十四章〜かくて王は来たれり  様々な種族が集う城塞都市において、彼は異彩を放っていた。南方の民族が愛用しているという、織物に赤と青の刺繍を施した衣装は土と埃に汚れているが所々に蒼い雲母のようなものが付着している。しかし、それを差し引いてなお皆は彼を見てこう思った。  なんて場違いな。  城塞の周囲の草原に羊を放ち、門の外で暢気に背伸びをする。さすがに麻袋ではまずいと思ったのか羊飼いの青年は思い出したかのように皆に背を向けて麻袋を外し、代わりに目元を覆い隠すゴーグル状のものを装着した。 「これでどうかな」 『素顔を晒す選択肢はないのであるか』  爽やかな声で振り返る青年にかける魔法猫ファルカの声は割と冷たい。 『汝は、あの邪悪生命体の代わりに火星大王を倒すべく呼ばれたのであるが』 「そうらしいね」 『得意技はなんであるか』 「羊の世話と、妹の躾」 『得意な魔法はなんであるか』 「そんなもん使えないよ」  沈黙が生まれた。  質問していたのはファルカ王だけだが、その回答には全員が耳を傾けていた。切羽詰った状況を理解しているのかいないのか、羊飼いの青年はからからと笑いながら手近な木箱に腰を下ろし、背負った革の背嚢より革の帯を取り出して手足に巻き付け始める。 『ビームとかレーザーは撃てないであるか』 「鯖や烏賊じゃないんだから、そんなの無理だよ」 『念動の力とか、獣の王との契約とか』 「あったら便利だと思うよ」  けろりとした顔で、名も知らぬ羊飼いの青年は質問に否定的な言葉を次々と返す。聞いていた魔族や魔法猫たちはどんどん顔が青ざめ、シュゼッタですら半ば呆れている。短く刈った栗色の髪は、この場にいる人間の誰にも似ていない。 『何もできないのに召喚されたであるか!』 「呼び出したのは君らでしょ」  準備を終えたのか羊飼いの青年は立ち上がると服についた埃を落とすように全身を軽く叩き、それから当たり前のように空に手を伸ばした。  そこには。 『……ひも?』  狐面の少女が指摘するように、虚空より飾り紐が一本垂れていた。先端は留め金代わりの軟玉がついており、青年は躊躇なくそれを掴むと一気に引いた。  しゅこん。  ガスの抜けた風船のような、奇妙な音。それから数瞬後に紐の付け根あたりで空が割れ、紅髪のメイドが降って来る。文彦が組み立て、暴走し、黒の賢者が追いかけていたはずの自動人形である。それが虚空より落下し、姿勢を崩すまいとメイド人形が両足で踏ん張って。  直後。  時間差で落下した金ダライがメイド人形の頭頂部に直撃し、紅髪の破壊神は気絶した。慣れた手つきで羊飼いの青年はメイド人形を簀巻きすると、先刻まで腰掛けていた木箱を靴底で踏む。すると今度は目の前の地面にぽっかりと穴が生じ、青年はそこにメイド人形を放り込み、再度箱を踏んだ。扉が閉まるように地面の穴は消え、慌てて駆けつけた魔族らが地面に爪を突き立てるなりして掘り返そうとしているが、先刻現れたような穴はどこにも存在しない。  魔族も魔法猫も烏賊も鯖も人間も、ぎょっとして若者を凝視する。が、若者はそれがどうしたといわんばかりの冷静さである。 『君は、何のために来たの』  シュゼッタの問い掛けに青年はようやく何かを考えたらしく額に指を当てながらしばし唸り、それからこう答えた。 「造物主の尻拭いみたいなものかな」  あくまで悪気のない青年の言葉だった。  消毒液の臭いが鼻の粘膜を刺激する。  耳に届くのは安っぽいスピーカーより流れる時代遅れの歌謡曲で、小さい頃に流行った歌だと気付いた直後。村上文彦の意識は回復した。眠っている時でさえ魔力を制御できるのが術師である。ここまで完璧な気絶などいつ以来だろうかと思いながら、疲労のために重い目蓋を強引に開けようとする。 「師匠、目が覚めましたか」  ベル七枝の声は至近距離からだった。薄目を開ければポニーテールを揺らした金茶髪の少女は文彦の唇を奪おうとして桐山沙穂他数名に羽交い絞めに遭っていたらしく、手足をばたつかせていた。文彦の意識が回復したのか待機していた学生が廊下に出て行く、その制服のデザインを見て此処が石杜学園の保健室だと確信した。魔術による回復蘇生が恒常的に行われている石杜学園では野戦病院として機能する処置室がフル稼働している一方で、ごく当たり前の病人やけが人が通うような保健室は滅多に訪れるものがいない。 「――戻ってこれたのか、俺は」 「排除されたとみるべきね」  答えてくれたのは沙穂だ。文彦が横たわるベッドに目覚まし時計を置き、日時を示す。 「六時間睡眠、割と健康的よね」  石杜学園は二十四時間体制で動いている。魔術業界の宿命でもあるし、学費を己の手で稼がねばならない石杜学園生徒たちの事情も絡んでくる。窓の外より見える空は既に暗く、中庭をはさんで映る校舎の窓には照明が点っている。 「ハヤテとジンライ君が村上君を回収してくれたの」 「そうか」  魔力に満ちた石杜の空気は、半魔族の文彦にとってありがたい。拒もうとしても勝手に染みこんでくる霊脈の力が文彦を回復させてくれる。 「もう、全部片付いた頃かな」 「セップ島の諸問題が?」  ああ、と言いかけて文彦は固まった。いかに石杜学園とて、セップ島という単語を理解している者は限られているはず.それが、文彦に親しい人間とはいえ末端の学生が把握していたとは考えにくい。 「なんで、そんなことを」  知っているのかと慄く文彦に、沙穂は言葉の代わりに窓の外を指さした。そこに映るのは――セップ島の姿だった。  空の一角が歪み、まるで出来の悪いSF小説のようにそれとわかる異世界の様子が幾つも映し出されている。居合わせた学園生徒の一人が、あれは文彦が戻ってくる時に空間にぶち抜かれた一角より出現したと説明する。原理など誰も知らないが、放送部や好事家たちがカメラなどを取り出して記録に勤しんでいた。もちろん事態の収拾に動いている者も多数いるだろうが、この程度の異変で今更驚く学園ではない。大半の生徒は中庭の芝生にピクニックシートなどを広げて暢気に見物している。 「こちらの観測では、向こうは我々の十倍から二十倍程度の速さで時間が流れているって」  購買で買っていたと思しきサンドイッチを渡しながら、沙穂は文彦と共に校舎を飛び出した。一歩遅れて保健委員たちが簀巻きにされたベルを抱えてついてくる。 「獣の王が直接干渉した影響じゃないかって」 「……」 「向うの世界では三日から五日程度過ぎているわ。それに、戦いはまだ続いてる」  沙穂の言葉を肯定するように、空に映るセップ島の各所で不可思議な爆発が起こっている。巨大なブリキ人形の軍団が、地面より次々と生まれてセップ島の大地を蹂躙していく。あれほど強力だった陸生イカや魔法猫はブリキ人形の姿に生理的な恐怖を抱いているのか後方支援に徹し、不可思議な人形たちと共に戦う人間の騎士たちの姿が前線にある。 「歯車王国の遺産か」  かつてシュゼッタを救い出した時に、白と黒の石剣を持つ若者に付き従うそれを文彦は見た事があった。獣の王を再現しようとしたのか、それとも望まれぬ来訪者たる神々を討ち滅ぼすために生み出されたのか、金鉄の歯車を動力源に生み出された超獣たちはそれ自身が強力な兵器だ。しかし、歯車王国期の人形たちの真価は所有者である人間と契約を結ぶことで発現する武器形態にある。エーテル王国期にも人型の人形は作られていたが、戦闘に特化した超獣たちはセップ島においても「恐るべき獣たち」のひとつに挙げられている。 (アレが人の手にあるということは、あの男は今が正念場と考えたか)  いざとなれば暴走した魔女に刃を向けるため、あの超獣たちは存在していたと聞いていた。それを持ち出さねばならぬほど戦況は悪いのだろうか。 「俺がやったことは無駄だったのか」 『まさか』  待っていたのはアキラだった。臙脂色のブレザーに若草色のキュロットで、少年のように紙を短く切っている。膝まで伸ばした髪を刈ったのだから、印象は今までとまるで違う。 『父上、お待ちしておりました』  と、時代がかった口調でビニールシートの上で正座などして文彦に頭を下げる。つい先日まで文彦を呼ぶときはパパもしくはお父さんという呼称を用いていた少女は、いまや一個の武士であるかのようにかしこまっている。 「アキラ?」  走りながらサンドイッチを飲み込んでいた文彦は養女の変貌に戸惑いを隠せない。 『父上があの女性と心より通じていたことを知り、我が身に宿りし一切の邪念は消えました。父を父として尊敬することに変わりはありませんが、はしたなき淫売の様な真似事は二度としません』 「事情がよくつかめない」 『父上とシュゼッタ殿の悲しくも純粋な愛の物語を知った次第であります』  言うやアキラは両の瞳よりぶわっと涙を浮かべ、頬より伝ってぼろぼろと零れ落ちる水滴を拭うこともしない。 「誰に?」  養女は言葉では答えず、代わりに中庭の人ごみを指差した。そこは時折物好きが芸を披露したり演説する玉砂利の広場で、学園の創設に関わったとされる人物の彫像などが設置されている。今そこには百名を下らない学生に魔族が集っており、彼等はアキラと同じように目を真っ赤に腫らしたりハンカチをかじっていた。  人ごみ魔物ごみの中心には、上等の額縁のように丁寧な彫刻を施された紙芝居の台。 『嗚呼シュゼツタよ、まさか君が佐久間千秋の生まれ変わりだつたなんてゑ』 『闇の力でわたしを抱いてくださいまし、そうすれば卑しき妖精の身は崩れ本物の佐久間千秋が蘇るでせう』 『できるものか、できるものかよ。僕は千秋を愛していたが、君もまた千秋なのだよ。僕に三度も千秋を失うさまを見届けろというのか』 『嗚呼、影法師よ。なぜ私は貴方を愛してしまったのでせう』 『それは僕も同じ気持ちなのだよシュゼツタよ』 『影法師さま!』 「ハヤテ、裂風破斬」  轟音。  ひどくドスの利いた声と共に生まれた破壊の風が観客もろとも紙芝居の台を吹き飛ばす。もっとも客も演者も尋常ではなく、怪我人はいない。 「ひとのプライベートを脚色するな、あと泣くな」 「そんなこと言ったって、百年も一人の男を想い続けていたシュゼッタちゃんが切なくて悲しくてえ」 「華門の嫁も千年くらいアイツを待ってただろが」 「それはそれ」  雨後の筍のように立ち上がる学園生徒に魔界の住人たちが文彦を囲む。 「あんないい子が、今すっごいピンチっすよ村上さん」 「火星大王の軍勢がいっぱいっすよ」 「レジスタンスが蜂起したけど一進一退っすよ」 「このままだと大変なことになるっすよ」 『二代目、ここで黙ってるなんてダンナらしくないよ』 『父上、私は新しい母親を迎える覚悟を決めています』  聞く耳もタヌとはこういうことか。説得する暇さえ惜しい文彦は人ごみを掻き分け、紙芝居を演じていた者たちの前に立った。見覚えのない男女は見目麗しく、人でも魔物でもない気配を発している。 「あんたら、セップ島に根付こうとした神か」  しかも、一度封じた覚えのある神々だった。 『今は世界を移動する力しかない、非力な存在だよ』 「敵意はなさそうだが」 『支配より共存を選んだ。あの世界が寛容であるのなら、我々の思いを受け止めてくれると信じたい』 「神格なんぞ地に落ちて最初から出直すことになるぞ」 『火星大王となって蹂躙するよりは、よほどマシよ』  なるほど。  アレよりは下積みからやり直した方がマシか。空に映る景色の下でユカイな破壊を繰り返すブリキの軍団を一瞥し、それから神々の苦渋に満ちた表情を見て文彦は納得した。 『我々の手勢も現地の民を援助してはいますが、それでも力不足は否めない』 「そうか」 『影法師よ、あなたの力をもってセップ島を救ってほしい』 「やなこった」  ひどく冷たい声で文彦は呟き、救いを求めた神々とロマンスを求めた学園生徒たちは絶望した。  使い込まれた御影石の乳鉢に、無造作に香辛料が放り込まれる。  生のもの、乾燥したもの、漬け込んだもの。それらを擂り潰す動きに無駄はなく、鮮烈にして優雅な香りが厨房から客席に広がる。嗅覚に訴える刺激が身体中の神経を支配する。鍋の上で素材が爆ぜれば聴覚が、皿に盛られた料理において視覚が、いざ食すに当たって触覚と味覚が存分に揺さぶられるわけである。なるほど料理とは五感全てに訴えかける代物だと納得もするが、慎ましくも食べる側の人間の五感を引き出すのが島国の和食だとすれば、圧倒的な刺激をもって五感を揺さぶり励起させるのが大陸の料理なのかもしれない。  村上光司朗の料理は、まさしく大陸のそれである。  今まで店の厨房を預かっていた深雪の料理は絶品であったが、こうして光司朗の仕事を口にすると彼女のそれは和食という印象が強くなる。息子の文彦に「香辛料の魔術師」と呼ばれる男は、その腕を存分に振るい客の舌と胃袋を満足させていた。とはいえ食事時を過ぎた深夜では客もまばらであり、今作っている品も、ウェイトレスの真似事を始めた娘のためのまかない食である。 「ねえ父さん」  十二歳とは思えぬほど大人びた少女は客の途切れたカウンター席に腰掛けながら、厨房に立つ光司朗を見上げた。威厳を持つためと伸ばし始めたものの無精髭にしかなっていない顔を撫でながら、老化とは無縁の父は娘に優しい視線を向ける。 「文兄さん、どうするのかな」 「お兄ちゃんが決めなきゃいけないことは、沢山あるなあ」 「たとえば?」 「そうだなあ」  材料を炒め煮にしている鍋を小刻みに揺らしながら、光司朗は玄関をちらと見た。 「決めたかい、文彦」 「まずはメシ」  扉も開けずに帰宅した息子は盛大に腹の虫を鳴らしながら、力なく答え、妹の頭をぽんぽんと叩きながら隣の席に座り目の前に置かれた大皿の料理に取りかかる。  食う。  とにかく食う。  ひたすらに食べまくる。  まるで禁忌の霊薬が仕込まれているかのように香辛料と乳製品と野菜と肉と穀物の芸術品とも言うべきものを、ひたすらにかき込む。傍らで見ていた小雪が己の食事さえ忘れてしまうほどの食べっぷりで、文彦は大皿一杯のそれをあっという間に平らげてしまった。 「おおよその事情は、華門さんに教えてもらってたんだ」  食材が尽きたので営業終了の札を扉に立てかけながら、光司朗はカウンター越しに息子の顔を見る。神楽の手によって光司朗が封じられる前と寸分変わらぬ文彦の顔立ちに、光司朗の表情が曇る。魔人である光司朗の息子である以上、文彦が力に覚醒することは時間の問題だと覚悟していた。そうでなくとも母親の血筋を考えれば魔術的な素養が彼の内に眠る魔性を刺激するのは目に見えていた。  だが神楽の封印より解かれ息子に再会した時、光司朗の内にあったのは驚愕と悔恨だった。息子の身に起きた変異は光司朗の予測をはるかに超えており、文彦が後天的に獲得した魔性の大きさに彼が如何なる経験を積んでしまったのかを理解してしまった。光司朗は魔界の瘴気を受けて生まれた一代の魔人だが、息子もまた変異変質の洗礼を受けていた。  親子の関係は崩れないが、魔人としては別種に等しい父と子である。 「仕方がない、子はいつか巣立つものだし」  空になった皿を満足気に眺め、光司朗は洗い終えた鍋を片付け始めた。 「文彦を一人前のカレー職人に育てられなかったのが心残りか」  そんなことを呟くと、 「小雪がいるだろ」 「文兄さんが跡継ぐんじゃないの?」  と、兄妹が互いの顔を見る。文彦はさも当然のように、一方の小雪は「なによそれ初耳」といわんばかりに。 「覚悟は既に決めた、という顔だね」 「わかんねえ」 「これでも君が生まれてからの十年ちょっとの間は、君のお父さんをやっていたんだよ」  光司朗は穏やかに微笑む。魔人である父が犬上の地で母と出会うまでにどれだけの修羅場を潜り抜けてきたのか、文彦は知らない。知っておくべきかとも思ったが、知るには遅すぎたという気もする。 「とっとと片付けてきなさい。深雪さんと小雪には、お父さんが説明しておくから」  凛。  硬く澄んだ鈴の音が鳴る。背後に浮かぶ二つのモノを無造作に掴み、文彦は、じゃあ行ってくると呟いて姿を消した。  戦況は、絶望と呼ぶほど悪くはなかった。  イカも鯖も魔族も魔法猫も前線には出せなかったが、決して無能ではなかった。住民避難と戦力の運搬、拠点防衛と情報収集において彼らは不可欠の活躍を見せてくれた。喪失したのは直接打撃力のみであり、後衛に徹したからこそ生み出せた作戦の数々は当初覚悟した犠牲者数を最小限に抑えることに成功している。 「僕の力など必要なかったんですよ」  羊飼いの青年は、語る。  確かに彼は敵に対して直接手を下してはいない。やったことといえば、人形兵器の扱い方のレクチャーと、人外種族との作戦会議である。 『お主の助力がなければ、我等は多種族と連携など取れんかったよ』  魔法猫はいう。それぞれの種族が当たり前と考えていたために見落としていた長所や特性を、羊飼いの青年はごく短期間の内に引き出して有機的に運用する。誘導した避難民たちを各地に建設した城塞都市に住まわせ、火星大王の攻撃を一箇所に引きつけておく。セップ島中央部の山脈に近い平原の真ん中に構えた要塞は、攻める側の火星大王の軍団にとっては絶好の目標である。 『守るには最悪の立地だがな』  狐面の少女が不貞腐れた顔で、この数日間で繰り返した言葉を口にする。新しい城塞都市の建設や要塞の準備を行ったのは主に魔族であり、だからこそ羊飼いの青年がこの地に敵を引きつける事の無謀さを理解していた。脱出路の確保すら不可能に等しい場所、いやこの場で敗退すればもはや再起する場所は存在しない。人形兵器を手にした人間たちが善戦しているのは彼女も認めているが、火星大王の軍団を壊滅できなければ意味はない。 『この戦況を覆す切り札がある。それを前提とした砦だと我々は考えている』 「うん」 『だったら、その切り札をさっさと見せろと言ってるのだ腐れ羊飼い!』  狐面の少女が叫ぶ。  羊飼いの青年は嘆息し、砦の中を見た。士気は保たれているが疲労は大きい。破損した人形兵器の数は日ごとに増え、野戦病院に担ぎ込まれる怪我人も多い。シュゼッタは食糧の確保と怪我人の治療に専念し、前線には立っていない。羊飼いの青年は彼女の事情を熟知しているのか、強大な力を秘めているはずのシュゼッタを戦力として計上せずに戦線を展開していた。  人間たちは善戦している、それは疑いようもない事実だ。どれほど強大な武装を手に入れようとも、人間という霊長種族が持つ潜在的な力では火星大王に対抗できないと魔族は判断していた。 『人間たちは確かに我々の想像以上に奮闘した、今まで過小評価していたことは認めよう。だが、このままでは人間たちも力尽きるんだぞ』 「全力での突撃は、あと数回できるかどうか」  羊飼いの青年は冷静に戦況を分析する。 「黒白の人も、石剣を行使するのは躊躇してるようですから。エーちゃんの率いる空戦騎士団も頑張ってるおかげで立体的に防衛線を敷けますけどね」 『……えーちゃん?』 「失礼。シアノイド辺境伯のエリス第一息女を中心とする空間騎兵団です」  内心の動揺など微塵も見せずに羊飼いの青年は魔法猫の呟きに答え、それから円卓の上に広げた地図に敵勢力を示す駒を幾つも並べた。魔族たちによる精密観測があってこその配置図だが、十重二十重に砦を囲む火星大王の軍団がこれほど残っているという事実は円卓を囲む者たちに重苦しい認識を強いる。 「星の配置、変化はありましたか?」  羊飼いの青年は、話題を変えるかのように傍らにいた樽魔人に尋ねた。 『肉眼レベルでは何も』 「引き続き観測を」 『ひょっとして、切り札と関係が?』 「気休め程度ですけどね」  肩をすくめ、青年は彼我の戦力比を推測する。自爆前提の突撃を仕掛けたところで戦力の半分も削れないと、瞬時に答えが出る。彼自身が出撃すればあるいは話も変わってくるが、彼がそれを赦されるのはごく限られた条件下である。 (つまり、動くなら今をおいて他にないということか)  青年の独白は誰の耳にも届かなかった。  砦の外壁に立ち、羊飼いの青年とシュゼッタは地平線の向こうから歩いてくる火星大王の軍団を眺めていた。 『言っておくが、私は直接には何もできないぞ』 「知ってます」  そりゃもう十分に。開口一番に非協力を唱えたシュゼッタを前に、羊飼いの青年はそりゃ当たり前ですがなという態度で何度も頷いた。 「赤帝の力ならともかく、はじまりの獣と直結してる貴女がうっかり戦ったらうっかり大陸が沈みますし」 『よく理解しているな』 「ええ、そりゃもう後年それ関係でさんざん酷い目に遭ってますんで」 『?』  羊飼いの青年がげんなりした顔で呟くが、その理由が分からないシュゼッタは訝しげに首を傾げるしかない。二人の会話を聞こうと外壁の周囲に集まった魔族や魔法猫たちも同様である。 「それでも、貴女の力が必要なんです」 『戦局をひっくり返すだけの力かい』  皮肉めいた視線を向けるシュゼッタに、羊飼いの青年は地平線の向こうの空を眺めつつ、こう言った。 「それは、彼次第ですねえ」 『?』 「では失礼」  凛。  硬く澄んだ鈴の音が響く。  魔族は、魔法猫は見た。集まっていた野次馬共も見た。  見てしまった。  羊飼いの青年は、いつものように虚空より垂れる赤いロープを引っ張っただけ。数日前には、それは暴走した人形を閉じ込めるために不可解な罠の入り口を生み出した。  そして今回は。 『……』  シュゼッタの衣服が、すとんと脱げ落ちた。  確かに彼女の胸に膨らみはない、それが獣の王たる霊鷹の眷属として生きる上での業だと言ったのは文彦だった。どんなに頑張っても、そこは二度と膨らむことはない。初等学校に通う少女にすら同情されるであろう平坦かつ無駄のない身体が砦の内外に晒される。若草色の髪が風になびき、成熟という言葉とは対極に位置するシュゼッタの肢体は、ある種の嗜好の持ち主にとってはたまらぬ美しさに満ちていた。  魔法猫たちは、素直に『ほほう』と唸った。  狐面の少女は、素直に同情した。  他の魔族は、とりあえず羊飼いの青年の冥福を祈ろうと思った。  だから最初に異変を観測したのは烏賊だった。羊飼いの青年が指摘したように、地平線ギリギリの南天に眩い光輝を見つけた。それは唸り声を伴ってこちらに向かっている。 「ひ」  火星大王が動き出す。 「と」  樽魔人たちは訓練通りに消火用のバケツを抱えたまま右往左往している。 「の」  同行していた若き領主は、シュゼッタに着せるべく己のマントを外していた。 「よ」  ハイマン辺境伯の跡取り息子は、その光景を生涯忘れないだろうと心に誓っていた。 「め」  最初に吹き飛ばされた火星大王は、砦より十数キロ離れた場所を歩いていた。 「に」  上空より監視をしていた紅髪の半妖たるエリスは、地面すれすれを猛烈な勢いで突っ込んでくる流星を目撃した。  流星は、碧色の輝きを帯びていた。この世界の如何なるものよりも速く、眩かった。南側を囲んでいた火星大王の軍勢が次々と吹き飛ばされていく。純然たる魔力を帯びたそれは、 「なにするんじゃあああ!」 「へぶらっ!?」  その光輝の内側にある村上文彦の右足は羊飼いの青年すなわちニコラス・ハワドの顔面を捉え、そこから一切減速することなく砦を突き抜けて反対側に迫る火星大王の軍団を蹴散らした。