第七話 砂浜の魔人  犬上市の海浜地帯は、戦後の開発を免れた稀有な地である。  網元が頑として海浜地帯の切り倒しや開発を認めなかったこと、少し奥地にも十分な平地が広がっていた事もあり、海浜に手をつけることなく犬上の街は発展することが出来た。目立って素晴らしい魚が水揚げされることはなく、周辺各県に名を轟かせるほど景観が優れているわけでもなく、田舎町のごくごくありふれた砂浜と岩場が犬上市の海浜地帯だった。  それ故に。  二十一世紀を迎える頃、犬上の浜は知る人ぞ知る浜となっていた。浜の大部分が今も網元の管理下にあり、その景色は半世紀前となんら変わりがない。その意味では街中に浮かぶように立つ三狭山と同じく、なにやら森羅万象を越えたるものを感じさせる。 「浜自体に特別な意味は無いがね」  砂浜に沿う道に立ち、黒瀬津雲老人が呟く。昔は塩を得るために海藻を乾すべく玉砂利を敷き詰めた道は、自動車が入ることはできない。人より重いものが踏み入れば砂利が沈み、車輪やキャタピラでは空転してしまう。地を踏み固め砂利を薄く敷けばそんなこともないだろうに、白く磨いた玉砂利を分厚く敷いているのは網元の悪戯だと言う者もいる。  これでは浜に車やトラックを乗り入れることは難しい。 「救急車はどうするので」 「腕と気合で乗り入れておる」  翁の隣にいた若者は、それはそれはと半ば呆れつつも納得する。もっとも数キロ離れた岩場まで行けば魚を陸揚げするための港があるわけで、そこから小船で怪我人を運んだり浜茶屋の建材を運ぶのだと説明されて「ああ」と若者は苦笑した。 「駅前から歩いて半刻も要さぬし、そこらに駐車場もある」  どうせ海に浸かって疲れるのだから、数分歩いても問題あるまい。 「しかり」  砂浜にて泳ぎあるいは陽に肌を焼く人々を眺め、翁の小さな言葉にやはり小さく肯定する。翁達いにしえより住まう者と海にて遊ぶ者の間におそらく決定的な意識の差もあるだろうが、これを口にしたところで何の意義もないと若者は考える。夏場だというのに袖の長い墨染めの麻服を身につけた若者は、どう見ても海水浴客ではない。 「さて客人の探し人ではあるが」  若者の素性など詮索せず、翁は杖を浜に向ける。  それほど狭いわけではない砂浜に、浜茶屋は二軒のみ。賑わっているのは一方であり、翁はそこを指し示し、それから大きく肩を落とす。 「色々あったようじゃ、まともに話するのも難しいかもしれん」 「尻穴突っ込まれた程度で逃げ出されては、同業者として困りますがな」 「なに?」  いいえこちらの話で。  若者は翁に会釈すると砂浜に向かった。 「悪ぃね、うちの馬鹿息子は二号店だよ」  本当に済まなさそうに、それこそ拝むように手を合わせて頭を下げるのは村上深雪だった。  学生を主に相手にしているカレー屋は、本格的な夏休みに入ったこともあり主な客層たる大学生は幾分数を減らしている。が、それを補って余りあるほど別の客  つまりこれ以上ないというほど男前である深雪目当ての女子中高生が、入れ替わりで客席を埋めているのだ。 (なんというか、ひとり宝塚状態というか) (うむ)  男として色々な意味で敗北しそうになりながらも、仲森孝之と伊井田晋也は頷いた。頷く行為に意味があったわけではなく、犬上北高校において双璧をなす好青年としてのプライドがさせたものである。背丈や容姿では何とか太刀打ちできるが、汗臭くもむさ苦しくもない中性的なオーラを発する深雪の魅力には勝てない。もっとも孝之と晋也は普通の女子中高生など最初から眼中にない訳で、客席の半分より上がる黄色い歓声を適当に聞き流しつつ話を進めることにした。 「二号店?」  初めて耳にした単語に、少しだけ驚く晋也。 「そんなものがいつの間に」 「夏限定の店でね」  そういや話してなかったっけと意外そうに返す深雪。 「網元やってる黒瀬の爺さまに頼まれてて」  浜茶屋に借り出されているんだよと言えば、曖昧な表情で固まる男二人。 「……海の家で?」 「家に居づらい理由があるみたいでねえ」  とは言うものの。  染色体上は母親である手前、その理由までは口にできない深雪は苦笑するしかなかった。  具のない焼きそば。  のびたラーメン。  とけかかったカキ氷。  匂いだけは素晴らしい、冷凍のイカ焼き。 「あとは、粉っぽいカレーライスだな」  それが、浜茶屋の定番メニューである。 「形式美にこだわる者ならば、絶対に外すことのできない代物だ」  浜砂と潮風で微妙に痛んだ畳に胡坐をかき、墨染めの麻服を着た若者は唸る。起きているのか眠っているのか判断に困る細い目をくわっと開き、ついでにテーブルに拳を叩きつける。 「浜茶屋で美味いカレーを出して許されると思っているのか! 見損なったぞ、影法師!」 「……じゃあ喰うなよ」 「それとこれとは別問題だ」  すっかり空となった皿を見て呟く村上文彦に、しれっとした顔で返す若者。  昼時を過ぎた浜茶屋の客席には空席が目立つ。売れ筋は飲み物や氷菓に移り、主食というべきカレーやラーメンを頼む客はほとんどいない。それでなくとも地元の客が多いのだから飯や飲み物を持参してくるわけであるからして、いくら網元が道楽で続けているとはいうものの量販店に比べれば若干割高になってしまう浜茶屋を利用する客は、昼を過ぎると数を減らす。  若者の他に客といえば、波に飲まれて救い出された小学生が寝込んでいたり、下心丸出しの大学生が隣町より来たという女子高生を口説いている程度。実質、客はゼロに等しい。 「とっとと帰れ」  テーブルに麦茶の入ったコップを乱暴に置く文彦。 「つーか仕事なら三課の事務局行けよ」 「私用だ」  僕もたまにはそういうことがある。  涼しげな顔で言う若者に、露骨に嫌そうな顔で反応する文彦。 「ほほぅ」目が据わる文彦「業界最高の術師が、こんな寂れた海水浴場で独りバカンスか」 「いや、世界でもここにしかない珍獣を見物に」 「珍獣だと?」  訝しげに首をひねる文彦。浜茶屋の仕事が忙しいとはいえ地元のニュースに一応気を配っており、若者が出張るほどの珍獣出現となれば文彦が気付かぬはずもない。それに気付いたのか、若者は少しばかり身を乗り出し神妙な表情でこう言った。 「おお。世にも珍しい『押しかけ弟子の女子中学生に童貞と処女を奪われた挙句に映像記録まで業界に出回って逃げ場のない影法師』を  」  見物しに。  と言い終えるか否かの瞬間、疾風の勢いで文彦はどこから取り出したのか大型フライパンを縦にして戦斧のごとく一気に振り下ろし、若者はこれを白刃取りの要領で受け止めた。止められてなお文彦は憤怒の形相でフライパンを押し続け、若者もまた割と必死にフライパンを押さえ続け、結果として数秒でフライパンの取っ手はへし折れる。 「ぐぬぬぬぬぬ」 「はっはっはっは。僕を殺しても事実は変わらないだろうに」  折れたフライパンを放り出し、乾いた声で笑う若者。攻防は十秒にも満たない時間だったので、他の客は気付いていない。文彦は仕方なく向かいの席に腰を下ろし、若者を睨む。 「笑いたければ勝手に笑えよ」  おれの不手際に違いはないからな。  不貞腐れたような、むしろ観念したといった感じで力なく呟く文彦。おそらく関係者より何度も似たことを言われたのだろう、視線がとても遠い。彼岸あたりを見つめていそうな雰囲気さえある。 「あーはははは」  言われた通りに、若者は笑う。  文彦は反応しない。 「重症だな」 「……画像の一部、委員長にも見られた」  うわあ。  テーブルに突っ伏す文彦に、若者はかけるべき言葉を失った。  桐山沙穂は不機嫌そうだった。  いや、それは正しい表現ではない。  彼女は「形容し難い精神的圧迫感」と「理由なき怒り」と「どうしようもないほどの興奮」に支配されている。先日幼馴染の柄口鳴美と共に買い物に出掛け、沙穂としては少々大胆ではないかと躊躇してしまったセパレートの水着を身につけているのだが、そのことへの羞恥心さえ吹き飛んでしまうほどだった。 「あ、あのぅ……沙穂ちん?」  同行している鳴美が思わずたじろぐ。こちらもまた地味とは言いがたいものを着用していたが、そもそもモデル顔負けのスタイルを誇る彼女は特に恥らうことはない。それどころか歩くテンポに併せて豊かな乳房を上下に揺らし、形良く引き締まった臀部は左右に揺れる。スレンダーと呼ぶにはあまりにも摩擦係数の低そうな沙穂と並ぶのはある意味彼女にとって拷問に等しかったが、その種の嗜好の持ち主にとっては極楽浄土そのものとも言うべき肢体たる沙穂の姿は決して鳴美に劣るものではない。 「……」 「沙穂ちん、沙穂ちんってば!」  二人の少女が通り過ぎれば、男の半数が思わず振り返り、更にその半数が声をかけようとする。それら下心むき出しの男どもの後頭部を蹴り倒すように後を追うのは伊井田晋也と仲森浩之である。傍より見れば美男美女同士のカップル二組とも言うべき四人だが、彼らの中に恋愛感情は存在しない。  鳴美は夏期講習を終えた骨休みをしたかった。  晋也は数時間後に来る下宿先の未亡人母娘のために場所を確保したかった。  浩之は午前中に海水浴場に出かけた妹を出迎えたかった。  沙穂は。  最初は海に行くのを嫌がった。部活を休むことになるし、泳ぐのが得意ではない。強引に買わされた水着は沙穂の感覚では少しばかり大胆で、これを着ると自分が尻軽女に見られるのではないのかと心配もした。  が。 「桐山、たとえようもないけど何か凄いな」 「昨日の夕方からねー」  なんでだろーねえ。  さすがに事情がさっぱり掴めなくて、と困り顔の鳴美。晋也と浩之は互いの顔を見て「まさか」と眉をひそめるが、それ以上の確証があるわけではなく、そのまま沈黙を続ける。  そんな同級生三名を半ば置き去りにする形で、沙穂は砂浜を大股で歩いていた。昨夕速達で届けられた差出人不明の封筒、そこに入っていた数枚の写真の事が脳裏から消えないのだ。写っていたのは、最近少し気になる同級生の男の子だ。小学生と間違われることの多い、線の細い印象の小柄な少年。それを気にしているのか普段の教室では乱暴な言葉遣いで振舞うこともあり、それが逆に可愛らしく見えるのだと同級生の女の子たちは話をしている。  村上文彦。  写真は彼のものだった。おびえる小動物のように震え、汗と涙とそれ以外の汁に全身を濡らした彼の姿がそこにあった。 (合成写真よ!)  そうに決まっている。  姉の水鳥が時々買ってくるボーイズラヴ漫画の主人公のように、艶っぽく切なそうな表情を見せる彼の姿をその写真に見出して沙穂の血液は沸騰した。即座にシュレッダーに突っ込み、その上ライターで燃やして写真を処分したが沙穂の心には大きな「何か」が現在も残っている。  沙穂は気付いていない。  自分がどうしてここまで不機嫌なのかを、どうしてここまで気持ちが昂ぶっているのかを。晋也と浩之が「村上は浜茶屋でバイトしてるってさ」と言ったとき、自然と足が浜茶屋へと向かった。それが無意識的なものかどうかはもはやどうでも良く、ひょっとしたら過去に同じ事を繰り返したかもしれないと脳裏にひらめくものを抱きながら沙穂は砂浜をばく進していた。 (……でも)  本当だったらどうしよう。  いまだ己の気持ちを整理できず、それゆえに容赦なく砂煙を上げて突き進む沙穂だった。 「……なんで映像が流出したんだよぅ」  相変わらずテーブルに突っ伏したまま文彦は呻いた。  ベル・七枝が映像記録を撮っていた事は文彦も後で知った。それがパトリシア・マッケイン博士の手に渡り厳重封印されたことも知っている。  流出するはずがない。 「しかし業界に幾つか出回ったのは事実だ」  業界において並ぶ者がないとまで称される術師、すなわち墨染めの麻服を着た若者はしみじみと呟く。どこに住んでいるのか、いかなる組織にて修業したのか、不明な点が多い割に最強最悪の力を有する若者は、幾度かダビングされたであろう安物のビデオテープを文彦の隣に置いた。 「まあ、君も色々なところから注目されているし」  なにより敵も多い。 「君にダメージを与えたがっている連中なんて掃き捨てるほどいるだろ。第一、こんなのが出回ったところで動揺するなど君らしくもない」 「……だって、委員長に」  その先は言葉にならない。  若者は「ほお」と意外そうに呟き、文彦の背後に廻って肩を叩く。 「彼女に尻穴を捧げる気だったのか」 「そんなわけあるか!」  がばっと上体を起し叫ぶ文彦。  勢いがつきすぎたためにバランスを崩し、そのまま後ろに倒れこむ。特に殺意もない行動だったので若者は勢いに任せ、押し潰される格好で倒れてしまう。 「わ、悪ぃ。おれ、どーにかしてた……あんたに当たってもどうしようもねえのに」 「大した問題ではないよ」  少しばかり理性が回復したのか、己の大人気ない振る舞いを恥じて素直に謝罪する文彦。若者は仰向けのまま笑顔で答え、若者の胸元に倒れ顔を埋めていた文彦は赤面してしまう。  と。  言いようのない殺意を感じて文彦は上体を起こした。  海風が、一瞬だけ強く吹く。 「村上、くん?」  少女の声は震えていた。  激しい怒りによってだ。  思い切り聞き覚えのある声だったので視線をそこに向けると、沙穂が浜茶屋の入り口に立っていた。全力疾走していたのか肩を大きく上下させ、荒い呼吸は疲労によるものかそれとも精神的なものに起因するのか判断に困る。 「最初は誤解かと思ったの……ほら、最近ってCGの技術とか進んでいるから合成かもしれないって」  沙穂の視線は揺れている。焦点が一箇所に定まっていないかのようにも見えるが、向けられる殺意は微動だにしない。 「だって、村上くんがソッチの趣味を持っているなんて信じたくないし。私、本当は村上くんのこと嫌いじゃなかったし。でもっ」 「ちょ、ちょっと委員長?」  何を勘違いしているんだよ。  取り繕うとして、己の現状に気付き硬直する文彦。少し線の細い美青年たる若者の股を割るように身体を押し倒し、その胸元に顔を埋めた挙句頬を染めていたのである。  それでも普通ならば「誤解」と流すこともできただろう。  しかし。  昨夕より「写真」の映像が脳裏より消えない沙穂は正常な判断力を確実に失っていた。一見まともそうでも、笑顔の下には困惑と嫉妬と羨望と興奮が複雑に入り交じっていたのである。沙穂の脳内には水鳥の蔵書より得たボーイズラヴの知識が明確なビジュアルとなり、若者と文彦が夜の浜辺で抱擁し非生産的な行為に励む様子が出現する。  総天然色。  フルボイス。  もちろん静止画像ではなく全編アニメーションである。 「い」  一秒経過。  何が起こったのか文彦は気づかない。 「い」  二秒経過。  とりあえず沙穂に弁明しようと片膝をついたところで。 「……いやぁぁぁぁぁぁぁあっ!」 「委員長っ?」  文彦の理解を超えた部分で絶叫し、泣きながら走り去る沙穂。あまりにも唐突の事なので反応できなかった文彦は、誤解を解く最大最後の好機を逃すのだった。  どういうわけか泣きながら走り去っていく桐山沙穂を見て、村上文彦はこう呟いた。 「なんでおれが委員長を追いかけるんだ」  沙穂と文彦は恋人ではない。  沙穂に対して多少の好意を感じることはあっても、それ以上の関係に発展するつもりはない。かつて沙穂の身中に発生した「特異点」のために恋人の真似事をしたことはあっても、文彦としては本気になれなかった。  自身が術師であること。  沙穂の気持ちが作り物とも言うべき代物だったこと。  文彦の中に、笠間千秋への想いが僅かに残っていたこと。  それらのことが無意識に文彦の心を縛った。現在の沙穂に文彦への好意があったのは彼にとって驚きではあるが、だからこそ文彦は意固地になっていた。首を振って立ち上がり、拳をこれ以上ないと言うほど強く握って己に言い聞かせる文彦。  墨染めの麻服を着た若者は上体を起し、ほうほうと頷く。 「おれと委員長は何の関係もねえはずだ」 「然り」  麻服の砂粒を払う文彦。 「君と彼女の間には何の関係もない。そもそも君が彼女を求める理由がない」 「……そりゃその通りなんだが、なんか引っかかる言い方だな」 「別に」  さらりと流し、すっかり温くなった麦茶に口をつける若者。視線が遠い。普段よりろくでもないことを考え実行している若者だが、こういう仕草を見せるときは一際物騒な言動が多い事を知っているだけに、文彦は声のトーンを低くして唸る。小型犬が威嚇しているような文彦の仕草はむしろ可愛らしくもあったが、若者は空になった安物のタンブラーをテーブルに置いて自然に微笑む。 「君には尻穴まで許した可愛い弟子がいるじゃないか」 「いいんちょぉぉぉぉぉおおおっ!」  半ば自棄に叫びながら文彦は沙穂の後を追うべく走り出した。  浜茶屋の主人と少ない客はぎょっとして振り向くが、若者は文彦が脱ぎ捨てた安っぽいエプロンを拾って身につけた。  沙穂は走った。  ひたすらに走った。  起伏に富んだ砂浜を駆け、遮るものなく陽光を浴びて焼けた白砂を後方に蹴り上げながら沙穂は走った。  胸は、微動だにしない。  体型矯正機能のある水着を着ても、寄せて上げて胸に廻すだけの余分な肉がない肢体ゆえの悲劇である。体育の授業において陸上部やバスケ部に所属する女子がある意味で羨ましそうに沙穂の身体を見つめているのは、そのためである。そういう体質だから仕方がないといえばそれまでなのだが、小学生女子児童にさえ同情されてしまう沙穂の胸は伊達ではない。恐るべき空力特性を発揮する沙穂の身体は、吹奏楽部の基礎訓練による走り込みで鍛えられた下半身の脚力を完全な形で推力に変換する。ある程度の硬さを持った陸上競技場ならともかく、踏み込む角度にムラがあれば足首まで砂に埋もれるので推力が衰える上に余計な抵抗が生じる。  その意味で沙穂の走法は理想に近かった。  砂をかくのは親指の付け根の一点であり、砂が舞い上がるのは爪先が砂を蹴る際の衝撃が後方の砂を巻き込むためである。前後にリズムよく大きく振り上げる腕の動きにも無駄はなく、その速度は硬い地面で走っている時と比べても遜色がない。 「つまりナンパ目的で桐山を追いかけた連中はことごとく途中で力尽きたわけだ」  あのスタミナと瞬発力はバスケ部に欲しいものだ。  砂浜に累々と倒れる優男達の群を蹴り除けながら、仲森浩之は冷静に分析を下した。傍らでは伊井田晋也がもしゃもしゃとカキ氷を頬張り、時折襲う頭痛と格闘しながら沙穂の後姿を視線で追う。 「このままだと脱水症状になりそうだな」  倒れている男たちを見て他人事のように言う晋也。既に幾人かが「み、みず〜」と呻いており、そういった連中に柄口鳴美が磯釣り用のイワイソメを「はい、お口開けてぇ」と強引に飲み込ませようとしているのだが、それについても晋也は見なかったことにした。 「桐山を追いかけなくていいのか」  追いかける意思など微塵も見せずに問う晋也。 「追いつけなかったら恥ずかしいので嫌だ」  多分追いつけないだろうしと爽やかに笑いながら断る浩之。鳴美は自分の作業に没頭しているので晋也の問い掛けさえ聞いていない。  確かに沙穂の速度は尋常ではない。  硬い路面で走れば高校女子陸上の記録さえ打ち出せそうな勢いだ。それほどの脚力を持っていれば体育の授業などで噂になっているだろうが、晋也達は沙穂がこれほど足が速いことを今まさに知ったのである。噂にさえ上らないというのはいささか奇異であり、まして同級生として交友のある身であるからこそ晋也は声には出さなかったものの大変驚いた。  なるほど晋也の疑問ももっともである。  たとえ吹奏楽部の基礎訓練として走り込みを続けているとはいえ、持久力と腹筋そして肺活量を鍛えるために走りこんでいた沙穂には速度を上げるためのノウハウはない。それでも沙穂の身体が下手な陸上選手のそれを凌駕する走力を生み出しているのは、もちろん理由がある。  それは。 (特異点の後遺症か!)  既に点となって視界から消えそうな沙穂を追いかけつつ文彦は舌打ちする。  一時的とはいえ身中に特異点を宿し膨大な量の魔力を帯びた沙穂は、日常生活に支障のないレベルとはいえ身体機能が変質したのである。それはベル・七枝が魔力感覚の増大と共に身体能力が飛躍的に上昇したことに似ている。魔術感覚を鍛えていない沙穂だから、この程度の変質で済んだのかもしれないと文彦は唸る。 (全力で走るとマズイし、跳ぶのもマズイ)  そのまま走っても、小学生並の身長しかない文彦の足では沙穂に追いつかない。 (追いかけるの、やめようかな)  追いかけてどうするというのだ。  告白をするのか?  好きかどうかもわからないのに?  走りながら自問する。そもそも何故沙穂は泣きながら走り去っているのだ、その点からして文彦には理解できないのに、追いかけて何をするべきか分かるはずもない。頭のどこかで誰かが囁く。  追いかける必要などない。  追いかけて自分に何の得があるのだ。  沙穂は仲の良い同級生じゃないか。ここで追いかけると自分が彼女に対して特別な気持ちを抱いていることになるではないか。 (そうだ)  おれは追いかけなくてもいいんだ。  一人勝手に結論を出して足を止めかける文彦。浜茶屋を放り出してしまったことも今更ながらに思い出して、引き返そうとする。  が。 「あ、文彦さんっ」  嬉しそうな少女の声。  足を止めた場所には女子中学生というべき数名が水遊びをしており、その中で一際プロポーションの良い娘……金茶の髪をポニーテールにした、イギリス系の少女が文彦に笑顔で手を振る。  それがベル・七枝そのひとであると認識した途端、文彦の全身が硬直し汗が一気に噴出す。ベルの周囲にいたおそらく同級生と思しき少女達が文彦を見てなにやらひそひそと話し、その仕草に文彦が二度三度大きく痙攣する。 「文彦さん?」 「うわぁあぁああああああああああああああああああああああああああああっ!」  およそ数秒の硬直。  心配そうにベルが近付こうとした瞬間、文彦は空母のカタパルトで押し出された戦闘機の如き加速で砂浜を駆け出していた。爆発したかのように砂が舞い上がり、風船でも割れたかのように空気の避ける音が周囲に響く。 「なんか、あったのかな」  もちろん何かあったのだからこそ文彦は逃げるように駆け出したのだが、己のした事など綺麗さっぱり忘れていたベルは不思議そうに何度も首を傾げるのだった。  多くの術師は政府の管理下にはない。  特定企業や団体が抱える術師も、一つの団体が過半数を超えることはない。代々の家系であったり、あるいは高い素質を持つ個人が術師に見出されて訓練を受ける。最適というべき訓練方法が確立されていないので、極論すれば術師の数だけ流儀がある。流儀というのは厄介なものであり、一つにまとめようとすれば必ずと言っていいほど軋轢を生じる。三課が仲介を行っているのも、その難しさ厳しさを理解しているからだ。  フランチャイズの料理屋のように、マニュアル通りに指示して均一な力の術師を育てることなど不可能に近い。職人気質の家内工業、間違っても金型に材料を押し込んで超人が生まれるわけがない現実を知っているからこそ、政府は術師の養成を半ば諦めている。  養成せずとも十分な数の術師が揃うという現実。  強引に統制しようとして、酷い目に遭ったこともある。  人の法を外れて暴れるものに対峙しているのだから、術師というのは必要以上に法で縛られることを嫌うのかもしれない。各省庁の管理下にあるという術師も、実際には雇用契約を交わしているだけである。それ以上の拘束力を政府は有していないのだ。それでも何とかなっているのだから、下手に術師を敵に廻したくないというのが日本政府の見解である。  あくまでも日本政府の見解だ。  つまり。 「わが国の術師不足は深刻です」  それは日本語ではなかった。  豪華な内装の会議室、赤と青を基調とし星がたくさんついた国旗が嫌味にならない程度に飾られている。国旗は彼らの誇りであり、愛国心の象徴でもある。虐殺や陰謀を肯定するための免罪符だと罵る者が世界に数多く存在することを、会議室にいるものは勿論知っている。  知った上で、これを様々な力で叩き潰し屈服させることで彼らは自らの正義と主義主張を貫いてきた。  彼らはそのための努力を惜しまず躊躇もしなかった。それは戦いというものを誰よりも理解しているという自負、何より自らの国が世界を滅ぼしうる力を持つ超大国であるという認識が背後にあったからだ。  あるいは現在では、その力を持つ国は他に無いのかも知れない。だとすれば、彼らの国は唯一絶対の力を有すことになる。彼らが理不尽なる振る舞いを周辺の国にしてきたのも、その絶対性があったためである。  故に。  魔物の存在は彼らを恐怖させた。  銃弾もナイフも、成型炸薬も化学物質も、感染力の強い微生物も。  核でさえも。  魔物の本質を滅ぼすことは出来なかった。三課より派遣される新米術師がなんとか封じられる低級の魔物一体を仕留めるため太平洋を航行する艦隊が支払った犠牲を報告した時、かの国の大統領は危うく脳溢血で自らの政治生命を絶つところだったという。 「純銀の弾丸や聖別したナイフがある程度の効果を発揮することは確認されています」  先刻と同じ声の主、おそらく三十代と思われる女性がプロジェクターの画面を切り替えながら淡々と告げる。  画面に映し出されるのは冗談のような映像だ。 「光剣の量産をハリウッドに急がせたまえ」  将校と思しき壮年男性の声。  本気か冗談かも分からない発言だが、笑うものは誰もいない。十名以上の人がいるはずなのに、呼吸音さえ聞こえてこないのだ。 「本国にも術師は多数いたはずだ」  別の男の声。 「彼らを徴集することは不可能なのか」 「本国にて魔女狩り紛いの事件が多発したのはご存知ですか?」 「……」  女性の言葉に、男は沈黙する。魔物が大量に出現し現地の術師がこれを何とか退治した時、キリスト教系の政治団体が中心となって彼らを徹底的に迫害した。多くは国外に脱出したが、家族などを人質にされて惨殺された術師も決して少ない数ではなかった。それらの事件は表沙汰にもされず闇に葬られ、しかし結果的に彼らの国から術師のほとんどが姿を消した。 「わが国が魔物を滅ぼせる装備を開発できれば、状況は激変する」 「一年前も同じ言葉を聞きました」 「あと半年あれば完成すると言っているではないか!」 「その台詞も、やはり一年前に」  プロジェクターは、兵器研究所と思しき場所を映した。莫大な犠牲を払って捕獲した魔物と人間を外科手術で融合させようとしたり、あるいは機械を組み込んだ人間を兵士として完成させようとしていた研究所が破壊される様子が克明に映し出されている。銃弾や手榴弾、果ては大出力のレーザーまで持ち出して迎撃をしたにもかかわらず、研究所は土台さえ残さずに破壊されていく。  仮にも兵器研究所である。  テロリストどころか暴走する軍が攻めて来ても、ある程度は持ち堪えられるような設備と人員を備えている施設だ。 「この施設が侵入者によって壊滅するまで要した時間は七十三秒です」  誰かが息を呑んだ。 「魔物か」 「魔物より恐ろしい存在かと」  画面の一部が拡大して、一人の若者が姿を大きく映し出した。  墨染めの麻服を身につけ、魔物や機械と融合した人間たちを塩に変えていく。攻撃を仕掛ける者、逃げるものを問わず全ての人間が塩となり、建造物は砂となって崩れた。  薄暗い闇の中で、誰かが十字を切る。 「人間の仕業とはとても思えない」 「ソウルイーターと、術師たちの間で呼ばれている魔人です」  魔人という表現に、会議室が騒然とする。この魔人が彼らの国が行っている兵器開発を邪魔していると知り、そんな愚かで邪悪な事はないと意識しながらなす術もない無力さを嘆くのだ。 「現行の兵器では対抗できないというのか」 「残念ながら。強力な術師がいれば話は別ですが」  その術師がいないのですから、どうにもなりません。  女性の淡々とした言葉には説得力がある。 「日本政府に協力を要請して術師を確保できないのか」 「仲介はしてもらいましたが、交渉はことごとく失敗しています。多くの術師にとって件の魔人は鬼門のようなものですから」  女は政府と術師の関係について述べ、それが大きな失望による溜息を招いた。 「多少強引な方法を使っても構わん、条件に見合った術師をスカウトできないのかね」 「若干一名、なんとか交渉できそうな術師が」  それが本題であるかのように、女は画面を変えた。  小学生のような幼い容姿を持つ東洋人の少年がそこにあわられた時、女が艶っぽく息を吐き唾を飲み込んだのを周囲の男たちは理解していたが、あえて突っ込まないことにした。  犬上市の上空を、数機のヘリコプターが飛んでいく。  普段は近付くこともない、在日米軍の輸送ヘリである。 「無粋な」  浜茶屋で焼きそばをかき混ぜていた若者が、砂浜に轟音と突風を招いたヘリを見上げて呟いた。 (仕返しに来たわけではないだろうな)  あの程度の装備や人員で何とかできると思うほど、愚かでもあるまい。  彼我の戦力を慎重なまでに考えて過剰戦力を投入するのが、かの国の「美徳」なのだから。慎ましさや侘び寂びという言葉、ついでに繊細な味覚というものがDNAより欠如しているのではないのかと疑問を抱かざるを得ない国民性である。  ヘリは浜茶屋を通り過ぎ、桐山沙穂と村上文彦が走り去った岩場へと急行していった。 「ああ」  そういうことか。  それだけ確認すると、若者は再び焼きそばに専念したという。  現状を整理することは、とても大切だ。  僅かに残った理性を総動員して村上文彦は黙考した。 (おれは、委員長を追いかけている)  最も重要な事項を、まず脳裏に浮かべる。  クラス委員長である桐山沙穂を追いかける、その理由や結果は大きな意味を持たない。追いかけること、その行為が文彦の理性を維持しているので余計なことを考えたくないというのもある。 (委員長は、岩場に駆け込んで姿を消した。直線距離にして、約400メートル先の岩陰。委員長は、そこで体育座りの姿勢でべそをかいている)  文彦は沙穂の位置と様子を探り、認識する。視覚聴覚では捉えられない情報を、術を使って理解する。感情は動かず、機械的に思考が情報をまとめ、文彦に幾つかの決断を促す。  目の前には、真夏というのに黒服黒眼鏡の集団。  小麦色の肌をした連中は、アーノルド・シュワルツネッガーかシルベスタ・スタローンを連想させる、筋肉質の大男。黒色の肌をした連中は、NBAで活躍していたという禿頭の巨漢に似ている。もっとも、日本で生まれ育った文彦に、様々な人種が入り交じった米国人の個体識別などという器用な真似が出来るはずもない。  十名程度が横一列になり、全く表情を変えることなく直立し、文彦の行く手を塞いでいる。  迂回しようとすれば、列は動く。丘の方にも、海の方にもだ。上等のスーツが砂や海水に汚れようと、彼らは全く意に介していない様子である。 (距離は変わらず400メートル、泣き疲れて寝ている可能性あり)  だとすれば追いつく好機である。  好機ではあるが故に、この屈強なる男たちが邪魔だ。如何なる目的で文彦を通せんぼしているのか、術師とはいえ読みきれるものではない。  黒服の男たちは、訝しげに自分たちを睨む文彦の姿を見て、歯茎を剥き出しにするような笑みを浮かべる。ヤスリで磨いたような、真っ白の歯が真夏の陽光に照り返る。その不自然極まりない歯の輝きに文彦が僅かに怯むと、黒服黒眼鏡の男たちは生地を破らんほどの筋肉を一気に膨張させ、名乗りを上げた。 「マッスル1!」 「マッスル2!」 「マッスル3!」 「マッスル4!」 「マッスル5!」 「マッスル6!」 「マッスル7!」 「マッスル8!」 「マッスル9!」 「マッスル10!」 『十人揃って  』  選手宣誓のように片手を揚げ、唱和する黒服の男たち。  文彦は引きつった顔のまま、指を鳴らす。途端に彼らの足下で地面が爆発し、黒服の男たちは沖まで吹き飛ばされてしまった。 「話を聞いて、シャドウ・キッド」 「そんな愉快な名前を持った覚えはねえ!」  爆音が止む頃現れた金髪女性が日本語で叫び、文彦もまた負けずに叫び返した。先刻吹き飛ばした連中と同じく黒服黒眼鏡の女は、真夏の日差しに負けないよう分厚いファンデーションを塗り、砂浜に踵が沈むのも構わずハイヒールを履いている。  年齢は分からないが、口元や目じりの「隠そうとした跡」を見るに、三課のパトリシア・マッケインより確実に年上だろうと文彦は判断した。 「私たちは、あなたをスカウトしに来たの」 「筋肉変態集団に招かれる覚えもない!」  やけに流暢な金髪女の日本語に多少の違和感を抱く文彦。  数分前に、民間機とは思えぬ大型ヘリコプターが頭上を越えて着陸したのを文彦は覚えている。そのヘリから彼らがやってきたことも、理解している。 「帰れ、変態に用はねえ」 「あら他人のこと、言えて?」  何もかも見通しているかのような、女の微笑み。  無視して通り過ぎようとした文彦は露骨に硬直し、真夏というのに血の気のない表情で、女を見る。 「押しかけ弟子の女の子に寝込みを襲われて、そのまま……うふふ、素敵よね。デーモンを相手に凛と立ち向かうシャドウ・キッドが、あんな色っぽい声で鳴くなんて」 「なっ」  女は文彦の反応を楽しむように、笑う。興奮しているのか息は荒く、胸も肩も上下している。 「日本各所に、あのデータは流したわ。私たちの組織が動けば、国連の安保理であのビデオを上映する事だって可能。術師として、それ以前に人として  」  言い終わらぬ内に、地面が爆発して女は部下同様に沖合いに吹き飛び、派手な水柱を上げる。  その軌跡を視線で追い、肩を大きく上下した後、文彦は重い足取りで岩場の沙穂に追いつこうとする。  が。 「待ちなサーイ、シャドウ・キッド!」 「コレコレ、この小娘を見るデェェェス!」 「ユーのステディでーす!」 「我々が確保しましター!」 「我々と一緒に正義をしなサーイ!」 「さもなくば、ユーのステディは大変なことになるデース!」 「我々は正義デース!」 「共に悪と戦うデース!」 「とりあえず、打倒ソウルイーター、デェェェス!」 「力を貸しなサーイ!」  沖合いより泳いできたのだろう、黒服黒眼鏡の男たちが海水を吐きながら現れた。  着衣のまま泳ぐということがどれほど困難なのか、文彦は知っている。爆発の衝撃で衣服のあちこちが焦げ破れたので多少の動きやすさがあったのかもしれないが、それにしても尋常ではない。  そして。  この屈強なる男たちは、一人の少女を頭上に掲げていた。  金茶の髪をポニーテールにした、ハーフの娘だ。しなやかな肢体は健康的な色気を帯び、まだまだ発育途中でありながら、この年頃にしか出せぬ魅力を醸し出している。未成熟であるが故に完成した美。小悪魔的と表現する者もいる、その魅力。  少女の名は、ベル・七枝。  三課より派遣された炎術師であり、文彦の家に下宿している女子中学生だ。  炎術師としての実力は、この数日で急激に上昇している。事情を知らぬ者が見れば、別人ではないかと思うほど、進化という言葉を用いたくなるほどの変化だ。それでも彼女が炎術師である事実に変わりはなく、炎術師であるが故の弱点も宿命的に抱えている。  つまり。  水辺における炎術師ほど無力な存在はないという、そういう宿命だ。 「文彦さぁぁぁぁぁんっ!」  バーベルのように、胴上げされた野球選手のような格好でベルは叫ぶ。おそらく詳しい事情を把握していないのだろう、それを言ったら文彦も似たようなものだったが、ベルは困惑しているように見えた。 「私に構わず逃げて、逃げてくださいっ文彦さぁぁん!」  事情は分からぬが。  シチュエーションに酔っていた。 「私の事を愛しているのなら、逃げて下さいっ」 「じゃあ逃げねえ」  間髪いれずに発した呟きは小さかったが、しっかりベルの耳にも届いた。  露骨にベルが硬直したので黒服の男たちも言葉を失い、バツの悪そうな顔で文彦を見る。 「ヘイ、シャドウ・キッド。それはあんまりデース」 「イエスイエス、こういう時は義理でも迷ってみせるものデース」 「右に同じデース」 「右に同じデース」 「右に同じデース」 「右に同じデース」 「右に同じデース」 「右に同じデース」 「右に同じデース」 「右に同じデース」  口々に叫ぶ黒服の男たち。  ぷちん、と文彦の中で何かが弾けたのはその時だった。 「ジンライ」 『ここに』  文彦の言葉と共に、足下の影より大狼ジンライが姿を現す。虎ほどもある巨大な姿に男たちは驚き、ベルは文彦の意図するものを察して慌てる。 「あれ、全部吹き飛ばせ」 『……七枝殿も、ですか?』 「既に命は伝えた」 『  御意』  直後、幾条もの雷が晴天を引き裂くように降ってくる。腰まで海水に浸かっていた男たちは逃げ場もなく、その直撃を受けて再び沖合いに吹き飛んだ。その中にベルが含まれていたかもしれないが、確認することさえ疲れた文彦は、沙穂を追いかける事を優先させた。  桐山沙穂は、いじけていた。  優等生という人種は、得てして過剰な思い込みと早合点を繰り返すものだ。沙穂もまたその例に漏れず、数多くの失敗を繰り返している。旧くは幼稚園で遠足の日を一日早く間違えたことに始まり、今でも年に数回は似たような間違いを犯す。経験が人間を育てるとは言っても、十数年という半生は、沙穂にポーカーフェイスを与えるには短すぎる。  まして思春期の娘が、ほのかに想いを寄せる少年のアレな場面を目撃して平静さを保てるはずもない。  アレである。  姉の水鳥が買ったり読んだり、場合によっては売り買いしている書物の内容を思い出す。美しい少年と青年が糸を引くような口付けを交わし、アレにソレを出したり入れたりかじったり舐めたりするのだ。 (吸ったりしゃぶったり、口に入れてもごもごしたり)  体育座りの姿勢で岩場にうずくまっていた沙穂は、妙に生々しい映像を思い浮かべてしまう。。 「村上くんが、村上くんが、村上くんが……男の人とあんなことしたり、こんなことしたり」 「しねえよ」 「ひゃあっ」  背後より、村上文彦の不機嫌そうな声。気配さえ感じていなかった沙穂は過剰に反応し、背筋を勢いよく伸ばす。 「なに想像していたんだ」  振り向くより先に、どこか疲れた様子の文彦が沙穂の前に現れた。目の下には隈があり、呼吸も荒い。足場の悪い砂浜を数キロ全力疾走すれば、プロスポーツ選手でもない限り、大抵の人間は途中で力尽きる。しかも、この炎天下で、得体の知れない連中を吹き飛ばしてきたのだ。  たとえ術師としての訓練を受け、数え切れぬほどの実戦をかいくぐってきた文彦であっても例外ではない。膝に手をつき上体を屈め、咳き込むように文彦は息を整えていた。 「村上、くん?」 「おう」  しばらく後に。  なんとなくバツの悪そうな沙穂は、座ったまま文彦を上目遣いに見た。文彦はというと、そもそも沙穂に追いつくことを目的に動いていただけである。短く返事する以外にすることはない。そういう素っ気ない対応をされてしまうと、沙穂も言葉の続けようがない。  再び、どうしようもない沈黙が二人の間に訪れる。 「あー」  目的を達成し落ち着いた文彦は、ようやく現状を認識するだけの理性を回復した。  沙穂が、何かを期待する目でこちらを見つめているのも知る。 (私を追いかけてきてくれたって、自惚れてもいいの?)  沙穂の目は、そう語っている。おそらくは先刻から、ずっとだ。  文彦は、自分がどういう立場にあるのかを理解した。 「あー」  人気のない岩場の陰に、文字通り二人きり。  沙穂を追いかけてきた、その事に違いはない。誤魔化しようもない。下手なことを言えば沙穂が傷つくのは目に見えていたし、最悪、誤解を一層深める結果になりかねない。  逡巡の後、文彦は覚悟を決めた。 「委員長、聞いて欲しいことがあるんだ」  そう言いながらも、文彦は自分が何を語るべきか自覚していなかった。焦燥感に近い衝動が、起こる。この気まずい沈黙よりいち早く逃れたいという欲求を満たすべく、文彦の口を動かしているような錯覚さえあった。 「はい」  沙穂は慌てて立ち上がり、脚や水着についた砂を払い落とす。理由を問うわけでもなく、反抗するわけでもない。驚くほど素直かつ従順な沙穂の振る舞いに、文彦は面に出さないまでも狼狽する。 「おれ、委員長に隠していたことが幾つかあるんだ」  言葉を間違えれば、沙穂が今まで以上にいじけてしまうのは目に見えている。 「すっげー大事なことなんだ」 「はい」 「……別に聞き流しても構わねえんだけど……いや、やっぱり言わない方が」 「とっとと言わんかいゴルァ」  一瞬だけ物凄い形相になって文彦を睨む沙穂。  文彦はぎょっとして数歩退くが、すぐさま笑みを浮かべる沙穂に見つめられ、動きを止める。 「他に人はいないもの、どんな恥ずかしいことを口にしても平気」 「わかった」  今度こそ覚悟を決めて、文彦は頷く。  沙穂も、小さく頷く。不安を上回る期待に、隆起がまるでない胸も膨らむ。 「おれは」 「はい」 「待ってくだサーイ!」  野太い声、たどたどしい日本語による絶叫が文彦の言葉を止めた。  聞き覚えのある文彦は振り向きもせず頭を抱え、覚えのない沙穂はとにかく邪魔者の正体を知るべく視線を動かし。  絶句した。  先刻まで着用していた黒服は爆発と落雷で全て燃え尽き、今は股間を覆う漆黒のビキニパンツが唯一の着衣。外れた黒眼鏡の下にあったのは、一昔前の少女漫画を髣髴とさせる、つぶらな瞳。盛り上がった筋肉は、岩場に打ち寄せる波しぶきなど、ものともしない。  海水をも弾く、ぬらぬらてかてかした筋肉の美。  ロダンの彫刻にも通じる、リアリティのないほど大胆に盛り上がった筋肉を宿す十人の米国人。 「シャドウ・キッド! カムバーック!」 「アイ・ニーヂュウウ!」 「アァァァァアァァイ・ウォンチュゥゥゥゥゥゥゥゥゥウッ!」 「ぷりーづ・ぷりーづ・かむうぃづ・みー!」 「一緒に来てくれたら全てを捧げマース!」 「ユーが欲しいデース!」 「我々を好きにしてイイデェェェェス、だから一緒に来てくだサァァァァァイ!」 「我々にはユーが必要なんデース!」 「優しくしてクダサァァァァァイ!」 「見捨てないでクダサァァァイ!」  筋骨隆々とした男十人が。  小麦色ないし黒色の、ぬらぬらてらてらした素肌を露出させ。  えぐい黒色のビキニパンツの食い込みがかなり厳しい腰を振りつつ。  波をかき分け、彼らは文彦と沙穂のいる岩場を目指した。 「……」  文彦は、沙穂を見つめていた。だから、沙穂の表情が変化していくさまを、文彦は観察することができた。つまり、何かを期待していた笑顔が強張り、引きつり、曇り、もはや表現しようのない悲しみと怒りと拒絶感が入り交じった形相となった沙穂の顔をだ。  ああ、やっぱり。  その呟きを発したのは、沙穂か文彦か。  追及することさえ面倒くさくなった文彦の前で、沙穂の両目に涙が浮かんだ。 「う、うぅ……うわぁぁぁぁぁぁんっ!」  来た時以上の踏み込みで、岩場から砂浜へと駆け出していく沙穂。  もはや追いかける気さえ喪失していた文彦は、とりあえず駆け寄ってくる男共に術を叩き込むことにした。  閉店間際の浜茶屋で、一人の若者が焼きそばを仕上げていた。  既に海水浴客の多くは帰り支度を始めており、若者は臨時のバイト代がわりに山ほどの焼きそばを頂くことで店主との交渉を済ませていたのだ。 「それで、誤解されたまま彼女を帰したのかい」 「伊井田や柄口が一緒にいたから」  浜茶屋のテーブルに突っ伏したまま、文彦は呻いた。ひょっとしたら悔しさと情けなさで涙を流しているのかもしれないが、若者はそこまで知ろうとは思わなかったので触れずに済ませた。 「あんたが米国の施設を中途半端に壊さなかったら、連中も反撃しようなんて思わなかったんだ」 「政治屋や軍人の意向など、僕らには関係ないよ。バケモノと術師の業界に首を突っ込まない限り、虐殺しようが戦争を起そうが勝手にすればいい」 「……三課に入った情報じゃ、各地の術師を徴集しようって動きもあるじゃねえか」  しくしくと嘆く文彦。麻服を着た若者は、どこからか取り出した大型のタッパーに焼きそばをぎゅうぎゅうと詰め込んで頷く。 「じゃあ今度から容赦せずに潰すさ。それなら君も障害なく彼女と愛を語らえるというものだ」 「……多分、そんな機会は二度とねえよ」  そこから先は言葉にならない。  若者は肩をすくめると浜茶屋を去り、一人残った文彦は日が暮れるまで浜茶屋にて落ち込み続けたという。