第五話 魂を喰らうもの  それほど広くない部屋の片隅で、一人の男が泣いていた。  一ヶ月前まで私立中学の講師を務めていたという彼は、汗脂と土埃で汚れたスーツ姿で徘徊しているところを警察に発見され保護された。職務に問題はなく、生徒との間に不和があったわけではない。同僚に尋ねても彼が何かに悩んでいたという様子はなく、それは結婚を約束した女性に聞いても同じだった。  真面目だけどユーモアのある好青年。  誰に聞いてもそう返ってきた。たとえどんな困難に面しても弱音を吐かずに立ち向かい克服する。かつて女生徒を変質者が襲った時、ナイフを持った変質者を素手で取り押さえた事もあるほどだ。だから勤務地より遠く離れた犬上市で彼が保護された時、婚約者だけでなく校長や教え子たちも病院に駆けつけた。 「しかし彼は魔物に取り憑かれていました」  体躯の立派な警官が書類を渡しつつ村上文彦に説明する。 「失踪は、犯罪行為への衝動を理性で押さえ込もうとした結果だと前任者は判断しました。異形自体も既に前任者が封印を施し、危険性はないのですが」 「被害者の内面に影響が残ったな」  食い物にされたか。  口の中で文彦は毒づき、扉を開ける。男は、小学生のような少年が入ってきたので少し驚き、そして顔を上げた。 「わたしに近付かない方がいい」  シャワーを浴びていないからねと、力のない笑みを作る男。 「これでも以前は美男子と言われたものだが、今は屑みたいなものだ」 「あんたは何を我慢している?」  警官が用意したパイプ椅子を広げて座り、挨拶もそこそこに話を始める文彦。 「教師としての自分が到底許されないって思うような『こと』だから、あんた逃げたんだろ。逃げてまで、今まで関わった人たちを守ろうとしたんだろ。それくらい、どうしようもないことを我慢してるんだろ?」 「君は、わかるのか」  男は驚いて、そしてひどく疲れた表情で文彦を見た。  心の奥底に隠し、警官にさえ語らなかった己の恥ずべきものを、目の前の少年は理解している。  文彦は答えず、男の瞳を見る。瞳の奥の、男が隠している衝動とも言うべきものを見ている。数秒で男は何かを感じたのか視線をそらすのだが、文彦は 「ふん。『切り刻みたい』ね」  と呟いた。男はバネのように身体を動かして立ち上がり、そのまま退こうとする。既に部屋の隅にいた男は頭と背中をしたたかに壁へ打ちつけたのだが、それさえ構わずに文彦から逃げようとする。  もちろん逃げ場などない。 「……引き裂いて、噛んで、飲み込んで。ああ、食欲が他の欲求に直結しているのか」  メモでも読み上げるかのように。  男が隠していた事を、失踪するまで気付かなかったことを文彦は口にした。あらかじめ知っていたのではなく、今そこで観察して知ったかのような口調でだ。否、確かに文彦はその場で男の心を読んだのだ。  自身が向き合うことのできなかった心の奥まで文彦は見抜いていたから、男は恐怖する。 「君は、あのバケモノと同じなのか?」 「同じように扱われることは多いけどさ」  多少は傷ついたのか声のトーンを一段低くして、椅子を蹴り立つ文彦。小学生並みに小柄な文彦でも数歩でたどり着ける距離だから、男はそれだけで恐怖に表情を歪める。更に逃げようとするのだが、身体が思うように動かない。 「わたしは、恐ろしいんだ」息を呑む男「自分の中に、そういう気持ちがあったなんて知りもしなかった。でも、それは間違いなくわたしの中から生まれた気持ちなんだ。こんな気持ちを抱えたわたしが、学校に戻れるはずがないだろう」 「それは、あんたの都合。おれが動くのは、おれの都合」  と。  数歩の距離を一気に踏み込んで、右の拳を男の胸へと突き込む。影を巻き込んだ文彦の拳は、男の衣服を貫通し皮を破り肉骨の間に潜り込んで臓腑に達する。異物の挿入感に男は悲鳴を上げかけるが、吸い込んだ息が再び声帯を震わせるよりも早く文彦は拳を引き抜いていた。  痛みも出血もない。  拳に張り付いた『影』を振り落として指を開けば、胡桃大の紅玉がそこに現れる。  男は、心臓の辺りを手で押さえる。己の身に起こった事を理解できないのか、紅玉と文彦の顔を交互に見る。 「これが、あんたの心に巣食っていた闇だ。次に目を覚ました時、あんたを縛る鎖はないし悪夢も消えている」  掌より影が生まれ、刃と化した影が紅玉を微塵に砕く。  男は胸を押さえたまま意識を失い、前のめりに倒れた。リノリウム張りの床へ膝をつき、顔面をしたたかに打っても男の意識は戻らない。その物音に警官と病院の職員が部屋へと入り、担架で男を運び出す。気絶した男は鼻血で汚れていたが、先刻までの焦燥感と絶望は消えていた。おそらくそれが男本来の人相なのだろうと文彦は考え、程なく手渡された書類に署名する。 「職場と婚約者には何て説明するのさ」 「いつも通りですよ」仏頂面で返す警官「当たり障りのない理由を適当に」  バケモノに取り憑かれていても罪を犯さず、自身の衝動を押さえ込もうとした男だ。三課は彼が職場に復帰できるよう最大限の援助をすると言っていた。意識を回復する頃には、男の中の衝動は記憶と共に消えているだろう。 「今日は、あと何名?」 「警察病院で確保している分で、二十名。身元照合中の者が十名ほど移送されてくる予定です」  警官の言葉に文彦は「練習台には十分な数だ」とだけ答え、次の部屋に移動しようとして。 「そうだ、今の男」  と思い出したように手を叩く。警官はぎょっとして文彦の言葉を待つ。 「ええ、彼が……他にトラブルでも」 「アパートの台所に、食べかけの牛丼とフライドチキンが」  凄い事になってるよ。  蒸し暑かった七月の天気を思い出し、真顔で呟く文彦。警官は返答こそしなかったが青い顔で文彦を次なる部屋へと案内した。  芳崎宝はいつものように犬上北高校の正門をくぐった。  夏休みが始まって既に一週間が過ぎ、予備校の講習は前半分が終わって生徒達にも余裕が生まれつつある。  そもそも夏季講習は朝から晩まで行われるようなものではなく、受験を控えた者でない限り昼をやや過ぎれば解放される。つまり深夜まで頑張るのはあくまで三年生であり、二年生のカリキュラムはそれほど深刻なものではないのだ。それでも高校二年生というのは委員会や部活動の中心として動くから、講習に参加しない生徒も犬上市では珍しくない。  放送部長たる彼女もまた夏休みを利用して、秋の高文連で発表する作品を何とかするべく夏休みに入っても学校の部室に通いつめていた。 (むしろ余計な邪魔が入らない分、制作を進めないとね)  蒸し暑い季節だからと髪を短くして、軽くなった頭を振りつつ廊下を歩く宝。夏休みとはいえ学校を歩くのだからと着用した制服のスカートが大きく揺れ、上履きがパタパタ乾いた音を立てる。  放送部というのは学校行事に頻繁に借り出されるものだから、学期中はなかなか放送部本来の活動ができないものだ。もちろん放送機器のセッティングや連絡事項、昼休みの番組放送なども立派な活動なのだが。  しかし、形の残る放送活動となると番組制作以外にはない。それができなければ、放送部は教師の小間使いでしかなくなるのだ。宝はそれが嫌だったので、番組制作にただならぬ情熱を燃やしている……後輩はもちろん、本来予備校に通っているはずの三年生さえ動員してだ。 (問題があるとすれば)  企画立案兼製作総指揮たる彼女は、スポーツバッグに小型のビデオカメラと書類の束を詰め込んでいる。小柄な宝では荷物に振り回されるのではないかと思うほど、大きなバッグだ。それをものともせず宝は歩く。入学してからそういう生活だったし、当たり前だと考えている。 (やっぱ個性的なネタだね。話題性があって、お偉いさんも納得できる程度に知的で、それでいて馬鹿馬鹿しさのあるネタ。とにかくネタっす)  先輩後輩が提出した企画書を昨晩までに読み終えて、そのことごとくに宝は没ハンコを押した。集まった企画書はどこかで見てきたような内容ばかりだったので、逆上した彼女は昨晩の内に部員全員に電話をかけて新しい企画書を用意させたのである。 (個性的)  地味で堅実な題材を扱うドキュメンタリーは派手さはないが評価は高い。惜しむらくは、その種の題材は昨年扱ってしまったことであり、宝は二番煎じというものをひどく嫌っていた。 (……ものすごい心当たりがひとつだけあるんだけど、さすがにアレは使えないだろうしなァ)  同級生である文彦の顔を思い浮かべ、溜息が出る。 (人知れず妖怪退治を続ける高校生! 影法師の素顔に迫る!って)  それじゃあ三流オカルト雑誌の記事にもならない。  万が一そういうものを作っても、高文連には提出できない。与太話として無視されるか「知っている」連中が揉み消すだけだろう、かつて文彦はそう警告している。 (うーん)  どこかにネタはないものか。  考えながら放送部の部室を目指して歩き、立ち止まる。 「ちょっと、あんた」  逃げ出したい気持ちを必死に抑え、声を上げる。  廊下を塞ぐように一人の青年が立っていた。あるいは文彦の母のように実は女性なのかもしれないが、判断に困るところだ。影を衣のようにして身につけた青年は、その手を一人の少女に伸ばし顔を掴んでいた。凶器を持っている訳ではない、少女も抵抗しているわけでもない。 (違う)  床に散らばった楽譜の束とクラリネットを見て、それが尋常な事態ではないと宝は判断した。いや、そんな確認など必要としないほど、異常だった。 「そのコを放しなさい、人を呼ぶわよ!」  こんな時に村上がいれば。  かつて同級生の秘密に触れた事件を思い出し、唇を噛む宝。青年はそれを見て頷く。 「では、せっかくだから村上文彦くんを指名しようか」  沈黙が生じた。  硬直する宝に、青年は微笑む。ぞっとするような笑顔だ。 「彼に伝えて欲しい、ガールフレンドの臨界点は後三日だと」 「臨界……点?」 「君の口から彼に決断を迫って欲しい」  青年は己の身体を影に沈めて姿を消し、意識を失った少女が床に倒れた。 「委員長!」  桐山沙穂の姿をそこに見出し、声を出す宝。  沙穂とはそれほど仲が良いわけではないのだが、駆け寄って上体を抱き起こす。額に手を当てれば、とても熱い。 「誰か! 誰か、手を貸して!」  大声で人を呼びながら、妙に落ち着いていた宝は携帯端末を操作して文彦を呼び出そうとした。  同級生の芳崎宝から事情を一通り聞いた村上文彦は普段と変わらぬ態度で「そうか」と返事をし、そのまま保健室に入った。軽い熱中症と判断された桐山沙穂は保健室のベッドで横になり、今は吸熱シートを額に貼って寝ている。  養護教諭は「ちょっと会議があるから」と出掛け、今そこには彼ら三人しかいない。 「……放送部、行かなくていいのか」  数分ほど沙穂の様子を観察していた文彦が、思い出したように呟く。 「別に俺は委員長を襲ったりはしねーぞ」 「委員長が村上を襲う」  ジト目で宝が呟けば、横になっていた沙穂が瞼を開いて「ちっ」と舌打ちする。 「ぼくが思うにだ」  なんとなく委員長を殴り倒したい気分をとりあえず我慢して、手近な椅子に腰を下ろす宝。 「あの男が言ってた委員長の臨界点というのは、理性の限界が近いことではないのか」 「理性なら随分前に吹き飛んでると思う」  それは大きな問題ではないと、文彦。 「その理性を戻すために色々用意しているんだけど」 「……私は嫌だからね、村上くん」  横になったまま頬を膨らませ、ぷいと横を向くついでに寝返りを打つ沙穂。文彦はがっくりとうなだれ、何の事だかわからない宝はとりあえず「ほほう」と唸ることにした。  沙穂が自らの事情を知った次の朝、彼女は至極当たり前のように文彦の家を訪れてこう尋ねた。 「特異点を処理したら、私どうなるの?」  隣では大狼ジンライがしょっぱい顔で控えている。およそ交渉事には向かない使い魔の失態を知った文彦は、その問いに即答できなかった。もちろんそれは朝の仕込みのために厨房で掃除していたことも関係しているし、台所で母親と妹達が意味ありげな笑みを浮かべてこちらを見ているというのもあった。彼女達が「やっぱりね」とか「ガキが一人前に色気づいたか」など話しているのを聞いた文彦は事情を説明するより先に家族を沈黙させるべきかと本気で考えたが、何とか踏み止まり、まずは己が知る範囲で答えることにした。 「特異点が作用している衝動が、その根本から消える」  ジンライが前夜沙穂に言ったことを文彦は繰り返した。 「委員長の場合、おれへの恋愛感情が消失する。それと、衝動の消失による精神への負担を軽減するために衝動に関係する記憶も操作することになる」  つまり。  あたりさわりのない回答は何だろうかと迷い続け、数日前に出した結論を文彦は口にした。 「おれと委員長、気の合う友人としての関係を維持することは可能だ」  あくまで文彦の認識において、あたりさわりのない結論である。 「幸いにも深い関係に及んでいないし、夏休みは三週間残っているから気持ちを整理して新学期に臨むことも難しくない。本当に好きな相手が出てきたら、友人として心から祝福するし最大限の助力も約束する」  誠心誠意を込めて言う。  誠心誠意を込めているからこそ。 「噛んじゃえ、ジンライさん」 『わふぅ〜う』  笑顔に青筋浮かべて沙穂が指を鳴らせば、条件反射でジンライは己の主人に噛み付いた。  それより約一週間、文彦は辛抱強く沙穂を説得しようと試みた。  三課の仕事と家業を並行して片付けつつ、暇を見ては何度も説得した。たとえば予備校の帰りに待ち構えて、沙穂が「お好み焼き食べたい」と呟けば駅裏の鉄板焼き屋に連れ込み、あるいは「イルカショー見たい」と呟けば転移魔術で遠く離れた水族館まで出かけ、はたまた「ねえ……キスして」と色っぽく迫られれば聞かなかったことにして、とにかく説得を試みたのだ。 「特異点を処理しないと大変なことになるんだよ、委員長」 「私の気持ちが消えることは、もっと大変なのよっ」  お好み焼きを頬張りイルカショーを堪能し、沙穂は言う。 「命には代えられないだろ」 「自分の気持ちを捨ててまで長生きなんてしたくないわよ」  顔を掴まれてキスを阻止されつつも、口を尖らせ主張する沙穂。結局一週間という時間をかけて文彦は説得したが、それらは失敗に終わった。その間に周囲は「やっぱり村上って桐山さんと付き合っているんだ」と認識し、同級生達は「なぁんだ」と温かい目で見守っていた。 「大抵の人は特異点が臨界に達する前に術師が処理したり、あるいは自滅しているんだ  ああやって、あの男が現れるなんて余程の事態なんだぞ」  かくして。  保健室では文彦が沙穂の説得を続けていた。沙穂は布団の端をかじりつつ、とりあえずは文彦の話に耳を傾けている。 「そうそう、あいつって何者なんだ?」  学校の廊下で沙穂に何かをしていた不審な若者を思い出し、宝が会話に割り込んだ。 「やっぱ同業者なのか?」 「同業者と言えば、その通りだ」  珍しく歯切れの悪い口調で頷く文彦。 「普通の術者ではどうにもならない事態になったときに派遣される、最終兵器みたいなヤツだ。場合によっては委員長を始末する事も辞さないし、おれの力では対抗することも出来ねえ」 「そんなに強いのか」 「冗談でも思わないね……あの『魂を喰らうもの』に喧嘩を売ろうだなんて」  名を口にしただけだというのに。  文彦の唇が震えていたことに、二人の少女は気がついた。  鈴が鳴った。  凛と、鋼を打ち合わせたような硬く澄んだ音色だった。  遠く遠く響く音色は耳に心地良く、そして魂が奮える。心臓が激しく鼓動し、筋肉が萎縮する。まっとうな生を受けて世に出た生き物には聞くことのできない音の響きに、村上文彦は反射的に立ち上がろうとした。  凛。  鈴が再び鳴る。  言いようのない喪失感と眩暈に姿勢を崩しかけて、文彦は目の前のベッドに手をつく。 (仕掛けられた)  理屈ではなく直感で理解する。いま、自分は術を仕掛けられた。二つの使い魔を周囲に放ち、自身も細心の注意を払って辺りの気配を探っていながら、術師の攻撃を受けたのだ。  並の相手ならば術を放つ前に気付いて術返しも行える。それだけの実力が文彦にはある。その文彦が仕掛けられるまで気付かなかったのは、彼我の実力差が圧倒的ということだ。  自分は支配されたのか?  それを拒むことに成功できたのか?  自問し、唸る。顔面より吹き出る汗は恐怖と緊張から生じるものであり、それを拭う間さえ惜しんで文彦は自身の記憶を洗い直す。走馬灯のように脳内情報を増幅し、それを一瞬で判断する。常人では真似できない事柄も、術師としての訓練を受けた文彦にとっては数秒間の作業に過ぎない。  時間にすれば、深呼吸一つ分の間。  肩を大きく動かして息を吐き、自分が辛うじて術の支配より逃れたことを知る。 「見舞いに来て自分が転んでは話にならないな」  後ろから声をかけるのは、同級生の芳崎宝だ。  呆れたような情けないような表情で呟くと、彼女はやれやれと首を振る。 「こんなのが彼氏では、委員長も苦労が耐えないだろうな……たかが貧血でここまで慌てるかね、普通」 「普段は意外としっかりしているのよ、文彦くんは」  ちょっと恥ずかしそうに返すのは、ベッドの上にいる桐山沙穂だ。  文彦くん、と。  沙穂は当たり前のように呼んだ。違和感を抱き文彦が顔を上げれば、沙穂がはにかんでいる。手のかかる弟を見る姉のように、優しい目で文彦を見つめている。 「ね、文彦くん?」  ごく自然に沙穂は文彦の手を握った。  柔らかく、そして少しばかり冷たい手に触れて文彦は一つの事実を理解した。 (特異点が、消失している)  触れずとも察してはいた。  だが手に触れることで、沙穂の体内で暴走寸前にまで膨れ上がっていた魔力と、その源というべき特異点が完全に消滅していることを認識した。 (それだけじゃない)  沙穂の手に触れ、心の様相を読み取り文彦はもう一つの事実を知る。 「……大丈夫、文彦くん?」  呆然と呟く文彦の額に、沙穂がそっと手を添えた。文彦は返事せず、奥歯を強く噛み締めた。  犬上市の街中に、小高い丘がある。  数十年前の発掘調査で古代の墳墓「らしい」と発表されたそこは三狭山と名付けられ、一等地でありながら開発を免れていた。樹齢百年を越える広葉樹の森に隠された中腹には巨石を組んだ建造物が半ば埋没しており、乗用車ほどの大きさはある巨石の上に「魂を喰らうもの」と評された若者は胡坐をかいていた。  墨で染めた麻織の衣服、それは和服ではなく、しかし洋装でもない。どちらかといえば中東の遊牧民を思わせる衣服に袖を通し、周囲八方に両刃の短剣を突き立てている。固い岩盤に刺さった刀身は何の変哲も無い地味な造りで、特別な紋様が刻まれている様子もない。 「効かないか、うん」  それも織り込み済みと言わんばかりに、若者は街を眺めて呟く。オーケストラの指揮者の如く二本の指を立てて空を切れば、指先の軌跡が紋様を生む。三角四角五角の図形を組み合わせた紋様はゆっくり回転し、そのまま何事もなく消えた。少なくとも若者の周囲では何も起こらなかった。  凛。  硬く乾いた鈴の音が響く。  鳴るのは、八方に突き立てた短剣の柄に結ぶ石英の鈴だ。風が吹くわけでもなく、まして鈴は石英の粒をくりぬいた代物であり、音を鳴らすべき金物の粒は入っていない。それでも八個の鈴はひとりでに鳴る。人の耳では聞き分けることのできない微妙な音のズレが、人には聞こえない不協和音を生み出し、それが人には見えない歪みを作り出している。  凛。  鈴が、生まれた歪みを増幅する。  この音と歪みが呪をなす言葉だった。人が声帯を震わせるより遥かに複雑な術が鈴の音によって組み立てられ、術の完成と共に音は再び止まる。残響は無い。 「や」  短く息を吐き若者が拳を前方に突き出せば、肘より先が虚空に消える。数秒腕を動かしてこれを引き抜けば、若者の手に大きな石の塊が握られていた。それは拳より二周りは大きな金剛石を核として、紅玉・碧玉・翡翠の大小さまざまな粒が張り付いている。  それは沙穂の心だった。  若者は素早く短剣の一つより石英の鈴を外すと再び虚空へと拳を突き出し、引き抜く。指先に引っ掛けていた石英の鈴は、虚空に飲まれ沙穂の内に潜り込んでいる。石英の鈴は、沙穂の新たなる心と記憶となって彼女を動かすだろう。若者は桐山沙穂という人間に対してある程度の調査を済ませていたし、彼女が今後どのような人生を送るかについても理解している。沙穂の両親よりも、沙穂自身よりもだ。  おそらく沙穂は、自身が心を失ったことに気付かず一生を終えるだろう。  彼女に関わる人間の記憶も操作したので、矛盾が彼女を苦しめることも無い。 (ただ一人、影法師が記憶操作を拒んだが)  本来ならば影法師、すなわち文彦が沙穂の特異点を処理するのが筋というものだ。しかし若者は、現状の文彦ではそれが不可能だと判断した。 (あれでは百年かかっても目標の説得は出来ないだろう)  同業者に畏敬の念をもって影法師と呼ばれる文彦にはあるまじき失態だが、それも仕方のない話だと若者は考えた。  文彦は、必要以上に沙穂を意識している。  本人に問えば頑なに否定するだろう。あるいは、それを考えないように過ごしているのかもしれない。下手な情けを抱くことは術師にとっても、その目標にとっても良い結果を生まない。若者が知る限り、文彦は過去に一度それで失敗しているのだから。  ならば。 (余計な世話かもしれないが、部外者が処理した方が良い)  若者は息を吐く。  その行為に深い意味は無い。  特異点を宿した沙穂の心、その顕現たる金剛石には暴走寸前の魔力が宿っている。これを砕けば特異点は消滅し、八方に張った短剣の結界が放出された魔力を受け止めるだろう。同時に沙穂の心もまた砕け散る。  若者は金剛石を握る手に力を込め、口に運ぼうとした。金剛石に宿る暴走寸前の魔力をすすり、己の糧とするためである。  凛。  巨石を揺るがすほどの突風が、それを止めた。周囲の木々は枝葉すら揺らさず、ただ巨石のみが風に揺れる。若者は姿勢をわずかに崩し、金剛石を口元より離す。 『無礼は承知の上』  声は、正面より。  風に乗り宙に浮くのは、褐色の肌のウェイトレス。文彦の家にて働いている、異人の娘ルディである。 『貴方の手にある沙穂殿の心、汚すことも砕くことも止めて頂きたい』 「それは君の意思か、それとも影法師の命か」  わずかな間。 『強いて言えば、自らの意思』 「そうか」  ルディの言葉に、若者は満足そうに頷く。 「では、この場に彼女の心を置くとしよう。結界は夜までは保つから、それまでに処理するよう伝えて欲しい」  若者は呟くと、そのまま身体を霞と化して姿を消す。  直後、先刻より数倍鋭い風がルディの周囲に吹き荒れた。風は刃と化して地面に鋭い傷を何条も描き、それらは土中の小石さえまとめて両断していた。それでいて草木の根は、絹糸ほどの細いものに至るまで一本たりとも切れてはいない。 (たとえ遭遇しても、戦いを挑んではいけない)  文彦より命を受ける時、ルディはそのように言われていた。  その意味を少しだけ理解したルディは息を呑むと着地し、そのまま腰を抜かした。  三狭山には無数のあやかしが棲んでいる。  霊脈の交差たる犬上の地は、他地域に比べて莫大な量の魔力が満ちている。三狭山は溢れるほどの魔力を封じる要であり、土地神をはじめとする異形のものたちを養う活力の源でもある。しかし中腹にある遺跡を建造した者が誰なのか、いつ頃これが建てられたのか知る者はいない。  あやかしも、詳しくは知らない。  気が付けば三狭山は異形にとって住み心地の良い場所となり、犬上の地に住まう術師にとっても特別な場所となっていた。かの「魂を喰らうもの」が桐山沙穂の特異点を封じるためこの場を選んだのも偶然ではなく、三狭山に宿る霊気と、摘出した特異点たる金剛石の周囲に張り巡らされた八振りの短剣が生み出す結界が、二重になって特異点の暴走を防ぐのを知ってのことだった。 『……?』  言葉を持たぬあやかしの一匹が、結界に近付こうとした。  短剣の一つ、その柄にある石英の鈴が凛と鳴り、あやかしは酔っ払って倒れた。毛玉に手足が生えたようなあやかしは、心底気持ち良さそうに手足を天地に向けて痙攣している。  形無しの異形が、今度は結界の周囲で踊ろうとした。  凛。  別の鈴が鳴る。今度は結界の周囲に素焼きの壷が幾つも現れ、形無しの異形を吸い込むとそのまま消えた。消えた先などわからない。近付こうとしていた他の異形たちは慌てて退き、遠巻きに結界と特異点を眺めることにした。  月の美しい夜だった。  満月にはまだ数日の余裕があるが、それでも夜闇を濁すほどの月光が三狭山を照らしていた。  街灯はない。  不思議なことに三狭山を囲む一帯には街灯は存在しないのだ。三狭山の周りに住む者は、深夜は電灯さえ消して早く就寝する。三叉山が何であるのか肌で感じているからこそ、住む人もまた夜の作法を守るのかもしれない。 (星明りだけでも十分か)  村上文彦は星空をちらと見て、感情のない声をかすれるように出して呟いた。  真夏の夜は寝苦しいほどに暑いが、広葉樹の生い茂る三狭山は思ったよりも涼しい。冷気をわずかに含んだ湿り気が夜露となって木の葉を濡らすまでにはまだ時間があり、目に見えないものの湿った空気が渦を巻いている。  中腹までは、徒歩で十数分。  その昔に調査団が利用した、わずかに土を踏み固めた程度の細い道を駆ける。道端にある丈の長い草の影には小さな物の怪たちが、駆け抜ける文彦の姿を珍しそうに眺めていた。 (異形たちが騒いでいる)  普段ならば、小さな物の怪たちは術師の姿を見れば直ぐに姿を消して逃げ出す。それが、この夜に限っては物の怪たちは文彦が来ることを心待ちにしていたかのように、文彦を見ては三叉山の中腹をしきりに指差すのだ。それを見て文彦は速度を加速させる。魔力を温存するために、術で跳躍することさえ惜しい。  凛。  木々の向こうより響く、鈴の音。  全身を鋼のバネに変え一気に駆け抜ければ、月明かりに照らされ浮かび上がる巨石と、鈴を結んだ短剣の結界。  そして。 『文彦、文彦だね!』  月の輝きよりもまばゆい光を放ち、桐山沙穂に良く似た娘が巨石の上に立っていた。沙穂と違うのは、眼鏡を着用していないこと、そして何より形良く盛り上がった乳房である。文彦がそれを理解したのは、娘が衣服を身につけていなかったからだ。  全裸の娘。  彼女は己の身体を隠そうともせず、文彦を見つけると嬉しそうに手を振る。その場を動こうとしないのは、彼女の周囲に八振りの短剣が刺さり結界を形成しているからだ。結界を越えて手を出せば、指や手首が瞬時に砕け散り、そして同じ速さで再生を果たす。苦痛を感じているのかは知らないが、それが己にとって害あるものだとは知覚しているのだろう。  言い返せば、文彦と会えたことによる歓喜は肉体崩壊の恐怖に勝っていることになる。 『文彦。会いたかったよ、文彦!』  全身を動かし、喜びの感情を示す娘。その身体は半ば透き通っており、内側より淡い真珠色の光を発している。姿はともかく、その性質は人間のものではない。見れば巨石を十重二十重に、三狭山に棲む異形たちが囲んでいる。  彼らは皆、沙穂に似た娘に対して警戒しているようだった。 (無理もない)  結界を通してさえ感じることができる、圧倒的な魔力だ。それは三狭山より滲み出る力とは異なり、異形たちの身体や精神を侵食する性質を持ち、彼らの警戒心と恐怖心を刺激している。迂闊に近寄れば、力の弱い小物ならば取り込まれてしまうだろう。 「おれも会いたかった」 『嬉しいよ、文彦!』  文彦が巨石に登り結界の前に立てば娘は歓喜の声をあげ、娘より発する光は八本の短剣を吹き飛ばす。  凛。  吹き飛んだ短剣に結ばれた七つの鈴が、文彦と娘を囲むように新たな結界を生む。今度の結界は目に見える輝きを帯びた障壁を生み、巨石そのものを包み込んだ。異形たちは一様に驚き、数歩退く。娘は文彦を抱き締め頬をすり寄せる 「ひとつ、訊いていいか」  抱き締められ、背中や腰に手を伸ばされ、されるがままの文彦がひどく冷たい声で尋ねた。 『何でも訊いてよ、文彦』  ついばむように数度文彦と唇を重ねてから、娘は沙穂のものと変わらない笑顔で返す。表情を変えず棒立ちのまま、文彦は一度だけ瞼を閉じ、それから娘の目を真っ直ぐに見て言葉を続けた。 「おれを好きになった理由を、教えてくれないか」 『……』  桐山沙穂の姿を持ち彼女の記憶を有する娘は、意外そうな表情で文彦を見ている。結界の内部に吹き荒れる彼女の魔力は、術師たる文彦の身体精神にも干渉しているはずである。だが文彦は唇を噛むことさえせず、ただ娘が答えを返すのを待っていた。  十秒。  二十秒。  並の異形ならば散って消滅し、術師であっても瞬時に精気を吸い尽くされ意識を失う。結界が多くを防いでいるとはいえ、台風のように噴き出すそれらは周囲に集まっていた異形たちにも侵食を始め、逃げ遅れた小物達が融けるように娘の魔力に吸収されていった。  処置が遅ければ、この恐るべき魔力は宿主たる沙穂にも牙を剥いただろう。  魔力は宿主の生命を取り込み、その本質を変化させてしまう。それどころか暴走する魔力は周囲の人間にも干渉し、その本質を侵食する。  三十秒。  結界は意味を失い始めていた。  漏出する魔力は全体の一握りだったが、その量は圧倒的だったのだ。娘の放つそれは三叉山全体を覆い、そこに棲むあやかし達を苦しめ始めている。 『文彦も私の仲間になればいい、そうしたら教えてあげる』  とびきり素敵な笑顔で、沙穂を模した娘は微笑んだ。  質問に大きな意味があったとは思えない。  三叉山で起こる異変に顔をしかめつつ「魂を喰らうもの」と呼ばれた若者は、山より街へ逃げ出そうとする異形を片っ端から封じつつ、そんな事を考えた。  桐山沙穂より分離した特異点は、若者の予測を遥かに超える速度で暴走を開始した。若者が知る限りそれは記録に並ぶものであり、まっとうな術師の手に負える事態ではない。しかし若者は文彦の実力を知っており、ただ小さく肩をすくめて様子を見守ることにした。  凛。  それは鈴の音ではなかった。  娘は、それに気付かなかった。抱き締めた文彦の身体が柔らかくて、その抱き心地の良さに蕩けてしまいそうだったのだ。 『好きよ、文彦。愛してる、あなたの全てが欲しいの』  凛。  再び音が鳴る。 『愛していると言って、文彦』 「恋人なら間に合ってる」  短く答え、文彦は娘を強く抱き締めた。  凛。  音が鳴り、ずるりと何かが落ちる。それは文彦の背中に這わせた娘の手首だった。骨も肉もなく、硬い寒天質の手首は地面に落ちると光を失い夜闇に融けて消える。痛みは無いが、失われた手首は再生しなかった。娘の表情は一変し文彦より逃れようとする、しかし動かした手足は文彦に触れるたびに崩れ、文彦の身体に吸い込まれていく。  放出していた魔力は、いつの間にか消えていた。  四肢を失い芋虫のようになった娘を、強く抱く文彦。抱き寄せれば腰が胴が乳房が崩れ、生首となって娘は己の身に起こった事をようやく理解した。 『わたしは死ぬの?』 「それは生ある者が口にする問いだ」  肺も声帯も無いのに、娘は震えた声で言う。もはや娘は豆電球ほどの光さえ発することはなく、身体が再生することもない。文彦は生首を抱え唇を重ね、それから耳元で何かを囁いた。  娘は息を呑み、その生首もまた崩れる。  手に残ったのは、幾つもの宝石を貼り付けた金剛石だ。紅玉碧玉翡翠をそれぞれ摘めば簡単に外れ、全てを取り外した金剛石には無数の亀裂が生じる。ふうと溜息を吐いた文彦は金剛石を口中に放り、リンゴでも頬張るかのように噛み砕く。  石は砕け、そこに封じられていた魔力と沙穂の心を飲み込んで文彦は呟いた。 「  魂を喰らうのは、あの人の専売特許じゃないってことだ」  ポケットに宝石を突っ込み、一度だけ月を仰ぎ見た文彦はそのまま三狭山を後にした。  その日、桐山沙穂はいつものように目を覚ました。  いつものようにシャワーを浴びて、二番目にお気に入りの下着をつけて、春に姉が選んでくれた服を着て出かけた。 「あ」  駅前の予備校に行けば、掲示板には休講と短く書かれていた。  そういえばそんな連絡もあったと、なんとなく思い出す沙穂。 (第一、こんな気合入った服で授業受けるつもりだったのかしら)  自分の姿格好を見て、そんな事を考える。講習を受けるというよりも誰かとデートするかのような出で立ちに、我が事ながら苦笑してしまう。 「部活も休みよね」  昨晩かかってきた副部長  陸上部の男子と付き合い始めたというホルン奏者の女生徒からの電話を思い出し、やれやれと首を振る。堅物で知られる副部長が彼氏の話題となれば、会話が日本語の文法を逸脱する始末。  あれがノロケというものか。  自分は、ああはなりたくないものだ。  そう。  沙穂は心底そう思った。自分は不幸にも付き合っている相手がいないが、恋人ができてもそういう付き合いはしたくないものだと本気で考えた。恋愛というものは、そういうものじゃないだろうと。 (尊敬できる相手と本音をぶつけあって、それで互いを尊重できる関係を構築したいな)  まあ、相手がいないから何とでも言えるのだけど。  苦笑して沙穂は頭をかき、そのまま歩き出すことにした。  本屋を回り、気に入った服を探し、楽器屋で消耗品と海外メーカーのカタログに目を通す。  空いた時間で昼食を済ませ、涼を求めて飛び込んだ先で軽く茶を飲めば、それだけで半日が潰れてしまう。特に楽器屋では馴染みの店員とグリースや消耗品の談義で盛り上がり、それが終わる頃には日が傾いていた。 (竹の産地にこだわれるほど、技術なんてないんだけどね)  受験と部活で手一杯という、自分の高校生活。  年頃の娘として、少し寂しい気もする。  朝起きた時から念入りに準備して出かけても、やっていることは普段の休日と変わらないのだから寂しいどころか空しい限りだ。部活は頑張っているが、あくまで趣味の範囲。音大に進めるだけの実力があるとは思っていないし、勿論その意思もない。そんな中で漠然と理系に進みたいという気持ちを抱えているから、予備校にも通う。  中途半端といえば、そうかもしれない。  ふと、思考に空白が生じた。 (  あれ?)  道の真ん中で立ち止まる沙穂。  自分はなにか大切な事を忘れてはいないか?  記憶にはない。しかし、街を歩いて西日を見つめると言いようのない焦燥感が彼女を責めるのだ。急げ、まだ間に合うかもしれないと。自分にとってとても大切で、自分はそれを楽しみにしていたはずだ。朝起きてこんな衣装で街に飛び出したのは、そういう事ではなかったのか?  息を呑む。  自分はそれを知っているはずなのに、大事な部分が欠落しているのだ。朝見る夢のような曖昧な欠落ではなく、もっと根源的な喪失。意識せず沙穂の足は再び動き、身体を運ぶ。  手足がまるで全てを承知しているかのように動き、それに導かれるように辿り着いたのは、駅地下街の広場だった。待ち合わせの場所としても利用されるそこは中央に噴水があり、真夏の熱気より逃げてきた歩行者達が集まる場所でもある。沙穂もまた、友人たる柄口鳴美らと遊びに出かけるときはこの噴水を待ち合わせ場に指定することが多いのだ。  壁に掛けられた時計より現れた安物の自動人形が、安っぽい金属音でメロディを奏でる。犬上市に伝わる民謡だと聞いたことがあるが、幾つかの音の調律が狂っているそれは曲としての体を現していない。曲が終われば、午後六時だ。  奇妙なる確信を持って広場を歩く沙穂。  鏡のように磨かれた石畳は、噴水が近くにあるためなのか冷気を帯びている。会社帰りのサラリーマンは改札口をじかに目指すので広間を通ることはなく、外が涼しくなり始めた夕刻は商店街やスーパーの安売り時刻でもあるので先刻まで広間を占拠していた子連れの主婦たちも姿を消し始めている。残っているのは、駅前で寝泊りしているホームレスの老人。そして、  小学生と見間違えしてしまいそうな少年だった。  桐山沙穂は、少年を知っていた。  中学生の頃に父親を亡くし、家業の店を継ぐために調理師学校への進学か専門店への就職を考えているはずだ。部活には所属せず家業を手伝っているから、進路調査や校内アンケートの回答が他の生徒と随分違っていたのも覚えている。放課後になれば、よほどのことがない限り居残りなどしない。それどころか出席日数も足りていないことがしばしばで、担任教師から相談を持ちかけられたことさえある。  沙穂は何故か硬直し、しかしクラス委員長としての己を思い出して胸を張ると少年に声をかけた。 「村上……文彦くん?」  言って、どこか他人行儀な挨拶だと後悔する。  声をかけられた村上文彦は、噴水の縁に腰を下ろしたまま沙穂を見上げた。 「やあ委員長」 「誰かと待ち合わせ?」  平静を装いつつ、沙穂。だが手足の動きがぎくしゃくするなど、思うようにならない。そんな沙穂の様子など気付かないかのように文彦はしばし考え「まあそんな感じ」と短く返した。 「委員長は、誰かを探してるのか」 「たぶん」  今度は文彦が、押し黙ってしまう。何か言いたそうで、しかし話すことを躊躇している。沙穂はそんな文彦を見て、やはり沈黙する。  先に口を開いたのは、文彦だった。 「誰を探しているんだ?」  声を聞く限りは素っ気ない、文彦の言葉。 「わかんない。私好みの男の人だと嬉しいんだけど」  何かを決意したのか、文彦の隣に腰を下ろす沙穂。むむむと腕組みし、眉を寄せる。 「でも、特に好みのタイプって思いつかないのよね。これが」 「ふーん」  あまり興味無さそうに、相槌を打つ文彦。  沙穂は、今朝起こったこと、街でしてきたことを適当に話した。その上で、何故だかわからないけどここに来ないと一生後悔しそうだからやってきたのだと白状した。文彦と話をするのはとても楽しくて、彼が「ああ」とか「そうか」とか適当な返事をしても、言葉の奥に隠れている気遣いの気持ちが感じられて嬉しかった。  待ち人は、結局来なかった。 「そういうこともある」  閉館時間を迎え閉鎖される広場を後にして、文彦がそんな事を言った。それが慰めだと理解したのは、一緒に夕食を食べて、どうせ暇だからとゲームセンターで遊び倒した後だった。  夕刻の街中で感じた焦燥はいつの間にか消えて、奇妙な充足感が沙穂の胸を満たす。 (なんとなく幸せよね)  帰宅して、沙穂はそう考える。  夏期講座の予習も無視してお気に入りのヌイグルミを抱いて、そのまま布団に潜り込んで寝た。  同時刻、村上家。 「……つくづく、意気地なしだね。お前」 「うるせぇ男女!」  煮え切らない文彦の態度にぶちきれた母親が、息子と凄絶な殴り合いを始めていたという。