第二話 放課後の悪魔退治  追試というのはたった一人で受けるわけではなく、たとえば赤点を取ってしまった生徒や風邪などの事情により試験に参加できなかった生徒などが受けるので悲壮感とかそういう意識は意外に乏しい。教師にしてみれば客観的な評価を下す上での数少ない基準なので、とにかく試験を受けて欲しいと考えているし、できることならば留年とかせずに三年間できっちり何の問題も起こさず卒業して欲しいと考えている。それらのことを踏まえれば追試問題というのは基本的に教科書の焼き直しであり、下手をすると教科書の演習問題そのままという可能性も非常に高く、それはそれほど多くない追試生徒のために新たに問題を考えるのも面倒くさいという教師側の事情も見え隠れしている。どのみち追試という時点でそこには公正な評価とかそういうものを超えた、いわば生徒と教師の妥協が潜在しているわけで、だとすれば生徒にとって脅威なのは追試問題の質ではなく与えられた追試科目の多さとなる。 「あああ」  がっくりと。  村上文彦は肩を落として廊下をとぼとぼと歩いていた。高校生でありながらランドセルが似合いそうな文彦が廊下を歩けば、事情を知らない下級生などは幼い容姿の文彦を見て驚いて振り返るのだが、今の彼にはそれらに反応する余裕さえなかった。 「……疲れた」  四科目の試験を続けて受ければ消耗もする。試験時間は多めにあったが、規定通りに受けていたら下校時間など軽くオーバーしてしまうので、教師は無言で時間短縮を迫り文彦は試験を急ぐ。トップクラスではないとは言えそこそこ試験に備えて勉強していた文彦にとって解答困難な問題はそれほどなく、やはり圧倒的な分量が最大の障害となった。  一科目に費やした時間は平均して十五分。  解答の書き間違えなど見直す間もなく解答用紙を試験監督に突きつけた文彦は、精も根も尽き果てたボロボロの身体を引きずって廊下を歩く。目指すのは生徒玄関であり、安らぎの睡眠が得られる自宅のベッドだ。 (とりあえず寝よう)  十時間くらい寝よう。  様々な事情で二日ほど徹夜していた文彦は、寝ることだけを考えていた。心底眠かったら「徒歩よりも効率の良い方法」で帰宅していただろうが、幸運にもそれを躊躇うだけの理性も残っていた。  思えば散々な一週間だった。  ふとした事で文彦の裏稼業を知ったクラス委員長の桐山沙穂は、図書室や友人達に借りたというオカルトの書籍を持ち出しては色々訊いてくる。訊いてくるだけでなく、ふらりと文彦が出かければその後を追いかけ「ねえ、また化け物退治?」と嬉しそうに言う。帰宅しても油断していたら電話をかけてきて、隙あらば家に押しかけかねない。自宅で飲食店を営む母はすっかり沙穂の名前を覚えてしまったし、小学生の妹は何故か不機嫌だ。  ああ。  自分が何をやったというのだ。普段通りに生活していたら、追試の四連続も大して苦労しなかったに違いあるまい。沙穂に知られて僅か一週間、文彦の生活はすっかり掻き乱されてしまった。馴染みの刑事は仕事で文彦に会えば「おや、今日は一人なのか」と意味ありげな笑みを浮かべるし、同級生達も事ある毎に「最近、桐山さんってオシャレになったよなあ」とか「お子様なのは見た目だけかよ文彦」と探りを入れてくる。 (みんなの誤解を解くのは、明日にしよう)  下校時間も近いし、ほとんどの生徒は帰宅している。  大会間近の運動部や、夏休み明けの学園祭を企画している各種委員会以外に残っているのは文彦のような追試生徒だけだ。 「帰ろう」  まずは帰ろう。そして眠る。電話がかかってきても気付かない、妹のご機嫌取りもしない、同級生の誘導尋問も無視する、警察からの依頼は……来ないことをひたすら祈ろう。諸々のことを考えると頭が痛い限りだが、それでも文彦は現実より逃避すべく玄関に到達し。 「村上、文彦さんですね」  玄関に立つ一人の少女の言葉に、文彦はその動きを止めた。  異人の血が混じっているのか淀みのない金茶の髪をポニーテールに結わえ、少しばかり吊り上がった瞳は太目の眉とあわせて意思の強さを感じさせる。制服は獅子と剣を組み合わせた校章を胸元に縫いつけたブラウスに臙脂色の棒ネクタイ。タータンチェックのスカートは落ち着きのある色調で全体的に気品を感じさせるのだが、程よく使い込まれた頑丈そうなトレッキングシューズが少女の性格を語っている。  北高校の生徒ではない。  市内どころか近隣各県にも名門として知られる青蘭女子、しかも中等部の生徒だと文彦は理解した。どこか狐を連想させる中学生の美少女(それでも文彦より頭半分ほど背が高い)は、腕を組み仁王立ちになって玄関にいる。普通中学生が高校に押しかけたら緊張しそうなものだが、この少女は背筋を伸ばし胸を張り、北高校の玄関すべてが我が物であるかのような堂々とした態度である。 「村上文彦さんですね?」  少女は文彦を見てそう言った。  鼻で哂いつつ。  小悪魔的というか無邪気ゆえの無敵さというか、そういうオーラを漂わせている。心身共に健全ならば男として声の一つでもかけてお近付きになりたいところだが、あいにく現在の文彦は睡眠欲が食欲と性欲を凌駕している状態だった。 「村上文彦さん、ですよね?」 「いいえ、僕は伊井田晋也です」  しれっとした顔で文彦は教室に居残っていた同級生の名を告げた。少女は硬直し、強張った表情のまま赤面する。恥ずかしいのだろうが、それを認めたくないという態度だ。 「そ、それでは村上さんはどこにいるのです」 「二年C組」  言うや少女は土足のまま校舎に侵入し、階段を一気に駆け上がる。雄叫びをあげながら。 (伊井田には明日謝っておこう)  とか思いつつ下駄箱の蓋を開こうとする。そろそろ吐き気もしてくる己の精神状態に不安を抱きつつ下足に手を伸ばすのだが、下駄箱の蓋は文彦の前で勝手に閉じた。 「村上くん、大変なの!」  振り返る前に文彦の腕を掴んで、沙穂が叫ぶ。逃す気も事情を聞く気も最初から無い。勉強熱心で同級生達の人望も篤い知的美女というイメージは、この一週間で完全に崩れてしまった。 「頼む、頼むから委員長……明日にしてくれねえか」 「駄目よ」きっぱりと、沙穂「たとえ地味でも世の中の怪異を片付けるのが村上くんの仕事でしょっ」 「……なあ委員長、すっげえ誤解とかしてねえか……」 「ぜーんぜんっ」  誤解とかそういう単語を耳にすると何故か不機嫌になる沙穂は、笑顔のまま額に青筋浮かべ、力尽きかけた文彦の腕を掴んでずるずると校舎の中へと引き戻していくのだった。 「あなたが村上文彦ですねっ!」  ポニーテールの少女は勢いよく扉を開けると叫び、二年C組の教室に入った。  ずかずかと大股で歩くものだから金茶の髪は揺れ、リノリウムの床をトレッキングシューズが踏み鳴らす。背丈や幼い顔立ちや制服から、少女がどこぞの私立中学生徒だと即座に理解できる。が、彼女が北高の校舎に土足で侵入する事情を説明する材料はどこにもない。  いや。 (村上の関係者か)  自分に近付いてくる少女を見て、伊井田晋也は大体の事情を察した。  村上文彦という同級生がトラブルに巻き込まれやすい「体質」というのを晋也は理解している。たとえばクラス委員長の桐山沙穂が文彦に対して「夏前に!」と意気込んでいたのを晋也は知っていたし、十日ほど前に文彦が期末試験途中で突然早退した折には相談を受けている。果たして沙穂が目論見通り文彦に告白できたのか或いはどうにもならなかったのかについてはC組の男子一同が議論する事柄だったが、結果がどうであれ隠れ人気の高かった沙穂が文彦に接近しているという事実はC組どころか学年中の生徒にも知れ渡っている。最近の事柄に関しては期末試験後のハイテンションが沙穂を大胆にさせているのではないかと同級生の柄口や仲森たちは分析しているが、そもそも蒙古斑が消えたかどうかも怪しい文彦に対して沙穂が手出しできることは限られているだろうという意見で一致していた。 (もっとも村上の窮地に変わりはないか)  晋也の見立てでは、文彦は沙穂の好意にさえ気付いていない。沙穂もその辺を自覚しているから接触を繰り返し、既成事実を作ろうとしているのだろう・・・・・・もっとも沙穂が文彦を好きになった理由がはっきりしないので手出しのしようもなく、晋也としては事態の推移を黙って見守るつもりでいた。  その矢先に、これである。  ポニーテールの少女は肩をいからせ近付いてくる。少し頬を膨らませ眉を寄せたその顔は、実に可愛らしい。絶世の美女とかTVのタレントと比較するのはナンセンスだが、その年頃の少女にしか出せない生気に満ちていて実に魅力的だ。中学生では乳臭くて恋愛の対象にならないと主張する同級生もいたが、小学生に間違われることも少なくない文彦相手ならば「あり」ではないのかとも晋也は考える。  この少女に文彦への好意が存在していると仮定した場合だが。 「村上文彦ですね、言い逃れしようとしても無駄なんですからっ」  晋也の黙考を遮るかのように。  少女は晋也の間近まで接近していた。石鹸と、少しばかりの汗のにおい。その種の嗜好の持ち主ならばいきり立つところだろうが晋也はしかめっ面で目を伏せ、懐から自分の生徒手帳を差し出して返答とした。写真と割り印のついたそれは高校生の身分証明として公的に使用されているものであり、しかしながら偽造するメリットの小さい代物である。少女は恐る恐る晋也の手帳を受け取ってこれを開き、 「……伊井田、晋也さん?」  とだけ呟いて凍りつく。 (ああ、面白い反応だ)  そう思ったのでしばらく放置しておくことにした晋也だった。  それはもはや北高では日常と化しつつあった。 「事件なの、とにかく物凄い事件なんだってば」 「あーうー」  引きずられながら文彦は呻く。  沙穂は文彦の様子になど全く構わず引きずっており、それはデパートで疲れ切った子供を引きずりつつバーゲン会場を生き生き駆け回る母親の姿にも似ていた。 「っつーか、部活はどーした委員長」  文彦の言葉に、沙穂は固まる。吹奏楽部に所属する沙穂は、高文連のコンクール以外にも様々な演奏会が控えているので練習を休むわけにはいかない筈だ。少なくとも沙穂は文彦にそう言っていた。 「練習は大切だぞ、委員長」 「そう、あれは練習中の出来事だったの」  遠い目で呟く沙穂。握力が弱まり文彦は後頭部から床に落ちるが、そんな事にも気付かず胸の前で両の拳をあわせ瞳を潤ませる。二昔前の少女漫画の世界を彷彿とさせる沙穂の仕草だが、後頭部を押さえてゴロゴロと転げまわる文彦には彼女の芝居がかった仕草を観察する余裕などない。 「私たちが。その、木管楽器の合同練習で空き教室を使おうとしていたの」  放課後の教室は、多くの場合部活動の場所として利用される。  もっとも運動部が校舎を使うとしても階段や廊下での走り込みであり、教室を使用するのは文化系部活動が主である。比較的教師の信用が篤い吹奏楽部は楽器ごとに教室を借りて練習することが多いし、文化祭の実行委員が各部門に分かれて打ち合わせなどを行う際にも教室をそれぞれ借りる。美術系の部活動は美術を、化学生物系の部活動は各種実験室を使うのだから実際には教室は余るのではないかと運動部の生徒は考えるのだが、それは誤りである。 「それで普段使っている教室には文化委員会が会議を開いていたから、別の教室を使おうと思って……そうしたら」 「ぐー」 「寝ないでよ、村上くんっ」  回想が長くなりそうだったので意識を失いかけた文彦の襟を掴んで前後に振る沙穂。後頭部は痛いわ追試の後で眠いわでいっぱいいっぱいの文彦は、恨みがましい目で沙穂を見上げる。 「要点だけまとめてくれよ、委員長」  あと一歩で殺意が言動の源になりそうな文彦の態度に、さすがの沙穂も咳払いして慎重に言葉を選ぶ。 「あれを見て欲しいの」  あれ、と沙穂は空き教室の一つを差す。図書館に近い、特別教室が幾つか並ぶ棟の廊下である。  放送部の施設や学校新聞の編集室、写真部の暗室などがずらりと並ぶ一角。生徒会室も存在するその教室は、普段は使われていない。授業では滅多に使われないから生徒の中には「あかずの教室」と呼ぶ者もいる。  その教室の扉に、一枚の紙が張ってある。  安物のわら半紙に、中細の油性マジックでいい加減に書きなぐった文字。いい加減に画鋲で留めたのか、隅の一つが破れているそこに書かれていたのは、 【邪神召喚部  現在部活中につき入室禁止】  である。 「どう、これは事件でしょ!」  えへんと(無い)胸を張る沙穂。文彦は 「うちの学校に非公式の同好会が幾つあると思ってるんだよ、委員長」  と答えるしかなかった。  問い詰めてみれば、それは非公式の活動でも宗教結社の集会でもなかった。 「洒落ですよ、洒落」  扉の張り紙を手に、同級生の畠山智幸がぬめっとした顔で答えた。  手足が短く樽のような胴体の、歩くより転がる方が確実に速そうな男は歩くごとに身体を揺らしつつ桐山沙穂と、彼女に引きずられた形でそこにいる村上文彦を交互に見る。およそ恋愛事とは一生無縁そうな樽男は、この一週間でそれなりに見慣れた組み合わせである男女を見て何か言いたそうだったものの言葉を飲み込み、代わりに作りかけの製本レイアウト用紙を見せたりして説明した。 「年一回発行する学校誌の編集会議ですハイ」  畠山の言葉通り、あかずの教室では数名の編集委員が企画とページ数の打ち合わせをしていた。印刷製本を除けば他の作業すべてを生徒が行うという学校誌の編纂は、活動的な委員長に恵まれて数名の生徒が色々駆け回っているという話である。 「あかずの教室を使うから、それっぽい名前の紙を張ったんですハイ」 「……紛らわしい事はやめてよね、畠山君」 「す、すいませんですハイ」  普段より二割り増しで厳しい沙穂の言葉に、畠山は直立する。 「冗談でやっていい事と、悪い事が世の中にはあるの。畠山君にとっては悪気はなくても、それで傷ついたり心配する人もいるんだからねっ」 「は、はあ」  でも邪神召喚で傷つく人っているんですかね、と畠山が口ごもると 「口答えしないでよっ。私と、部活のみんなは傷ついたのよっ。世の中にはね、畠山君が考えもしない事で傷つく人がたくさんいるの! 心の強さとかそういう問題じゃなくて、学校の生徒としてやってはいけない事があるのよ!」  物凄い剣幕で沙穂が怒鳴るので、畠山だけでなく文彦まで驚く。沙穂は真剣そのものであり、他意や悪意とは関係なく本気で怒っているのだと理解できる。だから畠山は慌てて「ごめんなさいと」謝罪し、文彦もつられて頭を下げた。沙穂は半ば涙目になっていたが、しばし後に落ち着くと部活に戻った。 (委員長、泣いてたな)  なんとなく見送っていた文彦は、そんな事を考えた。  堅物とばかり思っていた沙穂は、文彦の裏稼業を知ってからは印象が変わった。意外とお喋りで、好奇心が強く、そのためにはクラスメイトをも平気で引きずり回すバイタリティも持っている。だからこそ沙穂が畠山を叱っていた時その目に涙が浮かんでいたのを見て、文彦は動揺したのだ。  故に。 「ついて行かないので?」 「わあぁっ」  畠山が横でぼそりと呟くと、文彦は心底驚いて飛び上がった。あいかわらずぬめっとした顔の畠山は表情を変えず、編集会議中と書かれた新しい張り紙を扉に貼り付けている。なんとなく考えていることを見透かされたような気がした文彦は赤面しつつ畠山を蹴るが、分厚い肉と脂肪で覆われた畠山の胴はぶるんぶるん揺れるのみだ。 「ぶう、照れ隠しに蹴るとは小学生並の反応を」 「バカヤロウ、こっちだって色々事情があるんだよ」 「では急がれることですハイ」あるかどうかわからない首を引っ込める畠山「今日の桐山さん、ここ数日で一番愉快ですからハイ」 「う、うるせえ肉ダルマ。余計な詮索する暇があったら、とっとと仕事しやがれ!」  と悪態吐きつつも。  文彦もまたその場を去っていく。  苛立っている。  そのことを沙穂は自覚していた。馬鹿みたいにテンションが高いのも、怒りっぽいのも、理由がある。 (私は、誤魔化しているんだ)  クラリネットのマウスピースを調律しつつ、沙穂は嘆息した。薄く削った竹のリード板を唇で噛み、僅かに湿らせる。髪の毛数本分の幅でさえ調律が狂えば望む音は出てくれない繊細な楽器は、使い手の気持ちを正直に伝える。割れ鐘とアヒルの鳴き声を組み合わせたような、まるきり調子外れの音が出たかと思えば、ただ細管を吹き抜ける息の音色が出たりもする。  呼吸が落ち着かない。  腹筋と背筋のバランスも崩れている。安定して息を吐くこともできず、舌先も震えている。頭の中は落ち着いているのに、身体は何かに怯えているのだ。 (人の天敵……人はどうして闇を恐れるのか)  ほんの一週間前、道先の暗闇で問い掛けられた言葉を思い出し息が詰まる。  闇の中から何かが来て、沙穂に話しかけ、そして何もわからない内に解決した。現場に戻り、切り刻まれたアスファルトを見たときの驚き。それが文彦の仕業と知って、人にあらざるものの存在を目にして。  解らない事ばかりが沙穂の胸に残った。  沙穂はあの時間違いなく生命の危機にあった、しかも一方的に。彼女に対して特別の恨みがあった訳ではなく、おそらく気まぐれに命を奪おうとしたのだろう。理系の彼女としては、道筋のわからぬことが我慢ならなかったし、理解できないものに命を奪われることに納得できなかった。まして己を助けてくれた文彦もまた、およそ沙穂の理解を超越する「何か」を行使しているのだ。  一週間かけて沙穂は理解しようとした。  それは文彦と親しくなりたいという女心であり、同時に未知なるものへの恐怖を克服するための闘争でもあった。しかし文彦は何も教えてくれないし、文彦が術を使う現場を目撃することもない。沙穂の心は、次第に闇への恐怖に飲み込まれつつあった。 (もう飲み込まれているのかも)  溜息が出る。  このままではいけないと頭の中ではわかっているのだが、本能的な恐怖から逃れる術は無いと諦める気持ちもある。  自分は闇を、闇の向こう側にいるモノを恐れているのだ。その気持ちを拭い去ることも、誤魔化すこともできず飲み込まれていく。 (駄目。これじゃ練習にならない)  乱れた気持ちを抱えたまま練習しても意味は無い。事情を伝えることはできないが、今の沙穂では周囲の足を引っ張るだけだ。 「すいません、部長」  言いかけて気付く。  考え事をしている間に世界の様相は一変していた。部員達は凍りついたように硬直し、楽器だけが優雅な音楽を奏でている。校舎の全てが紅に染まり、壁が生命のように蠢動している。  息を呑む、沙穂。  神経が高ぶり胃袋が絞られるような嘔吐感が彼女を襲うが、沙穂は咳き込むのみ。それが何であるのか、理屈ではなく本能が理解し全身に恐怖を伝えている。 『なるほど、真実に近付きたる者の恐怖はなにものにも勝る美味である』  床が動く。真っ赤に染まった部員達の影が集まり盛り上がり、人の形となる。目も鼻もなく真っ赤なペンキをかぶったようなそれは、二つの目が大きく見開いている。 『少女よ』  それは再び呼びかけた。  今にも崩れそうな手を差し伸べて、招くように。 『我らの存在を心に刻み、闇の傷を胸に負う少女よ。汝は』 「とりゃあああっ」  その時である。  何も無い空間より一人の少女が現れて、紅に染まった魔物の手を蹴り飛ばした。金茶の髪をポニーテルに結い、青蘭女子の制服を着た女子中学生は続けざまにトレッキングシューズで魔物の顔を蹴り、沙穂をかばうように立つ。好戦的で挑発的な眼差しを魔物に向け、少女は叫ぶ。 「おばさん、危険だから下がってっ!」 「お、お……」  悪意のない一言とはいえ。  魔物への恐怖より少女への殺意が強くなった沙穂だった。  学校の屋上に一人の男子生徒が立っていた。  樽のような胴体、短い手足。誰が見てもそれとわかる畠山智幸は、菓子パンをべちゃねちゃと音を立てて頬張りながら眼下の景色を眺めていた。開いているのかどうかもわからない細い目に、弛んだ頬肉。しまりのない唇はにちゃにちゃと音を立てて咀嚼し損ねた菓子パンの欠片を唾と共に吐き出している。学生服は食べかすで汚れており、彼はそれを手で払おうともしない。  眺めることと、食べること。  まるでそれが彼の人生すべてではないのかと言わんばかりに、畠山はそれをもう何分も繰り返している。 「心に闇を抱えた人は、望まなくとも闇を引き寄せるものです」  音楽室のあたりに視線を動かして、そう呟く。菓子パンが尽きたと知って、それでも甘味を求めて己の指をしゃぶり唾液でべとべとにする。今まさにその場所では、紅色の異形が沙穂を襲わんと現れ、それを阻止すべくポニーテールの少女が駆けつけたところだ。しかしながらそれは建物の死角にて起こった事件であり、仮に視界にその場所を捉えたとしても常人には察知することもできない位相での出来事だった。  それを畠山は認識していた。  唇の端がつりあがるように歪む。 「アア素晴らしい」 「そんな訳があるか、ボケ」  唐突に。  一陣の風のように階段を駆け上がって現れた村上文彦の飛び蹴りが、畠山の顔面に炸裂した。不意を突かれた畠山は鼻骨と前歯数本を折りつつもんどりうって倒れ、床に転がる。普通ならば激痛で恐慌状態に陥ってもおかしくない負傷なのに、畠山はなんでもないように立ち上がり肩をすくめる。 「君は同級生に対して容赦しないのか」  格闘家でさえ平然としていることが困難な負傷だというのに、畠山は僅かに眉を寄せるだけだ。もっとも文彦もまたその辺は承知済みらしい。 「俺の知ってる畠山なら、階段の下で気絶させてる」  あっさりと、とんでもないことを口にする。  歯の折れた畠山もどきは唖然とするが、しかし直ぐにふてぶてしい表情に戻る。 「おや、そうでしたか」  畠山もどきは納得すると己の顔を手で押し潰す。まるで粘土細工のように皮と脂が混ざり、肉と骨が潰れる音が文彦の耳にも届く。そのグロテクスさに文彦はげんなりとするが、決して油断することはない。かつて畠山の姿をしていたそれは数秒ほど己の顔を弄っていたが、直ぐにその手を止めた。  そこに在るのは、豚を醜く歪めた獣の貌。 『これが私の本性デスよ、村上くん』 「変身する必要ねえじゃん」  冷たい突っ込みに、悪魔オルクスの眷属は思わずその通りだと納得してしまった。  少女は、どうみても中学生だった。  青蘭女子の制服は、犬上市の女子高生なら誰でも知っている。少女の制服が中等部のものだということも、直ぐにわかる。肌の艶もいい。寝不足とか食生活に気を遣わなくともつやつやですべすべで張りのある肌は、羨ましい限りだ。  が。 「他校生が、しかも中学生が一人で校舎に入ってはいけないのよっ。きちんと職員玄関で受付したの? 同行してきた保護者の方はどこ? それ以前に中学生が」 「ぢぇいっ」  場違いなことで騒ぐ桐山沙穂の額に手刀を叩き込む少女。眼鏡も割り砕かんほどの手刀を眉間に喰らい、額を押さえてしゃがみ込む沙穂。 「あぐぅぅううう」 「おばさんは黙ってて、余計なこと言わないでよねっ!」 「お、おば……」  一度ならず二度までも。  少女に悪気があるわけではない。確かに沙穂は、同年代の女子高生に比べれば落ち着いた雰囲気がある。言い方は悪いが地味目という印象も拭えない。だから中学生の少女から見れば沙穂は随分と大人びて見えるのだから仕方がないという意見もある。  理性では、そう判断できる。  理性ではだ。  傍観していた紅色の異形でさえたじろぐほどの暗黒オーラを漂わせる沙穂。少女はそれに気付かぬ振りをして異形へと立ち向かう。 「とにかくっ!」  びしっと異形に指を突きつける少女。肩幅に足を開き、僅かに腰を落として身構えている。親指の付け根に重心を乗せ、踵は僅かに浮いており前後左右いかなる動きも瞬時にとることができた。前方の異形だけでなく、後方の沙穂にさえ襲われかねないことを自覚していたからだろう。 「迂闊だったわ。悪魔オルクスにばかり気を取られていたから、アンタみたいのがいるなんて知らなかった」 『汝は、この地を識らぬようだな』  紅色の異形は崩れかけた手を再生させ、首を傾げる。それは真実だったので少女は唇を噛む、そこに重大な意味があると感じたのだろう……表情も硬い。 『この街はな、いわば紙一重の地よ』  吟。  空間が軋む。  異形の足下より影が広がる。ペンキのようにぬっぺりとした真っ赤な影が広がるのを見て、少女は跳躍する。  己の胸を軸に前転し右脚を振り下ろせば、踵が蒼い炎に包まれる。繰り出した踵はまるで刀のように、異形の胴を袈裟懸けに切り裂く。異形は寒天質の身体を震わせながら崩れ、床に溶けて消える。 「これぞ奥義・炎斧脚!」 「……恥ずかしい上にどこかで見たようなネーミングセンスだわ」  自慢げに胸を張る少女に突き刺さる、沙穂の冷静な一言。もちろん少女の踵が炎に包まれたことは、驚愕すべきことである。驚愕すべきことだが、このような状況下では『何を今更』という気持ちが大きい。 「わ、わわわ技の名前叫びながら繰り出すよりマシでしょ、おばさん?」  引きつった笑みで「あたし命の恩人よ?」と少女が凄めば。  沙穂は黙って少女の背後を指差した。そこは先刻まで紅色の異形が立っていた場所である。 「なによ」 「増えてる」 『言ったであろう、汝はこの地を識らないのだと』  声は複数あった。  少女は引きつった笑顔のまま沙穂の手を取り、音楽室より逃げ出した。  豚頭のオルクス、正確に言えば力の一端を受け継いだと思しき悪魔は落胆の色を隠そうともしなかった。 『ご覧になりましたか、影使い。組織が我を滅ぼすべく遣わしたのが、あの程度の炎術師なのです……我の悔しさと悲しさ、理解していただけますか?』 「俺としては委員長から手を引いてくれたらどーでもいいんだが」  オルクスはぴたりと止まり、意外そうに悪魔は村上文彦を見て首を傾げる。  文彦といえば寝不足の状態で無理して屋上に駆け上がったためか、嘔吐感に苦しみ口元を押さえていた。 『あの小娘、貴方の御知り合いでは?』 「『形無し』に追われている方はな」 『これは失礼』  咳き込む文彦に、上辺だけ謝罪するオルクス。弛んだ頬肉が揺れ、よだれを撒き散らせながら頭を上下させる。 『しかしながら』  オルクスが指を鳴らせば、その足下より紅色の異形が十数体現れる。文彦が「形無し」と呼んだ異形は、沙穂を襲ったものとは異なりより硬質の身体を有しているようだ。 『心に闇を抱えた女性って素敵だとは思いませんか?』  うっとりとした顔でオルクスが手を挙げれば、形無しの異形たちは鉤爪を剥き出しにして襲い掛かる。  形無しの異形、その数十二体。 「こんなの聞いてないわよぉぉぉおおおおおっ」  少女は叫びながら全力で駆けていた。  ポニーテールにまとめた金茶の髪が上下左右に激しく揺れるのは、少女が様々な場所に視線を向けながら走っている証拠だ。何しろ初めて入った建物であり、方向感覚に自信があっても土地勘がまるでない。どこに非常階段があり、どうすれば外に出られるのかさっぱりである。おまけに少女は異形たちが狙う少女・桐山沙穂の手を握り引っ張るように走っているので、普段の倍以上の体力を消費していた。  異形は足音も立てずに迫ってくる。  一体一体の強さはそれほどでもないと判断した少女だが、十二体がまとめてくればまともに相手することさえ難しい。それにも増して、異形が十体を越えて現れた事自体が少女の「常識」を覆すものであり、少女から正常な判断力を奪いつつあった。 「何で……何で何で何で何で、何でなのよぉぉぉおおおっ」 「な、なにが?」  息を切らせつつ少女と共に走る沙穂は、自分が理解できない事情でパニックを起こす少女の様子に困惑する。が、パニックを起こそうが困惑しようが、形無しの異形が追ってくるという事実は変わらない。  アレは、なんなのか。  生き物なのか。  弱点はあるのか。  そもそも滅ぼすことができるのか。  自分がどうして狙われているのか。 (わからないことばかり、増えてくるッ)  それが一番腹立たしかった。  だから沙穂は階段を前にして少女の手を振り払い、異形どもに相対すべく立ち止まった。恐怖心はあったが、それを圧倒する己の無知への怒りが彼女の中に存在していた。  ああ、この世界は未知満ちているというのに。  沙穂は怒った。自分に対して。不躾な物言いの、少女に対して。  そして。 「…………村上君の、ばか」 「はあ?」『ぬう』  沙穂の呟きに、少女と異形が動きを止める。いかり肩で両拳を震わせ、髪も逆立たんほどのオーラを漂わせる沙穂。いつの間にか彼女の瞳に涙が浮かび、歯も砕けんほど力いっぱいに食いしばっている。 「ガールフレンドのピンチくらい、問答無用で駆け付けなさいよっ。この鈍感男ぉっ!」  どさくさに紛れてとんでもないことを口走った次の瞬間。  碧色の雷が辺りに炸裂し、沙穂に迫らんとしていた形無しの異形数体が同時に吹き飛ぶ。寒天質の異形の身体は砕けると共に蒸発し、残る数体が驚愕して数歩退く。 『桐山沙穂さまですか』  落ち着いた男の声が沙穂の直ぐ横から聞こえた。  視線だけ動かせば、虎ほどの大きさのある狼が控えているのが見える。鋭く真面目そうな目で、しかしどこか腑に落ちない表情で沙穂を見つめている。狼に悪意は感じない。 『桐山沙穂さまですね』  沙穂は頷く。 「私が、桐山沙穂よ」 『ジンライと申します』  恭しく頭を下げる狼。その名を聞いて少女は「ひっ!」と声を上げ、形無し共は更にたじろぐ。狼は鋭い視線を形無しへと向け、低く唸った。 『我が主の命により、あなた様をお守りします』  電光石火の早業で。  ジンライを名乗る狼は残る形無しを雷で吹き飛ばすと沙穂を背に乗せ、ついでといっては何だが呆然としていた少女の襟を口にくわえて走り出した。  一陣の風が屋上に吹いた。  海からの湿った潮風ではない。かといって山からの熱い風でもない。今が真夏であることを忘れさせるほど、冷たい疾風が吹き抜けたのだ。 『……ぶひぃ』  冷涼と呼ぶには、あまりにも鋭い風だった。オルクスと呼ばれた豚頭の悪魔は短い手で己の身体をこするように動かし、文字通り震え上がった。村上文彦を襲った十数体の「形無し」達は、風に撫でられたのかいずれも凍りつき、そして数瞬の後に微塵に刻まれて床に散った。  紅色の染みは僅かの間だけ床に広がるが、それらは赤い塵となって空気に溶けて消えてしまう。 『影使いが風の術を使うなど、聞いたこともありませぬ』 「俺じゃねえもん」  即座に言葉を返す文彦。彼は相変わらず不機嫌そうな顔で、上を見ろといわんばかりに親指を立てる。オルクスが用心しつつ顔を上げれば、太陽を背に急降下する一羽の隼。猛禽は己の身を矢尻と化し、文字通り空を切って落下する。嘴がオルクスの額を貫き頭部を引き裂くと、隼は両の翼を大きく広げて床への激突を回避し、首をひねってオルクスを放り投げる。無論、まっとうな猛禽になせる業ではない。 『お、お、お、お、おっ』  頭頂部が割れてなおオルクスは生きていた。いや、生きているという言葉は正確ではない。そもそも彼が生物としての条件を満たしているのかさえ、定かではないのだから。 『豚野郎ですか、旦那』  文彦の肩に止まった隼が軽薄そうな口調で喋り、翼を腕のようにやれやれと動かす。文彦はしかめっ面で短く「ああ」と頷くと、ようやく吐き気がおさまったのか己の腰に手を当てる。 「豚野郎だな、ハヤテ」 『豚ですね、ええ』  ハヤテと呼ばれた隼は主そっくりのげんなりした顔でオルクスを見る。なぜならばオルクスは引き裂かれた頭部を再びこね回して傷を埋め、再生したのだから。 『丈夫ですね、旦那』 「そうだなハヤテ」  その気があればオルクスに止めをさす事も余裕で出来ただろう。それを行うだけの時間と実力が文彦と隼にはあったのに、一人と一羽はオルクスが逃げ出さないように監視しつつ屋上に突っ立っている。  やがて。  階下に雷の轟音鳴り響いたかと思うと、地を這う別の疾風が屋上に現れた。それはジンライと名乗った大狼であり、その背には沙穂が、口には少女がぐったりとしている。どうやら二人とも圧倒的な速度のために身体が硬直しているらしく、沙穂は笑顔を引きつらせていた。 『お連れしました、文彦様』 「ご苦労、ジンライ」  頭を撫でれば狼は嬉しそうに尻尾を振る。蒼い雷を体中に帯びる大狼は鋭い視線をオルクスに向け。  そして。  奇妙な光景だった。  夕刻にはまだ早いのに紅に染まった世界。  御伽噺に出てきそうな、豚頭の巨漢。  無表情にして悪意を剥き出しにする形無しの異形たち。 (まるで出来の悪い悪夢だわ)  大狼の背に乗り、桐山沙穂は不思議な感覚に捉われていた。硝子とコンクリートに覆われ銅線が無数に走る近代都市が、その意味を失っている。明治大正の時代ならいざ知らず、このご時世に街の闇に徘徊する怪人など……。 「恥ずかしいと思わないの、あなた達っ!」  自分の立場も忘れて沙穂は叫んでいた。 「二十一世紀になったというのに、悪の怪人に戦闘員ですって? おまけに無断侵入の女子中学生が恥ずかしい技の名前を連呼して、下着丸見えの踵落し。破廉恥にもほどがあるわっ!」 『そこにいる少年はどうなので』 「村上くんは……」豚頭オルクスの言葉にうろたえつつ答える沙穂「ちょっとくらい派手な方がいいのよ、彼」 『ほーう』「へええええ」  大狼と隼、それに女子中学生が同時につっこむ。意味ありげな視線を傍らに立つ村上文彦に向けるのだが、文彦はそもそも沙穂の言葉を聞き流しているので意識もしない。  むしろ沙穂の言葉に全員の意識が向けられている好機を逃すまいと、文彦はポケットより銀牌を取り出しオルクスに投じる。爪ほどの小さな銀牌には複雑な図形と文字が刻まれており、放物線を描かず空を切って銀牌はオルクスの眉間を貫く。  隙をついた行為だったので、沙穂も少女も気付かない。  銀牌は粘土のようなオルクスの皮膚に潜り込み、そのまま姿を消す。ほんの一瞬の出来事だったので、オルクスもまた短い手を額に当てるが銀牌を引き抜くことは出来なかった。 『何を、されたのです』 「別に」  震えた声で問うオルクスに文彦はとぼけた顔で返す。 「俺は地味だから、派手な仕事は苦手なんだよ」  右手で空を切り指先で短く印を結ぶ。その間も少女や隼達は『そもそもがあるふれんどとはいかなる存在なのですか』「破廉恥なんかじゃないもんっ」『おいおい文彦の旦那に彼女が出来たってのか』など騒いでおり、オルクスの様子はもちろん文彦の動きを察知していない。  わずか数秒。  銀牌に刻まれた模様、三角四角五角形を組み合わせた複雑なる紋様がオルクスの額に浮かび上がる。直後、オルクス足下の影が盛り上がり、全身を包み込む。 「封印」  ぼそりと文彦が呟けば、もがく間もなくオルクスを覆う影は地に落ちる。ちゃりんと金音が鳴るので沙穂がようやく視線をそこに向ければ、既にオルクスの姿はない。文彦は腰を落とし、床に落ちた一枚の銀貨を拾っている。複雑なる紋様と、豚の絵がそこに刻まれていた。 「……村上くん?」  いつの間にか、空に蒼が戻っていた。  陽が西に傾いていた。  下校時間を迎えた北高校には、ほとんどの生徒が帰宅していたので玄関には人影が三つあるだけだ。 「どういうことなのか、説明してもらいますからね」  影の一つが厳しい口調で言った。沙穂である。 「おばさんは一般人だから説明しても無駄だよぅ」  影の一つがポニーテールを揺らしながら返す。校舎への無断侵入の件で、職員室にてたっぷり説教されてきた女子中学生の少女だった。おばさん呼ばわりされた沙穂は笑顔のまま少女の頬をぎうっとつねり上げ、少女は「ひーん」と呻く。 「私は二度も化け物に襲われた被害者なんだから、事情を聞く権利があるの」 「ひーん」  沙穂と少女が騒いでいるので。  できるだけ静かに文彦は玄関より立ち去ろうとした。事情が掴めないのは文彦も一緒だったが、ただでさえ疲労が蓄積していた身体に鞭打って豚頭オルクスを退治したので体力は限界を超えている。足取りは限りなく重く、朦朧とした意識では事情を説明する気にもなれない。 (とにかく、逃げよう)  すべては明日以降だ。  委員長への説明も、少女を詰問するのも。  が。 「待ちなさい、村上くん」 「うう」  委員長に手を掴まれてしまう文彦。振り払う気力もない。  魔物封印の術は想像以上に体力を消耗する。十分な準備を行わず即興的に組み立てた術式ならばなおのことで、まっとうな術師ならば文彦が行ったことを知れば悲鳴を上げるだろう。しかし沙穂はそもそも術式の何たるのかを知らないし、術師と思しき少女もまた文彦のそれを目撃していない。 「二度あることは三度あるかもしれないでしょ?」 「……実は今日のが三回目」  疲れたような文彦の言葉に硬直する沙穂。少女もさすがに「ええっ」と驚いた様子だが、文彦は構わず胸のポケットから一枚の銀貨を取り出した。複雑な図形と狼の絵柄が刻まれたそれは、地上のいかなる地域時代の国が製造した貨幣とは異なっている。 「これを」  と、驚く沙穂に銀貨を見せて手に握らせる。少女は「封魔の刻印っ」と声に出し、心底羨ましそうな顔で沙穂を睨む。 「それを持っている限り、ジンライが委員長を守ってくれる」 「こ、こんなのじゃ誤魔化されないんだからねっ」  といいつつも。  赤面して大事そうに銀貨を生徒手帳に挟む沙穂だった。 「屋島査察官の命により、本日付で犬上特別区画の警備として配属されました。第三課所属のベル・七枝です」  学校からの帰り道、沙穂を最寄のバス停まで見送った後にポニーテールの少女は文彦に敬礼した。背筋を伸ばし、視線は文彦に向けられている。一朝一夕で身につく動きではない。 「三課、ねえ」  文彦に仕事を斡旋する「組織」の名前を耳にして文彦はどうでもいい気分になっていた。そうでなくとも疲労のため既に正常な判断力など失われている。 「英美さんも苦労しているみたいだな」  ベルが持ってきた書状に軽く目を通しつつ、どうでもいい感想を口にする。少女は割と深刻な顔で頷き、 「査察官の敵は組織内部にも少なからず存在します。魔物掃討派との衝突も一度や二度ではありません」 「ふん」  呆れているとも感心しているとも判断できない表情で、文彦は書状を学生鞄に突っ込んだ。 「まあいい、宿舎まで送ってく」 「はい」 「それで、何処なんだ?」  返事が来ない。  なぜかと思い振り返れば、ベルは少し恥ずかしそうに俯いている。 「屋島監察官は、ですね。村上さんの家に下宿しろと。空き部屋もあるという話ですので」 「……待て」 「お母様には、既に手紙も出して連絡もしましたし前日のうちに挨拶も済ませているんです。荷物も、今朝運びました。もちろん村上さんのプライベートを邪魔するつもりはありませんけど……実戦経験豊富な術師の方に色々相談に乗って欲しくてっ」 「バカヤロウ、そういう問題じゃねえだろ」 「お願いします、ほかに行くところなんてないんです!」  そうして。  本格的に夏休みに突入する前に、村上文彦の不名誉なる噂が一つ増えることになった。 (はて、何か忘れているような)  その頃。  屋上に至る階段の片隅で倒れている畠山智幸は、走馬灯がスタッフロールに差し掛かっているところだった。