形を倒すことはできないし、借金も返せない。 (師匠に迷惑はかけられない)  沙穂の存在は疎ましいが人格を否定するほど嫌ってはいない。それに師匠たる影法師が護ろうとしている人間を、自分が処分するわけにはいかない。 (できるとすれば、きっつい現場に突入して悲鳴を上げさせるだけよね)  借金の返済も早くなるだろうから帳尻は合うだろう。  そういうことを内面に隠しているとはおくびにも出さず、ベルは朗らかに笑う。  ひとを殺そうと思ったら、自分が殺されることを覚悟し、その上で動け。  誰かが言った。  蟻を踏み潰すように人を殺したかったら、偉くなることだと。正義とか内政とかそういう問題に逃避しつつ何千何万の命が気軽な一言で失われるだろう。彼らにとってそれらは数字の問題であり、心を押し潰すべき重荷にはならない。  つまり。 「ヒューマニズムでバケモノは退治できないわよ」  犠牲は回避できないし、そこで潰れてしまっては術師としてやってはいけない。  ベル七枝は冷たい口調で桐山沙穂を批難した。  術師の仕事は後手後手に廻る事が多い。封印より外れて暴れた程度の異形は弱っておりそれほど脅威ではないが、凶悪な異形の侵入ともなれば否が応でも人の生き死にに直面することになる。治癒の術式を修めた人員が常に待機している犬上市の三課でも、救えない被害者は多い。影法師の使う究極的な治癒の術式も完全に死亡した人間には意味を持たず、汚された死人の身体を繕う程度のことしかできないのだ。 「不倫関係を清算しようって時に女に刺されて、半死半生のところをバケモノに美味しく食べられましたって感じよね。そのまま理科室に飾っても良いくらいに綺麗な食い跡」  一人で住むには少し贅沢すぎるマンションの一室。  光沢さえ発する白骨死体が、それに不釣合いなほど立派なスーツを着て横たわっている。アイロンをかけたばかりなのか折り目が立っており、下腹部に刺し傷こそあるものの血が染みた形跡はない。おそらく近くに隠れていた異形が布地に染み込んだ血液さえ勿体無いとばかりに消化したのだろう。 「どのみち出刃包丁が根元まで埋まるほど思い切り刺されていたもの、バケモノがトチ狂って応急処置したって助からないわ」  現場検証をしていた三課職員が転がっていた大型の出刃包丁を拾い、ベルに見せる。魚市場の職人が持つような本格的な代物で、山姥の持つ鉈を思わせるような大振の刃だった。何度も何度も突き立てるには重すぎるし、最初の一撃で根元まで深々と刺さったのなら引き抜くのも容易ではない。怨恨による刃傷沙汰となれば何度も何度も刃が突き立てられるようなものだが、この被害者の衣服に一箇所しか刺し傷の痕がないのはそのような理由なのだと……それはもう愉快そうというか感心しきった表情で三課職員は説明していた。 「サホ?」 「……これ、死体よね」 「魂は昇って魄は沈んだから、モノホンの死体」  現実味のない被害者を前に沙穂は困惑している。  ベルの言葉に自然と力がこもる。  目の前に転がっているのは、いかなる術を用いようと助けることもできない死体だ。虚飾を削るだけ削り、人の本質を剥き出しにした姿とも言える。骨となれば生前が痩せぎすだろうが肥満児だろうが関係はなく、更に焼いて灰となれば生前どれほど貧富の差があろうと何の違いも見出せない。そしてたとえ重度の薬物中毒者でも、焼いた骨を砕いて一握の灰としてしまえば健常者と変わる所はない。  死とは全ての人に等しく訪れる終焉であり、それ以上の意味は宗教家が自問する領域で術師の扱う分野ではない。  もちろん弔う者にとっては故人との思い出をつなぐ触媒だろうが、そうでない者にとっては骨灰にどれほどの価値が見出せようか。 「屍食鬼の類にしては、礼儀正しいですね。部屋の掃除してるし」  鑑識を担当している職員が驚きを口にする。白骨死体は通夜の席で使うような床に寝かされ、弔うための白帷子も手縫いのものが近くに置かれていた。遺産配分で困らぬよう印鑑や株券それに預金通帳が一箇所にまとめられてテーブルの上に置かれ、香典が一人分添えられている。通報を受け最寄の派出所より警察官が駆けつけたときは、虫除けと死臭隠しのためのシキミ香が焚かれていたという。 「普通の葬儀屋だってここまで丁寧にはできないって、警察の人が呆れてました」  なにせ警察の到着から半刻も経過しないうちに檀家の坊主がやってきたのだ。聞けば前夜に連絡を受け、この日この時に訪れるよう指示されたとか。虫も寄らず腐臭もしない白骨死体は何も語らない。 「臭わない亡骸ってのは、扱いやすくて良いわ」 「そういう問題じゃないような」  不快さも気味の悪さも感じさせない死体を前に、担当術師として呼ばれていた二人の少女は情けない漫才を延々と繰り返していた。  標的というべき異形は直ぐに見付かった。  なにしろ異形は被害者の不倫相手だったのだから。 『だって、あの人……奥さんと別れるって約束してくれたのにっ。娘さんが大学受験で微妙な時だからってっ。だから、だからっ!』  大手企業には必ず一人はいそうな、お色気系OLが泣きじゃくりながら白状した。元は自殺して半死半生の女性に憑依して身体を操っていたのだが、身体が同化するにつれ人間社会を満喫するようになったという。 (だからって不倫して、痴情のもつれから刺した相手を食うってのもねえ) (わたしに言われても)  エロスとバイオレンスが炸裂する伝奇アクションではない。  健康を謳う割に血色悪いことで有名な芸能人が脳裏に浮かぶ、三流ゴシップ誌の記事にもならないような話だ。 (まあ、こういう事件もたまにはあるわよ。犯人も自首してるんだし、とっとと封印かまして次の事件事件。あんたの借金返さないとっ) (……いいのかな、こんなの)  と。  釈然としない沙穂を引きずりベルはそれ以上の追及を避ける事にした。  変革は自覚を伴わぬことが多い。  それは本人が満足していなかったり、本人が意図せぬ変化が訪れているからかもしれない。 「誰、この人。知り合い?」  毎日数件の事件を追いかければ、様々な人間に出会うものだ。  突発的に起こった、妖魔の出現。  無目的に行動する低級な異形ではなく、思想信条を有し特定の施設や人物を欲求とは関係なく破壊し殺害する集団。過去に何度も、幾つもの場所で妖魔たちは政府を転覆させあるいは人類という種を滅ぼそうと暗躍してきた。現在も、世の裏では妖魔と術者たちが戦っている。妖魔を専門に追いかける術師もいるくらいだ。  そして人の世の裏側に近しい犬上の街ならば、妖魔の影もよく現れる。  彼らが何を目的としているのか、末端の術師にまで伝わらないことは多い。妖魔の迎撃を専門に扱っているのは政府系の組織であり、秘密主義で知られる彼らから情報を引き出すことを術師たちは既に諦めている。  とにかく倒す。それを合言葉にして術師は黙々と戦う。  そういうわけで、日付が変わる直前に桐山サホとベル七枝は数名の少年少女を救い出した。そのまま放置していれば妖魔の餌食となっていただろう、術式によって麻痺状態に陥っていた中高生達だ。歓楽街に近い場所で発見された彼らは私服姿で、頭髪やピアスなどの装飾も様々だった。彼らの多くは自身の生命が危なかったことを理解して泣き出し、残り半分はベルが生み出した炎の奇異さに驚いていた。炎は生命のように動いて少年少女を一瞬だけ包み、麻痺の術式のみを焼き尽くしたのだから、度肝を抜かれるのも無理はない。 (これ、なんかの撮影?) (そんな訳あるかよ。俺たち殺されそうになったんだぞ) (でもでも、あっちの女は拳銃ぶっ放してたし)  歓楽街の裏通り、人のあまり訪れない行き止まりの路地が妖魔の餌場になっていた。蜘蛛糸を吐いて麻痺の術式としていた妖魔は既にベルの火炎で焼かれ、浄化の術式を込められた弾丸を数発くらい、その上で封じられている。極普通の編成を組んで異形に挑む術師では倒しきれない強敵だったが、牽制役として大狼ジンライが蜘蛛型妖魔を威圧していたのでサホとベルの二人でも十分に対応できた。  もちろん無傷ではない。術式を編みこんだ糸を吐く蜘蛛は下手な術師より厄介な存在で、たった一体にも関わらず十数人分の術を同時に解き放つのだ。ベルは右上腕部の骨が折れていたし、脱臼したまま銃を撃ったサホは左肩の筋を痛めている。皮膚の上層をえぐる傷は無数に等しく、制服は血液と泥で汚れボロボロになっていた。 「もうじき専門家と警察が来て、あなたたちを保護するわ」  すっかり現場慣れしてしまったサホが被害者の少年少女を捕まえて説教気味に話す。 「簡単な検査と治療、事情聴取と被害補償のために数時間から半日前後の期間あなたたちの身柄を拘束するわ。家庭や学校には組織と警察の方から説明が行くので心配しないように」  ちなみに逃げ出すとバケモノに憑依されたと判断して容赦なく攻撃するのでヨロシク。  弾倉を交換し、安全装置を解除する。可能なら逃げ出そうとしていた少年は息を呑み、へなへなと腰を抜かす。 「ベル?」  治癒の術式を封じ込めた呪符を用意しつつ、サホは普段は口やかましい同僚ベルが不思議なことに沈黙しているのに気がついた。たとえ練気を修め多少の苦痛に耐性を持つ身でも、上腕部の骨折というのは想像を絶する痛みのはずだ。早い内に処理しなければ内出血や発熱で体調を崩すことになる。仕事はほとんど終わっていたとはいえ、予定外の事故は常に起こるのだから三課で待機する必要がある。 「ねえ、ベル?」  視線を少し動かせば、直ぐに彼女は見付かった。  ベルは助け出した一人の少女の前に立っており、彼女の顔をまじまじと見つめていた。負傷した上腕部には治癒の呪符が既に貼り付けられており、骨がずれて癒着しないように空いた手で患部を押さえながらベルは少女を見ていた。  中学生にしては派手という印象。  あちこち撥ねた髪は真っ赤に染めてあり、歳相応の童顔を厚化粧で強引に書き換えて派手なものにしている。田舎っぽさの残る犬上の街には珍しく時代を追いかけた衣服に靴だが、それらは化粧と同じく本来の機能を発揮できないほどボロボロになっていた。 「どうしたの、知り合いでもいたの?」  サホの言葉に少女が肩を震わせ引きつった顔でベルを見る。 「い、いるわけないでしょ。あのね、青蘭ってのは名門の上にお堅い校風なのよ」  こんな盛り場で深夜に他校生と遊んでいるのが知れれば運が良くて停学処分だ。  少女だけに聞こえるような声で小さく呟けば、うずくまっていた少女は痙攣する。ベルは嘆息し、丈夫さが取り得の携帯端末を展開して三課の支局を呼び出した。 「えーと、ベルさん?」  単独行動を好むベルは三課への報告を最後にまとめて行う。それは癖といっても過言ではなく、一緒に組むようになったサホも対応に苦慮する部分だった。優秀な術師はそういうものだとパトリシア・マッケイン博士も諦めていたし、三課職員も書類さえ提出できれば経過は問わないとしていた。  そのベルが。 「……もう一度言うわよ、蜘蛛型妖魔を撃退する際に民間人に協力を要請して身柄を一時拘束したわ。氏名は森崎螢、青蘭女子の中学生。彼女の協力なしに妖魔を封じることはできなかったから、保護者と学校には説明しておいて」  会話というよりは一方的な通告をまくし立て、端末の回線を閉じる。 「あんた、偽善者?」 「簡単な忠告よ、鼻を折られた森崎さん」  恐怖と屈辱に顔をゆがめた少女、森崎蛍が顔を上げる。ベルは偽善者呼ばわりされても涼しい顔で、蛍と同じ視線になるべく腰を落として不敵な笑みを浮かべた。蛍はベルに嫌がらせをした同級生の一人で、裏拳一発で軟骨を砕かれた少女だった。術式により傷は癒え鼻も元通りとなったが、幻覚としての痛みが今も彼女を悩ませている。ベルを見た時に面に出した感情は、憎悪と恐怖と安堵が入り交じった複雑なものだった。  こんな形でなければ生涯関わりたくないと、態度に出ている。 「忠告って、何よっ」 「ずれてる」 「……へ?」  間が空いた。 「ばいんばいんの胸が上下にずれてるって言ってんのよ、グラマラスな森崎さん。気付かれる前に直しといたら?」 「っ!」  その指摘を受けて初めて蛍は、分厚い胸パットが外れているのを自覚した。  恥ずかしさと怒りで混乱した彼女は慌てて胸の位置を修正し、文句の一つも言ってやろうと顔を上げる。 「ふざけないで、七枝っ!」  先刻までの恐怖が吹き飛んだ、罵声に近い叫び。  しかし、その時既にベルとサホの姿はどこにもなかった。 「海岸近くの国道で異形発生、鋼玉と思しき硬質のバケモノです」  スポーツドリンクと携帯食を用意した三課職員が、強張った顔で緊急事態を告げた。 「はがねだま?」  それが何物かを知らないサホはジンライに物を尋ね、理解しているベルは即座に反応した。 「師匠は?」 「影法師は蛟川上流のダム工事現場で、同種の鋼玉数体と戦闘中です。県境の数箇所から同時に侵入を果たそうとしています。西方の検問箇所ではハヤテに動いてもらってます」 「そう」 「……あと、これは未確認情報なのですが」言いにくそうに咽を詰まらせる職員「今回の鋼玉の襲撃、神楽査察官側が誘導したという噂が」 「確認取ってから話して。それと証拠集めお願い」  驚くほど素っ気なくベルは言い、それからサホを見た。鋼玉なる異形がいかなる存在なのか説明を受けたサホは顔色が悪い。鋼玉が、文字通り鋼鉄の塊とも言うべき巨大な異形だと理解したからだろう。普通の弾丸ではまともに通用しないのだから、サホは全くの役立たずではないか。 「ジンライ君、何とかできる?」 『サホ殿が天哮砲を引き出せるのなら』  と、どうしようもない会話を横目で見つつ。 (まあ、やるしかないか)  ベルは自分にしか分からない覚悟を決めて、その日最後の仕事に臨むことにした。  鋼玉。  名付けた者のやる気の無さとセンスが窺える異形は、一種の憑物神と考えられている。群体としての性質を有すこの異形は、天然物人工物を問わず鉱物を義体の素材として取り込み、ひとつにまとまる。古の記録によれば合戦場にしばしば出現し、鎧兜や折れた刀を次々と取り込んで膨らんだという。  鎧玉という異名は、その姿よりつけられたとか。 「昔の人はどうやって倒したのよ」 『錆びるまで逃げ、後に焼き滅ぼしたとか』  桐山沙穂の投げやりな問い掛けに、少年の姿に化けた大狼ジンライも同様に返した。 『金物に通じている地の術師、水を呼び酸を操る水の術師ならば対処もできましょう。空間そのものに干渉する術の使い手ならば、金鉄の鎧に覆われ届かぬ異形の核を撃ち抜き滅ぼすのも可能でしょう』  しかしながら。  大狼ジンライは申し訳無さそうに進言した。視線の先には、元素術師ではあるものの地術も水術も専門ではなく、もちろん空間そのものに干渉する術のないベル七枝が立っていた。  彼女はぼろぼろになった制服ではなく、体操服であるスパッツとシャツの上に硬陶製の手甲と脛当てを装着し、はるか前方の黒松林で転がっている鋼玉を睨んでいる。ジンライの言葉に耳を貸す様子はない。  にもかかわらずジンライは言葉を続けた。 『浄炎をもって異形を焼き尽くすベル殿の術は、土や鋼に対しては無力。それどころか鋼に烈火の力を与え敵を強大なる物に変える恐れがあります』  ただでさえ手がつけられない鋼玉が火の玉となって郊外を飛び回り、犬上の街を破壊することになる。 『かといって沙穂殿の銃撃は通用しませぬ。やはり影法師様の到着まで時間を稼ぐしか』 「そういう後ろ向きな展開、あたしは嫌」  あっさり拒絶するベル。  彼女たちの後方では見慣れぬ制服姿の男たちが数名控えており、好奇の目をサホに向けている。彼らは鋼玉の襲撃をわざわざ直接伝えに来た三課本部の人間で、神楽査察官の配下だった。本部に所属していた頃、彼らと仕事を組んだこともある。 (人間至上主義者の、権威主義者)  口は達者だが身体を動かさない連中だった。彼らは今もベルと沙穂を見ては何かを話しているが、その会話内容に興味は持てない。ろくでもない下世話なものだろうと予想できたし、事実その通りだった。 「やるだけの事をやってからにするわ」 『しかしベル殿、火の元素魔術は』 「スコットランド仕込みの魔法」  見せたげると鼻を鳴らし、ベルは駆け出した。  元素魔術。  中国の流れを汲むのは木火土金水の五行に、三課で広く使われているものは地水火風空の五大に。いずれも世界の本質を限りなくシンプルに捉え、それを操作する魔術である。物質として触媒が存在するため、奥義を究めれば万物より無尽蔵の魔力を引き出せるとも言われている。 『東洋的なものとは、ちょいと概念が変わるんだがねぇ』  かつて。  樽のような身体を揺らせながら、ベルに魔法を教えたスコットランドの魔女は奇妙な本を見せた。薄く薄く削った黒石の頁に白石の文字が埋め込まれた奇妙な本だ。書かれている文字も、幼いベルにはさっぱり理解できなものだった。その本を開き、指で文字をなぞり色々のことを語る。 『万物に宿るのは、究極的には元素ではなくてエーテル』  魔力の伝達物質であるエーテルが様々な形をとって万物に含まれる。光には光素たるフォトンが、炎には燃素フロギストンが。科学者が否定した理屈がそこには存在する。魔女は光と炎を虚空に生み出し、消した。そこには発光や燃焼に必要なものが存在しなかったのに、それらは唐突に現れたのだ。  続いて魔女はコップの水の底に炎を生み出した。水の中に宿るエーテルを燃素に変換したと魔女は説明するが、冷たい水を沸騰させず炎が揺れる様は奇妙極まりない。 『お前さんが覚えた炎の魔法ってのは、炎の元素を直接操るわけじゃない。万物に宿るエーテルを燃素に変換して炎を生むのさ。だから、おまえさんの手足から生まれた炎が自分を焼くことはない。術者が生み出したエーテルの炎はバケモノたちの義体を燃素に変換させて、文字通り焼き尽くすけどねぇ』 「直接触れて相手を燃素に変換できないの?」  幼いベルは、それが素晴らしい思いつきであるように手を叩いて声を上げた。スコットランドの魔女は顔をしかめ、生み出した炎を消した。 『エーテルってのは人の想いや念も吸い寄せているからね、耐性のない人間が直に触れたら取り込まれるのさ』 「耐性のある人間って?」 『……ソウルイーターだよ』  魂を喰らうもの。  触れてはいけないものを口にしたかのように、魔女はその名を口にした。地獄の悪魔を茶化す時さえ平然としている 魔女が、その時ばかりは真剣な顔だったのをベルは覚えている。  エーテルを仲介する元素魔術。  それがどれほど特異な体系に基づいているのか、ベルは日本に来て自覚した。  樹齢四十年を越える黒松を次々となぎ倒し、それはベルたちの前に現れた。  鉄筋コンクリートなどの建築廃材やスクラップ待ちの廃車、それら硬質にして無骨なものが集まっている。漆喰やワイヤーで固定しているのではない、奇妙なる球体。  それが鋼玉だ。 「でか」  間近に迫る鋼玉は優に直径5メートルを越え、それが少しずつ膨らみながら迫る。黒松を根元より倒すような勢いで、警官や三課職員達が検問を構える道路に乗り上げた。  立ちふさがるのはベルただ一人。  肩幅に歩を開き、適度に力を抜く。覚悟はあるが気負いはない。 (理屈は簡単)  鋼玉の迫る勢いは早いが、驚くほどではない。動体視力に自身のある人間なら、それこそ何の訓練も受けていなくても動きを追いかけられるだろう。無論、動きを見切るのと走って逃れるのとでは勝手が違う。たとえオリンピック選手が全力疾走したとしても直ぐに追いつかれてしまうほどのスピードが、他に何の特技もない鋼玉にこれ以上ないほどの破壊力を与えている。 「火蓮」  唸るように呟けば、鋼玉の内側より巨大な炎が生まれ動きが止まる。それは一本の火柱ではなく、蓮の花弁を思わせる幾条もの炎だった。鉄筋コンクリートや自動車の廃材という、可燃物が全く含まれていない鋼玉が内側より炎を噴き出したので、三課職員も神楽査察官の部下も驚き言葉を失う。 『鋼玉を構成しているエーテルを、直接燃素に変換したでござる』それを理解したジンライの声も震えている『剥き出しの瘴気に触れるようなものでござるよ……』  術師の力量が無ければ一瞬の内に異形に取り込まれてしまうだろう。  万が一の時にはベルを始末しなければならないと身構えるジンライの後頭部を、桐山沙穂は叩く。 「寝言なら寝てから聞くわ」 『サホ殿』  三歩動き、ベルの後方に立つ沙穂。  腕を交差させるようにして二丁の拳銃を構え、ベルに問う。 「ベル、タイミングは」 「あと三十秒」  振り返りもせず即答するベル。  エーテルの炎に包まれた鋼玉は自らが発する炎によって鉄の部分が融解を始める。しかしそれはコンクリートを溶かすには至らず、逆に融解した鉄が漆喰のようにコンクリートを固める働きさえ見せていた。  ガラクタの集まりが、前衛芸術のごとき彫刻に変わっただけの違い。エーテルの炎は群体を構成する異形の一つ二つを焼いてはいるが、それらは群体の構成員の働きにより消滅寸前の状態から一気に回復する。拠り所となる鉄やコンクリートを破壊しない限り、鋼玉は瞬時に再生するのだ。  いまや鋼玉は火蓮により灼熱の紅玉と化し、夜闇は明るく照らされている。 『やはり炎では鋼玉は倒せないでござるよサホ殿〜っ』 「黙っててバター犬は」 『うわぁん』  振り向きもせず物凄いことを口にするサホ。視線は鋼玉に向けられたままだ。  背後での漫才を無視しつつ、ベルは自身の魔力と気力を限界まで振り絞る。一つはベルの心身に侵入しようとする鋼玉の瘴気の排除のため、そしてもう一つは術式を完成させるためだ。  宣告より二十五秒、遂にベルは術式を解放した。 「焔雀」  蛍火より小さな炎がベルの左手の甲に現れる。ベルは鋼玉に駆け寄り、空いた右手を手刀に鋼玉を一閃。  凛。  硬く乾いた鈴の音が響き、濁っていた闇が透き通る。  ベルとサホを除く全員が言葉を失った。左手の甲には白色の光を発する炎の猛禽が現れ、対照的に鋼玉は今まで発していた熱と炎の一切が消え去っていたのだ。  いや。単に炎が消えたのではない。  驚くべきことに鋼玉の表面には霜が張り付き、無数の亀裂が生じている。エーテルそのものを操作できないベルは鋼玉のエーテルを燃素に変換し、過熱するだけ加熱した後に燃素の全てを奪い去ったのだ。それは単純な冷却のレベルを超え、群体を構成していた鋼玉の異形たちは自らの拠り所となるべき石と鉄が限りなく脆くなっていることを理解した。  動くことも出来ない。  僅かでも転がれば鉄も石もボロボロの砂のようになって崩れてしまう。たとえ砂粒でも彼らの依り代にはなり得るが、砂粒ではたとえ一千の鋼玉が集まっても泥団子にさえならないのだ。  ほぼ全員が事態を正確に把握して。  ベルの宣告より三十秒が過ぎた。  二丁の拳銃より放たれた十発あまりの弾丸は、それほど特別な代物ではない。しかし弾丸が命中するごとに、鋼玉は薄皮が剥がれるように縮んでいった。異形は自身の力が及ぶ領域を必死に維持しようとするが、銃弾の衝撃は崩壊寸前の鉄とコンクリートにとって致命的だった。 削るように、磨くように。  鋼玉は小さくなる。命中しなくとも衝撃波が球体を削る。 「後は任せたわ」  宙に浮かぶ一握りの砂球を睨み、サホは己の仕事を終えた。5メートルを越え松林を蹂躙した鋼玉は見る陰もなく、砂玉はいかなる魔力の働きか宙に浮かんでいる。 「焔雀」  ベルが再び呼びかければ炎の猛禽は姿を変え、硬質の柄が左の手甲上に現れる。これを引き抜けば焔雀は炎をかたどる真紅の直剣と化し、ベルは剣の切っ先を砂玉に突き立てた。 「奥義・緋炎凰爪撃!」  叫ぶや剣は白色の火柱を吹き出し、砂玉と化した異形を飲み込んだ。火柱は砂玉を飲み込む程度の大きさだったがまばゆい白色の輝きを放ち、その一瞬後には剣と共に消滅していた。砂玉は無垢の硝子玉となり、術式の刻まれた硝子の内部には鋼玉を構成していた異形が封じ込められている。 「……これなら文句ないでしょ」  硝子玉を拾い、振り返るベル。 「?」  後ろにいた連中は、警察から三課職員から神楽査察官の配下に至るまでひっくり返っていた。ジンライは力なく笑い、サホは腰を抜かしつつも肩を震わせている。 「なんかあったの、サホ?」 「恥ずかしい名前の技を叫びながら使うんじゃなぁぁぁぁぁいっ!」  おそらくその場にいた全員の心の叫びを込めて、サホは会心のかかと落しをベルの後頭部に叩き込んだ。  夜が明けるまでの短い時間を睡眠に廻し、染み付いた様々な匂いを石鹸で洗い落とす。  恐れていた瘴気の流入もなく、疲労もない。犬上の街に移り住んでからは、こういう日が多いのだ。自分からそれを望んでいたし、既にこの生活にも慣れてしまった。 (早く義務教育終わらないかな)  中高一貫校とはいえ、学校の生活にそれほどの興味はない。  術師として身を立てることを決めていたし、それだけの実力もある。今は事情があって三課に身を寄せているが、ゆくゆくは故郷のスコットランドに帰還するのもいい。  日本への未練はあまりない。  あったとしても、それは奪って持って行けばいいのだ。 (師匠は現場から『北』の特異点都市に直行か)  日本でありながら日本ではない、世界でも有数の特異点都市に影法師は一時的に出向した。沙穂の身柄を確保しようとして失敗した神楽査察官が、八つ当たり気味に影法師を危険地域に送り込んだのだ。並の術師ならば半日も耐えられないだろうが、影法師ならば大した脅威にもならないだろう。元より北の特異点都市とは縁も深いし知人も多いという、かえって修業になるのではないかとベルは考えている。  土産話が楽しみだ。  ひょっとしたら、少しばかり気を利かせた土産の品も貰えるかもしれない。自分は従順な弟子ではないが、無能者でもない。影法師の補佐くらいはできるとの自負もある。少なくとも三課の犬上支局は認めてくれている。  後は本人にいかに認めてもらうかだ。  そのためには、学校に通う時間が惜しい。師匠の言葉がなければ、登校拒否を口実に街中を駆け回って働きたいのだ。  そんなことを考えながら、ベルは朝食を摂るべくリビングに顔を出す。  すると。 「……ベルちゃんは本当は素直で優しい娘なんだ。人見知りするところがあるけど、あの娘の友達になって欲しいんだ」  ホストクラブが総力を挙げても引き分けに持ち込めるかどうかという男前な家主、村上深雪が女子中学生と思しき少女の手を握り甘い声で囁いている。囁かれた少女は頭のてっぺんまで真っ赤になっており、間近に囁かれる頃には視線が宙を泳ぐ有様。 「お願い、聞いてくれるかな」 「ま、まかせてくらさい……おねぇさま」  蕩けるような表情でがくがく何度も頷く少女の顔に見覚えがある。 (森崎、蛍さん?)  昨夜成り行きとはいえ妖魔から助け出した同級生だ。ベルを嫌って排除しようとしていた彼女が自分の下宿先に来た事に、彼女は少しばかり驚いた。  どうして。  何のために。  しばし黙考しても、的確な答えは導き出されない。とはいえ、朝食の時間は限られている。 (まあ、そういう日もあるわよね)  それほど深刻なことを考えず。  ベル七枝にとっていつものような一日が始まった。