彼女が欲したのは、ほんのわずかな勇気だった。  高望みなどしない。  背中を押してくれるだけでいい。いつも交わす馬鹿話に織り交ぜて、自分の気持ちを伝えるだけの勇気があればいい。  零から一へ、  無から有へ踏み出すための勇気が欲しい。  昨今では希少種とも言える彼女は、純粋にそれを願った。勇気。ただのクラスメイトとしか見てくれない同級生の少年に、自分の想いを知って欲しい。  その願いそのものは、とても慎ましくささやかなものだった。  果たして彼女は勇気を手に入れ、告白するに至る。  見る者の同情を禁じえない結果はさておき、勇気の力は彼女の中に留まった。告白してなお余りある量が、留まった。 「全三十八話で地球防衛できるくらい」  検査結果をカルテに書き込みつつ、担当医は具体的な数値を宣告した。  影法師番外編 聖なる夜のはなし  数分前まで、確かにそこは戦場だった。  ゴキブリを連想させる、獰猛な宇宙人の軍勢。  全身タイツに劇画調筋肉質の銀河正義集団。  報告すれば目撃者の精神錯乱を真っ先に疑われるであろう戦いが、塩吹く灼熱の荒野で始まっていた。百年さかのぼれば肥沃な大地だったそこで二つの軍団が戦う理由は定かではない。緑色の怪音波を発してゴキブリ宇宙人がラインダンスを踊れば、触覚から発射された破壊光線が音速の1%にも満たないスピードで正義集団に炸裂する。かと思えば、正義集団の一人が出所不明の中国拳法じみたポーズで両腕を振り回し怪鳥声で叫ぶ。それだけで砂嵐が突如として生じ、破壊光線を飲み込んで消える。  もちろん、これは前哨戦に過ぎない。ゴキブリ軍団は銀色の弾帯をたすきがけにして黄金色の巨大ライフルを取り出している。対する正義集団も、星条旗をかたどった趣味の悪いアイマスクを装着し「パトリオ〜ッ!」と絶叫する。自らを鼓舞し、相手の戦意を削ぐパフォーマンスは重要だ。正義も悪も、その矜持は捨てられない。 『かかってきたまえ!』  拡声器を使ったのか、砂嵐の余韻が空気をかき乱している荒野に、正義集団の長と思しき男の声が響く。顔だけならハリウッド映画でも十分通用する。体脂肪率が3%以下ではないのかと思うほどの筋肉が、全身タイツの下からでも個々の繊維の隆起を主張している。 『ならばいくぞ!』  いかなる発声器官を有しているのか、流暢な英語でゴキブリ宇宙人も吼える。互いに互いを滅ぼすことが是であり、家族愛やエコロジーを語り合うことはあっても、その知能を平和的解決に使うことはない。  悪は滅ぼさなければいけないし、正義は悪の挑戦から逃げてはいけない。  二つの軍勢は互いを滅ぼしあうべく突撃を開始し、  乾いた銃声  その初っ端において双方のリーダーを失った。  銃撃者は一名。  交戦場所となるべき荒野の真ん中に突如として現われ、交差した腕で構えた旧式リボルバー拳銃二挺で目標頭部を破壊した。貫通でも破裂でもなく、石膏像が砕け散るように全身タイツ超人とゴキブリ宇宙人の頭部が破壊された。  一撃である。強化パトロニウム軟性複合衝撃吸収スーツも、フタナリスキー星系特産の強化外骨格も、何の意味も持たなかった。  動きを停止する、二つの軍勢。彼らは戦うべき相手が別にあることを悟り、襲撃者を凝視した。  灼熱の荒野では見かけることのない、セーラー服の学生服。  スカートの丈は世間一般並に短いが、制服そのものに特筆すべきデザインの個性はない。強いて挙げれば、腰まで届くであろう髪をポニーテールに束ねた真っ赤なリボンが、馬鹿馬鹿しいほどに大きいことと、顔の半分近くを隠している大きなサイズのサングラスか。東洋人らしいほっそりとした体型は、全身タイツ集団と対照的である。  年の頃は十七かそこらの少女。手にする拳銃を無視すれば、時代錯誤の女子高生として押し通すことも不可能ではない。今の時点では。  無論、そんな情報は困惑する二つの集団には伝わらない。  彼らが把握している現実は、戦いを導くべきリーダーが双方共に倒されたということだ。視線は自然とサブリーダーへと向けられ、それぞれの副将は己の立場を理解し息を呑んだ直後にリーダーと同じ運命を辿った。  銃声。  本来であれば拳銃で狙える距離ではない。  更に銃声。  左右それぞれ七発の弾丸が、全身タイツ集団とゴキブリ宇宙軍の兵士に炸裂する。 『……そんな、馬鹿な話があるか!』  生き残った全身タイツの一人が、震える指を少女に突きつけながら叫ぶ。 『薬莢のない、旧式回転倉短銃だぞ! どうして七発も八発も撃てる!』  指摘した正直者は、絶え間なく発射された二十四発の弾丸を喰らって砕け散った。  少女が弾倉を交換した様子はない。  でたらめだ。  破壊力もさることながら、彼らの常識が通用しない何かが二挺の旧式拳銃に宿っている。そのことが、二つの軍勢を恐慌状態に陥らせ、  次の瞬間、  吹きすさぶ風をもかき消す大音量で細川たかしの名曲「浪花節だよ人生は」が流れ始め、ゴキブリ宇宙人と全身タイツ集団の断末魔の悲鳴を飲み込む。二挺拳銃を手にセーラー服の少女は一万三千二百六十九発の弾丸を、顔色一つ変えることなく撃ち出し、最初の任務を完了した。  物語は数時間ほど遡る。  日本国の標準時にして十二月二十三日の深夜、より正確に言えば十数分後に二十四日を迎えるという時間帯である。  桐山沙穂は、それが当たり前であるかのように犬上市にいた。  呼び出したのは村上文彦。かつて沙穂が告白した相手であり、彼女が現在の立場になった元凶でもある。もっとも沙穂が生まれ育った犬上の街を離れたのは、彼女の意思である。  少なからず想いを寄せた相手が別の女と共に過ごす様など、十ミリ秒とて見たくない。それなら私は喜んで地獄に行く。  一課への転属を受諾した時、沙穂は血涙流さんばかりの勢いで理由を述べた。  自分を親友として扱ってくれる文彦が憎い。  ああ憎いとも。  男女の間で恋愛なしの友情が成り立つわけがない、そんなデマを吐いた奴を八つ裂きにしたい。  恋愛の教祖か?  ファッションモデルでTVでちやほやされて芸能人と浮名を流しても、いざ自分が結婚してみたら破局破局の連続で、気付けば芸名変えてヌード写真を発売して出直していたような、そんな教祖が言ったのか?  沙穂は吼えた。  まともな神経の持ち主であれば三日と保たないと言われている石杜に向かい、学園生徒となり、失恋相手の養女兼肉奴隷志願の娘たちと正面から衝突しながら猛烈に仕事をこなし。 「あのさ、手伝って欲しいことがあるんだ」  という文彦の電話一本で。  沙穂は何の躊躇もなく犬上の街に戻っていた。一度は惚れた相手だからか、いや違う、自分という存在の実力を評価してくれたから頼ってくれたのだと自虐的かつ冷静な分析を脳内で繰り返し、沙穂はそれでも念入りに風呂で身体を洗い、着衣のすべてをとっておきのグレードで揃えてしまった己を恥じた。  わたしは道化だ。  きっと村上くんは、私が手伝ったことを感謝してくれる。誠心誠意。それがどれほど自分の心を深く傷つけることになるのか、きっと彼は生涯気付かないだろう。  一歩進むごとに足取りは重くなる。転移術式を使えば一瞬で到着するというのに、犬上の街に到着した途端、高揚感は一気に冷めてしまったのだ。  とにかく手伝って、シンユウらしく振舞って、それで帰ろう。どうにか自分自身で決着をつけ、沙穂は待ち合わせの場所に到着した。  そこは有名なデートスポットの公園で、  村上文彦は。  屈強なサンタクロース相手にあまりにも無謀な戦いを挑んでいる最中だった。  噴水が、  ベンチが、  小便小僧の像が。  サンタクロースの繰り出す漆黒の剣により刻まれ砕かれていく。鬼蓮花の紋章を柄に刻んだ大小の直剣は素材の特定さえ不明だが、触れるものすべてが強度硬度関係なく破壊される様は尋常ではない。  仙位を許されているはずの術師、村上文彦の強さは沙穂も十分理解している。日常生活を送るために能力封印を施しているとはいえ、ただのバケモノ相手に遅れをとるような彼ではない。石杜で生活するようになって、沙穂はそれを知った。  だからこそ、目の前の光景が信じられないのだ。 「む、む、むむらかっみくんっ」 「委員長か!」  長剣を両手で、小剣を靴底あわせて白刃取りで受け止めた文彦は、唯一自由になる口で沙穂の到着を確認すると背筋の力でエビのように跳躍し、サンタクロースとの距離を稼いだ。  サンタクロースの方といえば、1930年代にコカ・コーラ社がキャンペーンを打ち出した紅白の衣装そのままの姿で漆黒の大小剣を振り回し、天に向かって咆哮している。もちろん叫ぶ口からは緑色の炎が柱となって、それが拡がる様はクリスマスツリーと解釈することも可能だろうか。良い子にはプレゼントを与えるクリスマスの聖人としての面影は微塵も残っていない。 「な、な、な、なんなのよう! 悪い子には白樺の枝を鞭代わりにくれてやるとか、本物はトルコ人だとか、そういう薀蓄たれるくらいの余裕はないのっ!?」 「それは欧州圏の旧い伝説だ」  額を伝う血と汗を手の甲で拭いながら、油断なく身構える文彦は沙穂に再会を喜ぶ挨拶を伝えるまもなく、今までにないほど切羽詰った表情で相手を睨む。 「奴は、サンタクロースなんだ」 「何がどう違うってのよ!」  石杜での三ヶ月半の生活で、大抵のことには慣れたつもりだった。世界制服を企む秘密結社や、人類を何度でも滅ぼせるような超古代の最終兵器にも驚かなくなってきた。ついでに地味な三課での仕事を文句を言いつつ文彦がこなしていく理由が、痛いほどわかった。  金を出せば石杜でも安全は買える、だが常識は無理だ他所を当たれ。  笑い話のように繰り返される変態的な出来事に付き合わされてなお、沙穂はこうして度肝を抜かれている。 「サンタクロースは、北米航空宇宙防衛司令部でも毎年追跡しているだろーが」 「……微笑ましく享受できる数少ないアメリカンジョークを根底から覆す告白って素敵」  即答できるだけ、ましかしら。  視線を動かす余裕さえなくサンタクロースの次の動きに備えている文彦は、頑丈さだけがセールスポイントの通信端末を沙穂の目の前に投げる。画面には世界地図に人口衛星軌道が無数に書き込まれ、そのラインを乱す真紅の光輝を表示していた。 「ジンライの脚なら、追いつけるはずだ。そのサンタクロースを仕留めてくれ」 「うわぁ」 「今年のサンタクロースは厄介でね」  術式を組み立てる暇さえなく、眼前のサンタが突進してくる。突き出した剣の切っ先が衝撃波の円錐を生み出し、その勢いのまま進路上のすべてを塵に変える。反射的に文彦は沙穂を突き飛ばし、引き抜いた金剛杵より雷を収束させて魔力を帯びた衝撃波を相殺した。が、サンタ本体の突進までは止めきれず、吹き飛ばされてしまう。 「頼む、委員長!」  おれのことは心配ない。  文彦はそう言いたげだった。もちろんそれが嘘なのは、直ぐにわかる。目の前の敵は用意ならざる存在だし、文彦が勝てる率も読めない。沙穂が助力して、果たして勝率が上がるかどうかも定かではない。  そもそもサンタクロースが何者で、文彦が戦っている理由さえ教えてもらっていない。 「この貸しは大きいわよ」  だから必ず勝つこと。  同級生だった頃の口癖で人差し指を指揮棒のように振りながら、沙穂は消えた。  沙穂と契約を結ぶ異形ジンライは雷の狼に連なる魔獣である。  その身を雷光に転じれば光に迫る速度で移動し、魔力が続く限り世界を何周でも走り回る。それは主を乗せた時でも変わりなく、その速度限界は搭乗者の耐久性に比例する。 『クリスマスというのは、現代人の思念が収束しやすい時期でござる』  砕け散った全身タイツ軍勢に宇宙ゴキブリ軍団の残骸を一瞥し、異形ジンライは知る限りのことを話す。 『聖なる祝祭として人々が想うため、基督教圏ではこの日の前後に限っては大地の守りが強化され、人々に害為すバケモノ共の活動も抑制されます』 「……説明になってないわ」  沙穂の銃弾を受けて砕けた連中は、塩の塊となっていた。岩塩彫刻という分野があれば美術館を開けそうなほど、荒野には塩の彫刻と化したバケモノたちの残骸が転がっている。  借り受けた端末で光輝が最初に示した場所が、北米大陸のこの砂漠地帯だった。無茶な開拓と無謀な農業で涸れ果てた肥沃な平原の成れの果てに思い耽ることもなく、沙穂は相棒の狼に率直な感想をぶつける。 「サンタクロースだって、似たようなものでしょ」 『かの存在は、願望を現実のものにかえるでござる』  クリスマスには奇跡が起こると言うでしょう? 『神の慈悲でも天使の悪戯でもいい、単なる偶然でも構わない。それでもクリスマスの日には、理屈では説明できない何かが起きても不思議じゃない……人々がそう考え始めたのがいつなのか、我らも知らないでござる』  だが、人々の思いは蓄積した。  聖なる夜に大地の守りが増すように、奇跡を願う人々の思いは、その日限りの体現者を世界に刻む。 「それが、サンタクロース?」 『でござるよ』  重々しくうなずく、狼の異形。 『困ったことに主体を持たない彼奴は、より強い願望に反応してそれを具現化させるのでござる』 「……誰か知らないけど、このふざけた宇宙戦争も、妄想の産物?」 『後腐れなく全滅できる宇宙人って、なかなか造形が限られているでござるよ』 「こんなのが、あと何体いるのよ」 『昨年度は二千八百七十四体。二課と三課の合同チームで駆除したでござる』  そりゃあもう大変でござった。 「去年はなんとかなったのよね」 『そりゃあまあ』 「なんで今年はピンチなのよ」 『そりゃあまあ』  器用に前脚で口元を隠すジンライ。  沙穂は嘆息し、肩を落とす。肝心の部分を伝えないのは文彦そっくりだ。 『……最初に仕留めたサンタが、あろうことか別のサンタに願いを託してしまったでござるよ』  凛。  鈴の音が、荒野に響き渡る。十二月とはいえ日中で熱いはずの砂漠地帯に、涼風と共に鈴の音が響く。  凛。  蹄の音が、揺れる地面の源となる。涼風に大粒の雪が混じり、赤茶けて砂地がむき出しになる直前の荒野を白く覆う。最初に鈴の音が響いてから数秒しか経過していないというのに、足首まで降り積もる雪は確かに冷たく、幻覚の類には見えない。  凛。 「最初のサンタは、何を願ったのよ」 『サンタクロースに連なるものの中で、おそらく最強に近しい者の召喚』  凛。  聞かなければ良かったと、沙穂は後悔した。  それは既に彼女の視界に飛び込んできており、いかなるものかを彼女は理解してしまった。  金色に輝く、三百頭の羊。  天かける最強の草食動物は、当然のように一台のソリを牽引している。ソリの御者台には、これまた当たり前のようにサンタクロースの衣装に身を包んだ若者が 「とうっ!」  電光石火の勢いで繰り出した沙穂のシャイニングウィザードを喰らってソリから転げ落ちた。 「ぐはふああっ」  転倒の際に付け髭が口と鼻に入ったのか、なかなか愉快なうめき声を発しつつ、それでも羊飼いの若者はサンタクロースがそうであるように笑顔で沙穂に挨拶しようとした。 「や、やあ、お嬢さん。メリー」 「それは羊!」  間髪を入れず繰り出す沙穂の指摘。 「メリー……」 「だから、それは羊」 「メ」 「くどい!」  挨拶の時点でもろもろの事柄を否定された若者は、それでも負けるものかと胸を張る。 「ぼ、ぼくはこれでもサンタクロースなんですっ」 「名前がニコラウスだからって、ほいほい召喚されるな、この馬鹿ちん〜!」 「あああああっ、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! 出来心だったんですぅ!」  情け無用の銃弾が、問答無用に炸裂する。  かくしてニコラウスの名を冠した羊飼いの若者は元の世界に強制送還となり、桐山沙穂は同業者に「サンタをしばきたおした女」として長く語り継がれ、クリスマスのサンタ対策の要として以後拘束されることになる。  この日以来、彼女がクリスマスをますます嫌うようになったのは言うまでもない。