第十一話 犬神使い桐山沙穂の事件簿  桐山沙穂が朝起きると、となりで大狼ジンライが人間形態で潜り込んで眠っていた。  それはもう幸せそうに。  犬の耳と尻尾を出し、ふさふさの尻尾はぱたぱたと揺れている。沙穂の下半身に絡みつくように足を引っ掛けて眠っているのに重さを感じないのは、人間形態時のジンライが非常に小柄な少年だからだ。  天使のような寝顔は、見るものの心を奪うだろう。その右手が沙穂の胸元でわきわきと動き『う〜ん、ぺったんこ〜』とうめかなければ、あるいはロマンスのひとつも生まれたかもしれない。ベッドからジンライを蹴落としながら、沙穂は残念そうにそう思った。  そういえば両親は昨日から出かけていた。  姉は、既に会社に出かけている。  低血圧である妹への情けとばかり、テーブルの上には安物のシリアルがスープ皿に盛られてスプーンが差してある。隣の小鉢にはサラダ代わりの胡瓜とゆで卵ふたつ。家庭菜園で育てたと思しき胡瓜はヘチマのように雄雄しくいきりたち、その両脇に小振りの卵がある。 「……」 『個性的な朝食でござるな』  何事も無かったようについてきたジンライの頭をスリッパで叩き、冷蔵庫の牛乳を取り出そうとする。姉の悪趣味な悪戯には慣れていたが、今朝のはタイミングが悪すぎた。 『廃都ボンベイをはじめ、世界各地に共通して伝わるものの中に男根崇拝というのがあ』 「黙ってなさい」  冷蔵庫を開けたまま振り返りもせず、ドスの聞いた低い声がジンライの身体を貫く。  並大抵ではない殺意を含んだそれにジンライは直立し、そのままの姿勢で硬直した。彼女を主と認定した以上、その言葉は絶対に近い。 「グルメじゃないけど、食事は楽しみたい方ね。下品な話題はマナー違反だと思うの」 『では上品な話題と提案を』  ジンライは笑顔で即答し、籐製のバスケットをテーブルに置く。どこから取り出したのかもわからないそれだが、中身を見て沙穂は息を呑んだ。自家製のクロワッサンにたっぷりの生ハムと香草をはさんだ上等のサンドイッチ、形を崩さず甘く煮た木苺を添えた自家製ヨーグルト、金属製の水筒からガラスの器に注がれるのは生ハーブを水で抽出したアイスティーだ。  味気ないシリアルなど、話にならない。 「……素敵な朝食ね」 『あ、これは我のでして』  伸びてきた沙穂の手をべしっと叩く、笑顔のジンライ。羨ましそうな恨めしそうな沙穂の視線を涼しく受け流し、冷えた薬茶の香を楽しみバスケットを閉じる。 『他人の食事に手を出すのはマナー違反と学びました』 「うう」 『とはいうものの、この朝食こそ沙穂殿への提案に深く関わるものでして』  シリアル用のスプーンをがじがじとかじっていた沙穂は、ジンライの提案を拒めないことを自覚し、子犬のように唸るしかなかった。 『まあ大した提案ではないんですよ』  すっかり空となったバスケットを感心しながら虚空へと消し、ジンライは日差しの強い犬上の市街地を歩いていた。杉原ミチルとして学校に潜り込んでいる少年の姿であり、しっかりと学生服まで着込んでいる。 『沙穂殿は今や犬神使いですから、それなりの仕事をしていただこうと思いまして』 「――仕事、ねえ」  涼感を呼ぶハーブティーの余韻に浸っていた沙穂は、仕事という二文字に不吉なものを感じつつジンライの後を追う。寝坊気味とはいえ部活の自主練までは一時間あまりの余裕がある。今までなら少し遠回りして村上文彦の家近くまで足を伸ばしていたりしたのだが、ジンライが一緒では無理な話だ。 「でもジンライくんって、基本的に私の護衛なのよね」 『御意』  沙穂殿の誘魔体質はかなり深刻ですので、影法師様の片腕とまで称された自分が派遣されたのです。えへんとジンライは自慢そうに胸を張る。 『とはいえ護られっぱなしというのは面白くないでしょうから、ひとつバイオレンスでエロチックな事件に飛び込んではいかがですか』 「地味でいいから村上くんと恋仲になれるような事件がいいわ」 『じゃあ、やっぱりエロスな事件の方がいいですね』  よしよしと一人納得したジンライは振り返ると沙穂の手を握り、共に虚空へと姿を消した。  そこは物に溢れた部屋だった。  二十畳ほどの、板張りの部屋だ。窓も扉も見当たらず、エアコンの規則的な音だけが耳に届く。温度と湿度の管理には気を遣っているのだろうが、部屋の主は随分の間ここを訪れていないらしい――靴下に引っかかる埃の玉に桐山沙穂は顔をしかめた。 「喘息のコには案内できない場所ね」  調度品に触れようもせず、呟く。埃が積もっていたし、迂闊に触れて良いのか判断に困る品ばかりだからだ。  大小さまざまの刀、槍、金属棒。忠臣蔵を敵味方の分を揃えてまだおつりの出る、凶悪なる道具の数々。ゴルフクラブやスキーの板のように、一見無造作ながら用途と種類に応じて整理された武具は滑稽でさえある。モデルガンと認識するにはあまりにも精巧で、しかし現代日本に存在するはずのない銃火器も沢山揃っている。  和洋中華の武具という武具が集められているのかもしれない。 (何のために?)  沙穂はこの部屋に至って二つの疑問を抱いた。  一つは、この部屋を用意して凶器を持ち込んだ人間の正気を。もう一つは、この正気を疑いたくなるような部屋に自分を案内した大狼ジンライの目的をだ。とはいえ沙穂も無意味に質問を繰り返すほどおろかな娘ではない、沙穂なりに自分の立場から状況を推測しようとした。 「ここは、影法師って人の武器庫」  率直な感想に見せかけた推測を口にする。返事はない。  ジンライ少年は、部屋の片隅に積み重ねられていた幾つもの箱を注意深く動かしながら何かを探している。尻尾が規則的に揺れていることから、彼が乗り気で作業しているのは間違いないのだが。 「……」  せめて間違っているのなら、そうだと言ってほしいものだ。 「ジンライくーん?」  やはり返事が来ない。  埃を払って適当に用意された椅子に腰を下ろし、珍しくも憮然とした顔になる。 「私に術師としての仕事をさせるんじゃなかったのかしら」 『もちろんです沙穂殿』  ひょいと顔を上げたジンライが、ようやく沙穂に向き直った。手にはそれほど大きくはない、桧の白木を組み合わせた薄平たい箱がある。ちょっと高価な陶器の皿を収めているようなそれは、迂闊に蓋が開かないように厚めの和紙帯で幾重にも封が施され、その上に短冊の如き呪符が貼り付けられている。  どう好意的に解釈しても、これは菓子折りではない。 『これ、片付けましょう』  ジンライがにこやかな笑みで差し出す桧箱、蓋に貼った呪符にはあまり見たくない文字が記入されていた。 「封……印?」 『はい』笑顔を絶やさぬジンライ『影法師様が忙しくて処理しきれない、魔物の封印です』  ここに保管されているのは危険度の低いやつばかりなんで、沙穂殿でも大丈夫ですよ。  ジンライの説明は一方的かつ呑気だ。素質を高く評価しているのかもしれないが、自覚がない以上はプレッシャーにしかならない。  何が大丈夫なのだろう。  ふるふると首を振って拒絶の意思を即座に示す。 「私、バケモノの倒し方知らない」 『犬神使いなら本能的に理解しているから大丈夫でござる』  まずは実践あるのみ。  やはりジンライは沙穂の言葉に耳を貸そうとはしない。呑気な台詞と共に、ジンライ少年は桧箱の封を解いた。べりべりと横二つに裂いた呪符は薄暗がりの中で漆黒の塵と化し、和紙の帯もまた消える。  現象はそれだけだった。  箱は吹き飛ばなかったし、怪しげな光や音が聞こえてくることもない。 (あんまり怖くないのかも)  そもそも封じられた魔物というのは相当弱っているのだろう。必要以上に警戒して怯えていたことが馬鹿馬鹿しくなり、沙穂は立ち上がる。影法師とやらが後回しにしていたということは、所詮その程度ということではないか。 「なによ、拍子抜けじゃない」  すっかり安心した沙穂は何も考えずに蓋を開き、 『あ』  その隙を逃さず待ち構えていた異形に憑依されてしまった。  術師の仕事は魔物を倒すだけではない。  素養ある者の育成、有名無実に等しいとはいえ規律を破った術師の拘束・懲罰、不完全な封印の補強、被害者の治療、文献や資料の整理等等。術師は異形への対抗力を持つ人材であり、同時に魔術という得意技能の保持者でもあるのだ。機械では代用できない作業がある以上、術師はそれらの作業に従事する必要がある。  慢性的な術不足の一因は、そういう部分にもあるのだ。 「なんだこりゃ」  犬上市駅前の三課事務局。  影法師の異名をもって知られる村上文彦は、彼以外には処理しようのない幾つもの案件を片付けた後に一枚の書類を見つけた。既に支局長の判も押されたそれは、新人術師研修用の特別訓練を許可したものだった。  書類自体は正式なもので、書式にもミスはない。特定個人を教授する特別訓練は頻繁に行われているし、三課でも推奨されている。文彦が声を発したのは、そこに書かれた内容を目にしたからだった。  訓練対象として記入されたのは桐山沙穂であり、訓練の監督者は文彦その人だ。 「なんだこりゃ」  もう一度、文彦は素っ頓狂な声を上げた。そんな間抜けな声を聞くのは珍しいのだろう、隣で端末を操作していた女性職員が件の書類を一瞥する。 「委員長の処遇は、保護観察だろ」  数日前に支局の会議で決定した事項を確認し、文彦と職員は顔を合わせて頷いた。他の職員も二人の様子に気付いたのか、文彦のデスクに集まり始める。 「偽造か?」 「ジンライ君が持って来た申請書だろ、それ」  書類を受理した男性職員が、安物の缶コーヒーを空にしながら答える。沙穂に仕えているとはいえ大狼ジンライの管理責任は文彦にあり、影法師の使い魔として活躍していたジンライはフリーパスで三課に立ち入ることができる。文彦の用件を伝えに訪れることも多く、男性職員は特に疑問を抱くこともなく書類を通したという。 「桐山さんの保護観察は村上君の担当だし、護身術を教える程度なら問題ないでしょ」  含んだ笑みで「そろそろ決めたらどうだい」と呟く男性職員。  その顔面に拳を叩きこむ文彦。  鼻血と唾液を噴き出し仰向けに倒れる男性職員。 「ジンライからの連絡は受けてねえ」  職員の半分、主に女性が息を呑む。 「……現地活動員から報告。桐山沙穂の居場所をロストしたそうです」  辛うじて冷静に行動できた職員の一人が、それはもう済まなさそうに告げる。  文彦はまったく表情を変えず立ち上がろうとスチール製の机に手を乗せ、加減を忘れた力で押し潰してしまう。  どうしようもないほどの沈黙。  スクラップと化したスチール机を見下ろし、それから文彦は初めて己が動揺しているのに気付いたのか顔をしかめた。 「でもほら、おれは委員長の保護者じゃねえし」 「護衛の責任者でしょ」  残り半分、つまり男性職員のほとんどが総勢で突っ込む。  市内某所で爆発が確認されたのは、その直後だった。  憑依という現象はそれほど珍しくはない。  実体を形成するほどの力を持たない異形が行動するとき、彼らは宿主となる器物人物を支配する。その機構は解明されていないが、対処法は確立されて久しい。人体レベルでの憑依現象は、三課で定める初期訓練でも扱う程度の脅威なのだ。 『――しくじったか!』  桐山沙穂の身体に融合を試みた異形は、憑依の途中で自身の失策を理解した。  異形や魔力を引き付けやすい体質の沙穂は、護衛を連れている。影使いたる村上文彦が派遣した大狼ジンライは電撃を操るため、遠近を問わず沙穂の敵を討つことが可能。ジンライの実力を察知した異形は電撃を避けるべく沙穂の身体に潜り込もうとしたが、それは彼女を護衛する側にとっては予測の範疇だった。  凛。  鈴にも似た固く澄んだ音に、沙穂は意識を取り戻した。  細胞の一つ一つに何かが染み込む不快感が、彼女の神経を極限までに増幅させる。感覚が押し寄せるというのに、脳から送られる信号は指一つさえ動かすことができなかった。自らの身に起こった事を認識するまで要したのは一秒にも満たぬほどの短いものだろうが、絶望を味わうには十分すぎる時間だった。  自分が何物かに支配されることへの嫌悪感。  政治力や経済力あるいは単純な暴力によって屈服するのではない、生命の本質を冒涜するような存在に支配されようとしているのだ。  嫌だ。  しばらく前にも抱いたことのある感覚が、沙穂の内側に生まれた。嫌悪感を凌駕する、生への欲求。それが異形に憑依され硬直していた身体を衝き動かす。 「五法封環!」  無意識に沙穂は叫んだ。  咽より出る単語に聞き覚えはなく、右手の指が描く複雑な動きにも記憶はない。しかし武闘家さえ驚くであろう完璧な呼気吸気の結果、身中に気が生じ極限まで練り上げられる。気合をもって発した言葉は意味を持ち、細胞の内部に染み込むのではないかと錯覚するほどだった異形を一気に追い出した。  異形だけではない。  練り上げた気もろとも放ったのだ、気は衝撃を生み出し爆発的な力が狭い室内を駆け巡る。暴風などという表現は足りぬ、文字通りの爆発が部屋の天井を吹き飛ばした。  轟音。  床に積もった埃が、無造作に置かれた禍々しい道具が、衝撃波に飲み込まれる。決して手抜き工事ではない建物の天井が屋根ごと吹き飛ぶというのは尋常なる破壊力ではない。道具も爆薬も用いず起したというのであれば、それは正しく魔術のみ為せる業だ。 『沙穂殿!』  天井もろとも上空に吹き飛ばされたジンライが驚きの声を上げた。  爆発の中心にいた沙穂は怪我も火傷も負っていなかったが、高校の制服は半ば炭と化していた。化繊の入った制服が崩れ落ちれば、光沢のない黒褐色の布地が露出する。 (違う、これは布じゃない)  肌に密着するそれを、首から下の全身を覆うウェットスーツの如きそれを眺めながら沙穂は理解する。ストッキングの布地より薄い感触でありながら、それは爆発の一切の衝撃と熱を防いだのだ。身体のラインをくっきりとさせるそれは見方によってはとても卑猥だが、ジンライが駆け寄る前に沙穂の足下より無数の黒い帯布が沙穂の身体各所に巻き付いて即席の法衣を作り出す。  布は、凝集した影だったのだ。  沙穂は無意識の内にその事実を認識し、納得した。それが当たり前であるかのように受け止め、次に己がなすべきことを理解していた。 『沙穂殿、無事でありましたかっ』 「ジンライくん! 十一時の方向、仰角四十二度で暁星哮!」  一瞬の指示。聞いたこともない単語を平然と沙穂は口にして、反射的にジンライ少年は雷の息を指示された方向に噴き出した。直線状に進む雷ではなく光弾に近しいそれは虚空を撃ち抜き、爆風と共に放り出され姿を消していた異形を直撃した。  球状の雷撃は犬上市上空の広範囲を飲み込むように炸裂した。  暁星哮。  名をつけたのは大狼ジンライの支配者、影使い村上文彦だ。破裂するだけの雷撃にしては大げさな上に恥ずかしい名前だから、これを考えた文彦でさえ滅多に口にしない。ジンライもあまりかっこいい名前ではないと思っていたので口に出すことなく雷撃を使い分ける、そのため同業者でさえジンライの放つ雷の技に名があると知る者は少ないはずだ。 『沙穂殿?』  ジンライの嗅覚は目の前にいる少女が桐山沙穂その人だと示している。汗の匂い血の匂い、それに女性独特の体臭。ホルモンバランスや体温の変化でさえ微妙に変わるそれらの匂いをジンライは嗅ぎ分けることが可能だ。体臭だけではない、異形の源となる瘴気もジンライは嗅覚として捉える。霊気が濃密に存在する犬上市にあってジンライは憑依された人間を確実に判別できる。  その嗅覚は、沙穂が間違いなく本物だと告げていた。練り上げた気が彼女の身体を活性化させ乳質の匂いを汗に混じらせているが、それでも彼女は桐山沙穂本人だと言えた。僅か数時間前に彼女のベッドに潜り込み嗅ぎ取った匂いが残っているからだ。  己の鼻が導いた仮説をジンライは結論としなかった。嗅覚では捉えきれない何かが沙穂の身に起きているのも感じているのだ。嗅覚を越える直感が、目の前の沙穂が尋常ではないと告げている。沙穂が暁星哮の名を知っているはずがない。何より彼女の身体を覆っている漆黒の衣は、影使いにしか生み出せない代物だ。 『――まさか、文彦様?』  驚愕し、ついで仮説を脳裏に思い浮かべてうげぇと気持ち悪そうに顔をしかめる。 『あ、あのですねっ。ぼくは決して沙穂殿にセクハラし放題でついでに既成事実をでっち上げようとか、沙穂殿の救いようのないほどぺったんこな胸を揉みしだくことで僅かでも膨らませようとか、沙穂殿が後々文彦様と交わる時に苦しい思いをしないように隙あらば前と後ろの貫通式を済ませようだなんてこれっぽっちも』 「えい」  狼狽して意味不明の言い訳を始めるジンライの眉間にコンクリートの塊を叩きつけて微笑む沙穂。 「最初に断っておくけど、あたしは文彦くんじゃない」 『はうあうあうあうあうっ』 「狙いどころは悪くなかったんだけどね」  額を押さえて転げまわるジンライ。  しばらくの間転げていたジンライが両手で額を押さえて恨めしそうに顔を上げれば、沙穂は悪戯っぽく微笑む。普段の沙穂には感じられない小悪魔的な陽気さと自信が、その表情から窺える。そのことがますますジンライを混乱させた。 「あたしはジンライくんの使い方を知っているし、文彦くんの術もある程度使える」  いい加減事情を説明しないといけないと考えたのだろう、沙穂であって沙穂ではない娘は瓦礫の中から様々な封印を掘り出しながら説明を始める。手足の動かし方や仕草は沙穂のものと変わらない。異形が憑依すれば、その人の癖や言動も変わる事が多い。だが目の前の沙穂に関して言えば、人間を超越する鋭い感覚を持つジンライでも差異を見出せなかった。 『我が目には沙穂殿と全く同じにしか見えません』 「そりゃそうよ、あたしだって桐山沙穂だもの」  と沙穂は偉そうに胸を張った。  ジンライの困惑は頂点に達し、そのままひっくり返ってしまった。  現場に三課所属の術師や職員が駆けつけたのは、爆発から十分後のことだった。  逃げ出した異形は一体のみ、それさえ既にジンライの雷で消滅したことも判明している。彼らの目的は破損された施設から各種封印を運び出すことと、現場に残っている沙穂から事情を聴く事だ。 「……あのー」  三十代前半の男性職員が、おそるおそる声をかけた。破片は全て吹き飛び埃は消え、異形たちを封印した器物もまとめられている。 「これは」「どういうことだ」「はてさて」  彼らの前にはジンライ少年がただ一人いた。猿ぐつわをかまされ服の上から亀甲紋様に縛られており、逆海老状態で床に転がされていた。 『もがー、もがー!』  ジンライ少年は何かを必死に訴えていたのだが、異形が暴れている訳でもないので職員達は封印の回収を優先させることにした。  気がつくと沙穂は部活を終えて帰宅の途についていた。  時刻は午後二時を過ぎ、財布の中身は五百円分軽くなっている。胃袋は心なしか満たされ、ちょっと疲れてもいる。部活の友人たちと今日の練習について話し合っている最中だったから、彼女はその違和感に気付くのにしばらくの時間を要した。 「五小節分を息継ぎ無しで吹くには、も少し練習が必要よね」  もっともだと相槌を打ってから、沙穂は凍りついた。  ほんの数分前まで彼女はジンライ少年と異形退治の話をしていたのではないのか? 簡単な仕事だからとバケモノがたくさん封じられた汚い部屋に連れられて――。 (封を解かれたバケモノに憑かれそうになって、あたしが片付けた)  声が聞こえた。  頭蓋の内側と、ごく近い場所から聞こえてくる声だ。それは友人たちには聞こえないのか、彼女たちは不思議そうな顔で沙穂を見ている。動揺を悟られぬよう彼女は首を振り、暑さと疲労で立ちくらみしたのだと言い訳して友人たちに追いついた。 (……誰なの) (鏡を見ればいい)  再び声。学生鞄から小さな鏡を取り出して視線を落とせば、鏡面に映る沙穂が悪戯っぽく笑っている。悲鳴を上げそうになって表情を強張らせても、鏡面に映る沙穂は相変わらず笑っている。 (あたしは「サホ」、あんたを護るのがあたしの仕事。だから求めれば手を貸すし、求めなくても力を貸す)  鏡の中のサホは、そう言ってウィンクした。不器用な沙穂では苦手な仕草である。  これもまたジンライと同じく影法師とやらの仕業だろうかと考えると、サホはやれやれと肩をすくめた。 (外れちゃいないけど、あたしは元はあんたそのものだったんだ。そう邪険に扱わないで欲しいね)  ニヤリと笑うとサホは再び沙穂の意識を奪う。  以来沙穂は事あるごとに原因不明の意識不明に陥り、身に覚えのないトラブルや人間関係に巻き込まれることになる。  彼女は、ほんの少し前までは桐山沙穂と呼ばれていた。  自分でもそうだと思っていたし、その通りだった。地味で平凡だが安定した生活を送っていた彼女にとって人生の転機が訪れたのは、同級生を見舞うべく夜道を歩いた時だ。彼女は暗闇の中でこの世ならざるバケモノに襲われ、この世ならざる力によって助かった。  その過程で、知らなくていい事と、知ったところで一文の得にもならない事を知った。いや、知らされたのだ。  或いはそこで引き返せば普通の生き方も十分に可能だった、かもしれない。  嗚呼。  彼女は不幸だった。この世ならざる力で彼女を救い出したのは、彼女の同級生だったのだ。童顔で背が低く喧嘩っ早い少年。彼は尋常ならざる術師であり、出席日数が微妙な割に適度な成績を修める不可解な高校生であり、彼女の思い人なのだ。  やはり彼女は引き返すべきだった。  しかし哀しいかな、彼女は経験が乏しかった。ママゴトのような恋愛感情で夜も眠れぬほどウブで、追い詰められると見境のない行動に出るほど大胆だった。彼女は同級生の少年のことが好きで好きで好きで好きで、それが作られた想いだと気付かなかった。  いつの間にか彼女の中の何かがバケモノになっていた。同級生の少年は「桐山沙穂」という少女を救うために、桐山沙穂の中にあるバケモノを切り離した。  彼女は、そのバケモノだったのだ。桐山沙穂としての記憶、同級生である少年への想い、莫大な魔力、それが彼女を構成する全てだった。彼女は驚き、嘆き、自分がもはや桐山沙穂ではないことを悲しんだ。彼女は力の大部分を少年に奪われ、絞りカスとなってしまった。 「直接本体に戻せねえから、窮余の策として影に人格を移植したんじゃないか」  日付が変わって数時間の後、誰もいない店舗のカウンターに腰掛けた村上文彦が嘆息まじりに呟いた。 「二重人格気味になったのは」  重要な事なのだと村上文彦は主張した。  隣では、先刻まで文句と抗議と泣き言を繰り返し文彦に拳骨を喰らったジンライ少年がおり、その反対側には眠い顔のルディが様々な道具をカウンターに並べている。プラスチックを多用した小型の自動拳銃と弾倉、硬陶製の大型ナイフ、どう見ても他人を殺傷する以外に使い道のない数々の器具。そして、それとは対照的な前時代的なオカルト用品。魔力を有しているという理由で集められた、宗教や時代背景がまるで合致しない道具だ。 「表の委員長が犬神使いとしてひとり立ちできれば、影の人格とも融合できる。ジンライを委員長の護衛につけたのは、そういう理由もあった」  チタン製のアタッシュケースにそれらの道具を詰め込んで、他人事のように話す文彦。整然と、使いやすいように並べられたそれらの道具は、術師が活動する上で必要となるものだった。無論簡単に入手できるようなものではなく、影法師である文彦だからこそ揃えられた物も少なくない。 「……正直、これほど早く影の人格が表に出てくるとは思わなかった」  警察に職務質問されれば確実に言い逃れできないアタッシュケースを閉じ、息を吐くと共に肩を落とす文彦。  彼としても、それなりの予定を立てていたのだ。それがジンライ少年の暴走に近い独断で御破算となり、予測外の事態に振り回されている。ルディはばつが悪そうな、しかし文彦を気遣うような態度ではあるが、言葉に出すことはできない。ジンライもまた文彦がこれほど悩むのかと驚いてさえいる。 『文彦様、ごめんなさい。ちょっとはしゃぎ過ぎました』  頭を下げ、ジンライはぼろぼろと涙をこぼす。ジンライにとって沙穂は大事な人だが、文彦もそれに負けぬほど大切な存在なのだ。 『でも、あのサホって人格は酷すぎやしませんか?』 「あれは委員長の過激な部分を寄せ集めたようなやつだから」  加減という言葉とは無縁だろうな。  文彦はずしりと思いアタッシュケースの上に、どこかのアパートのものらしき鍵と、薄っぺらい茶封筒を置く。 「三課は桐山サホを影使いとして登録することを決めた。活動拠点となる住居の鍵と、依頼を果たすことで振り込まれる仕事料の振込み先となる口座だ」  本人に届けろと命じ、文彦はそのまま自室に戻る。ジンライはしばらくの間文彦の背中を追っていたが、ルディに肩を叩かれて意を決すると諸々の荷物を抱えて姿を消した。 『というわけで、昨日破壊した建物ならびに封印器物の弁償および再封印に関する諸経費が口座の額をマイナスにしているそうです』  なんとも申し訳無さそうに頭を下げるジンライ。  サホはというと、口座のマイナス桁が六つを越え七つ目に突入してもゼロが並ぶ現実に硬直し、唖然とした。 「な、なによこれ!」 『具体的に言うと借金です、利子はないみたいですから頑張って返しましょう』 「都内に一戸建て買えるわよ、この額!」  そりゃあビル一個倒壊しかけて封印を相当数駄目にしたわけですから。  これくらい安い方ですよ、と慰めにもならない言葉をかけるジンライ。薄れゆく意識の中、サホはふと「数億円かけてデビューした割にシングル数枚出して即引退のアイドル」を輩出した事務所ってこんな気分なのかしらと、どうしようもないことを考えたという。