十二章〜風の支配者  神々に、神々の崇拝者達に選べるほどの手段は残されていなかった。  自身に埋め込まれた白い石片、この世界の一部に組み込まれてしまう無尽蔵の再生機能は、終末の魔女が仮死状態となったことで停止している。次に魔女が目覚めるまでの百年間は、彼らは辛うじて第一世界の民としての誇りを失わずに済む。  しかし、それも百年程度のものでしかない。  人間にとっては生涯を費やすのに十分すぎる時間でも、永劫に等しい時を刻む存在にとっては気を休める余裕さえない。侵略する側も逆襲する側も、先延ばしを望んではない。  この百年で決着をつけねば、神々を自称する集団は再び魔女の支配下に置かれる。仮に魔女の戒めを脱したとしても、第一世界の本国が望む結果を出さなければ、彼ら自身の中に埋め込まれたマノウォルトの因子が起動して世界を飲み込んでしまう。  勝ってこの世界を本国に差し出さねば彼らに未来はない。しかも、住民をなるべく傷つけず、歓迎される形で、である。 「ならば次に連中が仕掛けてくる時は、死に物狂いだろう。砦にいる誰でも予想していた通りの展開になったな」  軍議を行なう部屋の真ん中。太陽神の軍勢より届けられた書状を卓に広げ、文彦は感情を抑えた声で言った。  最終通告。  かつて石杜に侵攻した第一世界の集団でも同様のことがあった。講和でも撤退でもなく、あくまでも学園の全面降伏と獣の王の譲渡を迫り……当然のように決裂し、王の激怒を買った。マノウォルトを侵略の手段とした時点で極界の法を敵に廻し、その上で因素の支配者として君臨しようとしたのだ。石杜の防衛で十分と考えていた華門らをして、第一世界王都への逆襲と消滅を決意させたほど。通告後七日七晩の間に繰り広げられた戦いは、まさしく苛烈を究めた。  駆け出しの術師としてそこに放り込まれた文彦は、数分前まで高慢な言動を繰り返していた英雄や神々が命乞いをしながら肉海と化していく様を、嫌というほど見せ付けられた。たった一体でも世界を飲み込むのに十分なマノウォルトが、間断を挟むことなく次々と発生していくのは、攻守の別なく恐怖でしかない。  ひとたび肉海と化せば希少種たる上級体に進まなければ魂の形さえ維持できず、因素の結晶以外に自身の痕跡は世界に残らない。マノウォルトの因子を埋め込む事は第一世界にとっては異界侵攻の有効な戦略であり、反抗勢力を封じ込める支配体制維持の重要な手段なのだ。  故に退路を断たれた彼らは死に物狂いで攻めてくる。 「マノウォルトの因子とやら、消滅させる事はできないのか」  文面に目を通した領主が、少しばかりの期待を込めた目で文彦を見る。異界からの侵攻も、神々との戦いも、おそらく文彦以上に熟知したものは砦にはいないのだと誰もが承知している。セップ島のどこかに隠棲している妖精の賢者を探し出せば話は別かもしれないが、その時間はない。 「魔力の一切の流れを遮断すれば、起動術式は停まる」  発想そのものは悪くないと、文彦は答える。実際に試したこともあるとも、付け加えた。 「だが連中の身体を構成しているのは、物質化寸前まで凝集したエーテルなんだ。魔力の遮断は存在の消滅に直結する」 『因子そのものを取り出すのはどーであるか?』  今度は魔法猫ファルカが面倒くさそうに唸る。送りつけられた書状の堅苦しい文面を今まで見てて頭が痛くなったのか、文彦よりもしかめっ面である。 「摘出そのものは、それほど難しくない」  人間に憑依した異形を除去するのと似たような手間だと続ける。 「だが、そこに魔力が僅かでも存在すれば因子はそこで独立したマノウォルトに変じる」 『そいつを防ぐには、どーすればいいのであるか?』 「別の宿主に因子を移植する」  今まで試した限り、そうだったと文彦。つまり根本的な解決にはならない。卓を囲む面々が、そろいも揃って文彦のようなしかめっ面となる。中央には件の書状。  この世界の支配者を選ぶべく決戦申し込む、拒むなら世界もろとも自爆するのみ。  要約すれば、そんな内容だった。  下手に倒すと自爆と変わらぬ結果となるのは、文彦たちも十分に分かっている。分かっているからこそ、太陽神の軍勢はこの書状を送ってきたのだ。戦わず、敗北を認めろと迫っている。一万の軍勢を砦の目の前に出現させ、奇襲を仕掛けたはいいが烏賊と鯖にあっさりと逆襲され包囲された状態での書状だ。今までの彼らなら書状に目を通すことなく殲滅させていた。しかし烏賊や鯖を引きとめて始めた文彦の説明が確かなら、喉元に刃を突きつけているのはセップ島の民ではない。  立場が、逆転していた。  一万という数は、彼らの総数ではない。どれほどの兵が、どこに潜んでいるのか知る術はない。見知らぬ場所で一体でもマノウォルトが発生すれば、この場で眼前の一万を消滅させても世界は滅ぶ。魔術とは本来そのために生み出されたのだと頭では分かっているが、果ても知れぬ世界の何処かに潜む敵をまとめて同時に討つのは、いかに件の魚介類が非常識な性能を発揮しても出来るものではない。 『砂漠に落とした数個の真珠を探し出せと言っているようなものである』  どこか他人事のように、たとえてみせる猫の王。  この数日のように姿を隠していれば、烏賊にも鯖に迎撃する術はない。大地を薙ぎ払い、生きとし生けるもの全てを滅ぼせば共に神々の眷属を消滅させることもできる。世界そのものの存続のために、これを提案した樽魔人もいた。この肥満魔人が袋叩きに遭ったのは言うまでもないことである。  少女は沈黙を守ることで真実の一つを隠そうとした。  少年は真実の一端を明かすことで真実が持つ別の側面を曖昧にしてみせた。  撤退か降伏か、その二択を残して一時解散となった軍議の部屋に残った一人と一人は、しばしの沈黙の後に、互いにこう罵った。 「この、大嘘つき」  口火を切ったのは、シュゼッタだった。 「手段がない、ですって?」  ここ数日の恋する娘の表情など微塵も残っていない、眉間に寄せたしわがそのまま残りそうなほど顔をしかめている。 「冗談じゃないわ。あの世界で研鑽された魔術は、そのためだけに特化した技術じゃないっていうの?  過剰なまでの攻撃力、霊体と物質を識別して破壊を遂行する破壊性! 霊体構造そのものへの干渉を目的とした術式があらゆる体系に盛り込まれ、空間跳躍者を封じ込める結界さえ存在する。術師が百人集まれば、小国程度なら簡単に制圧できる。千人いれば、大国とも互角以上に戦える」  溜め込んでいたもろもろの感情を叩きつけるような勢いだ。  なにしろ彼女は知っているのだ。シュゼッタとしての記憶だけではなく、滲み出るように侵食し始めている佐久間千秋の情報が叫ばせる。村上文彦という魔人が、故郷の世界でも規格外の存在として認識されていたこと。  彼が、彼を術師として鍛えることになった戦場で途轍もない体験をしたという。 「知ってるんだから」  ドスをきかせた低い声で唸る、シュゼッタ。 「知ってるのよ」 「……なにを」 「フミヒコには、真の姿がある」じと目で睨む妖精の娘「カグラを倒したときとも違う、魔人としての本当の形がある」  本来なら、言うべきものではない。  伏せるのは、理由がある。シュゼッタもそれは理解している。魔人と呼ばれる存在がどれほどの苦悩を抱えて生きているのか、彼女は佐久間千秋の断片的な記憶から知っている。だが、事此処に至っては、個人の矜持を尊重している余裕はない。  魔人。  その力を解放すれば、おそらく文彦は人とは異なる姿となるだろう。魔族の多くは、高い能力を持つほど異形の姿を隠し持つものだ。逆に言えば、人の姿を保っている限り、その魔族は本気を出していないことになる。 「どんなに恐ろしい姿になっても、フミヒコはフミヒコだ。私の気持ちは変わらない」  だから。 「力を出し惜しみしないで、この世界を守るために力を貸して欲しい」 「同じことを返すぞ、シュゼッタ」  ふた呼吸ほどの間を置いて、文彦は口を開いた。  表情は、普段とあまり変わらない。つまり、不機嫌なままだ。 「君は赤帝武装と共に、あの世界を出発したはずだ」  完全状態の赤帝武装は、単独で世界の狭間を移動できる。第一世界のように他世界に侵攻しマノウォルトの因子を撒き散らす存在を滅ぼすため、赤帝は生み出されたのだ。並行だろうが逆行だろうが、あらゆる世界に跳躍して出現し、その力を行使できる。 「あの娘たちは、所有者が望めばいつでも現れる。加速時結界すら切り裂いて、今すぐにだって連中を倒すこともできる」  それこそが赤帝の力であり、かの存在が誕生した背景でもある。 「きみが望めば、この戦いは半世紀も前に終わっていても不思議じゃない」  にじり寄る文彦。 「今からでも遅くない。出し惜しみしないで赤帝武装を召喚して欲しい」  そうすりゃ逃げ出した赤帝鎧も出てくるだろう。  一歩も退かない男と女。 「フミヒコが本気を出せば、あんな連中イチコロよ」  とシュゼッタが文彦の手を握れば、 「きみがあの娘たちを呼べば五分もかからんよ」  文彦は文彦で彼女の手を強く握り返す。  逃げられないように、手元に抱き寄せるようにして。 「……呼べない事情、教えてくれないか」  脅迫ではないが、愛の囁きでもない。  それでも、あと一歩踏み込む勇気があれば唇を奪えそうな距離で、文彦はシュゼッタを見つめている。これが戦場でなければ、こんな状況でなければロマンスは生まれたかもしれないと思うほどに。 「シュゼッタ」 「……怒らない?」 「理由による」  理由といわれ、途端にシュゼッタの表情に陰が差す。 「シュゼッタ?」 「赤帝の武具を身につけてた時に、あの娘たちと色々と話したの。ほとんどがフミヒコのことで、あの娘たちってほんとにフミヒコに信頼を寄せていて」  気のせいか、言葉の端はしに棘と呪詛が込められているような。  事情説明を受けているはずなのに、容赦なく責められているような錯覚に陥る。 「赤帝盾がフミヒコをパパって呼んでたから三人とも養女に迎えているのかと思ったんだけど……自分たちは、パパの肉奴隷だって誇らしげに!」 「真に受けるな!」  半泣きで叫ぶシュゼッタに、似たような表情で叫び返す文彦。 「そんな阿呆な理由で赤帝武装を召喚しなかったっていうのか」  怒るというよりは、呆れて。  手を掴んだまましゃがみこんだ文彦は、なんとも情けない顔でシュゼッタを見上げた。 「……フミヒコが来る前に片付けたら、来ないとも思った」  少女の顔で、シュゼッタは辛そうに言う。 「私は、この世界に対してひどい裏切りをした」  そのまま消えてしまいそうな落ち込んだ表情だ。 「強く言い過ぎた」  嘆息。 「半世紀前に今の戦いを片付けるなど赤帝剣にも出来ねえ。第一世界の連中を倒せても、別の誰かが魔女の手駒になってた」  握っていた手を解き、赤子を慰めるようにシュゼッタの頭を撫でるように押す。力を込めてはいないが、半歩ほど退いて止まる。 「でも今は違うからな」 「や」  即答である。 「終末の魔女が仕掛けた縛りは、封じてあるんだ。赤帝剣なら一瞬なんだけど」 「や」  頬膨らませ、首を振る。 「この五十年間の不義理は悔いても、今の不義理はぶっちぎりか」 「ぶっちぎりでサボタージュさせていただきます」  だってフミヒコがいるもの。  世界中の罪を一人で背負っていたかのような重い表情を見せたのは、ほんの数瞬前だというのに。今はもう、不貞腐れた子供のようだ。シュゼッタの見た目と今までの付き合いを考えればそれは驚くことでもないが、彼女の中に千秋の因子が取り込まれていることを考えれば、文彦としては驚き嘆かずにはいられない。  沈黙は、長くは続かなかった。  もとより文彦は、それを指摘されれば拒むことはできない立場にある。彼をこの世界へと招いた術式は有形無形の強制力となって、文彦を世界の敵へと対峙させる。 「いいだろうシュゼッタ」  時間はあまり残っていない。  告知されていた回答期限は刻一刻と迫っている。最悪の事態に至ってもシュゼッタが赤帝の力を引き出せるならば、憂うこともない。シュゼッタとの距離を確認し、文彦は「それ」を解放した。  凛。  空間が悲鳴を上げる。  瞬間的に凝集された魔力が物理的な影響力さえ持ち始め、展開した術式が目に見える紋様という形で文彦を中心に城塞都市全域を包む。魔族も、魔法猫も、鯖も烏賊も術式の紋様が透過し、都市そのものを完璧に捕らえた。  だというのに、恐るべき獣たちもシュゼッタも、文彦の全身より解き放たれた力を感じ取ることはなかった。淡く蒼い輝きを帯びた魔術紋様は確かに網膜を刺激しているはずなのに、彼らはそれを知覚することができなかった。  凛。  異変に気付いたのは、城塞都市に迫る第一世界の斥候だった。  それは、都市を包むものの膨大さに飲み込まれそうになり、己を制御するために相当の力を消費した。神性に連なるものとして都市を包む力の正体に気付いた時、斥候は不覚にも悲鳴を上げそうになった。  虻の羽音にも似た。  多くのものは己の身に起こったことなど理解していない。  凛。  最初は、小さくどこかで鈴の音が鳴り響いたとしか考えなかった。 『雲が』  最初に異変を理解したのは、屋根の上で民を誘導していた狐面の娘だった。魔力の流れでは感知できず、視覚に頼って初めてそれを認識した。魔族以上に魔法の力に長けた魔法猫たちは猫よりはましな視力を持っているとはいえ、視覚が情報収集に占める割合はそれほど高くはなく、彼らは空気の匂いでそれを知った。 『雲の形が、違う』 『風の匂いもまるで違うのである』  屋根によじ登り、ファルカ王が吼える。 『転移を喰らった』  現実から、そう判断する。見張りの塔で兵士たちが悲鳴を上げているのは、その直後だ。  目の前に迫っていたはずの神々の軍勢が、いつの間にか消えている。いや、消えたのは自分たちなのだ。同じ世界には違いないが、付近に人の集落は見えない未開の地に彼らは街ごと移動していた。 『十万を超える民と、我らをまとめて安全な場所に逃したのか』 『邪悪生命体が、か』  狐面の娘は答えない。  が、  返事の代わりに、はるか遠く山脈の向こう側から碧色の光柱が天に向かって伸びていくのが見えた。まるで地上から天に雷が遡っていくように、それは恐ろしいほど太く眩い光の柱で、彼らはそれが果たして如何なるものなのか確信をもてず、数十秒の後に爆風と共に訪れた轟音によって初めて稲妻だと納得した。あれは、雷なのだ。爆風は山脈の木々を根こそぎ吹き飛ばし、乾いた熱風は摩擦を伴って宙に舞う木々を燃やし、それは連鎖的に拡がって深紅の霞となり山脈を覆う。  烏賊や鯖など、比較にならぬ破壊。  稲妻に貫かれた爆散した雲は空気の壁に圧縮され、二重三重の波紋を伴いつつ雷雲と化し周囲に豪雨をもたらしている。一鳴の雷柱が天に昇っただけだというのに、それを傍観していた者達は言いようのない恐怖に縛られてしまう。  開ききった瞳孔のまま、魔法猫の長は呟いた。 『邪悪生命体は、どこにいる』  誰も、答えられなかった。  掌の上に輝くのは、回転する五角の星。  それを突き出すように正面に構え、文彦は神々の軍勢の前に立っていた。脇には、ただひとり転移より外れたシュゼッタが、目の前の光景を信じられぬという顔で見上げている。  雷の余波で、周囲の大地が沸騰している。赤土も砂も礫も関係なくガラス質の赤黒い溶岩となって、泡立っている。だが文彦とシュゼッタの周囲に張り巡らされた不可視の結界内部は涼しいほどであり、文彦が五角の星を手に一閃すれば結界は膨張する風船のように膨れ上がり、辺りの熱という熱を奪い取って冷やし固めた。  視線は動かない。  その先には、見上げるほど巨大な、ひとつの獣。  蒼く輝く鱗は、ひとつひとつが眩い雷をたくわえている。  大きく広げた翼は、空の半分を隠している。  爬虫類にも似ているが、それとは圧倒的に異なる、金属を持った硬質の身体。明らかな知性を宿しながら、その目を覆い隠すように金色の布が鎖と共に巻きつけられている。 「……なんなの、あの獣は」  佐久間千秋ならば、そんな問いを発することはない。  千秋ならずとも、文彦の故郷に住まうものであれば、目の前にいるものを知らぬものはない。教養として学ばなくとも本能的に、それがいかなるものなのかを理解してしまう。そういう類の存在だ。  それが。  神々の陣営が繰り出した切り札として二人の前に現れ、雷の吐息を放ち、文彦の術式により弾かれた。間合いを測ることもなく、また羽ばたくこともなく宙に止まるそれは、あまりにも美しく、恐ろしい獣だった。 『あの魔女は、我を雷王と呼んでいた』  ぞっとするような、しゃがれた老婆の声で獣は囁く。雷王アナスターシャは咆哮し、全力をもって影法師に襲い掛かった。  かつて自身の限界に直面した魔女は、それを打開するための力を欲していた。  苦心して生み出した始原の霊長は、来訪するものたちの嫉妬に耐えられず滅びた。時の彼方より招いた赤帝は想像以上の働きを見せたが、それは霊長の滅亡をほんのひと時遅らせるだけの効果しかなかった。  対なる塔を介して世界の律を支配しても、世界そのものが脆弱では意味がない。  魔女が施した策の内、神々が知っていたのは三つ。  ひとつは、恐るべき獣たちである。冗談のような破壊力を宿して誕生する彼らは、物言わぬ世界の痛みを代弁するかのように、世界を侵食するものたちに対して絶望的な威力をもって臨む。彼らは世界の力強さの象徴である。  ひとつは、対なる塔を補佐すべき、白と黒に彩られた六百六十六対の石板である。対なる塔が刻む律を世界中に固定し、なおかつ回廊書庫に直結して古今の叡智と記録を内包するそれは、世界そのものの強度を高めてマノウォルトの発生を防ぎ濃密な魔力による世界の変質を回避している。  神々を自称するものたちが知る限り、これら二つの策を構えた世界は数えるほどもない。大抵の世界は一匹のマノウォルトが誕生すれば飲み込まれてしまうし、運良く撃退できたとしても原因を把握する前に再度生じるそれらに埋もれて滅ぶ。世界のあり方を把握し、そこに干渉する知覚と技術を発達させてねば対なる塔に至る道筋を知覚することは叶わない。対なる塔の執行者であり主体たる一枚が見つかれば、それ自身が新たに第一世界の侵略を招くことになるだろう。  恐るべき獣も、石板も、いずれの存在も神々を驚嘆させ、この辺境に位置する世界が内包する価値の高さを示している。  そうした中で神々が目を付けたのは、残るひとつの要素だった。  神々は、その異形なる姿を天魔と呼ぶことが多かった。神が神として世界に君臨する際に、その障害として多くの説話の中に現れる。神々の威光を傷つけず、御使い達をてこずらせ、人々を誘惑し、最後には成敗されてしまう役目をもって誕生する。  彼らは狂喜した。  魔女がいかなる目的で、この天魔を生み出したのか。世界の在り様に干渉するほどの力を持ち、この世界に限れば獣の王にも対抗しうるほどの力がある。恐るべき獣たちのように世代を交代することで力を増すのではなく、あくまで一個体のまま強化されていく。敵が強いほど、それを上回る力を手に入れるのだ。  最強であること。  この天魔が生み出されたのは、きわめて単純な理由からだろう。誰よりも強くありたいために、魔女はその姿を用意したのだ。神々は、より単純に考えた。  歓喜さえ伴う破壊の絶頂。自然においては弾指の間も続かずに消える雷が、この天魔からは瀑布のごとく放出され、尽きることはない。岩石は沸騰し、エネルギーは地殻にさえ届く。咆哮と共に放出した雷は大地の形を変えた。かつては恐るべき獣たちの妨害に遭い草木一本とて自由にできなかった神々にとっては、堪えられないほど愉快なことだ。  天魔は、雷王アナスターシャは宙にあって影法師を見下ろす。 『よくぞ最初の一撃を耐えた』  無属性の魔力を操り魔女を退けるほどの術師であれば、あるいはそれも不可能ではない。だが現実に耐え切った様を見て、天魔は素直に賞賛した。雷を浴びせた直後に神軍の騎兵が影法師たる文彦を襲ったにもかかわらず、神兵は文彦に触れる直前に消えた。消滅か、あるいは転移か。断定する前に天魔は影法師を褒めた。 『我が雷を退けてなお力を残すか』 「大して力を使ってねえよ」  凛。  五角の星が文彦の掌に吸い込まれて消える。詠唱も結印もなく、息も乱れていない。岩石さえ一瞬で沸騰するほどの熱も、文彦とシュゼッタの髪を焦がすことさえできない。  いかなる障壁か。  この世界では異界の存在が魔力を大幅に増幅されるとはいえ、天魔たる雷王の咆哮は世界の恩恵を超越するだけの威力がある。それが証拠に、雷撃の余波に巻き込まれた天軍の一部は雷を防ぎきれず灰化している。マノウォルトと化さず塵となったのは、獣の王の特性に近い。ならば尚のこと、一介の半人半魔にすぎない文彦がこれを完璧に遮断できるのか。 『驚異だな』  冷え固まり硝子質のクレーターとなった大地を見下ろし、天魔は感心する。  直後、不意打ちなど意味ないとわかっていたが、先ほどよりも激しい雷を当てる。今度は広域ではなく、文彦の脳天に収束している。綿の塊より糸を紡ぐように一本の光条となった雷は文彦の存在を消滅させるべく、光に等しい速度で落ちる。  凛。  文彦たちがいた場所に穿たれる、一本の穴。どれほどの深さまで達しているのか、ひょっとしたら地殻を突き抜けているのではないかと錯覚するほどの、細く深い縦孔である。 「なぁに、驚くような技なんて使ってねえよ」  声は、天軍の中央から。  シュゼッタを抱えたまま転移していた文彦は、金銀に彩られ豪奢な鎧兜を身につけた神々と眷属を睨む。見た目の麗しさなら、シュゼッタよりも勝る。気品や立ち居振る舞いの美しさは、おそらく文彦が今までに出会ったどの軍勢よりも勝っているだろう。仮にも天軍を名乗り神を自称するものたちである、文彦が現れたことに驚いても、醜く慌てることはない。  一番近い女神の一柱が、長槍を構えながら文彦を見る。 『たった一人で我が軍勢と戦おうというのか』  その無謀なる勇気、賞賛に値する。  続く言葉に、文彦にしがみついていたシュゼッタは抗議の声を上げようとして、文彦の視線に気付き沈黙した。  神々にはシュゼッタの存在は知覚されていない。  いかなる隠形を施したのか、殺意のこもった視線は彼女を素通りして文彦へと向けられている。その場にいながら傍観者として、妙に冷めた気分となる。  今までは鯖と烏賊が遠隔攻撃で蹴散らしている、神々。  なるほど、見目麗しき彼らが甘言を弄すれば騙されるものも少なくあるまい。まっとうな為政者として受け入れる民もいるだろう。 「一騎で十分」 『吼えたな、小僧』頭上の天魔が哂う『我が雷が同胞を巻き込むと思ったか』  不敵な笑みを浮かべる文彦は手を短く振って、数個の銀牌を取り出す。封印術式を含め触媒として愛用しているそれは投擲するまでもなく弾丸の勢いで付近の天兵に飲み込まれる。外傷もなく銀牌が溶け込むのと前後して、天魔は三度目の雷を撃つ。  が。  文彦その人を狙ったはずの雷が幾条にも分かれ、銀牌を埋め込まれた天兵を直撃した。  波紋のように、有形無形の衝撃が天軍に広がった。  三度目の雷撃に至り、彼らはひとつの事柄を認めることにした。二度の過ちを許容してしまうのは擬似的な永遠不滅を有する神性ゆえの傲慢であり、つけ入る隙でもある。  硬直は僅かな間。 『闘い慣れている』  今更のように、改めて驚く。 『人の身でありながら、神々との闘争を過去に経験しているのか』  それも、多数の人間で一体の神性を討ち滅ぼしたのではない。多数の神性と眷属を、少数もしくは個人で撃破した。  勝敗が成立する対立において物量が意味を持つのは、闘争手段の水準が拮抗している時である。幻想世界の住人たちが兵を揃え策を練って殺し合うように、手の届く相手と戦う限りその原理が覆ることはない。  神性は、超越した存在だからこそ意味がある。  文彦は虚空に印を切る。神々は咄嗟に防御の障壁を張り巡らせ術式無効の力場を発生させるが、術式の対象は文彦本人だった。  凛。  鈴にも似た音と共に、文彦より発せられるあらゆる力が爆発的に膨れ上がる。  それは、彼等が渇望してやまないものだった。  手付かずの資源。未開拓の領土。  神が神として君臨するために、必要にして不可欠の存在。第一世界が次元の壁を越えてまで兵を送る理由の一つ。 『貴様は既に我等と同類だったのか』  落胆の言葉を吐いたのは、おそらくは敵対するひとり。何しろこの場にはシュゼッタを除いて文彦の味方は存在しない。百里四方に味方がいれば巻き添えを食らうから、わざわざ面倒な空間転移術を組み立てたのだ。  端から見れば噴出す泉水、傍らに立つシュゼッタにとっては無数の蛇。魔力の奔流はシュゼッタの身体に触れることなく、しかし結界のように周囲に広がっていく。そも魔力とは如何なるものなのか、大本なる性質を問いたくなる現象である。 「変幻自在と臨機応変は術師の極意」  彼に術を教えた師の言葉を思い出し、不敵に笑う。 「崇拝を勝ち得て莫大な力を手にした時は、人魔半端な俺でも要らぬ欲が出た」  一滴残らず放出し、周囲に異常な密度の魔力を満たす。神性にとってはこの上ない糧なのだが、文彦の身体より放出されたものには手を出せず身動きも取れない。意識衝動を形あるものとして世界に干渉するのが魔力のもつ性質の一つだが、文彦はこれを極めて不安定な状態で辺りに満たしていた。  もとより魔力の高い世界だ。  犬上の地よりも密度は高い。文彦の故郷を基準とするなら、この大地全てが特異点であり、普通の生物でも長く留まれば変異を免れない。特異点が暴発した直後の石杜も、きわめて不安定で高い魔力が満たされていた……それらの大部分を引き受けて変異した者の姿が脳裏を横切り、文彦は首を振る。力を解放したことで周囲の魔力密度は、神楽が滅びたときの水準を越えていた。迂闊に動けば魔力は反応し、感情衝動を具現化させてしまうだろう。だから神性は硬直し、天魔は宙高く距離を保っている。  均衡は長くは続くまい。  魔力制御において文彦の技術は低くはない。能力として神性に劣る以上、これを圧倒する技術と経験が備わっている。  何を目論んでいるのか。  訝しむだけで周囲の魔力は敏感に反応する。だから神々は思考さえ半ば停止して、文彦の放つ魔力の領域より退こうとする。圧倒的とはいえ魔力量は有限で、魔力密度が危険域を下回れば彼等は反撃に転じることができる。また一刻も早く逃れなければ文彦がマノウォルトと化した時に巻き込まれてしまうだろう。  波紋が広がるように退く神の軍勢。  姿勢を整え深く息を吸い、歌曲の担い手のように朗々とした声で文彦は唱える。地の果てまで届かんばかりの声で、こう叫ぶ。 「ふとんが、ふっとんだー」  ふっとんだー。  ふっとんだー。  ふっとんだー。  ふっとんだー。  濃密な魔力のため精神防御もままならぬ状況だった。  彼らの、天軍の健闘は語って然るべきものである。感情衝動を乱さずに平静を保とうとした。  反応してはいけない、いけないのだ。  面白いつまらない以前の問題を内包しながら文彦の言葉を忘れようと努め、その時に至って初めて神々は、文彦に抱き寄せられた妖精の少女の存在に気がついた。かつてエーテル王国最後の王女として封じられ、大いなる力を手に入れるために思いつく限りの方法で調べ上げ……陵辱した、あの少女だ。霊鷹の複製ともいうべき存在と同化して世界崩壊の引き金を託されていたはずの少女がそこにいた。  実にしょっぱい顔で。 『なんでやねん』  それが、神々が敗北を受け入れる前に聞いた最後の言葉だった。  元々は魔法猫たちの戯言じみた奥義だという。  世界が魔法の力を帯びているから、言霊が世界に干渉する程度も他の比ではない。  だからといって、使い古された駄洒落へのツッコミがどれほどの威力を持つ道理はない。反射的に繰り出した右手、肘より右斜め45度の好位置を確保したそれはごく自然に文彦の胸板を叩く。  次の瞬間。  爆音なき大爆発が周囲で起こった。正確に言えば、音は出ている。古いラジオ放送で質の悪いスピーカーから流れてくるような、あからさまに演技された笑い声。はいはい、ここで笑って下さいませと強要してくるのは誰か。 「世界かな」  シュゼッタに語って聞かせるように文彦は教える。魔力という魔力は既に指向性を制御された爆発に転化し、展開していた天軍の将兵全てを巻き込んだ。観念や概念といったものを軸に存在を魔力で固定しているような連中である。岩塊を沸騰させる熱量よりも、心根を折り取る低俗な爆笑が致命的に働く。戯曲に勇猛華麗に描かれ崇められる形であろうとする者ほど、ひとたび喜劇に堕すと立ち直れぬほどの打撃を受ける。 「駄洒落を聞いた神々は一柱残さず滅ぶ、その事実が世界の理に刻み込まれる」  爆笑が止んだ後、そこに天軍の姿は無かった。天使も、神将も、兵卒の一人に至るまでが姿を消していた。 『みんな滅びたのか』 「自分から身体の構成を解いて、ここから逃げ出したんだろ」  神々に限らず、異形の類もその手を頻繁に使う。 「存在確定に必要な最低限の因子のみで構成された精神体になっちまえば、石板や石剣の敵じゃねえ」  魔力がほどよく尽きて軽ささえ覚える手をぱたぱたと振りながら、爆発に蹂躙された荒野を一度だけ眺めた。 「何十年と費やして復活するだろうが、今回みたいな真似は無理だろうな」  言うや右腕を頭上に掲げる。  凛。  風が、吹いた。必死に羽ばたく音が上空より聞こえ、それが次第に大きくなる。上空に優雅に羽ばたいていたはずの天魔が落ちてくる。魔力さえ総動員して天魔は浮揚しようと試みるが、風という風が天魔の存在を拒絶し、その身体を地面に叩き付けた。  凛。 「霊鷹は風の因素を支配する」  土煙をあげ転げまわる天魔に右手を向ける文彦。 「冷涼なる風の源に、彼女はいる」  凛。  風が、吹く。風の奥より、猛禽の鳴き声が聞こえてくる。  土煙が上がる。  相殺し切れなかった落下速度と天魔そのもの保有する質量が生み出すエネルギーが、地面の強度を超越していた。それだけの話だ。陥没を伴う振動は遠く離れた城塞都市にまで到達し、大地を揺らす。  天魔、雷王アナスターシャは混乱と恐怖で正常な判断力を失っていた。  なぜフミヒコは自分を圧倒できるのだ?  なぜフミヒコは詠唱も結印も経ずに風という風を支配下に置けるのだ? (雷王たる身体は、魔女がアレの残骸を素体として。アレを模倣して生み出そうとしたものだ。オリジナルの赤帝や幽鬼王ならともかく、模造された霊鷹や擬似神性に劣るはずはない。石板の主体は静観を決め込んでいる)  負ける要素はない。  あるはずがない。たとえ外の世界を含めたとしても……雷王に憑依した神性の判断は、決して間違ってはいない。雷王の身体は、地面に激突してもなんら損傷を受けた様子はない。いかなる素材より生み出されたのか骨格はおろか外皮の鱗にさえ傷はなく、飛翔能力を除けば行動に支障はない。 『ならば問おう』  凛。  土煙の向こう側より聞こえてくる声。文彦の声ともシュゼッタのものとも異なる、若い女性の声。 『キミは風を識っているか』  声の主は、フミヒコがいるべき場所にいた。  そこには脅威となる力は存在しない。フミヒコが有していた力は全て吐き出されたはずだ。天魔の感覚器に魔力の流れは感知されていない。  では今起こっていることはなんだ。  巻き上がる土煙が、一点に吸い込まれていく。声の主に。尋常ならざる勢いで渦巻く風が土煙もろともに収束されていく。風の法術を駆使すれば再現できるだろうが、それを行うためには莫大な魔力が必要。しかし天魔はそこに一切の魔力を感知していなかった。  なぜだ。  魔力は、ない。これだけの現象が目の前で起こっていながら、その引き金となった力を読み取れずにいる。  なぜだ。 『識らぬか』  声の主は短く失望の意を示し、土煙になるべき土砂は全て消えた。陥没し擂り鉢状となった大地の中心に雷王はあり、くぼ地の淵に立つそれを見た。  漆黒の法衣は銀糸を所々に縫いこみ、複雑な紋様を描いている。その法衣とは対照的な、若草色の長い髪が揺れる。長く伸びた尖り耳も、『彼女』が脇に抱える妖精族の特徴である。  フミヒコの姿はどこにもない。  それは、確かに村上文彦と呼ばれた存在だった。  漆黒の法衣より覘く右腕に輝き浮かぶのは、甲骨文字にも似た奇妙な紋様。真上に翼を開いた猛禽の姿を象った紋章。其は風の起点にして終着点、風と風に連なるものと風が至るものを支配し使役する。  若草色の、長い髪。身体の線、どれひとつの要素を比べても彼女と文彦の共通点は存在しない。それでも敢えて挙げるとすれば、空いた手で紅毛の妖精種たるシュゼッタを抱き寄せていることか。 『悔しい』  その感触を何度も確かめるようにシュゼッタの胸元に添えた指をわきわきと動かしながら、しかめっ面で彼女は呻いた。圧倒的な量の風を掌中の珠として収束しながら、緊張感の無い声を出す。 『薄いけど、あたしより大きい』 『へ』  なずがままセクハラされ放題だったシュゼッタの顔がひきつる。目の前に這いつくばる天魔の存在など無いかのように、妖精の女は真剣極まりない声でシュゼッタに訊ねた。 『影法師に揉まれて育った?』 『は』 『嗚呼ごめん、そりゃアンタの前の人生だった』  回答を待つまでもなく女はひとり納得し、掌中の珠を握りつぶすと口中にはこび飲み込んだ。 『んんん〜、さすがは私であって私ではない霊鷹の化身。ステキな抱き心地。ほんと面倒くさい立場ぶっとばして自由に来れたら楽しいのに』  妹か娘を愛でるかのように、彼女はシュゼッタに頬を摺り寄せる。 『貴女が、フミヒコの本当の姿?』 『違う、ちが〜う。彼を触媒にして身体を構成してはいるけど、借り物の姿に過ぎないわ』  言いながら。  彼女の周囲に生まれた無数の流星が、重力に逆らうように複雑な軌道を描きながら天魔に降り注ぐ。このまま世界を丸ごと焼き尽くし引き裂き滅ぼさんとする勢いで流星は天魔に降り注ぎ、破壊の力を行使する。いかなる属性に染まることのない純魔力の流星である。限りなく不滅に近しいはずの天魔は、逃げることも防ぐこともできず叩きつけられるように大地に身体を沈めていく。 『名を明かすことはできないし、本当の力を見せることも許されていない。影法師は過去の功績で、どんな時と場所においても私達を一度だけ呼び出す権利を与えられていたの』  シュゼッタを抱擁する腕に力を込め、彼女はシュゼッタにだけ聞こえるように言う。そんな事をせずとも、天魔に降り注ぐ流星の爆音はいよいよ地平線の向こうまで揺らし始めている。 『意味に気付かなくてもいい。私達の願いは、私達の届かぬ世界で果たされていた。それが分かっただけでいい。袂を分かった同胞が成し遂げたことを、私達は祝福しよう』  凛。  彼女の身体が、光の粒に変わる。粒は滴に転じシュゼッタの身体に染み込み、深紅の髪は若草色となる。瞳の色は、濃い碧に。右腕に刻まれていた紋様はシュゼッタの全身に移り、流星も暴風も、全てが途絶えて静寂が蘇る。  光が消えた後、シュゼッタの前には再び文彦の姿があった。今度こそすべての力を使い果たした文彦は抱擁を解き、ずたぼろになった天魔を見た。あれほどの爆発の中で、消耗こそしていたが天魔の身体は一切の傷を負っていなかった。 『……貴様、獣の王に縁ある者か』 「下っ端の使い走りを何度か押し付けられた」  防御の術式さえ組めない状況。  眼前の天魔は力を取り戻しつつある。  シュゼッタは、身体が再構築されていく感覚と、血液が未知の液体に置き換わろうとする感覚に支配されていた。不快ではないが、意思に従って動く部位はない。文彦はシュゼッタをかばうように前に立ち、やや大袈裟に肩を上下させた。 『霊鷹の主を招来するとは驚いたが、我を滅ぼすには至らなかったようだ』 「変幻自在と臨機応変は、術師の極意」  かつて吐いた言葉を繰り返す。 「硬く厚い壁をもって囲むより、薄く伸びる膜で包む事が良いこともある」 『何が言いたい』 「融通のきかない夢想家の失敗談だよ」面白くもなさそうに告げる文彦「熱心な仕事だったが、肝心な部分で歯車が外れていた。魔女は崩れた壁を補修し、妖精たちは隙間から来る阿呆共に特攻した。地の民は思いつく限りの歯車を用意した。それでもなお足りないものがあった」  文彦には、天魔の脅威となる力は残っていない。  雷の吐息を吹き付けるだけで、この半人半魔の少年は灰さえ残さずに消滅する。獣の王に縁あったとしても、半魔に過ぎぬ身で神々の多くを封じ込めたことは驚嘆すべきことで、畏怖と賞賛に値する。天魔を支配する神聖は心からそう考える。 『足りないのでは何も成せぬ』 「まあね」 『何も成せぬまま貴様は死ぬ。最期に言葉を遺せ』 「御厚情感謝する、では」  頭上に掲げた右手の指を鳴らす文彦。 「これで完成だ」  直後、世界が鳴動した。