十一章〜約束  術師の戦いは、騙し合い化かし合いを旨とする。  愚直に正面より突っ込めば単純に力の強いものが勝利し、相性の良し悪しが勝敗に大きく関わる。なるほど御前試合でも披露するならばそれで構わぬだろうが、そもそも術師というのは敵を倒し、あるいはバケモノを封じてこその存在である。果たしてそれが策と呼べるのかは分からないが、術師として生き続けるほど無意識に本心を隠してしまうのは一種の職業病に違いない。 (修羅場を本音で突き抜けられるのは、覇王か英雄だろ)  地べたを這いずり回り無数の命を奪ってきた自分は、自分の気持ちさえ騙している。術式を組み立てるためには心身の調子を自ら制御できねばならない、だとすれば己が抱え込む感情を正確に理解するのも重要な資質だ。術師として様々な仕事を経てきた文彦は、自己の感情を制御する術に長けていると思われていた。たとえ刃で貫かれている最中でも眉一つ動かさずに必殺の術式を組み立てて逆襲する、それが影法師だと言われている。  冗談じゃない。  文彦は誰にも聞かれないほど小さく毒づいた。自己を本当に制御できるなら、自分はどうしてこんな場所にいるのだ? 「まったく、理解に苦しむ」  煮沸した布片に消毒液を染み込ませ、シュゼッタが文彦の頬にある真新しい擦り傷を拭いながら、少しばかり呆れて言う。数日前に己が金属バットで殴打した時の傷の方がよほど深刻だったというのに、狐面の少女や街娘がつけた引っ掻き傷を見て彼女は大げさなほど驚いた。術式を用いずとも魔族の再生能力なら半日待たずとも消える傷だが、シュゼッタはそれをよしとしなかったのである。 「神々の眷属や赤帝の怨敵さえ退けるフミヒコが、どうして小娘ふたりにされるがままなのだ」 「楽しそうだな」 「……そう?」  少しばかり冷たい文彦の視線に、シュゼッタは己の頬が緩む感覚を自覚する。彼女としては生真面目な軍人という意識もないし、普段と変わらないつもりだ。 「私は、真面目に疑問を呈しているつもりだ。故郷に戻れば東方魔界の三氏族を従え、魔王と名乗ることさえ許されているほどの男が」 「おれは仙人にも魔王にもなりたくねえ」  されるがままの文彦は、消毒薬で傷口が焼かれる感触に顔をしかめる。傷口を治すなら術を使えば直ぐに終わる、シュゼッタも理解しているはずなのに彼女は手間のかかる治療を選ぶ。抗議する間もなく椅子に座らされ、このザマだ。 (調子が狂う)  シュゼッタは、なんとなく楽しそうだ。野戦病院で寝込んでいた時も、彼女は加害者という意識なく、日に三度は文彦の様子を見に足を運んでいる。魔族をまとめ、烏賊や鯖をなだめ、人間の軍勢と理性的な交渉を進めている。気の早い連中は戦後交渉を始めようとしているが、勝ったところで得るもののない戦いである。それを前提に集った兵が八割を超えても、残る二割が煽動しかねないのだと、見舞いの席で愚痴を吐く。  文彦が小娘二人に傷をつけられたことを嘆き、ハイマン辺境伯の子息に求婚されたことを迷惑そうに語る。 「いい男じゃないか」  小娘二人にさんざん比較された内容を思い出しつつ、冷静な評価を口にする。 「守り時と攻め時を心得ているし、人を動かす時に自分を真っ先に危険な場所に置いてみせる」  ついてきた部下より聞く評判は、決して誇張されたものではない。隣国たるこの城塞都市を治める青年貴族に対しても、何の見返りも要求していないという。 「断る理由が思いつかないぞ」 「私に結婚して欲しかったのか」憮然とするシュゼッタ「失礼な話だ」 「君が幸せになれるなら、それが一番だと思った」  嫌なら仕方ない。  表情を変えることなく呟く文彦の頬を、シュゼッタは強くつねり上げる。 「いたいぞ」 「殴った方がいいかしら」  おそらく彼女が殴ったら、引っ掻き傷など比較にならない怪我を負うことになる。土下座しながらその事実を理解してもらうまで、四半刻を要したのを付記しておく。  顔の引っ掻き傷が三倍くらいに増えた後で、当初は見舞い客だった少女は、今も昔も被害者たる少年に尋ねた。 「ねえフミヒコ、この戦いが終わったらどうしようか」  何気ない質問のように聞こえた。だから素っ気無く、 「故郷に帰る」  と文彦が即答したとしても、彼に罪はない。しかし現実として強烈な打撲が文彦の顔面に炸裂した。鼻骨を陥没させかねん勢いで繰り出された踵は、惚れ惚れするほどの動きだった。どうするのか、ではなく、どうしようかと問われたのである。微妙な言葉の言い回しに込められた女心を踏みにじったのだとすれば、彼の罪は重い。気付かないあたりが致命的に。 「そうだ、なあ」  シュゼッタと共に旅をした数年間を思い出しながら、そういえば彼女は昔から口と手が同時に出て、口より先に脚が出る娘だったと、顎を掻く。 「召喚の術式が解けるまで何年かかるのか正直わからねえから」  文彦を呼び出したのは、おそらくは終末の魔女に絡む存在である。終末の魔女は「アナスターシャ」という魔女の持つ一つの姿に過ぎないと文彦は考えている。二人の魔女が獣の王の亡骸よりこの世界を生み出したのだとすれば、その性質は文彦が知る獣の王たちのそれに近しくなる。 (無尽蔵の魔力を持つであろう魔女の術式、そう簡単に途切れるはずもないか)  終末の魔女を退けて数日、この世界の特性もあってか文彦の存在はセップ島に固定されたままである。 「もし、この島に長く留まるなら」 「うん」 「菓子屋を始めたいな」  文彦はシュゼッタを見て、ぎこちない笑顔で答えた。思い出すことさえ苦痛を伴う記憶に正面から向かい合う、そういう笑みだ。 「昔、ある人と約束したんだ」  おれたちみたいな変わり者でも普通に暮らせる街に行って、眺めるだけでも幸せになれるようなお菓子をたくさん作って。その人と、その人との子供が美味しい美味しいって嬉しそうに食べてくれて。 「だから、そんな菓子屋を開いてみたい」  あの日あの夜。  抱きしめた腕の中から消えて、二度と再開することのなかった女と交わした約束だ。閨の戯言と言えばそれまでだが、彼女がその存在を消滅させたセップ島で菓子屋を開くことに、何かの意味があるように思えるのだ。 「魔人でも術師でもねえ」  村上文彦という人間ができることを、試してみたいんだ。  気遣わせないよう精一杯の笑顔で言ったつもりだった。  彼は、当たり前のように暮らすことが許されなかった。  彼の故郷において術師という生き方を選ぶ者は、平穏安寧な日々を一足先に墓地に埋葬し、心身を陵辱する危険を糧に混ぜ込んで己の血肉に取り込んでいく。まして村上文彦という術師を知る者ならば、彼のその発言がどれほど冒涜的なものか理解できただろう。  誰よりも文彦自身が、そう考えていた。 「よし、私が許可する」  敢えて言えば、ここはセップ島だった。  そして今、彼の前にいたのはシュゼッタだった。 「この私が許可してあげる」  彼女が御気楽な人生を送ってきたなど、思わない。初めて会った時、彼女の身体には獣の王の因子たる白銀の猛禽が取り込まれ、さらには第一世界に縁深い侵略者に囚われていた。彼女の全身に刻まれていた傷や烙印は、彼女が背負わされた運命の過酷さと世界への憎悪の象徴にさえ見えた。  だが、今のシュゼッタに当時の陰はない。  理不尽の三文字を彼女は正面から踏み砕く。踏み砕いて千切って投げ飛ばして、叩きのめす。それが彼女の使命であるかのように、だ。 「菓子屋、いいじゃない」 「あっさり言うな」  軟膏を塗った煮沸布を傷口に当て、呆れるような驚きを顔に出す。シュゼッタは、とんでもない、と首を振る。 「いまの私は、気が狂いそうなほど嬉しいんだぞ」  物騒な、と苦笑しかけて。  文彦の手が強く握られた。シュゼッタはやや俯いて、耳の先まで真っ赤にしながら、それでも文彦の手を離そうとはしない。緊張しているのか声はかすれ、肌はしっとりと汗に湿っている。妖精種には珍しい、しかし不快ではないほのかな体臭。成熟には数歩及ばぬ彼女から初めて感じた、女の徴。  温かい。  どちらかといえば体温が低い普段の彼女からは考えられぬほどの、温もりである。手を重ねただけなのに、それだけで鼓動が伝わってくる。まるで早鐘を打つようなそれは、文彦の言葉を封じ込めてしまう。  嗚呼。  一度だけ、文彦は彼女の手を強く握り返した。びくりとシュゼッタの肩は大きく震えたが、文彦は手を離さなかった。  四半刻が過ぎて、建物の外よりシュゼッタを呼ぶ声が聞こえてきた。炊き出しを任されている寡婦の一人が、飯時も近いのに一向に現れぬシュゼッタを捜しに来たのだ。あれほど固く握っていた手は、あっさりと解けた。 「まずは今の戦いを勝ち抜こう」  扉の前で一度だけ振り返り、彼女は小さく言った。 「勿論だ」  文彦もまた返す。  彼女は満足げに頷いて野戦病院の外に出た。軍を率いる者の一人として威厳を保とうと表情を硬くするシュゼッタだったが、三歩も進まぬ内に先刻おのれがしでかした事を思い出し、意味不明の絶叫と共に駆け出していった。  五感というものは、能力者が嘯くほど役立たずではない。耳鼻に届き肌に触れ口に味わうものの些細な変化が、驚くべき情報を含む事は実に多い。  ある者は、かまどの前で聞こえてくる鼻歌が普段より半音近く高いことを知った。  ある者は、焼き上がる菓子が普段よりほんの少しだけ甘酸っぱい香りを含んでいることを知った。  ある者は、自分や同僚が無造作に脱ぎ散らかしていたはず衣服に袖を通し、それらが程よく洗濯され陽光を吸って膨らんでいることを知った。  多くの者は、その夜に振舞われた素朴なシチューを口にして、どういうわけか口元が緩んで笑みを作ることを知った。  多少なりとも殺伐として重苦しい雰囲気が漂うのが戦場の常だというのに。 「不謹慎かもしれませんが、乳母が生前作ってくれた料理を思い出します」  領主たる若者が、皆の気持ちを代弁して文彦に伝えた。  食堂と呼べる場所はなく、布を敷いた石畳に腰を下ろして飯を喰う者の姿が砦では目立つ。  卓を構えて格式高く喰おうとする者は、そこらの床に腰を下ろしている上官に請い、作法をその場で学ぶ者が多い。行儀と格式の高さを求められた将校は、己が部下より信頼を寄せられていることを第一に誇りに思い、次に卓の向かい側に座っている見目麗しき女性の心を部下が射止めるため、過度にならぬ程度の助言を行なう。  では口説かれる側といえば、これもまた周囲を歩き回り配膳に勤しむ仲間の娘達がすれ違う度に的確かつ致命的で情熱的な情報と必勝法を授けていく。出身地域によって求婚の作法は異なるし、相手の郷里を下手に見誤れば、嫁ぐにいたって騒動も起こる。領主たる若者は周りに七つの卓を囲む位置に腰掛けて、自身の動きをもって作法を授け、したがって周りの卓で愛を語る将兵は七人が七人とも同じタイミングで同じ動作を繰り返す。  実に滑稽。  言葉に出さず、奇天烈な動きを繰り返す領主を眺め、文彦は先刻の話を続ける。文彦といえば特に作法など考えず当たり前のように飯を喰っているのだが、どういうわけかそれを盗み見ながら真似しようとするものもいる。 「おふくろの味かい」 「面白い喩えです」  日本語の言い回しに感心しながら、若者は頷く。 「幼い頃の幸せな記憶を喚起する、そういう味です。作る者が、食べる者を想って、初めて出せる味です」 「明日から料理評論家はじめられそうな感想、どーも」  言わんとするところは、わかっているつもりだ。  十六方より突き刺さる様々な種類の視線を自覚しながら文彦は牽制しようとし、若者は気付かぬ振りをした。 「多少の障害は恋愛を盛り上げる隠し味だと、聞いたことがあります」 「それは乳母の言葉かい」 「乳姉が父の第三夫人になって強引に挙式した時の台詞です」  ちなみに当時の彼女は十二歳と八ヶ月でした。  十六歳の秋に迎えた収穫祭でクラッカーを喉に詰まらせて昇天するまで実に六人の子を産んだ乳姉もとい継母を思い出し、若者はしみじみと呟く。 「恋に素直すぎた父は挙式の晩に領主を座を第一夫人たる私の母に奪われ、痴情に激怒した母は父と乳姉を殺す寸前まで追い詰めたものです」  父親の処刑寸前にカウンタークーデターを無血で成功させた若者が領主を継ぎ、惨劇は辛うじて回避された。 「ですが、舞台劇のような恋愛に生きることができるのなら、それは羨ましい限りではありませんか」  文彦は沈黙し、回答は別の場所より現れる。 「劇的なロマンスを経験すると、日常の恋を語れなくなってしまう」  凛として、しかし少しばかり皮肉っぽく話す。人ごみを掻き分けるようにして現れた妖精の娘は、そこが定位置であるかのように文彦と背中合わせになるように腰を下ろす。十万余の配膳を一手に引き受けるシュゼッタが行使する食卓の魔法は、兵站の確保に苦しむ城砦にとってありがたい存在である。 「逃げるなフミヒコ」  背中の感触、筋肉の動きよりそれを察知し、先を制するシュゼッタの言葉。 「私が思うに」小さく咳払い「ありきたりの恋が許される、そんな国で暮らせたらと思う」  言ってて恥ずかしくなったのか、必要以上にシチューを匙でかき回しながら、ややあってシュゼッタは言葉を続ける。 「ちなみにフミヒコに拒否権はない」 「ああ」  返事は短く、小さく。シュゼッタと、おそらくは領主たる若者にしか聞こえないほどの声。 「私は、色々とわがままを言うと思う。些細なことで腹を立て、幼稚な嫉妬で喧嘩するかもしれない」 「慣れてる」 「妥協できないことも、沢山あるぞ」 「今までの人生で君がなにか妥協していたとは信じられん」 「独りで百年を過ごした間に、私は以前よりも穢れているかもしれないぞ」 「綺麗になった」 「胸は、さほど育っていない」 「楽しみが増えた」 「サクマチアキを、今でも愛している?」 「姿かたちが変わっても、気付く程度には」 「……莫迦だよ、村上は」 「バカなのはお互い様」  冷めたシチューをひと口すする。やけに塩辛いと鼻をすすりながら、シュゼッタはぎこちない笑みを浮かべた。  誰かが言った。  それが罪ならば、裁く者がいる。  それが罪ならば、受けるべき罰がある。  世界を構築した魔女は、自身の不始末を霊長に押し付けた。それを得た種族は、正面より立ち向かわねばならぬ危機に対し、偉大なる文明を築き上げた王国は異界からの侵略に対し、更なる異界に解決策を求めた。彼らは赤帝なる存在を知り、その力を宿すものを召喚し、消耗し喪失した。  無数の外敵を屠った、それは。  それは、最期に、愛しい者への想いを小さな結晶に変えていた。結晶は白銀の猛禽となり、二つの資質を備えていた。ひとつは虚無に至る風を統べる、獣の王・霊鷹としての資質。 「これが、償いのつもりなのか」  文彦の独白に答える者はいない。  かつてエーテル王国を興した妖精種は、星渡る船に自らの民を乗せ、絶望的な戦いに身を投じた。次に攻め込まれるまでに、此方から相手の懐に飛び込むしかないと考え、誰も戻ってこなかった。その後に文明を興した歯車王国の歴史書に、彼らが帰還したという記述はない。 「惨い事を、強いる」  館の奥の一室。  赤帝の巫女が寝泊りする場所として確保した寝室に多重の結界を張り、泣きじゃくる娘を前に文彦は呟く。衣を解きかけた妖精の娘は、寝台に腰掛けた文彦の肩にしがみつくようにして嗚咽を漏らしていた。 「こんな風に償われて、おれが嬉しいと考えていたのか」 「フミヒコは、きっと怒ると思ってた」  言葉の端に不可視の毒を含ませ、文彦の腕の中でシュゼッタは額を胸にこすりつける。後悔と絶望が、歓喜に取り替わって彼女の精神を支配している。 「私の中に、サクマチアキがある」 「転生や蘇生の術式を施した痕はない」  怪我や心身の治療のため、文彦は幼い頃のシュゼッタに何度か触れたことがある。高位の術者が意識して触れれば、身体を巡る魔力や生命の道筋を読んで、仕掛けられた術式や身体の異常を読み取ることも不可能ではない。もちろん、それは術者が人間の肉体を熟知しているという前提があり、近しい存在とはいえ妖精種の身体については、細胞構造はともかく魔力の流れや生命の道筋を見定めるのが困難なのは事実だった。文彦にしても、特定の術式に絞って彼女の身体を捜査するのが精一杯だった。 「サクマチアキが遺した白銀の猛禽には、彼女自身を再構成させるための因子が宿っていた。私の父祖は大地が記憶していた彼女の情報を可能な限りかき集め、純度を高めて私の中に霊鷹と共に封じたのだ」  いつかムラカミフミヒコが訪れた時、サクマチアキという娘が蘇るように。  いつか世界を滅ぼす外敵が訪れた時、霊鷹を完全な形で出現させるために。 「私を抱け、フミヒコ。そうすれば、奥底に封じたサクマチアキの因子が私の心身を素体として本来の姿へと再構築させる」  それでなくとも、自分の内に宿る彼女の因子が自分の記憶に干渉し始めている。  持っているはずのない、同級生としての思い出。三狭山事件での再会。腐れ縁として頻繁に出会い、悪友のフリをしつつ童女のように心が弾んでいた日々の記憶。セップ島ではことのない、文彦の少し拗ねた顔。自然体で付き合ってくれる最良の友にして、伴侶となってくれたはずの男。  声を震わせず、しがみつくシュゼッタ。 「これが、我らにできる唯一の償いなのだ」 「君の心と身体を犠牲にしてか」 「一度でも交わることができれば、それでいい。憎憎しい相手に貫かれるのは死んでも嫌だが、私はフミヒコが好きだ」  唇が紫色になるほど蒼褪めていたはずなのに、耳の尖った先までが朱に染まる。 「軽蔑しても構わない。私は、サクマチアキを口実にしてでも、フミヒコと交わりたい。私の存在が消えても、私の血肉がフミヒコと共にあるのなら、それで本望なのだ。だから!」 「やなこった」  潤んだ目で見上げるシュゼッタの両耳を指で摘み、ぐいっと引っ張る。 「ぬぽおおおおおっ? いいいいいいい、痛い痛い痛い痛い、ギブギブギブ!」  身体の火照りが、急速に消える。両手をじたばたと、雀が砂浴びするように忙しなく動かして、間抜けな悲鳴が口から出る。 「おれの知ってる笠間千秋はな、そーいう自己犠牲がらみの美談が死ぬほど嫌いな女なんだ」 「だ、だから、そういう因子も復活できれば」 「お前はシュゼッタだろ」  あの日おれに告げた名は偽りか?  解きかけたシュゼッタの衣を元に戻しながら、しかめっ面で唸る文彦。相当に機嫌が悪い。 「おれの知ってるシュゼッタは、自分の信念を曲げることが大嫌いで、立ちふさがる奴には容赦なく踵落としを喰らわせるような女だ。  一族の償いとかそういう理由で手前の人生捨てるような真似は、絶対にしねえ。認めねえ。そんな奴におれは惚れねえ」  きびすを返し、拳を壁に叩きつけて結界を破る文彦。  一度も振り返ることなく館を出た彼は、そのまま兵舎の天幕に戻り、一晩中出てくる事はなかった。