第三話 クラス委員長はベルを二度泣かす  夏休み前日の事だった。 「村上、文彦くん」  いつもより数分長いホームルームが終わった後、クラス委員長の桐山沙穂は村上文彦を呼び止めた。教室には既に生徒の姿はなく、その実廊下には少なくない数の生徒達が潜んでおり事の成り行きに固唾を呑んで傍耳だてていたのだが、沙穂はそれに気付いていなかった。 「……なんだよ委員長」  普段とは違った雰囲気の沙穂を前にしても文彦は動じなかった。彼の視線は携帯端末の文面に向けられており、地元警察からの依頼を告げる内容に顔をしかめている。 「あなたのことが好きです、私の恋人になってください」  沈黙が生じた。  沙穂は文彦の返事を待っていたし、文彦は端末に返事を打ち込むのに専念していたから一言も発しない。  それでも沙穂は辛抱強く文彦の返事を待った。  文彦は見た目こそ幼いが、意図的に相手の言葉を無視するような幼稚な真似をしない。沙穂はそれを知っているから、待った。高校に入学してから文彦が特定の女子と付き合った形跡がないこと、沙穂に対する印象が基本的に悪くないこと、この十日あまりで沙穂が積極的に文彦と会話したり学校での行動を共にしていること、文彦がそれを基本的に拒絶しないこと。諸々のことが勝算の礎として沙穂の中に存在している。  自分と文彦は恋人になる。  一緒に遊びに出かけたり、休日を共に過ごすのだ。もちろん高校生だから勉強もしないといけないが、一緒に勉強すればはかどるはずだ。幸い文彦は沙穂が苦手とする文系科目が得意だから、互いに足りないものを補い合える。クラス委員長としての責任感もあるが、任期は基本的に半年間だから夏休み明けになったらバスケ部の仲森浩之に職務を継いでもらおう。なにしろ文彦はどれほど親しくなっても沙穂のことを「委員長」と呼んでいるのだ、夏休みの間中に何としても名前で呼んで欲しいものだ。  そういうことを考えながら、沙穂は文彦の返事を待った。  心臓が高鳴り、眼球が圧迫される。息が詰まるような苦しさが心地良い。これが恋愛の痛みなのだとすれば何と甘美なものだろう。  やがて。  携帯端末を学生鞄に突っ込んだ文彦が沙穂を見た。いつものように淡々とした、しかしどこか面倒そうな顔で。 (来たッ)  そのときが、来たのだ。  喉が渇く。心臓の鼓動が最高潮に達する。それでも沙穂は冷静を装って文彦を真剣に見つめ返す。  時間にして数秒の沈黙。だが沙穂にとっては限りなく永遠に近い時間の後。 「恋人なら間に合っている」  あっさりと。  それはもう疑問を挟む余地もなく。  桐山沙穂の告白は失敗に終わった。 「なーっとく、できませんっ!」  それより一時間後。  机を叩くだけでブルンブルン揺れる乳を強調しつつ、柄口鳴美は叫んだ。そこは駅前通の古風な甘味処で、北高校のみならず市内の甘党が隠れた名店として認めている場所だった。その日は北高二年C組の生徒が十数名押しかけており、中心には未だに泣きじゃくる沙穂の姿があった。 「ふみ君は、沙穂ちんのこと嫌っていないはずなんです」  ついでに言えば文彦に恋人がいたという話も聞いたことがない。 「ふみ君は、沙穂ちんのはじめての人になりたくないから嘘ついて逃げたんです! 男として卑怯なんです、見損なったんです!」  鳴美の叫びに、主に女子が賛同の声を上げる。ついてきた男子の一部も「あの断り方は良くない」と、文彦を批難する。  ただ一人を除いて。 「村上の好きな人、心当たりあるぞ」  同じ中学だった仲森浩之が、ぜんざいを啜りつつぼそりと呟いた。視線が一気に浩之に向けられるが、バスケ部副主将を務め後輩の信頼も篤い好青年は黙って椀を呷るだけだ。 「……仲森くん?」 「もっとも、村上は委員長を嫌っているとは言ってねえしな。望みは捨てないことだと俺は思うぞ」 「どういう事なの」  自分の口からは、これ以上は言えない。  テーブルに小銭を置いて、浩之は席を立つ。  そうして桐山沙穂の長い夏休みが始まった。  かくして桐山沙穂の夏休みは最悪の精神状態で幕を開けた。 「そりゃあ見事に振られたものよね」  水曜定休のデパートに勤務している姉・水鳥は、普段より七時間ほど遅く起きてそう言った。少しばかり焦げたトーストに、手製のマーマレードをちょいとばかし塗って一気にかじる。口うるさい母は婦人会の集まりとかで朝から出かけており、午後一時のリビングにはパジャマ姿の水鳥と、夏期講習の入学式より帰ってきた沙穂しかいない。  姉の言葉が、ずしーんと頭に重い。 「用意周到、タイミングを見計らった上で告白して。それで振られた訳でしょ?」 「恋人は間に合ってるって……そう言われただけだもん、嫌いって断言されたわけじゃないもん!」 「普通それは拒絶されたようなものなんだけどね」  はて自分の妹はこうも物分りが悪かったか?  言葉に出さずとも、水鳥の顔にはそういう台詞が浮かんでいた。どのような状況下であろうとも営業スマイルを絶やさず、かつ男たちの視線に晒されるデパート勤務を続けているためか、自宅での水鳥は言動に毒が多い。 「まあ沙穂の場合、致命的に胸ない上に成長の見込みゼロだもんね。彼氏が巨乳マニアだったら、あんたなんか眼中にも無いわ」 「村上くんが巨乳マニアだなんて聞いてないわ!」  本当にマニアだったら胸にシリコン突っ込みそうな勢いで叫ぶ沙穂。耳まで赤い。  しかし。  水鳥は沙穂の言葉に動きを止め、食べかけのトーストを取り落としていた。マーマレードを塗った側がべちっと床に落ちたのにも気付かず、口だけがパクパクと動いている。 「お姉ちゃん?」 「……め、珍しい名前よね。村上って」 「そうかな」  取り繕うような水鳥の台詞。  沙穂は不審そうな目を姉に向けるが、追及する気力もないのか深く深く息を吐くだけだ。見ている側が切なくなってしまいそうな、そんな悲しい姿に水鳥もさすがにうろたえる。思えば四月より気になる同級生がいるという話は聞いていたが、まさかまさか、と沙穂に聞こえぬほどの小さな言葉で呟く水鳥。 「ね、ねえ沙穂。その村上くんって、背ぇ高いの?」 「学校で一番ちっちゃい」  涙目で答える沙穂、対照的に水鳥の笑顔は固まる。 「うちの総務課に村上係長っているけど、その御子息かしらね。あはははー」 「ううん。彼のお父さんは三年前に事故で亡くなられてて、家はカレー屋さんなの」 「は……」  馬鹿笑いをしようとしていた水鳥がいよいよ引きつってくる。  それにしても、好きになった男とはいえそこまでの家庭事情を調べるとは我が妹ながら恐ろしいヤツと、水鳥は戦慄を覚える。 「村上文彦くん……夏休み明けになんて顔で会えばいいのか分からないよ、お姉ちゃん」 「げふっ」  沙穂が悲しそうに俯き水鳥が鼻血を噴出した直後。  やけに呑気な調子で玄関のチャイムが鳴り響いた。  飯屋というのは、昼夜に忙しくなければ商売が成り立たない。  特に大学前のカレー屋というのは、とにかく質と量を両立させなければいけない。学生というのは量と価格にこだわるよう思われがちだが、毎日の食としてそれを判断するだけの舌も持ち合わせている。中途半端な味では、学生を満足させることは出来ない。質を落とせば今までの客はあっという間に去ってしまうし、及第点以上の味と量を維持すれば価格の変更など気にしない。そういう意味では価格第一のサラリーマンよりも食にこだわる客といえよう。何しろ総合大学に通う学生は千人を超えるのだから、関連して働く職員を含めるとその数は膨大なものとなる。  そこで評判となれば、それはもう大変なことになる。  夏休みに入り学生の数が減ったとはいえ、それが関係するのは時間に余裕のある学部学年の生徒の話。年中忙しく学校を駆け回ったり、休みの間も犬上市に留まるような学生の数は意外に多い。そういう者たちは不規則に食事をすることも多いから、自然と営業時間は長くなり仕込みと接客を並行することになる。となれば厨房はまさに戦場であり、まして腹を空かせた学生を相手にしている店ならば凄絶なものになる。 『オーダー! チキン2、セット3、ポーク辛口1、サラダ付定食3入りましたぁ!!』 「あいよっ」  二十歳を越えるかどうかといった若いウェイトレスが元気よく叫ぶ。鼻筋の通った顔に褐色の肌、細く黒い長髪を後ろにゆるくまとめている彼女はどう見ても日本人ではない。その彼女が胸元をやや強調する制服に身を包み、すらっと伸びた脚を惜しげもなく晒しながら店内を歩き回っている。店の配置や客の動向を完璧に把握しているのか足取りに一切の無駄はなく、途中で水を追加したり別口注文を素早く処理する。その彼女が伝票を手裏剣のように投げれば、キッチンの料理人が後ろ手に鋲を投じてコルクボードに伝票を縫い付ける。料理人は、こちらも長身痩躯の美形であり清潔なワイシャツの上に黒のエプロン姿が眩しい。  声を聞かなければ、その料理人が女性であると気付かぬ者もいるだろう。  よくよく見れば、微妙な仕草や気配で女性と理解できる。しかしそこいらのモデルが束になっても適わないほど、中性的な魅力を彼女は持っていた。歳は三十台前半だろうか、額より伝う汗が輝いておりそれを見た女性客の何人かが黄色い悲鳴を上げる。 「文彦、復唱っ」 「……オーダー、チキン2、セット3、ポーク辛口1、サラダ付定食3了解」 「声が小せえっ!」  料理人は叫ぶと、厨房で玉葱を刻んでいた村上文彦に飛び蹴りを喰らわせる。予備動作なしで繰り出した技だったので、悲鳴を上げる暇もなく文彦は厨房奥の壁に転がって激突する。 「なにしやがるんだ、このデカ雪!」 「深雪お母様と呼びな、ヘタレ息子が! 告白してくれた女の子を手前の勝手で振っておいて、へこむんじゃないよっ。不景気な顔で厨房に立つ位なら、ルゥで顔洗って出直しな!」 「うるせえ、俺には俺なりの事情があるんだよ!」  叫び返せば、文彦の母たる村上深雪は「ははぁあん」と意味ありげな笑みを浮かべる。 「アレだ。ヘタレの文彦君としては、千秋ちゃんの事が今でも忘れられないわけだ」  次の瞬間。  文彦の右ストレートが深雪の左顎に炸裂した。空中できりもみ回転して、反対側の壁に激突する深雪。 「笠間の事を気安く言うんじゃねえ、アンタに何がわかる」 「はン、告白も出来なかった童貞小僧よりは物を知っているさ!」  母子は互いにファイティングポーズをとり、電光石火の勢いで拳を互いに繰り出す。  一分後。  ダブルノックダウンで倒れた母子を踏み越えて、インド風娘のウェイトレスは注文の品を用意した。  空は青かった。  水平線の向こうには入道雲が湧き上がっていたが、風も穏やかで外の街路樹では蝉が鳴いていた。 (一足早く嵐が来たってところかしら)  桐山水鳥はテレビの天気予報などを横目に見つつ現実逃避した。外の爽やかな夏空とは対照的に、応接間には嵐が吹き荒れている。 「はじめまして、桐山沙穂さんですよね?」  スプリングが少しばかりへたった長椅子に、少女が二人腰掛けている。一人は英国人を母に持つ女子中学生ベル七枝であり、もう一人の少女が沙穂を見て笑顔で言ってきた。  背は、沙穂より少し高い。それでいて手足の肉付きは、沙穂より少しばかり細い。痩せすぎというよりは、無駄な肉をつけないよう鍛えて絞っているような印象を受ける。そのくせ胸は人並にあるので、締まった身体から強調されている……もっとも同級生の柄口鳴美も見事な身体つきだが、この少女にはフェロモンを感じない。彫刻のような美とも呼ぶべき少女は、やたらと慣れた営業スマイルで沙穂を見つめている。  もちろん本心では笑ってはいない。  沙穂という人間がどのような娘なのか、頭の天辺から爪先に至るまで値踏みしているのだ。 (……どういう理由で?)  沙穂の気持ちを水鳥が代弁する。もちろん言葉には出さない。 「は、初めまして」  とりあえず、それだけの言葉を口にして沙穂は頭を下げる。含むものはあっても、この少女は礼儀正しいのだと沙穂は認めている。 (それにしても)  少女を再びまじまじと見て、なんとも言えない敗北感を沙穂は覚えた。  アーモンド形の切れ長い瞳に、筋の通った小さな顔。整った身体もあって、絵画に描かれるような美少女である。もしも北高生徒ならば、この少女は随分前から噂になっているだろう。雑誌モデルになっていても不思議ではない彼女は、ひょっとしたら女子大生だろうか。と沙穂が思い始めた時。  思い出したかのように少女は己の手と手を打ち合わせ、極上の笑みを浮かべた。 「自己紹介が遅れました、あたしは村上小雪と申します」 「……今年で十二歳っす」  小雪の隣でベルが申し訳無さそうにフォローし。  沙穂の思考は銀河の彼方へと吹き飛んだ。  昼の営業が一段落し夜の仕込みに目処が立ったのは、午後三時を過ぎた頃だった。  少しばかり遅い昼食を、それこそ普段ならば常人の倍は平らげるところを僅か二口で済ませたのだから、村上深雪は己の息子をまじまじと見た。 「恋煩いにしちゃあ、度が過ぎているとは思わない?」 『私の口からはなんとも』  右手を使って器用にカレーの残り物を食べていた褐色肌のウェイトレスが、もごもご頬張りながらも眉をひそめて頷く。既に渦中の村上文彦は店内になく、夏に着るにしては少々暑苦しいジャケットも消えている。 「私としてはさぁ」  一足早く食事を終え茶など飲みながら伝票整理を始めていた深雪は、ウェイトレスの娘を意味ありげに一瞥しつつ独り言のように息を吐いた。 「文彦も十七なんだから、とっとと女みつけて種付けしてくれないかなーって思っている訳よ」 『あはは、ははは……』  外見で判断するなら声変わりどころか精通さえ怪しい文彦が、どうやって種付けをするのやら。  引きつった笑顔で笑い、しばし後に溜息をつくウェイトレス。 「別にあんたでも良いんだけどね、私としては」 『いやあ、それは』  無理でしょう。  咽まで出かけた言葉を飲み込んで、ウェイトレスの娘は遅い昼食に専念することにした。  胃袋は間違いなく空腹を訴えている。  店内には冷房が効いていたとはいえ、厨房では絶えず火を扱っている上に激しく動き回って働いていた。調理師資格を持たない文彦だから、店長を務める母の指示で下拵えや洗い物などをすべて任されている。夏休みなのだから大学生などのアルバイトを雇えばいいのだろうが「人件費がかからない」との一言で、文彦にすべてが押し付けられた。 (……何もしないよりは、気が紛れて良かったんだが)  大学近くの街路樹の辺り、土埃のついたベンチに腰掛けて文彦は天を仰ぐ。言葉を発するわけでもなく、まして何かを考えているわけでもない。風が凪いだ犬上の市街地は蒸気の海のような蒸し暑さに満ち、歩くだけで全身より汗が噴出しそうになる。だが文彦は丈の長いジャケットに袖を通し、それでいて一滴の汗さえ流していない。 (ジンライは、委員長の護衛を続けている。ハヤテもだ)  繰り返すように、それが頭の中に浮かぶ。  現状の文彦に打つ事のできる最善の一手。  ベル七枝の所属する「三課」も、その他の組織も沙穂の秘密には気付いていない。沙穂が魔物を引き寄せる事実をベルは知っているかもしれないが、それが意味するところまでは理解していないだろう。なぜならそれは人の闇を識るものだけが気付く事であり、それゆえ影使いたる文彦はその意味を誰よりも理解していた。 (あとは)  ほぼ無意識に文彦は左手を動かした。指先が不可思議なる紋様を描き、直後に文彦の頭上で爆発が起こる。  一抱えはある街路樹が木っ端微塵に砕け、枝葉が炎に包まれる。  その衝撃波はガードレールを吹き飛ばし、アスファルトが焦げる。倒れた街路樹の下敷きになったのか、文彦の姿は無い。一分が過ぎ炎の勢いがおさまった頃、浮世離れした衣装の女二人が街路樹の前に立つ。 「やったか、姉者」  三つ編みの娘が、大型のナイフを手に息を弾ませる。ベルと大差ない年頃の娘だが、目つきはこちらの方が数段鋭い。姉者と呼ばれた女は、ウェーブを描く豊かな髪をかきあげつつ頷いた。二人は組織に属さぬ術師であり、名を上げるために文彦を襲った。たとえ奇襲を講じても倒す価値があると彼女達は判断したのだ。そしてそれは、彼女たちに限った認識ではない。 「影法師?」  村上小雪の口より出た言葉に、桐山沙穂は首を傾げた。  影法師という言葉はもちろん知っている。しかしそれが言葉通りの意味ではないことくらい、沙穂にもわかる。ベル七枝は「一般人には話しちゃいけないことなんですよ」と困り顔なのだが、小雪は笑顔を崩さない。 「闇を識り、影を友とし、万物の陰と陽に宿りし力を司る術師の尊称。その本質は限りなく魔物に近しい故に、忌まわしいとさえ呼ばれる力の使い手」  詩を吟じるように言葉が流れ出る。  とても十二歳が喋っているとは思えぬ深みが、その声にはある。冗談のような内容でとても信じられないことだが、奇妙な説得力があった。 「村上くんが?」 「そう」  小雪は微笑み、ベルは「はうぅぅ」と右往左往する。おそらくベルが属しているという組織では機密に属している事項なのだろう、錯乱して己の耳を押さえたり潤んだ目で沙穂に訴えたりしている。その様はあまりに滑稽だったが、何故か沙穂の姉たる水鳥も同じように右往左往していた。 「……お姉ちゃん?」 「い、いやァね。最近の中高生って漫画と現実の区別がつかないのかしら」  沙穂と視線を合わせないように、水鳥はうそぶく。そういう時の姉がどういう気持ちなのか知っている沙穂は「ふーん」とジト目で水鳥を睨む。  姉は、何か知っている。  ひょっとしたら、以前に自分のような体験をしているのかもしれない。ならば後で詳しい話を聞かねばなるまいと思いつつ、沙穂はそれ以上の疑念を小雪へと向けた。  十二歳だという少女は、幼さをまるで感じさせない大人びた容姿と言葉を繰り出している。百歩譲って容姿が大人びていたとしても、十二年で培うことの出来る語彙や雰囲気というものには限度がある。無論育ってきた環境や本人の資質によって変わるだろうが、兄である文彦を知っているだけに沙穂は違和感を拭い去ることが出来なかった。 「それで、小雪ちゃん」  意を決したのか沙穂は切り出した。 「あなたのお兄さんが、そういう人だってのはわかったわ。この十日くらいの付き合いで知っていたし……現実の再認識って言うのかしら、そういう意味では小雪ちゃんの話はとても有意義だった。  でもね」  間が生じる。 「小雪ちゃんが村上君の素性を話すのって、筋違いだと思うの。彼は必要だったら自分から言ってくる性格だと思うし、教えてくれないって事には根拠があるの。結局何も教えてくれないまま振られちゃったけどね」  涙で瞳を潤ませ、それでも沙穂は笑顔を繕おうと努力した。  湿気の多い日とはいえ、街路樹は勢い良く燃えた。普通の炎とは違い、火そのものが生き物のように街路樹を覆い尽くす。それは木を燃やすというよりも、辺りの酸素を奪いつくすのが目的であるかのように動き続ける。尋常なことではない。  姉者と呼ばれた三十路手前の女が、石英を削った護符を握り締め炎を操っている。念じれば炎は紐となり網となり、形を変える。やがて街路樹のすべてが炭となって、女は護符を握る手を緩めた。もはや燃やすものがなくなっていた炎は、それだけで霧散してしまう。 「さすがだね、姉者の術は。これなら噂に聞く影法師といえど」 「ええ、至近で炸裂させた上に窒息させたのだから」  いかに影法師といえど無事では済まないでしょう。  と。  三十路直前の女が文彦の亡骸を確認しようと歩み寄ろうとして、転倒した。足の甲が路面に張り付き、その上で勢い良く倒れたのだから足首の関節が簡単に外れる。  それほどまで勢いよく倒れたのはなぜかといえば、足首を支えるべき腱がすべて切断されていたからである。見れば三つ編み娘の方も足首の腱を断たれたのだろう、尻餅をつき己の両足首を押さえて声なき絶叫を上げている。女もまた叫ぼうとしたが、引きつった声帯は思うように震えず音が生まれない。 「……殺す気満々で襲ってきやがって」  燃え残り炭となった街路樹が爆ぜる音に混じって、声がする。  二人が恐怖と激痛に引きつった顔で上体を起こせば、三つ編み娘の影が盛り上がり文彦の姿に変わる。彼の右手の五指に影が張り付き、猛禽のような鋭い鉤爪となっている。それが足首の腱を断ち切ったのだと二人は即座に理解した。 「通告もなしに奇襲して、そんなに俺が憎いか」  静かに問えば、二人はぶんぶん首を振る。 「ふん」  手の鉤爪が姿を消す。  同時に断たれていた二人の腱が元通りとなり、痛みも消える。いかなる術を使ったのか二人にはわからないが、受けたはずの怪我が癒えていた。 「今、取り込み中なんだ。見なかったことにしてやるから消えろ」 「甘いぞ影法師!」  文彦が背を向けたので。  鉈のような大型ナイフを手に三つ編みの少女が跳躍した。体操選手もかくやという勢いで宙を舞い、己の腕ほどもあるナイフを振りかぶった。 (術を唱えるより早く、心臓を貫く!)  功名心と殺意を剥き出しにして凶刃を構え。  次の瞬間、その全てが漆黒の塵となった。  術を唱えたのかどうかもわからない、わかったところで防ぎようも無かったのだろう。三十路手前の女は、己が敵に回した少年の恐ろしさを初めて理解し、そして震えた。 「か、仇をとろうとは思わない! 敵に回ろうとも思わないッ!」  女は半狂乱になって叫ぶ。文彦は何も言わない。 「助けて、死にたくないのッ! あんたを倒そうだなんて、私たちが馬鹿だったのよ!」  叫ぶ女。  立ち去ろうとする文彦の背を掴もうとして、己の手が指先より塵となって崩れていくのに気付く。叫べば、身体の崩壊が一層に進む。もはや声帯は崩れ内臓の多くも機能していない。それでも女は、まだ形をとどめている腕の『部品』を口にくわえ、芋虫のように這いずって文彦を追いかけ。  崩れた。 「  振られた?」  それは意外な答えだったのだろう。  村上小雪は身を乗り出して桐山沙穂を見た。真っ直ぐの黒髪にヘアバンド、縁の太い眼鏡をかけた沙穂は驚きつつも小雪の言葉を肯定した。小雪やベル七枝のように華やかさはないが、沙穂も間違いなく魅力的な女性である。もちろん容姿だけで判断すべきことではないが、面倒見が良く人付き合いも決して悪くない沙穂の性格は外見以上に彼女を魅力的な人間にしている。 「どうして?」 「恋人は間に合っている、って」  瞳を潤ませ、ティッシュで鼻をかむ沙穂。  姉の桐山水鳥は「あちゃあ」と呻き、ベルは「見事な」とだけコメントする。憎いわけではないのだが、なんとなく沙穂は上目遣いで小雪を見る。 「ねえ、小雪ちゃん」  鼻をかんだ拍子に涙の粒が数個こぼれたのだが、そんなことも気にせず続ける沙穂。 「村上くんが中学校の頃に付き合っていた女の子って、誰なのかな」  その言葉に。  何故か小雪は凍りついた。  女がいた。  二十歳を越えた程度の、若い女だ。夏だというのに袖の長い服を着て、凝った意匠のサングラスをかけている。足が不自由なのだろうか、これもまた奇妙な装飾を施した杖で半身を支えている。  視線は、一軒の住宅へ向けられている。  表札には「桐山」の二文字。道に立ち、門に遮られて見えないはずの応接間を観察している。 「ほう」  女の網膜には、沙穂の姿が映っていた。鼓膜もまた彼女の言葉を捉えている。外は蝉が激しく鳴き、自動車やオートバイも時折通り過ぎる。およそ静寂とは言い難い中で、女は沙穂の一語一句を知覚していた。盗聴器もカメラも用いず、彼女は知覚しているのだ。 (桐山沙穂が影法師の想い人だと聞いていたのだが、違ったのか?)  いや。  たとえ違ったとしても、何らかの関係を持っている。それだけで十分だ。  影法師と呼ばれる術師を誘き出し、僅かでも隙を生むことが可能なら価値はある。様子見がてら村上文彦の実力を試すと先行した姉と妹は未だ帰ってこないが、沙穂を人質にすれば有利に戦えるだろう。卑怯と罵る者がいるかもしれないが、そも術師というのは人の闇にて生きる者である。卑怯という言葉で名を上げられるのならば、安いものだ (護衛は二人か)  だが力量を見るに、切り抜けられる程度だと女は判断した。組織に属さず術師として仕事を続け、仮にも影法師に戦いを挑もうと考えるほどの者である。己の実力には自信があった。  女は左右の袖を軽く振る。すると袖布が解けて符に変わり、宙を飛ぶ。三十五枚の符は翅を持った毒虫に変じ、それら毒虫は金属質の羽音を立てて桐山家に侵入しようとする。 「桐山沙穂を連れて来い、毒蟲たち」 『応じられぬ』  声は女の背後から。  刹那、蒼い雷が青空を貫く。毒蟲はことごとく雷に打たれて灰と化すが、雷鳴は響かない。それどころか外界の音一切が女の周囲より消え、空気が漆喰のように女の身体を固定した。 『符の使い手とは、珍しいなあ』  別の声が女の頭上から。  隼と狼が、女を見つめている。 『よう姉ちゃん、景気はどうだい?』 「……最悪ね」  隼ハヤテの言葉に、女は絶望的な死を覚悟した。  かつて笠間千秋という少女がいた。  中学二年の冬に転校してきた彼女はそれほど目立つ生徒ではなかった。だから受験を控えた多くの生徒はごく自然に千秋の存在を受け入れ、春になる頃には学級の一員として馴染んでいた。  村上文彦と付き合いだしたのは、その頃だと言われている。  もちろん中学生同士の付き合いだから、それほど深い仲にはならなかった。文彦が性欲とは無縁だったというのもある。  結局のところ二人は恋人同士ではあったが、それ以上に気の合う友人だったのだ。生徒はもちろん教師たちも二人の仲を知っていたし、二人に「間違い」は無いと確信していた。 「ねえ文彦、あたしとセックスしたい?」  あっけらかんと千秋が尋ねたことがある。  それは放課後の教室で、数名の同級生も目撃していた。彼らが色々な意味で複雑な表情を浮かべ文彦を見れば、当時家庭に様々なる問題を抱えていた少年は疲れたような笑みを己のガールフレンドに返した。 「子供が欲しくなったら言ってくれ」 「じゃあ、しばらくは必要ないわ」  千秋は笑って文彦の背を叩き、同級生達は文字通りひっくり返った。  つまるところ。  二人はそういう関係にあった。  文彦が大人になれば、そして今の関係が数年続けば面白い夫婦になるのではないか。誰もがそう考えていた。 「だけど、結局はそうならなかった」  太陽は既に西に傾きかけていたが、市街地は相変わらず暑かった。日中蓄えられた太陽の熱をアスファルトが今まさに放出し始めた駅前通を歩くものは皆無であり、そのほとんどが適当な喫茶店やデパートに逃げ込む有様だった。ここで夕立でも降ってくれれば程よい具合になったのだろうが、南の空の入道雲は全天を覆うほどまでには膨らんでいない。  仲森浩之はすっかり氷の溶けたアイスコーヒーをストローでかき回し、息を吐いた。  正面には柄口鳴美、隣には伊井田信也。いずれも夏期講習の開校式を途中で脱け出した面々であり、過日の一件を引きずっている鳴美が晋也を巻き込んで浩之を手近な喫茶店に連れ込んだのである。 「二人の関係は三年の冬に終わったんだ」 「別れたのねっ」 「まあ、そういうことになる」  どういうわけか目を輝かせて身を乗り出してくる鳴美、その際に隠そうともしない巨乳がぶるんぶるん揺れるのだが浩之は表情を全く変えない。周囲の男性客が思わず前屈みになるが、こちらは予備校のテキストに目を通していたためそもそも視線さえ向けていなかった晋也の「無粋な」という一言で我に返った。 「性生活の不一致? やっぱり村上くんが淡白すぎたりアレがお子様だったから?って、やっぱり村上くんのジュニアって女性を満足させるには物理的限界ってヤツがあるんじゃないかなーとかみんなで噂し」 「てい」  分厚い英和辞典の角を鳴美の額に叩き込む晋也、涙目で頭を抱える鳴美。その様を見て他人の振りをしたかった浩之だが、咳払い一つで我慢することにした。 「……それで、笠間さんってのは今なにしているんだ?」  場つなぎ程度の質問を晋也は出したつもりだった。  浩之はそれを承知の上で、こう返した。 「中三の冬に死んだ」  交通事故で亡くなったと、続ける。鳴美は硬直し、晋也は「ああ、それでか」と妙に納得顔だ。 「村上は、受験直前まで学校に来なかった」  事情はみんな知ってたし、どんな声かければいいのかもわからなかった。が。どこで行われたのかわからない葬式や通夜にも顔を出し、そうして自分の気持ちに整理をつけてから文彦は受験に臨んだという。かつての同級生達は、普段と変わらない文彦の姿に衝撃を受けた。数年前に父親を喪っていた文彦が、どのような気持ちで千秋の死を整理したのか想像もできなかったのだ。 「だから村上は」  それだけ言って、浩之はすっかりぬるくなったアイスコーヒーに口をつけた。とても不味い。晋也は予備校のテキストを閉じ、鳴美は己の好奇心が招いた結果を心底後悔した。 「でも、話には続きがあるんです」  村上小雪が語った内容を、桐山沙穂は頭の中で何度も繰り返していた。文彦の妹たる小雪とそのお目付け役と思しきベル七枝は既に帰宅し、姉の桐山水鳥は夕食の準備といって買い物リストを沙穂に押し付けた。  空は紅くなっていた。  程よく吹き始めた風が街の熱を払い、歩くのは苦痛ではない。買い物途中の主婦や、一足早く退社したサラリーマン達が通りを埋めている。 (笠間さんが亡くなった直後、村上くんに手紙が届いた)  手紙を出したのは、今は壊滅した別組織の幹部。彼は形の上だけで千秋の死を悼む言葉を並べた後、こう記したのだ。 『我々と共に歩まねば、悲劇は繰り返されるだろう』  父親の死と前後して術者としての能力が開花した文彦を狙う者は少なくなかった。  彼の身柄は「三課」預かりとはなっていたが、実際には外部協力者という形でリストに追加しただけに過ぎない。限りなくフリーランスに近い文彦には勧誘の話も多かったし、名の知れていた文彦を倒そうという連中もいた。 (調査結果では、問題の組織が笠間さんを殺害したという証拠はゼロ。もちろん魔法を使うような人が本当に犯人なら、証拠などあってないようなもの……本当に殺害したのか、事故に便乗して村上くんを脅迫しようとしたのか)  どちらでも結果は同じだった。何故ならその組織は程なくして壊滅したからだ。小雪もベルも詳しくは知らないようだが手紙が届いた直後に文彦は家を飛び出し、しばらくの間帰ってこなかったという。 (村上くんは、恋人の仇を討ったのかな)  だとすれば羨ましい話だ。 (だけど)  メモを握り締めたまま沙穂は立ち止まる。  駅前に近い通りの一角。昔ながらの商店が並ぶそこは、量よりも質で勝負する店が多い。安さが全ての主婦や学生は近寄りもしないが、飲食店の関係者は全幅の信頼を寄せている。  そこに彼がいた。 「村上くんっ!」  魚屋のご隠居と白身魚談義をしていた文彦が、びくんと硬直する。その様は蛇に睨まれたカエルのそれであり、買い物用の籐篭を取り落としそうになっていた。 「……やあ、委員長」  とりあえずそれだけを何とか口にした文彦だった。  殴られることは、予想していた。  罵声も甘んじて受けよう。  ジュースや汚物を投げつけられても、避けたりしない。  急所でなければ、刺されても反撃を控える。  村上文彦は妙に静かな気分で桐山沙穂を見た。沙穂の告白を断ったその日の内に、嫌がらせを含めて同級生より百件以上の電話やメールが飛び込んでおり、そのことごとくが文彦の対応を批難するものだった。あの伊井田晋也でさえ「他に言い様があったと思うんだな」と、言ってくる。妹の小雪や下宿人のベル七枝に至っては、 「それってサイテーの断り方だよ、お兄ちゃん」「駄目駄目っす」  と、昨晩から口をきいてくれない。 (そんなこと言っても、委員長が抱え込んでいる『特異点』を処理するためには他に方法が無い訳で)  自分が嫌われることで沙穂が平穏に暮らせるのなら、それは安いものだ。来年の春にはクラス分けが行われ、進路が違う自分と沙穂は間違いなく別々の学級になる。三課や警察など、色々な組織の仕事を請け負えば学校を休む理由もできる、これを期に調理師学校に入学するのも悪くない。  使い魔たるジンライとハヤテは沙穂の守護役として十分に働いており、気付かれずに警護を続けるのは造作も無いことだ。 (覚悟を決めろ、村上文彦)  歯を食いしばり、真っ直ぐに沙穂を見る文彦。  沙穂もまた拳を固く握り、真っ直ぐに文彦を目指して大股で歩いてくる。さながらそれは親の仇を見つけた若侍と流浪の旅に疲れた剣客のようであったと、文彦と立ち話をしていた魚屋の御隠居・黒瀬津雲は証言している。  ともかく。  肩をいからせ沙穂は文彦の前で立ち止まった。少しばかり踵のある靴を履いていたので、文彦との身長差は正に頭ひとつ分ある。吹奏楽部で鍛えに鍛えた腹筋背筋を活かした肺活量、上体を反らすように大きく息を吸い込んだ沙穂は文彦の肩を腕ごと掴み。 「んむっ……」 「ぐっ」  潰すように抱き上げて、沙穂は文彦の唇を奪った。  それも。  空気の逃げ道を残さない、吸い付くようなディープキスだ。 「んんんっ」  混乱を起こした文彦は鼻で息を吐く。しかし腕と背を封じられ宙に浮いていては満足に肺は膨らまないし、全神経が唇と舌に集中しているので酸欠にも気付かない。それでも耳に飛び込んでくるのは商店街を歩く人々の言葉であり、視界の片隅に映るのは自分と沙穂を遠巻きに囲む野次馬の中に混じる同級生達の顔である。  沙穂は、それらの一切を無視して文彦の唇を奪い続けている。 (何が  何が起こったんだ)  錯綜する身体情報を必死にまとめようとして。 『接吻でござる』  使い魔ジンライの、感情を殺した声で我に返る文彦。 『あー、もう。ハトが豆鉄砲喰らった顔ですぜ、旦那』  使い魔ハヤテは、明らかに事態の推移を楽しんでいる様子だ。いずれも姿を消しており通行人には見えないようにしているようだ。 (だったら見てないで助けやがれ) 『お断りでござる』『下に同じ』 (あ)  酸欠か、それとも突っ込まれた舌が気持ちよすぎたのか。  村上文彦の意識は途絶え、身体はゴムのように脱力してしまう。酔っ払った猫のような文彦を抱き上げたままの沙穂は天を仰いで再び拳を握り、 「……勝った」  と呟く。野次馬達は訳もわからず拍手し、幸運なのか不幸なのかわからない同級生すなわち柄口鳴美・仲森浩之・伊井田晋也の三名は沙穂と文彦を抱え込むようにして、風のように連れ去った。  我に返ったとき、文彦の顔面はボコボコに腫れ上がっていた。  時刻は既に夜の営業が終わっていて、文彦は全部の皿と食器を洗い終えていた。洗面所の鏡で確認すれば、母親と思しき靴跡に妹の引っかき傷が縦横無尽に炸裂し、残る部分は正体不明の打撲痕だ。ひょっとしたら英和辞典やサンダルの一撃もあったかもしれないが、その辺の詮索は無意味だと判断した。 「いーい面構えじゃないの、馬ァ鹿息子」  厨房の火を落とした母・深雪がカウンターの客席に座ってニヤニヤしながら文彦を見ている。 「馬鹿で悪かったな」 「おう」あっさりと頷く深雪「そんな馬鹿息子のために、クラス委員長さんが手紙くれたわよ」  カウンターに置いた手紙を拳で叩き、そのまま深雪は店の奥に姿を消す。文彦が我に返った以上、心配要らないと判断したのだろう。壁にかけた時計を見れば、時刻は午前三時を過ぎていた。  残ったのは、一枚の手紙。  実用性第一の、可愛らしさの乏しい便箋を三つに折り畳んだ手紙だ。開いてみると、これまた黒の水性ボールペンで書かれたシンプルな文面。 『村上文彦さま。  死んだ人とは、キスできません。  その先のことだって、できません。  私は、死んだ人には負けたくありません。  桐山沙穂より』 (処置は失敗か)  沙穂が自分を嫌ってくれない以上、今後の対策は厳しいものになるだろう。 (でも)  その厳しさがなんとなく嬉しいと、文彦は考えつつカウンターに突っ伏して眠るのだった。