第九話 夢幻境より  桐山沙穂は悩んでいた。  悩むのは若人の特権だと誰かが言っていた。北区の合コン女王と呼ばれた姉だったか、それとも岐阜に出張中の父の言葉だったのか、そこまでは思い出せない。  沙穂は悩んでいた。  それは最適の回答を導き出せないもどかしさであり、これまでの人生で体験したことのない現実に直面しているが故の苦しみだった。 「ぼく、桐山先輩のこと好きですよ?」  隣を歩いていた線の細い少年が恥ずかしそうに告白したのは、今から二十六秒前だった。  その少年が吹奏楽部の一年生で、フルートを演奏していることを思い出すのに五秒を要した。  木管楽器の合同練習で隣の席に座り、午前中一緒に練習していたのを思い出すのに要したのは三秒。  練習が終わって相談に乗って欲しいと話しかけられたのを思い出すのに要したのは六秒。  馴染みの楽器屋に行く途中、唐突に告白されたことを思い出すのに要したのは十二秒だった。 「その、迷惑だったらごめんなさい。でもっ。入部した時から、ずっと先輩のこと見てたんです」  少年は顔を真っ赤にしてうつむいている。彼は学生服姿でなければ女の子と間違われるような可愛い容姿で、吹奏楽部女子の間でも人気が高い。  声変わりしたとは信じ難いボーイソプラノが、震える。  少年の名前は、混乱していてまだ思い出せない。 (磯倉じゃなくて楓じゃなくて、ええと……確か) 「ね、ねえ杉原くん」 「はい」  とりあえず思い出した名前は間違っていなかった。  沙穂は少しだけ安堵し、名を呼ばれた杉原ミチルは嬉しそうに沙穂を見る。直視するのが痛々しいくらい、真っ直ぐな眼差し。その種の嗜好を持っていなくても、たとえ男でも、心が揺れるほどだ。 「私なんかより可愛いコとか綺麗なコっていっぱいいると思うよ。ほら、私ってば眼鏡かけてるし、髪形とかあまり気にしないし……身体の起伏とかほとんどないし、うううう」 「せ、先輩っ!?」 「ご、ごめんね。私ってば自分の事を自分で言ってて傷ついちゃった」  人それを自爆という。  おそらく自分の人生で、これほど情熱的に異性に求められた記憶は沙穂にはない。幸か不幸か、沙穂はそれを把握するだけの理性を取り戻していた。  各種学校行事、即席カップルが量産される不可思議なる青春フィールドの中でさえ言い寄る男がなかった沙穂である。  その素地が間違いなく美人だったとは言え、同年代の娘ほど御洒落に気を遣わなかった沙穂である。  文彦への思慕を自覚する辺りから「綺麗になった」と親友の柄口鳴美にも評価されていた沙穂だが、ここまではっきりと異性に求められた記憶はない。  そう。  人生始まって以来の「モテ期」に突入したのかもしれないと、沙穂は狼狽するのだった。 「というわけで、桐山さんは遂に新しい恋に生きることを決心した模様です」  他人事だからか、ぼそぼそ淡々と畠山智幸は呟いた。磨き上げられ飯粒のついたスプーンをマイクに見立て、ひしゃげた顔がますます不景気な表情に歪むのも構わず喋りだす。 「えー、当方としましては一学期末にあれほど積極的に村上君にアプローチした桐山さんの、あまりの変心ぶりに動揺を隠せないところですが」  そこは村上家の実家たるカレー屋の客席で、六人ほど座れるテーブルに犬上北高校の同級生達が座っていた。いずれも畠山に負けず劣らず不景気な顔である。 「堅実な愛を選んだ桐山さんと、どうしようもないヘタレの誰かさんに  」 「乾杯」  ぬるくなった水の入ったコップを小さく持ち上げ形式上の乾杯をすると、彼らは瞑目し肩を落とす。体格差に関係なく綺麗に揃った動きは見ていて不気味極まりなく、他の席に座っていた客たちは何事かと振り向いてしまう。  しばらくの間、高校生たちは沈黙したままカレーを食べていた。 「存外につまらん結末だったな」  最初に口を開いたのは伊井田晋也だ。半分ほど平らげたカレーの皿を見つめたまま、感情のこもらない声で言った。 「誰かさんがヘタレでしたからね」 「沙穂ちんも見捨てるわけよ」 「……村上を弁護する奴いねえのか」  会話が止まる。  着席した六名の視線は、自然とカウンターへと向けられた。店を切り盛りしているのは文彦の母、深雪だ。彼女は相変わらず並みのホストでは太刀打ちできないような色男ぶりを発揮し、大勢の客を捌いている。仕草の一つ一つに女性を悩殺する色気があり、カウンター席は女学生やOLで占められていた。 「そういえば村上の姿が見えないな」 「そりゃあ」  一足早く食べ終えていた仲森浩之は、入り口に近い小さなテーブルを肩越しに指差した。  二人用の小さな席には、話題の主がいた。つまり想い人との会食に緊張している杉原少年と、畠山たちの視線などが突き刺さり引きつった笑顔の沙穂である。 「どーして顔をあわせられようか」 「然り然り」  頷き、晋也は食事を再開した。 (ああああああっ、絶っっ対に誤解されている)  沙穂としては杉原少年と付き合うとは決めていない。決められるはずもない。  それが沙穂という人間の性である。基本的に真面目で、誠実であり、そして異性に情熱的に求められた経験を持たない。男性に対して積極的になったのは村上文彦相手が最初だし、最近うまくいっていないのも不幸な偶然が重なっただけだと考えている。  捨てるとか乗り換えるとか、そういう発想さえ思いつかない。  無論、両天秤とか二股という認識も。 (鳴美も相談に乗ってくれないから、村上くんを頼ろうと思ったのに)  その時点で致命的なミスを犯している事に気付かず、沙穂は杉原少年を連れて文彦の店を訪れた。ウェイトレスとして働いていたインド風少女ルディは抱えていたお盆を落とし、深雪も一瞬だけ固まった。二人は何も言わず沙穂達を、誰にも邪魔されないカップル用の席へと案内してそのまま作業を続けた。 (なんか……話をしようにも、何を言えばいいのかしら)  文彦相手の時と同じように会話をすればいいのか。  それとも、吹奏楽部の先輩として振舞えばいいのか。  杉原少年は自分に何を求めているのか。 「あの、桐山先輩」 「は、はいぃっ?」  悩んでいる沙穂の様子に不安を覚えたのだろう、杉原少年はやや上目遣いに沙穂を見る。 「  やっぱり、迷惑だったんでしょうか」 「そっ、そんなことないわよっ。うん、たぶんそういう風に考えると人生楽しめないわよっ!?」 「じゃあ、ぼくとお付き合いしてもらえますか?」  数秒、沈黙する。 「……迷惑、だったんですね」  杉原少年の目に涙が浮かぶ。  今にも泣き出しそうな顔に、こっちが泣き出したいと心中で叫ぶ沙穂だった。  そこは、二十一世紀という時代を考えれば随分と時代錯誤な住居だった。  よく言えば職人気質の仕事ぶり、そうでなければ古臭さを感じさせる日本家屋である。瓦の位置をきっちりと揃え、黒塗りの板塀より越えて覗く黒松は枝葉の隅々に至るまで手入れが行き届いている。門をくぐり玄関に至るまでに敷き詰められた玉砂利は白く磨き上げられ、大きさも均一である。  表札には、桧の板に金泥と黒漆であしらった「音原組」の三文字。それさえも塀や門との調和を考え、華美にならないよう最大の配慮がなされているのだと理解できた。その出自と住人の性質を無視すれば重要文化財に指定されても不思議ではない、趣味の良い建物である。 「……」  水墨画の掛け軸が飾られた、だだっ広い床の間。  その奥に村上文彦はいた。かけるべき言葉を失い、頭痛に苦しむかのようにこめかみに指を当てている。目の前には、文彦を呼び出した「怪異」の被害者が布団に伏せている。 「オヤジぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」  若頭と思しき中年の、およそ繊細という言葉と数光年ほどかけ離れた男が叫ぶ。すがるようにしがみつく布団にて眠るのは、犬上にその人ありとまで謳われた、最後の任侠ともいうべき漢だった。 「しっかりしてくれぇ、オヤジぃ!」「おやっさん!」「しなねえで下せえ、ヨネタケのオヤジ!」  軟弱という言葉など進化の過程で棄てて来たような、屈強な男たちも若頭の後に続いて叫ぶ。漢泣きとの表現がこれほど似合う集団も他にあるまいと、文彦は口に出さずに感心した。 (濃いというか)  生まれてくる時代を確実に一世紀以上間違えた集団は、彼らがオヤジと慕い「組」の看板でもある長が眠る布団を囲んでいた。  強気を挫き弱きを助ける。  今となっては銀幕の中でさえ見ることのない、男の中の男だと魚屋の御隠居が語っていたのを文彦は覚えている。犬上市の生き字引とまで呼ばれる御隠居にそこまで言わせるのだから、文彦は音原米武という男に多少の興味を抱いていた。 (任侠)  その二文字が意味するところを考えてみる。  高倉健や菅原文太など、雰囲気については調査したつもりだ。では映像で仕入れた知識と現実の乖離、それがどこにあるのか文彦は理性を最大限動員して考えてみた。  刺青、これは様々な漢たちの腕や肩それに背中に彫られている。  髪型、やはり角刈りや坊主頭などが目立つ。  服装、映画で見たような衣装そのものだ。  組長を囲み嘆く彼らに問題はない。 「おー……チキン・ホークね」  口を開いたのはベル・七枝だった。  慣れない正座に悶絶しながら、感想を口にする。両脇を固めていた三課職員のうち、母国が一緒であるパトリシア・マッケイン博士が笑顔のままベルの顔面に裏拳を叩きこむ。意味のわからないその他の職員や組員達は首をかしげ、文彦はかつて音原米武だった者の脈を取りつつ何も聞かなかったことにした。 「身体的には問題ありまセーン」  学習元が怪しい医学知識を披露しつつ、パトリシア。その後ろにいた「お抱え医師」も、恐怖と困惑の中でこくこくと頷いており肯定の意思を示している。 「体温37度7分。血圧は若干低め。骨格、内臓、筋肉、皮膚、生殖器もろもろ含めてパーフェクトでーす」 「  うん、完璧に……女の子なんだ」  それが死刑宣告だったかのように、極道達が泣き崩れる。  音原米武、52歳。  一声かければ数百の極道者が命を捨てるとまで言われた任侠は、いまや金髪縦ロールの可憐な少女となっていた。  白い肌、長いまつげ、朱をさしたような可愛らしい唇、程よく膨らんだ二つの乳房。  ミルクのような甘い匂いが、男くさい板の間に漂ってくる。 「んんっ」  どう見ても女子中高生にしか見えない米武が、上体を起す。口調こそ今までと変わりないが、その声はアニメキャラクターのような甘酸っぱさだった。眠いように目をこすり、伸びをして髪をかき上げる仕草は幼さと色気が複雑に組み合わさっており、小悪魔的な魅力さえある。  十数名の極道たちは硬直し、息を呑んで頬を染めた。  今までの人生で体験したことのないシチュエーションに、心と身体が勝手に反応してしまう。そうした気まずい硬直の中、文彦は足元を覆う布団をそれとなくめくった。何事も無かったかのように布団の乱れを正した文彦は、出入り口に最も近い三課職員に声をかけた。 「赤飯を人数分たのむ」 「……了解しました」  意味するところに気付いた職員達は愕然としながら退室し、子分達はひっくり返る。 「お赤飯?」  日本の風習に精通していないベルは子分達に尋ねるのだが、その日は誰も答えてはくれなかった。  その頃、桐山沙穂は自室で杉原ミチル少年に自身のアルバムを見せる事態に陥っていた。  現状の認識はとても大切だ。  桐山沙穂はそう考える。たとえば吹奏楽での演奏、壇上の指揮者だけではなく自身が所属する楽器の調和、木管楽器全体での調和、それが吹奏楽部全体となった時にどのような音を和するのかを考える。会場の湿度、気温、人の混み具合、客席の構造や材質まで考慮して、初めて音楽は本来の実力を発揮するのだ。  だからというわけではないが、沙穂は現状認識に対して少しばかりの自信を持っていた。 (うううう)  現状認識と対処は、必ずしも一致しない。  沙穂は、自分が初歩的なミスを犯してしまったことを自覚した。 「桐山先輩って、小学生の時は眼鏡かけていなかったんですね」  杉原ミチル少年が、やや興奮しながら沙穂のアルバムを眺めている。どういう経緯で杉原少年が沙穂の家に上がったのか、それさえ記憶に残っていない。  アルバムは、村上文彦を家に誘った時に見せようと思って用意したものだった。沙穂が最高の恋愛指南書として愛読している「乙女原まいむ」の恋愛漫画「銀と星のアルバム」を参考に立てた綿密な作戦だったが、今回に限っては全て裏目に出ている。  気がつけば杉原少年はそこにおり、沙穂は家族が全員出払った自宅のキッチンで紅茶の用意をしていた。しかも鼻歌など歌って。 「眼鏡外すと、もっとステキになるのに。勿体無いなあ」  しげしげとアルバムの写真を眺めた後、ぽつりと呟く杉原少年。どきっとした沙穂は淹れかけの紅茶をカップごと引っくり返し、慌てふためいた。 「簡単な説明と、長くていい加減な部分があってわかりにくい説明の二つが用意されている」  奥歯が砕けるほどの平手打ちを数度食らわせ、適当に取り出したバーボン「ベンチマーク」を一瓶流し込んで、若頭はようやく理性を戻しかけた。村上文彦はバーボンと血と唾液で汚れた右手を軽く振り、空き瓶を後方に投げ捨てた。とっておきの一本だったのだろう、所有者たるパトリシア・マッケインが血の涙も流さんばかりに抗議しているが、文彦はそれを無視した。 「な、何を説明するってんだ」 「色々」  他に表現しようもないことなので、文彦は短く返した。柳葉敏郎を少し老けさせた印象のある若頭は、歯茎から血とバーボンを滲ませながら歯を食いしばり、縁側に胡坐を描く。他のやくざ者たちは別室に担ぎこまれているのだろう、床の間では「変質」を迎えた元組長の着替えをすべく三課職員とベル・七枝が奮闘中である。 「アレは、普通に考えたら魔物の仕業だ」  人間であそこまでの変異を引き起こせる術師は滅多にいないし、それだけの実力を持っていたら屋敷ごと吹き飛ばせば済む話だ。 「魔物ってのは、魑魅魍魎とか幽霊の類か」  厳密に言えば違うのだが、文彦は「ああ」と頷いた。途端、若頭は屋敷が揺れるほど力強く拳を床に叩きつけ、冗談じゃねえと叫んだ。 「バケモノが極道襲うなら、血みどろの惨劇が相場じゃねえのか! 夢枕獏や菊池秀行、百歩譲って荻野真の世界じゃそうだろうがよっ!」  若頭、何気に読書がマニアック。 「ヨネタケのオヤジはよ、漢なんだぞ。ワシだけじゃねえ、この組だけでもねえ、関八州にまで名を轟かせた任侠だぞっ! それが、それが……初潮を迎えたばかりの、人形みてえな別嬪さんに化けただとっ。お天道様が決めたことでも、ワシは認めるわけにはいかねえんだっ!」 「本人は『乙原まいむ』って名乗ってるぞ」  若頭の動きが止まる。  文彦はその様子をぢーっと眺めていたが、待つのも飽きてきたので若頭の唇の動きを追うことにした。 「『まいむたん、まいむたん、可憐だよまいむたん。おにぃたんと一緒にお花畑で』」 「ぬうううううううんっ!」  唇の動きを朗読されて逆上したのか、いきなり白鞘の短刀を引き抜いた若頭は文彦を口封じしようと刃を突き立てる。が、文彦は全く焦らず人差し指に「影」の鉤爪を生み出し、これを一閃することで短刀を鍔元より断ち切ってみせた。慄く若頭。「まいむ」の着替えを手伝っていたベルが「さすが師匠と」感心するが、文彦は無表情のまま影の刃を若頭の咽元に突きつけた。 「専門用語交じりの長ったらしい説明と、その英語版。解説する人に選ばせるわ」 「オッケー、ラスカル・ガイ。ナーウ、パトリシアせんせーのDoki・Dokiドリル講座スタートね!」  わざわざ怪しげな日本語と英語を織り交ぜて、白衣姿のパトリシア博士が不敵な笑みを浮かべた。若頭は目眩を感じつつも文彦に助けを求めようとしたが、既に彼の姿はどこにもなかった。  少女漫画家、乙原まいむ。  代表作は「銀と星のアルバム」「放課後のキス」「新月の夜に星のダンス」の三部作。丁寧な心理描写と丁寧な作画により生み出される叙情的な物語は、古式に倣ってはいるものの少女漫画の王道と評価されている。  思春期の少年少女の葛藤を主題としたそれらの作品群は、最初期の単行本が1980年代という旧さにもかかわらず、現在も多くの愛読者が存在する。 『アシスタントを雇わず作品を仕上げることでも有名ですね。だからキャリアが長い割に、寡作ですよ』  電話の向こう側で、同級生の畠山智幸が答える。随分と不機嫌そうだが、漫画のことに関しての話題だったので普段より饒舌かもしれない。 「作者の経歴とかわかるか?」 『いえ、さっぱり』反応は早い『エッセイ漫画はおろか、インタビューさえ心当たりありませんね。原画展は行われても、サイン会も行われたことがないようで』  その種の情報を集めるのなら、三課でも不可能ではない。しかし迅速性とマニアックさを考えて、村上文彦は同級生の畠山に連絡を取った。文彦は走り書き程度のメモで調査の続行を三課職員に指示し、端末での会話を打ち切ろうとする。 「突然連絡して悪かったな、それじゃ」 『  桐山さんのこと、放置して良いので?』  文彦の動きが止まる。それを気配で感じたのか、端末の向こう側の声が澱む。 『このままじゃ寝取られますよ』 「おれの知ったことか」 『そりゃまあ、まあ。将来を約束したとか、結婚を前提に付き合っているとか、それ以前の状態でしょうが』  事実その通りなので、文彦の言葉も止まる。 『でも、村上くんには口出しする義務があると思いますよ』 「……なんでだよ」 『だって村上くんって』  性の奴隷なんでしょ?  と言ったところで文彦は携帯端末の回線を切った。後ろで作業していた三課職員が、おやと手を止めて文彦を見る。 「良かったんですか、電話」 「必要な情報は仕入れたし、構わねえよ」  上辺では何事も無かったように、文彦は現場検証を再開した。  そこは屋敷の離れであり、子分はおろか若頭さえ立ち入ることを禁じられた秘密の場所だった。若頭の話によれば、組長は暇を見ては離れに籠もり、そこで夜を明かすことも珍しくないという。 (考えたくもないし認めたくもない事実だが)  部屋の半分を占めるのは、大きな本棚。中央には一人分の大きな机があり、僅かに傾斜している。様々な画材とケント紙が机の脇に置かれ、完成した原稿と下書きが整理されていた。ネームと呼ばれるそれらの描きかけ原稿たちは、鉛筆で描かれたものだった。 「これ、本当に下書きなのか?」  漫画のことは良くわからない文彦は、そう感想を漏らした。 「直筆のネームです、しかも未公開原稿の」職員の一人が興奮に震えながら続けた「こりゃあ本人と見て間違いありませんね」  本人と言われて。  文彦は部屋の中を一瞥した。内装も趣味良くまとめられているが、どことなく少女趣味である。極道の業界に伝説として名を残した任侠とは、どう考えてもイメージが一致しない。 「文彦くん、これ」  そう職員が指したのは、壁の一角にかけられた数着の服。  ふりふりのドレスに、金髪のカツラ。絹のストッキングや赤い靴まで揃っている。 「個人の趣味は尊重してしかるべきですけどね……でも、これは」 「あー。本人としては葛藤しまくりの半生だったんだろーな」  常人には感知できない魔力を視界に捉えつつ、文彦は大きく息を吐いて肩を落とした。 「とりあえず原因の一端が見えてきたんだ、対処しようぜ」  杉原ミチルは意外なほど落ち着いていた。  憧れて、告白してまでついてきた思い人の部屋を初めて訪れたというのに。部屋の主である桐山沙穂が、口から心臓が飛び出さんほど緊張しているというのにだ。 「小さい頃は屈託ない笑顔を見せてるのに、中学校に上がった頃から表情が曇っているんですね」  天使のような表情を曇らせて、杉原少年は沙穂を見つめる。  その種の嗜好を持っている女性、たとえば文彦に対してセクシャルハラスメントを繰り返しているベル・七枝のような女ならば、十秒とて理性を保つことはできないだろう。  どうして自分は彼を家に上げてしまったのだろう。  杉原少年の言葉など耳に入ることもなく、沙穂はずっと自問していた。沙穂は、たとえ部活の後輩とはいえ、他に誰もいない部屋に男性を招くような真似はしない。文彦相手でさえ、未だに実行できなかったのだから。 (でも初めてって気がしないのよね)  沙穂は違和感を抱く自分に気がついた。  家というのは、たとえ建売の規格品だとしても居住する人間の癖が染み付く。同じ間取りであっても、初めて敷居を跨ぐ時には躊躇するものだ。それは住人の生活習慣に由来するものだったり、個人的な思想信条に基づく改築改装が顕れた物である。 「桐山先輩?」  杉原少年は、部屋の調度品と融和していた。視覚的な調和ではない。少年は、随分前からそこが定位置であるかのように、ちょこんと可愛らしく座っている。沙穂が普段椅子代わりに腰掛けるベッドに向き合うように、甘めのミルクティーの入ったマグカップを両手で持っている。  小首など傾げて尋ねる様は、とても可愛らしい。 「そ、そうね」はっきりしないものを抱えたまま、沙穂はとりあえず会話を続けることにした「受験勉強とか大変だったし、反抗期でお母さんと喧嘩することもあったし。正直言って、つまんない中学時代だったわ」 「でも、部活はやってたんですよね」  間が生じる。  沙穂は、てっきり杉原少年が言葉を続けると思っていた。  杉原少年は、きょとんとしたまま沙穂を見つめている。  会話が停止し、視線だけが交わされる奇妙な時間。理性の殻を破って性欲衝動という名の獣を解き放つには十分な時間だ。沙穂は自らの迂闊さを呪いつつ、鈍器になりそうな品物の位置を確認した。使い込んだ英和辞書、ダイエット用に借りてきた1kg鉄アレイ、距離を稼ぐためのヌイグルミも必要だ。アドレナリンが一気に分泌され、機能が飛躍的に上昇した神経と筋肉が予測される全ての事態に備えて力を蓄える。  が。 「ぼく、先輩を悲しませたくないんです」  静かに微笑んで、杉原少年はミルクティーを口にした。 「簡単に言えば、夢の仕業って事かな」  卓袱台に幾つかの資料を並べつつ、それが何の気休めにもならないことを自覚していた。魔術の存在や異形の存在を感覚的に理解しても、当事者としてそれを納得するには「理性」というのは厄介なのだ。だから一般的な被害者に対しての説明は、マニュアルに従って三課職員が時間をかけて説明することが多い。  そういう意味で、今回は例外だった。 「夢ってのは、助平な夢を見せたり悪夢を見せるバケモンが絡むのか」 「カテゴリーとしての夢魔ってのは存在するが」  オカルトに少々興味のあった若頭は、文彦の言葉に興味を持っていたようだ。 「一人の壮年男性を初潮直後の少女に造り替えるって真似は、普通のバケモノには出来ない真似と思ってくれ。現象としては不老不死の術に近いから、そこらの術師連中にだって実行できる代物じゃねえ」  決して不可能ではないが、それを成功させるためには年単位で組み立てる術式と、莫大な力が必要になる。よほど有能な術師を抱えていても、それらの術師が数年がかりで取り組み、しかも成功するとは限らない術に賭ける者はいない。 「それで、夢ってのは何物なんだよ」 「心の奥底で願っていること」  一拍置いて、文彦は息を吐いた。 「たとえばガキが将来に描いている夢。小学生が作文の宿題で適当にでっち上げるような奴」  自分でも上手に説明できないと思っているのだろう、文彦は苛立ちながら卓袱台を軽く叩いた。 「おれの見立てでは、あの組長は……フリルの似合う可愛い女の子になりたがっていた」 「願って実現するなら日本は戦争に勝っとるわい!」  今度は若頭が卓袱台を殴る。 「手前、ヨネタケのオヤジに喧嘩売ってるんか!」 「乙原まいむだろ」  ちら、と後ろを見る文彦。そこではふりふりのエプロンドレスを着た乙原まいむが、男くさい邸宅の中を忙しく働いている。その後ろを、筋骨隆々とした男たちが亡者のような表情で追いかけていく。生気を失った彼らが向ける病的な眼差しは、かつてオヤジと呼んで慕った人間の尻や腰やふくらはぎだった。 「ああああああ」  任侠として踏み越えてはいけない一線が、あっさりと突破されていた。  若頭は卓袱台に突っ伏し、文彦は重要なる一言を追加した。 「問題なのは『夢の絞りカス』がどこに消えたかだ」  残念なことに若頭は文彦の言葉を聞き逃していた。そこに乙原まいむを音原米武へと戻す唯一の手段が隠されていたのだが、こうしてその好機は喪われてしまった。 「ぼく、桐山先輩のこと大好きです」  当人を目の前にしてそうそう口にできる台詞ではない。  ところが杉原ミチル少年は、記憶を操作される以前の桐山沙穂がそうだったように、あっさりと告白した。  だが。 (違う)  桐山沙穂は今や確信に近いものを抱いていた。 (杉原くんは、私に好意を抱いている。だけど、それは女性としての私じゃない)  杉原少年の眼差しは真っ直ぐだ。  きらきらと輝いている眼は磨き上げた硝子玉のようで、濁ったり荒んでいる村上文彦の三白眼とは大違いである。そういえば杉原少年は幼い容姿という点では文彦と共通しているが、容姿や言動に関しては正反対の部分が多い。  杉原少年は、身体を構成する全ての部位が白磁人形のように繊細である。  ただの繊細さではない。  気軽に押し倒しても、ふるふると震えつつも全てを受け入れてしまいそうな、そういう危うさを含んだ繊細さを杉原少年は有している。これで小悪魔的な態度で振舞えば沙穂もどうにかなっていたかもしれない。彼女が自らの理性を最大限に発揮できたのは、少年の眼を見たからだ。  一言でいえば、揺ぎ無い信念。天然とかそういう表現が似合いそうな純粋さ。  それが杉原少年の瞳の奥に輝いている。 (絶対的な信頼感と、ひょっとしたら忠誠心)  自分に向けられた感情をそう分析し、沙穂は頷いた。 「私の事、好きなのね」 「はいっ」  嬉しそうに即答する杉原少年。 「じゃあ、愛している?」  笑顔の中に戸惑いが混じる。  視線は沙穂に向けたまま、杉原少年は愛想笑いで応じた。 「大好きです、はい」 「愛しているんじゃなくて?」 「はい、好きなんです」  きっぱりと言う杉原少年。沙穂はテーブルに額を打ちつけ、そのままの姿勢で固まった。 「杉原くん、ミルク好き?」 「はい、大好きです」 「日向ぼっこは?」 「とっても好きです」 「最近ドラマに出てる西方かずみは?」 「好き好きーです」  会話を繰り返すたびに、沙穂の額に青筋が浮かび、杉原少年の額に汗の玉が浮かぶ。NHKが推奨しそうな青春群像劇というよりも、末期症状を呈した頃のトレンディドラマか昼のメロドラマを思わせるどろどろとした空気が部屋に漂っている。 「……あのですね、お付き合いして欲しいのは本当なんです。桐山先輩のこと大好きだし、ぼくは先輩のそばにいないといけないんですっ。あの、冗談とかドッキリとかじゃなくて……信じてもらえます?」 「からかい半分で告白してたら、ぶっ殺すわよーほほほほほほ」 「き、桐山せんぱ……い」  弁解しようとして、沙穂に睨まれてしまう杉原少年。  それでも沙穂の誤解をなんとかしようとする杉原少年は。  魔力が肉体に作用する機構については不明な点が多い。  もっともらしいコトを偉そうにまくし立てる詐欺師寸前の専門家、もといパトリシア・マッケイン博士の言葉を借りれば「魔力干渉を受けて擬似物質化したエーテルと身体を構成する原子の玉突き現象」ということになる。 「何がなんだか」  術師である村上文彦でさえ、そう言って顔をしかめた。 「音原米武は夢の力で可憐な少女に変身しました、って説明よりは科学的」  こちらも顔をしかめてパトリシア博士は唸る。  どちらの言い分も理解できていない三課職員達は、混乱の極みに達した屋敷の中を右往左往している。 「最初の玉突き現象が起こったとき、その場にいた人間が玉突き現象の余波を受けていた可能性は十分にあるわ。つまり音原米武を少女化させたエーテルのエネルギーが極めて高かったため、連鎖的に玉突き現象を引き起こしたって訳よ」 「だとすれば、全員が乙原まいむに化けるんじゃねえのか」 「うっ」  文彦の指摘にパトリシアは悔しそうに呻いて唇を噛む。目の前には、かつて音原組を構成していた極道者達の残骸。  ……いや、その言葉は正しくはない。  何故ならば、彼女たちは新しい人生を手に入れたからだ。 「みんとでーす」「のえるでーっす」「あはははは、しゅーこだよっ」「ありすって呼んでください」  乙原まいむにも劣らぬ可憐な少女達が、音原組の屋敷に溢れていた。髪型や服装、バストサイズから身長に至るまで外見は様々である。少女たちは騒いだり走り回ったり、それはもう思いつく限りの振る舞いを無邪気に行っていた。その中心には乙原まいむがいたが、文彦はそれを放置していた。 「ぬおおおおおおおおっ」  ただひとり変質を免れていた若頭が頭をかきむしるようにして叫んでいる。三課職員たちはもはやかける言葉もなく、若頭を放置することにしていた。 「元にっ、元に戻せねえのかっ!」 「あー無理無理」「理論上不可能デース」  声を揃えた専門家二人の素っ気ない返事に、若頭は嗚咽を漏らし磨かれた床を何度も何度も叩くしかなかった。 「……それで、干渉元の魔力はどこに消えたの」  若頭に聞こえぬよう、そっと耳打ちする。  音原米武を変質させ、更に組員の多くをも変質させる原因となった魔力塊は屋敷から消滅していた。 「とりあえずハヤテに追わせてる」 「行き先の推測は?」 「あまり考えたくないけど予想できる該当者が一名」  かつて自らの内に特異点を抱えた人間は、異形や魔力を惹きつけやすい。完全に処理すればある程度は防げるだろうが、身体機能の変質が始まった人間は、どのように処理しても「引き寄せやすい体質」というものが改善されることはない。 「つまり半径10キロの範囲でそういう体質を抱えた人間は、おれが知る限り一人しかいないわけで」 「ああ」  そりゃ御愁傷様。  パトリシアの呟きは、文彦の耳にさえ届かぬほど小さなものだった。  猛禽型異形、ハヤテ。  術師の業界に身を置くものならば、それが影法師の片腕と呼ばれる魔物の名だと気付くだろう。風に乗り、風を繰り、風に連なるものを支配する猛禽の魔物。影法師とタメ口をきくことを許された数少ない魔物。鳥が及ばぬ高空を駆け、望めば水でも地中でも羽ばたくという非常識な鳥類。 『やかましい』  その時ハヤテは犬上市の上空を旋回していた。  主である村上文彦が下した命は次の通り。 「あー、近寄っただけで妊娠しそうな奴が暴れると思うんで処理よろしく」  これである。  ハヤテは時々己の主について不安を抱くことがある。普通の使い魔は、この種の曖昧な命令を受諾することも理解することもできない。ハヤテも、相棒のジンライも、最初はそうだった。無理やり付き合わされ、どうしようもない事件に巻き込まれることで慣れたのだ。 『妊娠しそうな奴って言われてもねェ』  形を得たばかりの異形は、その源たる人間の影響を強く受けやすい。  生存欲求、食欲、暴力衝動、それに生殖への渇望。自然発生型の異形は、そういうシンプルな衝動によって生み出されることが多いのだ。 (つまり、淫魔の類ってやつか?)  特定の性集団、しかも隔離された環境下で発生しやすい異形の名が真っ先に思いつく。人間というのは不思議な生き物で、極限状態でさえ「行為」を求めるものだ。淫魔はそういう人間の衝動がシンプルな形で現れた存在である。  美女型や美男子型が多いが、性器に手足が生えたり沢山の乳房や陰茎を生やした節操のない連中も少なくない。 『極道をロリータ娘に変身させたってことは、残りカスは紅顔の美少年か?』  そう予想してみる。  押し倒せばふるふる震えつつ全てを受け入れてしまいそうな、そういう美少年の姿をした淫魔だ。目標となる女性に接近し、知り合いであるかのように振舞って精気を奪い特異点を植えつけるのだ。相手が美少年だったら、被害者も襲われた意識を持たずに精気を奪われるかもしれない。 『いないな』  猛禽の眼を持つハヤテは広い範囲を知覚する。猛禽と違うのは闇夜でも視力が衰えないこと、そして猛禽には捉えられない幾つかの力を感知できるということだ。 (魔力の活性が低ければ、市街地に満たされる霊脈の力にかき消されて調べようがねえ。そこまでの知恵をつけているのか?)  犬上市の異形たちを養う霊脈の力は、時として異形の力を覆い隠すことがある。異形殲滅を主張する術師の一派が犬上市で強攻策に出られないのは、彼らが魔物たちの存在を把握しにくい犬上市ならではの事情も関係している。霊脈の活性は時と場合によって変化し、最も活発な時では探査系術式が役に立たぬほどの魔力が放出されるのだ。どうやら文彦の命じた攻撃目標は、既に行動に移しているかもしれない。 『っつーことは、桐山の嬢ちゃんがアブねえってことじゃねえか!』  今更ながらに気付いたハヤテは血相を変え、桐山沙穂の自宅目がけて急降下した。  沙穂の家がある住宅街は、犬上市の中では比較的古い地区である。  ここ十年で一気に開発が進んだ北区の住宅地とは異なり、区画整理を何度も繰り返しているため幾分入り組んだ道が多い。音原組があるのは高級住宅地の一角だったが、沙穂達の住宅街まではそれほど離れてはいない。歩いても十数分、駆ければ数分。少しばかり入り組んだ道は自動車を駆るには億劫で、自転車の方が役に立つ。 『力が弱いんじゃねえ』  ハヤテは舌打ちし、両の翼を広げる。放たれた矢の勢いで降りていたハヤテは地面に直撃する寸前に滑空し、落ちる勢いをそのまま前へ進む力に換えている。羽ばたくのではなく、まるで前身翼の戦闘機のように進むハヤテ。日差しの強い夏だけに外を歩く人は少ないが、それでも物好きというのはいるものだ。 「?」  彼らはハヤテを知覚することはできなかった。風と、それに連なるものを支配するハヤテである。自らの身体を陽炎で包み、風切る音を完全に遮断しているのだ。 『魔力でも妖気でもねえ、別の力に転じているんだ!』  地面すれすれを飛んで初めて感じる、何らかの気配。ハヤテが慣れ親しんだ魔力でも妖気でもない力。どちらかに言えば瘴気に近いが、それにしては精気にも似た猛りを含んでいる。その力どのような性質を持っているのかハヤテには即座には把握できない。 (なんて様だ)  反応を自らの内に取り込んで再び探査すれば、その力を宿した者が沙穂の家に至ろうとしているのがわかる。今のハヤテならば、追いつくまで数秒も要しない。 (だが風の力を全て推力に注ぎ込んでるこの状態じゃ、最初の一撃が力不足になっちまう)  ハヤテの最大の武器は、風だ。  風の刃は鋼鉄を断ち、肉を塵に還す。主である文彦より魔力を供給されれば、数十数百の異形を同時に葬ることも不可能ではないが、今は違う。ハヤテ単独の力も決して弱くはないが、予測できない相手を一撃で葬るだけの破壊力への自信はない。  無論、深手を負わせることは可能だろう。  それでも求められているのは、一撃で破壊する力なのだ。目標が沙穂を襲ってしまったら、そこでおしまいなのだ。  何がおしまいなのか。  ハヤテはそれを考えたくなかった。とりあえず文彦は許してくれないだろう。 『間に合え、間に合え、間に合え!』  速度が若干落ちることを覚悟して、ハヤテは破壊力の上昇を選択した。  広げた翼は風を噴き出す固定翼と化し、それ以外の部分が変化を始める。人としての腕と足が生える、胸が、胴が生じる。固定翼は背中に移行し、推力を維持する。風を支配するハヤテは空力など関係なく飛行するから、そのような姿でもそれほどの速度減衰はない。  沙穂の家の直前で目標に追いつき、ハヤテは「変身」を完了させた。 『てりゃぁぁぁぁあああっ!』  褐色の肌。  漆黒の髪。  鼻筋の通った容貌。衣服は、露出の高いウェイトレスのもの。今やハヤテの姿は、インド風の異人を思わせる少女のそれになっていた。ヒールの高い靴でアスファルトを強く蹴り、ハヤテ  その姿ではルディと呼ばれることが多い異人の少女は跳躍するや「目標」の後頭部を蹴り上げた。  桐山沙穂は、どちらかといえば物事を悪い方向に考える。  マイナス思考だと姉の水鳥は言うが、最悪の事態を想定しなければ行動できないことも多いのだ。クラス委員長の仕事をして、ついでに吹奏楽部での活動で沙穂はそういう習性を身につけた。物事を楽観視しかできない上司や、何も考えずに行動する同輩・部下を食止めていく内に、そういう人間になってしまったのだと沙穂は考えている。 (自分にとって都合の良いことばかり起こるなんて、そんなのあるわけないのよ)  自室のテーブルに突っ伏して、顔だけ上げる。  窓際に立っているのは紅顔の美少年。  半ズボンが似合う美少年コンテストを開けば地区優勝は堅いであろう、杉原ミチルである。ガサツで汗臭い同級生達とは大違いで、抱き締めればミルクの匂いが漂ってきそうな柔らかさと繊細さが自慢の美少年だ。 「……つまり杉原くんてば、私の事なんて最初から眼中になくて暇潰し同然に部屋に入ってきたのねー」  マイナス思考も限度を超えれば厭味となる。  そもそも杉原少年と恋人になるつもりなど微塵もなかった沙穂だったが、女としてのプライドはあったようだ。 「柄口さんとか紹介すればいいのかなー、あの娘って胸おっきいし可愛いし性格いいし。でも私が紹介するより自分で声かけた方が確実だと思うなーはははは」 「なんとなく腐りかかってますね、桐山先輩」 「そりゃあ、君みたいに可愛いオトコノコに女性失格って宣言されたら腐りもするわよ」  失意のどん底にある沙穂には、杉原少年の慰めも届かない。杉原少年と一緒に食事をした事は、おそらくその日の内に村上文彦の耳にも届くだろう。客席に隠れていた同級生の中にどうしようもないゴシップ好きの畠山智幸もいたから、その噂はかなりねじくれた形で広まるに違いない。  おしまいだ。 『堅物のクラス委員長、真夏の御乱行? 少年相手に逆セクハラ猛特訓』 『吹奏楽部でクラリネットを扱うだけあって、見事な口遣い』 『健康の秘訣は美少年一番絞り』 『村上はダミーだったのか』 『歪んだ少年愛と偏差値の相関関係』 『趣味は半ズボン漁り』  場末のエロビデオでも没になりそうな、どうしようもないタイトルが脳裏に浮かんでは消える。  そんな時だ。 「桐山先輩、いえ沙穂殿」  杉原少年の口調が急に変わった。総受け調の弱弱しかった態度が、今は凛々しい若武者のようだ。見れば、杉原少年は窓越しに外を眺めている。  いや。  窓に張り付いたモノを凝視しているのだ。 「窓ガラスや丁度類は後で弁償するので、御勘弁を」  沙穂がそれを理解するのに数秒の時間を要した。  文彦の店で働いているウェイトレスの娘、インド辺りから来たという触れ込みのルディが何かを蹴り上げていたのは確かだ。空手や拳法にある飛び蹴りの一種だろうが、ルディは下から上に向かって跳んで「目標」を蹴り上げていた。軌跡は放物線を描かず、また人類能力の限界を超越した跳躍だった。仮面をつけた正義の特撮ヒーローがそうするように、蹴ったままルディは跳んでいる。  進行方向は、沙穂の部屋だ。このままの勢いでは間違いなく窓を突き破り部屋に入り込むだろう。「それ」が。あまりにも巨大すぎて沙穂の理性は最初その解答を打ち出すことを拒んだが、迫り来る危機への防衛本能が「それ」が何者であるのかを認識させた。 (玉と、竿?)  身も蓋もない意見だが正鵠を射ていた。  秘法館や子宝温泉でも滅多にお目にかかれないような、見事な男性のシンボル。  身の丈3メートルに達しようかという竿は抜き身の日本刀のように反り返り、脈打っている。その造作は、幼い頃に父親と風呂に入った際に眺めたモノよりも随分と立派かつグロテスクで節操のないものだ。玉の方も、それはもう文句のつけようもない大きさで、風に逆らってぶらぶらと動いている。それがただの一物と異なる点といえば、簡単な手足と人らしき顔がついている点か。見ようによっては趣味の悪い着ぐるみとも言えるが、ぬらぬらてらてらと黒光りするそれが作り物だとは到底信じられなかった。 『てりゃぁぁぁぁあああっ!』  ルディは、それの後頭部(と思しき場所)を蹴り上げていた。本当は命中した瞬間に木っ端微塵に砕くつもりだったのが、海綿体の如き弾力性に富んだ肉質は彼女の蹴りの勢いをかなり相殺していた。それどころか蹴りの力で沙穂の部屋に飛び込めると判断したのだろう、巨大なる男性シンボルは先端を沙穂の部屋の窓へ向けている。 「……いっ」  沙穂は悲鳴を上げようとしたが、でてくるのは間抜けな声だ。テーブルに突っ伏したままではそういう声しか出せないし、瞬時に跳ね起きて部屋から飛び出して逃げるのも難しい。逃げられたとしても、このバケモノとしか表現の仕様のない物体が迫ってくるような気がする。 (逃げられない)  本能的にそれを自覚した直後。  杉原少年は窓を思い切り開け放ち、ベランダに飛び出して吠えた。 『ぅわんっ!』  声が空気を震わせば、晴天を貫く小さな落雷。  紫電は、ぬめっとした男性のシンボルを的確に撃つ。肉が焦げる臭気が辺りに立ち込め、異形は勢いを失う。ルディは、サッカーのバイシクル・シュートのように異形を更に蹴り上げた。もとより弾む肉質の異形は飛ぶ向きを変えられ、屋根より高く飛ぶ。 『わんっ!』  沙穂は見てしまった。  杉原少年の頭に犬の耳が生え、ズボンからふさふさした尻尾が生えるのを。杉原少年の全身にそれとわかる稲妻が走り、髪の毛が逆立っていく。 (犬、違う狼……ええと、それに雷)  正気を疑うような状況にあって、沙穂は杉原少年の姿に既視感を抱いていた。杉原少年は全身の雷を指先の一点へと収束し、光球を生じる。少年は光球と右手を銃のように構えて頭上の異形を狙い、叫ぶ。 『天哮砲!』  轟音、そして衝撃。  近隣住宅の窓硝子が震え、視界の全てが紫の輝きに包まれた。雷が文字通りの光柱と化し、異形を飲み込む。圧倒的な力の本流を前に異形は一秒たりとも形を保つこともできずに消滅し、光柱を中心とする数百メートルの空間で電子機器が使用不能に陥った。  轟音は音原組の屋敷にも届いた。  空を紫に染める閃光と、大気を震わせる雷鳴。文字通り青天の霹靂に乙原まいむをはじめとする可憐な少女達は耳を押さえてしゃがみ込んだり、夕立を恐れて洗濯物を慌てて取り込もうとしている。  動かないのは、文彦をはじめとする三課職員たちだ。 「終わったな」  天に昇る光柱が天哮砲だと気付いている文彦は、乙原まいむたちの今後の生活に関して若頭と相談を続けることにした。 「今回みたいな変質事件ってのは北の方じゃ頻繁に起こっててな。そういう変質者を受け入れる体制も、ある程度整ってるんだ」 「……本人の意思を尊重できねえか」 「とーぜんデス」  戸籍や住民票の改訂作業を命じていたパトリシア・マッケイン博士が営業スマイルで応じる。 「組長たちはあくまで被害者デスからね、こっちできっちりレディとしての教育を施してから社会生活を送らせますよ」  何でしたら近所の女子校の入学案内を取り寄せるデース。  そう言って微笑むパトリシアに悪意はない。全くもって悪意はない。たとえば部下に命じて可愛い下着を手配し、かつて組長だったり舎弟だった連中にプレゼントしても、それは一人の女性としての厚意なのだ。  女性ならば、困っている女の子を手助けして当然でしょう?  パトリシアの目はそう語っている。任侠の世界に生きてきた若頭には到底納得できない理屈だが、数十名の可憐な少女達はパトリシアの用意した可愛らしい下着や衣服を喜んでいた。  喜んでいたのだ。 「……おしまいだ、音原組はおしまいだ」  漢の道。  人道の極を歩む任侠として名を馳せていた音原組は、完全に崩壊した。仮にあの少女達を構成員と言い張ったところで、他の組との抗争は勿論、普段の業務にも差し支えることは想像に難くない。 「アイドルグループで売り出した方が手っ取り早く金稼げるかもしれねーぞ」 「たとえ事実でもそんな真似できるかぁあああっ!」  若頭は滝の如く涙を流しながら文彦の襟首を掴んで振り回す。もはや元の姿には戻せない以上、どれほど暴れても何の意味もない。これがただの八つ当たりなのだと若頭も文彦も理解していたから、文彦はされるがままに振り回された。  ふさふさの尻尾が左右に揺れている。  髪の毛の間から飛び出している耳は尖っているが、沙穂を前にやや垂れ気味だった。それが感情を示す器官でもあるかのようにめまぐるしく動くのは、杉原少年の存在が物質的に希薄だからかもしれない。 『あの、ですね』  横にはウェイトレス姿のルディがいた。盛大にスカートを翻し物理法則さえ捻じ曲げる勢いで飛び蹴りした彼女は、着地点として沙穂の部屋のベランダを選んだのだ。ルディは沙穂や杉原少年のことなどどうでもいいのか、着崩れしたウェイトレスの制服を正したり、天哮砲で壊れてしまった自分の携帯電話を適当に眺めている。 『杉原ミチルというのは、社会生活を営む上での偽名なんです。本当は、ジンライって』 「あ」  その名を耳にして沙穂はようやく自分の中の違和感がひとつにまとまったのを理解した。小物や宝石を入れる箱の中から、狼の紋様が打刻された銀貨を取り出した。そこにはしっかりと迅雷の名が刻まれている。 「少しだけど、覚えてる」かすれる声で沙穂は続ける「私、とっても大きな狼さんと一緒にいた。理由はわからないけど、狼さんは私を守ってくれた」 『それが、ぼくなんです。狼の姿では今後沙穂殿を  桐山先輩を守りきれないから、人の姿で行動を共にしようと思ったんです』 「……誰かの命令で?」  返答するまでに数秒の間が空いた。その気まずい空間で一人蚊帳の外に置かれていたハヤテは『忠犬だねえ』と呟いた。 『この姿になったのは影法師様の助力あってのこと。ですが!』 「とりあえず命とか色々助けてもらったし、お礼は言うわ」  それに私が知らない大切なこと、いろいろ知ってそうだし。  沙穂はジンライ少年の頭を撫でてやった。  ジンライ少年は照れながら「えへへへ」と嬉しそうに尻尾を振るのだった。  虎ほどもある大きな狼が、桐山沙穂の目の前にいる。 『ジンライと申します』  狼は静かな口調で挨拶する。狼が先刻まで杉原ミチルと名乗る少年だったことを彼女は覚えていたが、それを直ぐに理解し納得できるほど彼女の思考は柔軟ではない。 『沙穂殿の身を守るため、人と獣の姿を得てお仕えするものであります』  美少年の姿で告白してきたのも、全ては自分を守るため。ジンライは穏やかなかつ生真面目な調子で説明する。ベッドに腰掛け壁に背を預けていた沙穂は、正面よりこちらを見てくるジンライの姿に既視感を抱いている。ジンライは沙穂の記憶喪失について言葉を濁していたが、自分はジンライと親しかったのだと納得することにした。 「影法師って人の命令なのよね」 『そうでござる』 「なんで本人が説明したり護衛してくれないの?」  ジンライの動きが止まった。顔はこちらに向けたままだが、視線がめまぐるしく動く。これを見て不審に思った沙穂は上体を起し、ジンライの頭をがっしと両手で掴んだ。ジンライの顔は険しく獰猛だが、杉原少年として認識しているためか恐怖感はない。 「どうして」 『……初対面の人物が「君は魔物に狙われているので二十四時間護衛する」と言って付きまとったら嫌でござろう。生身の人間にストーカーされるよりは、動物の方が安心もできましょう』  それは相手にもよると反論すれば、ジンライは更に黙る。 「影法師って人が誰かにもよるわよ」  自分の身を案じてくれるのは、悪い気分ではない。事情を説明せずに護衛するなど、普段の沙穂なら腹を立てているところだが。  きっと自分は影法師を知っているのだろう。 「影法師って人のこと教えてくれなかったら」 『?』 「くすぐり倒すわ」  言うや沙穂はジンライの背に飛び乗って、首筋や背中をわしゃわしゃと指で掻く。気持ちよい部位はジンライでも一緒なのだろう、わふわふと気持ち良さそうな声で悶えるのを見て沙穂は言葉を続けた。 「止めて欲しくなかったら、正体を教えなさいっ」 『その許可は得えてないでござるよ』  とは言うものの、快楽に溺れそうなジンライは忠誠心の限界が近いのを悟っていた。  柄口鳴美は怒っていた。  同級生の沙穂が杉原ミチルと付き合い始めたことにだ。あれほど文彦に思いを寄せていた沙穂の心変わりは、友人を自負していた鳴美にとっても衝撃的だった。文彦に対する気持ちは本物に思えたし、だから色々相談にも乗っていたのだ。  それが。  確かに部活の後輩とやらは可愛い。あのような美少年に告白されたのなら舞い上がるのも無理はない。鳴美とて告白されたら躊躇しないだろう。  とはいえ、沙穂の場合は話が違う。  一学期の始まりの頃から、彼女は文彦に対する好意を抱き続けていたではないか。学期末の告白そのものは玉砕したが、夏休みにそれを挽回したはずだ。鳴美や他の同級生達は、そんな沙穂を応援していた。  相手がよりによって文彦という選択肢のマニアックさに困惑することはあってもだ。 (沙穂ちんのこと、見損なったっす)  羨ましいというのもあるが、男女関係の仁義という古臭い価値観が鳴美にはあった。派手な外見と抜群のスタイルにもかかわらず堅実な学生生活を送っているだけあって、部分的には沙穂より真面目な部分もある。だから沙穂の行為が裏切りと映ったのだろう、鳴美は沙穂の家に上がりこんでいた。  本当に嫌いなら絶交してしまえばいい。  そうしないのは沙穂に対して信じたいという思いが僅かでも残っていたからだ。畠山智幸は杉原少年を沙穂の新しい彼氏と解説していたが、ひょっとしたら勘違いかもしれない。ならば誤解を解くためにも話をしなければいけない。  携帯電話では駄目だ。あれは顔が見えないから気持ちが伝わらない。そう考えた鳴美は直接沙穂の家を訪問した、幸いにも沙穂の母は在宅であり彼女が部屋にいることを教えてくれた。 (とにかく話をしなきゃ)  駆け足気味に階段を上り、部屋のドアを叩く。 「沙穂ちん沙穂ちん、大事な話があるの!」  入室の同意を得る前に扉を開ける。鳴美の気配に気付いたのか扉の向こうでは何かどたばたする音が聞こえるが、鳴美は構わずに開け放した。  と。 「沙穂ち……」  鳴美は固まった。  最初それが見間違いであることを祈り、しかしそれが紛れもない事実であることを認識した。  そこに沙穂はいた。  上着を脱いでリラックスした沙穂が、そこにいた。  杉原少年もだ。  沙穂は少年の身体をくすぐるように密着して身体に手を廻し、そのままの姿勢で鳴美を見ていた。杉原少年は四つん這いで一切の衣服を着用せず、頬を赤く染めながらやはり鳴美を見ていた。どのように解釈しても、どのように妄想を働かせても、得られる結論の幅は狭い。  つまり。 「あは、は……」  軽い目眩を覚えつつ、鳴美は後ずさる。沙穂は未だに状況を把握できていないのか、瞬きしかしない。 「そのぅ、まさかそこまでとは思ってなくて  ゴメン、もう邪魔しないから」  沙穂の返答を待たず、鳴美はドアを閉め部屋を去った。  鳴美が家を出て行く頃になって沙穂はようやく事態を把握する。杉原少年が大狼ジンライへと戻ったからだ。 『危ないところでしたな、沙穂殿』  ジンライが呑気そうに息を吐く。 『ケダモノの姿で沙穂殿の部屋にいるのが知れれば問題がありますからな。急な変身だったので着衣までは手が廻りませんでしたが、御学友の目をごまかすには』  その先の言葉を発する前に、発狂寸前の沙穂はジンライの巨躯を窓から外に放り投げていた。  翌日は犬上北高校の登校日だったのだが、全校に嘘とも真実ともつかない怪情報が錯綜した。その中心たる桐山沙穂は高校生活で初めて職員室呼び出しを喰う破目となった。  担任教師にたっぷり説教を喰らった職員室からの帰り道、教室の入り口に張られた一枚の紙に沙穂は気がついた。安っぽいケント紙には、 「編入試験会場」  と、毛筆で書かれている。入り口より中を覗き込めば、金髪縦ロールの可憐な少女達が問題用紙を前に悪戦苦闘している様子。 (……まあ、私には関係ないか)  おそらく一年生に編入されそうな少女達に無言でエールを送り、当たり前のように学校を休んだ文彦の誤解を何とか解こうと考えながら沙穂は帰宅の途についた。