十章〜魔女殺しの人形  魔力というのは、常になんらかの性質を帯びる。  純粋なエネルギーというものが存在しないように、魔力というものは様々な性質や属性を得て存在する。身体を巡り肉体に満ちる気力、身体を巡り魂に満ちる霊力、思考活動により生じるとされる精神力、負の想念や衝動が凝集した瘴気、異形や魔族が身体特性として発揮する源たる妖力、神々の眷属を主張する者たちの神霊力とやらも魔力に含まれる。そして世界を構成する全ての因素にも各々に対応した魔力が存在し、元素魔術師達はそれらを駆使して術式を組み立てる。  魔力伝達の仮想物質ともいうべきエーテルは様々な形態に変質するが、エーテルは魔力そのものではない。  純粋なる魔力は、いかなる属性の魔力の干渉も受けない。制御されることもない。  あらゆるものを同化吸収して増殖を果たすマノウォルトも、世界を構成する律を支配し森羅万象の全てを糧とする白と黒の石板も、いかなる属性も帯びない純粋なる魔力を取り込む事はできない。  故に、矛盾を抱えるその力は、術師や魔族にとっては切り札である。 『だが純粋な魔力は、生み出す側の心身も蝕む。切り札と知っていながら使い手が少ないのは、それが自滅覚悟の一撃でしかないからだ』  それならば、強力無比な力、たとえば虚無に至る風を呼び出して全てを巻き込む方が効率がいい。  宙に浮かぶ太陽王が呻く。  世界の律を刻んだ白色の石板がある限り、彼の存在は不滅に等しい。律が崩壊する瞬間、つまり世界が世界としての意味を失う時まで彼は存在し、世界の民を適度に苛め抜き精神的タフネスを鍛え上げるための「世界の敵」として居続ける事になる。あるいは世界そのものを壊しうる力、世界を構成する因素の支配者たる獣の王が現れぬ限り、太陽王に安息の時が訪れることはない。  そのはずだった。 『……無垢の魔力を刃に換えたか』  凛。  眩い閃光が収まった後、白色の石板に亀裂が生じた。  貫くのは、淡く蒼い輝きを帯びた影の槍。漆黒の闇を帯びた文彦の右腕より伸びた刃は槍と化して太陽王を貫通し、彼が無意識に護ろうとした終末の魔女に刺さっていた。  律を刻む文字を避け、影の槍は魔女の両目をまとめて貫くように幅広の刃を突き立てている。  凛。  あと一歩でも踏み込めば、刃は魔女の脳に達し突き抜けていたに違いない。  凛。  しかし、一歩を踏み込む前に影の刃は塵と化した。  刃は、影の槍は、文彦の右腕もろとも塵と化した。右肩右肺はもちろん、脇腹付近の臓器もまとめてだ。 『見事』 「なに、所詮は猿真似よ」  血を吐き、文彦が口元だけで笑う。  魔女の姿はない。短い絶叫を一度だけ上げて、律の支配者は姿を消した。太陽王もまた、再度崩壊を始めている。 「華門なら、反撃も喰らわずにまとめて倒していた」  凛。  文彦の左腕が炭化して崩れる。太陽王か魔女か、いずれかが放ったものを左腕で受け止めたのである。右半身と同じように、左半身の脇腹辺りも炭化して崩れている。  無垢の魔力を収束させるためには、他の術式は組み立てられない。防御術式を無視した、攻撃のみの戦法は術師にとっては危険極まりない。事実文彦はこの有様である。 『終末の魔女は滅びるのかね』 「百年はおとなしくしてくれると、嬉しいな」 『百年か』  凛。  石板が砕け、太陽王の身体も崩れ始めている。自身の存在を維持する拠り代が破壊されたのだから、太陽王は今度こそ消滅するのだ。 『頼りないものだな』 「人手不足でね」  凛。  力を失った文彦が、地面に両膝をつく。白と黒の石剣を持った若者が駆けつけて、文彦は視線をそちらに向けた。 「影法師よ」  驚き、若者はまずそれを口にした。 「あと百年は、何とかなる」驚くほど穏やかな声の文彦「そっから先は手前で考えろ」  そして文彦は絶命した。  シュゼッタが駆けつけた時、かつて村上文彦だったものは仰向けに倒れていた。心臓は停止し、血液の大半は失われ、生命維持を司る重要な器官の大半が損傷していた。  止血など意味はない。  心臓マッサージにも、人工呼吸にも、こうなってしまった人間を蘇生する力はない。おそらくは電気刺激も。損傷がせめて一方であれば、助かっただろうか。  否。  文彦が編み上げた、純粋なる魔力は今もなお文彦の身体を蝕んでいる。半魔族である文彦の身体は、少しずつ消滅している。熾き火に近づけた紙が少しずつ焦げて宙に融けるように、右半身の断面は徐々に広がり、骨肉の別なく村上文彦という存在を黒色の塵に換えていく。  傍にいたのは、石剣を持つ若者と魔法猫。それと、文彦と同じく少しずつ消滅の時を迎えている太陽王だった。 「文彦」  声は震えていなかった。  血管が透けて見えるほど彼女の肌は青ざめており、目蓋が小刻みに痙攣している。抱え込んだ篭一杯のビスケットを手近の兵にゆっくりと預け、それなりにしっかりした足取りで文彦の亡骸に近付く。  文彦は死んでいる。  頭の中では理解できるが、実感がない。違和感と確信がある。 「これは、どういうことなのだ」 『終末を告げるものが、自身の滅亡を我慢しきれずに影法師を襲ったのだよ』  消えかけた太陽王が、シュゼッタの本質を察知し僅かに驚嘆しながら答える。 『彼女は狂っている』一呼吸分の間。『世界を強靭なものにするために、致死毒を世界に撒き散らすことを厭わない。霊鷹が覚醒を果たさないのであれば、自身の狂気を止めるしかないと考えたのだろう』 「なぜそうと言える」 『組み込まれた石板が教えてくれたのさ。君が誰なのかも、君の父祖がサクマチアキに強いたことも、二人の魔女の失策も……ああ、この石板を支配できれば我々は永遠の生と無限の力を得るか』  凛。  笑う。  消滅の時を迎えてなお太陽王は笑う。 『くだらん。そんな生は、死にも劣る。そんな力を求めて悦に入るのは末妹だけだ』  狂信的な信者に囲まれた末妹アポロダインを思い出し、太陽王は笑う。自身を至高至尊と信じて疑わぬ彼女は、太陽王が失敗したと知れば兄の敵討とばかりにセップ島に乗り込み、  太陽王と同じ最期を迎えるに違いない。 『そんなものは、到底許容できぬ』  哄笑は嘆息となり、消滅寸前の最期の一言を放つ。 『いつまで死んでいるつもりだ、影法師よ』  凛。  太陽王は、消えた。シャボン玉が弾けるように、消えた。  凛。  鈴にも似た硬く澄んだ音が響く。文彦の亡骸は完全に黒い塵となり、風に融けて消えた。  残るのは、石畳に焼きついた漆黒の影。 (影?)  凛。  音は、その影より聞こえた。文彦の形をした影は沸き水のように盛り上がり、重油の液面を思わせる。  凛。  影が、砕ける。先刻まで粘性の強い液体のようだった影は、冷やし固めた飴細工のように砕け散った。 「足下の影と……虚実を換えたね」  目の前に現れた男を見て、シュゼッタはそう言った。彼女が知るはずのない影使いの言葉が、次々と頭に浮かぶ。 「虚実を反転し、魔力を編んで影に実体を与え、自己の身体と感覚を連結して義体とした」 「魔力の大半を注ぎ込んだ」  疲労の色も隠そうとせず、影より現れた文彦は服に付着した漆黒の粉を払い落としながら肩をすくめる。 「死ぬのは、残りを使い切ってからにする」  冗談とも本気ともつかない表情で、文彦はシュゼッタに微笑んだ。  三日、表向きは平穏な時が過ぎた。  雨風が吹く事はあっても砦を襲うものもなく、過日の太陽王襲撃が嘘のようだった。およそ戦争の理屈など通用しない相手を目にした兵士達は驚き慄いていたが、かの終末の魔女は敗走し、太陽王は消滅した。それが今度の侵略者を退ける重要な一局だと即座に気付いたのはごく少数で、大多数は未だに現状を理解できず困惑したまま砦の警護についている。  だが、事態が変化した事に誰もが気付き始めていた。 『太陽神の軍勢は、姿が見えないである』  偵察を買って出た魔法猫達の意見をまとめながら、ファルカ王が地図上の敵陣地に次々とバツ印を朱墨で書き込んでいく。 『第一軍から第九軍まで、見事に痕跡を消したであるよ。敗走したのか総力戦を仕掛けるのかは定かではないが、直に動きが出るであろうな』  過去の彼らの行動を思い出しつつ、ファルカは己の意見を述べた。 「仮に総力戦だとすれば」 『影法師の力を借りるであろうな』  若い領主とファルカは互いの顔を見た。同時に会議場を見渡せば、狐面の小娘も烏賊も鯖も兵士長も一斉に視線を逸らす。誰も追及したくないというのが本音だろう。 『……』 「大丈夫でしょうか」 『たぶん』  シュゼッタの繰り出した金属バットのフルスイングで、美しいまでの放物線を描いて吹き飛んだ文彦の様子を思い出しながら、ファルカは曖昧に返事した。今も半死半生の重傷を負い治療所の片隅でうなされている文彦には、終末の魔女を撃退した時の凄味や威厳は微塵もなかった。  文彦が意識を取り戻すのは、そこから更に四日後のことである。  この戦争において、人間の兵士が被る被害は少なかった。  陣形を組む前に烏賊や鯖が超長距離より精密射撃を繰り返し、たとえ視界にまで敵が接近しようとも魔法猫や魔族の組み立てる魔法が撃ちもらしを一掃する。人間の軍勢としてかき集められた兵士達の主要な仕事は砦の強化や耕作地の確保であり、太陽神の一派が進軍の際に徴収した捕虜を保護して情報を集めることだった。  怪我人が出たのは、終末の魔女と文彦が戦った時。  この世界の律をすべて支配する魔女と、この世界にあらざる無垢の魔力をもって迎撃した文彦。その戦いは一合で決着したが、互いに対象を絞った攻撃とはいえ、その余波は周囲にいて避難誘導をしていた警備兵の幾人かを巻き込んだ。もっとも、その数人の怪我人さえ文彦があっさりと「修理」してしまった。究めれば世界創造に至る術式に驚愕したのは魔族たちであり、多くのものは他愛のない治癒魔法と考えている。従って負傷者に対処するための医師は日常の傷病者の看護のための診療所を開き、金属バットの強打を喰らって文彦が昏倒するまでは野戦病院は兵士達が優先して使う逢瀬の場として機能していた。 「その剣はな」  使われた形跡のない硬いベッドの木枠を椅子代わりにと背を預け床に座りながら、文彦は白と黒の石剣を視界の片隅に意識しつつ呟いた。 「魔術師と科学者の天敵だ。あらゆる魔法を跳ね返し、あらゆる物理法則がひれ伏す。端末の石剣なら魔法障壁を無効化する程度だから、そいつはおそらく中枢部の石板を制御する端末としての石剣か」  見舞いと称して診療所に現れた青年は、腰帯より引き抜いた石剣を手に、ふむ、と短く唸った。 『詳しいのだな』  喋ったのは石剣だった。 「おれの世界にもあった」視線を天井に移し、息を吐く文彦「もっとも、おれの世界にいた奴は」 「は?」 「猫耳の黒猫美少女になって主人を誘惑してちゃっかり口説き落としていた」  そらもぉ、幼馴染とか職場の同僚とか上司とか親戚とかそういうのを蹴散らしてだな。  なにか絶望的な表情を一時だけ浮かべ天を仰いだ文彦は、より深く情けないほどの溜息をついた。 『我輩には性別など存在しないのだがな』 「それは良かった」  答えたのは青年で、文彦はコメントを控えた。傷自体はほぼ再生したとはいえ、太陽王や終末の魔女との戦いで相当の魔力を消費したのだ。都市を横断するように通っている地脈の力は魔族たちに優先して与えており、文彦の魔力が完全回復するためにはあと半日は必要だった。 「どっかの国に預けるくらいなら、壊したほうがいい。それ目当てに戦争が起こるぞ」 「そうならないように、君が代わりに戦ってくれたのだろう?」  終末の魔女との戦いを思い出しながら、青年は己の推測を口にした。 「かつてシュゼッタ王女を救い出した時に私と君は戦って、気付いたのだね」 「造物主か獣の王でもなければ発見出来ない代物を持ち歩く奴にろくな知り合いはいなくてね」  即座に数名の該当者を挙げられる己の私生活を恨めしく思いつつ、文彦は床に広げた紙片を畳もうとした。複雑すぎて脳裏に描いて組み立てるのが難しいそれは、文字だけで構成された曼荼羅に似ている。 「太陽王を再生させた石片は、おそらく他の軍勢にも埋め込まれている。世界に刻まれた律として連中の存在が確定しているなら、連中には生と死の概念そのものが消失してるだろうな。文字通り世界を壊す性質の攻撃を仕掛けなきゃ、勝てねえよ」 『無属性魔力の刃かね』小刻みに震える石剣『あんなものを多用すれば汝の存在は本質から消滅することになるぞ』 「分かってるよ。仙鉄剣もなく石板封印者でもねえのにエナジーブレイドなんざ連発できるもんか」  一度発動してまだ生きていることの方が奇跡に等しいことを文彦は十分に理解している。  無垢なる魔力の刃。  限りなく矛盾に近しい概念、純粋なエネルギーを収束させた攻撃である。マノウォルトだろうが石板封印者だろうが、その一撃の前では無事では済まない。 「例外があるとすれば、因素結晶を触媒とした魔力剣か石片と同一素材の剣。それなら、あの魔女や石片を移植された連中も倒せる」 「だが君は私に戦うなと言う」 「あんたの石剣が敵の手に落ちたら、おしまいだろ」  そういえばそうかと青年は頷き、文彦と向かい合うように床に腰を下ろした。 「魔女は、この世界に抑止力が不足していることを嘆いているのだろう?」  石剣を傍らに置いたまま、青年は文彦に確認する。野戦病院の外の広場は妙に賑やかで、昨日有志が集って開かれた露店市にも似た騒ぎとなっている。話し合いが済んだら顔を出すのも悪くないと考えながら、文彦は青年の言葉を己の中で噛み砕くようにして思考の糸を編みこんでいく。  抑止力不足。  世界が世界であることを維持するための力は、果たして揃っていないのだろうかと。恐るべき獣と呼ばれる存在が、この世界の抑止力だと聞いている。幻獣霊獣の類という印象もあるが、魔法猫や烏賊、鯖も含まれているのであれば話は別だ。外敵を排除するために世界の律を操って彼らを誕生させたのは、諸悪の根源というか発端となった不始末をしでかした魔女その人である。自分の不始末を帳消しにするために規格外の生命体を無数に現出させておきながら、彼女は自分の結果に満足していないのだ。 (そりゃそうだ。彼女は自身が不完全な存在であると自覚しているんだから)  だから、終末の魔女は生み出したものに対して完全には信用していないのだろう。どれほど完璧な性質を有したとしても、彼女自身がそうであるように僅かな隙が致命的な結果を導くのだと信じている。 「無いものねだりに等しいぞ」 「だが、それが世界に現れない限り魔女は人々を苦しめ続けるのだろう」 「無茶言うな」  終末の魔女が必要とする抑止力を備えている世界など、数えるほども存在しない。獣の王か赤帝に匹敵するものが常駐しているなど、他の世界では考えられぬ望みである。 「たとえ無茶でも、我々は抑止力足りうるものを生み出したい」  沈黙が生じた。  マヌケで屈辱的で、なおかつ空恐ろしい沈黙が野戦病院に満ちている。青年はあくまで真面目であり、相手が文彦ではなく年頃の女性ならば頬染めたに違いないほどの真っ直ぐな目で文彦を見つめている。 「我々って、あんたと誰だよ」 「君と、私だ」  あくまで当たり前のように、青年は頷く。なるほど世界の律を刻んだ石剣を所有する青年ならば、人知を超えた特技でも駆使して変態的な超生命体を生み出すのも可能かもしれない。 「……」 「沈黙は肯定の証だと、私の母は口癖のように言っていた」 「お断りだ」 「まだ何も話してないぞ」 「物騒なことを企んでいることがわかれば、それで十分だ」  まだ痛む身体を強引に立ち上がらせ、即座に襲ってくる目眩に文彦は頭を振る。金属バットには相当量の魔力が込められており、妹の小雪がフルスイングで炸裂させる中華鍋にも匹敵する威力があった。 「進化や変異を待ち続けろというのか、影法師よ」 「自然発生で獣の王が誕生するなら苦労しねえよ」 「赤帝」  二文字の言葉が、文彦を硬直させる。 「魔女の計算違いを補足する存在として、彼女は招かれたのではないのか。君たちがマノウォルトと呼ぶ存在への天敵として、その因子を持つ者が召喚を受けたのは相応の理由があるからだろう」  凛。  空間が軋む。  魔力によるものとは違う、世界そのもの変質が野戦病院に発生する。性質は空間跳躍に近しく、しかし力の動きはない。あくまで世界が世界として何の問題もなく存在するように、空間は歪められ、それは出現した。  ふわりと揺れる、真紅の髪。  長い耳は、先住種族の一般的な特徴である。整った面立ちは高貴な印象さえあるが、一糸まとわぬのに乳房さえ隠そうとしないのは、現れた娘につきまとう無機質な雰囲気とは無関係ではあるまい。身体つきは、未だ幼さの残るシュゼッタが成長した姿にも似ている。が、やはり別人だと文彦は理解した。いや、そもそもこの娘は妖精種族ですらない。 「傀儡か」 「エーテル王国が星の樹より生み出したという自動人形を手本に、自分なりに改良を加えたものだよ」  恐るべき獣達が自身の墓標とする霊木より身を削り出し、金鉄の細緻な機構を施し、霊木たらしめる木霊を宿した人形に生命を吹き込んだ。縫い目さえ見えず身体の仕組では人と変わらぬものだが、目の前にいるのは傀儡人形である。 「全裸なのは、あんたの趣味か」  心底軽蔑した目で睨む文彦。 「確かに百年ぶりに再会しても微塵も老化した形跡のないあんただ、特殊な趣味の一個や二個は当然か」 「当然いうな」  全裸の美女人形を前に憮然とする男二人。 「一番目の試作体の失敗を踏まえて改良を施したが、赤帝因子やマノウォルトとの戦い方など絶対的に不足しているものが多い。君の助力が必要だ」 「ちなみに一番目の試作体ってのは、どんな失敗やらかしたんだ」  間が開いた。 「シュゼッタ王女と共に飛来した赤帝の要素を封じ込めたら、逃げられた」 「当たり前だバカヤロウ」    それを人形と呼ぶことにはいささか躊躇われるものがあった。  人形とは人に似せて作られたモノを指しており、どれほど似せようとも人とは根本的に異なる存在である。 「世界を構成する十二の因素には、それぞれ虚実と陰陽がある。器としての世界を満たすのが五大因素だとしても、虚実陰陽の理に従って分ければ実に二十階層の因子を見出すことができる」  つまり、こういう風に。  文彦の言葉と共に、人形の身体を縦横格子状に貫くように平面図が空中に現れる。SF映画では馴染の深い空中投影画像にも似たそれは、光源の位置も特定することが出来ない。縦横奥行きあわせて二十四枚、十字直角に刻まれた傷は平面図とは無関係に細かな亀裂を生じ、僅か数秒後には無数の立方体が床に積まれる結果となった。 『うわぁ』  傍らでその様を見学していた樽魔人が悲鳴のような感嘆の声を発する。石剣を持つ青年を師匠と呼ぶ肉の塊は、これまでに見たこともない術式の生み出すものに心底驚いている。 『これ、元に戻るんですか』 「図面を戻せば」  曖昧に返事をする文彦。青年は茶をすすり、文彦の行おうとしている業を見ている。明らかにセップ島のそれとは体系の異なる魔術は、しかしながらセップ島の世界に馴染んでいる。 「エネルギーが足りない」  幾つかの図面を眺めた上で、文彦は告げた。 「想定する機能を賄うだけの力を与えているが」 「規格外のバケモノ相手するのに尋常な機能で間に合うものか。条件さえ整えば星の海だって飲み込む連中に、惑星表面での戦闘に限定した武装じゃあ力不足だ」  青年が来るまで書き留めていた法円術式に文字を書きこみ、それを短冊状に切って平面図に貼り付ける。一つ一つが大胆にして細緻な術式を組み込んだ符であり、本来であれば戦局を変えるほどの大魔術でありながら、文彦が組み込んだそれらの術式は一つの目的のために機能していた。  すなわち、より大きく、より精度の高い術式を組み上げるための布石である。 「周囲の精気を無制限に吸収するのも駄目だぞ、敵を倒すのに味方全部を衰弱死させるような真似は馬鹿馬鹿しすぎる」 「ならば、どのような解決策を用意する気だ、影法師よ」 「因素の結晶を使う」  あっさりと文彦は言ってのけた。  因素結晶。  それさえあれば獣の王を誕生させられる、世界を構成する十二の要素。だが、この世界には存在しない。佐久間千秋を犠牲にして誕生させた霊鷹のみが、このセップ島世界で唯一の因素と呼ぶべき代物ではないのか。 「属性を持たない因素結晶の方が、手持ちにある」  凛。  法衣の内懐より「それ」を引き抜き、こともなげに文彦は答えた。  青銅にも似た色合いの、しかし明らかに異なる金属質の剣。刀身から柄に至るまでが同一の地金より削りだしたと思しく、加工精度はお世辞にも高いとはいえない。その表面にはおびただしい数の符が貼り付けられ、幾重の封印として剣の能力を押さえ込もうとしているのがわかる。  凛。  文彦が柄を握り僅かに力を込めるだけで、封となった符は吹き飛び、刀身には淡く蒼い光の刃が浮かび上がる。それは過日文彦が自身の身体を犠牲にしてまで発動させた、属性を持たない無垢なる魔力の刃に酷似していた。 「因素結晶は魔力の絶縁体にして、無制限に凝集したエーテルそのものでもある。そのままでは魔力を遮断するだけだが、扱い方を心得れば魔力を増幅させる触媒になる」  かつて不老不死を追い求めた男の行き着く先がこれとは、なんとも皮肉な話だ。  因素剣を逆手に持った文彦は自身の血をもって因素剣の刀身に術式を描き、これを床に突き立てる。凛という鈴にも似た音は因素剣を中心に鳴り響き、先刻まで人形の身体を構成していたモザイクは自ら回転しながら剣を軸に集いだす。 「符に縫い付けた術式は因素剣と人形の気門を連結させて、出力を増幅させる」 『随分荒っぽいやり方ですな』 「理屈は杜撰でも、仕事は細かくやるからな」  だから、しばらく黙ってろ。  有無を言わさぬ迫力で文彦が呟けば、樽魔人はおろか青年も一緒に黙ってしまう。  凛。  残像さえ見える結印と言葉を追いかけることも難しい詠唱が、因素剣を軸としたモザイクに少しずつ形を与えていく。分割した二十四の平面図は符を取り込んだままモザイクを再度貫くが、今度は刺す度にモザイクは人としての形を取り戻していく。組み立てる術式は平面図とモザイクの一つ一つを丁寧に結びつけ、その上で取り込んだ符や因素剣と連結させる。術式は二十四の平面図全てを並行して処理し、モザイクの一つ一つは二十四の平面図に連結している。  ただ再生させるだけなら、五行創鍛法を組み立てればそれでいい。人間の体組織程度なら、影より複製を生み出して再生させる方法もある。 (信じられないことをする)  石剣を通じて伝わってくる「人形」の情報は、青年の予想を超越するものだ。この世界の住人はまだ誰も戦ったことのない「敵」を駆逐するために文彦が付与した機能は驚異の一言に尽きる。虐殺の長槍、閃光の抱擁、時間獣の咆哮、それに空間を破砕する振動波。匙加減を間違えれば大陸を焼き払い、あるいは海に島を沈めるであろう破壊力の兵器が搭載されている。そして、それらの兵器は文彦が独自に考えたものではなく、本来の赤帝武具に搭載されているものなのだ。 (運用は細心の注意を必要とする。慎重に、大胆に。超常の能力を行使できる人格を)  ただの人形では駄目だ。  世界の住人として、世界を守るものとしての覚悟が必要なのだ。そのためには敵の正体を理解し、的の背後にある者の目的を理解し、世界を守護する使命を自覚しなければいけない。文彦の術式は、人形に宿る木霊の魂をも強化している。精神攻撃や融合に耐え抜き、あるいは排除できるような強い精神を持たねば、あまりにも危険な人形の身体は世界の守護者ではなく、獣の王さえ退ける破壊者となる。 (あと、少し)  見た目に変化はないが、その本質は大きく変化していた。エーテル王国が目指し、しかし到達できなかった領域に、この人形はある。仙位を許された影使いが自身の能力と経験に基づき、持てるもの総てを注ぎ込んで改造したものだ。完成すれば、終末の魔女が満足するものが誕生するのだ。  が。  病院の扉が蹴破られ、街の喧騒と悲鳴が飛び込んできた。 『た、大変なことになりましたぁ!』  一歩遅れて情けない声を発したのは、マントに包まった樽魔人の一体。転がる方が早いのに、わざわざ二本の足で駆け込んでいる。 「敵襲かい」  人形が完成するまでは文彦の代わりに戦うことを覚悟して、青年は樽魔人を見る。 「敵の、総攻撃が始まったのかい」  術式に集中しながらも、文彦は野戦病院の内部に関しては知覚を得ていた。あくまで病院の内部ではあるが。 『いいえ、お師匠様』息も絶え絶えに報告する樽魔人『静観していた隣国のハイマン辺境伯より物資と援軍が到着しました』 「それは結構なことじゃないか。何が大変なのだね」 『つまりですね』  マントの樽魔人は文彦を見た。術式に集中している。飛び込む前後で術式の精度に変化はなく、闖入者の存在を受け入れているようだ。樽魔人は少しだけ安堵し、ようやく居住まいを正して青年に向き合った。 『ハイマン辺境伯の御子息が、公衆の面前で赤帝の巫女様に求婚かましやがりました』  耳障りな金属音が突如として病院内に発生した。  あえて文字にすれば、ぐぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃっ、とでも表現すべきか。高速回転する金属盤同士を強引に重ね合わせたような、不快で致命的な音だ。見れば文彦の結印と詠唱は止まり、人形の全身より七色の煙が不気味に立ち昇っている。 「……影法師よ」 「のーぷろぶれむだ」  微塵たりとも信用出来ないアメリカ人の知己の言動を何故か思い出しながら、文彦は理由もなく病院の外に飛び出すことにした。  周辺の小国家を説得し、有志を集めてきたという男はシュゼッタを見て三十六秒後に彼女の手を握り、ひどく真剣な面持ちで言った。 「結婚してください」  駆け引きとかそういうものとは無縁そうな、誠実な男である。黙って城門の内側で震えていれば自国の民を一人として失うことなく戦の勝利を得られると知っていながら、そうできなかった男である。 「自分の妻になってほしい」  文彦に食事を届けようとしていた彼女は中くらいのバスケットを手にしていたが、街の少女がそれを受け取り、狐面の魔族少女が椅子とテーブルと茶器を用意した。二人の少女はついでに周囲に薔薇の花弁を撒き、野戦病院より飛び出してきた文彦に見事なまでに息の揃ったドロップキックを炸裂させた。 『たとえるならば、今の私達は馬!』「人の恋路を邪魔する奴を蹴り殺す馬!」  文彦が口を開く前に四つのかかとが飛び込んでくる。どちらが一号でどちらが二号なのかを追及するのも面倒な文彦は少女達のキックを正面より受け、二人まとめて転移した。男の背後で起こったその一部始終を見ていたシュゼッタは唖然とし、男は沈黙を肯定の証と理解した。 「この戦が終われば両親に紹介します。略式ですが、愛の誓いを済ませましょう」 「やなこった」  シュゼッタが本来いうべき台詞を口にするまで、数十秒を要した。だが、男も負けてはいない。 「なるほど、略式では不満だと。では随行している武装神官を立てて宣誓しようではありませんか。魔女の名の下に、勇猛なる赤帝の巫女に伺いを立てても構いません」 「やなこった」  肩に手を伸ばし抱き寄せようとした男を睨みつけ、もう一度拒む。 「私は、貴様の妻にはならない」 「既に夫がいるのですか」  シュゼッタの額が僅かに痙攣する。 「いない」悟られぬほどの嘆息「私には夫となるべき男はいない。過去も、現在もだ」 「では自分をなぜ拒むのですか」 「私は既に数百の歳月を生きてきた妖精種の末裔だ」  自身のコンプレックスにもなっていることをあえて口にする。男は今更のようにシュゼッタの長い耳に気付いて「ああ、そうですか」と微笑んだ。 「些細な問題です」  彼女の望んでいた言葉だった。だが、それを言うべきは目の前にいる男ではない。なんという残酷な現実だろうとシュゼッタは心の内で泣く。目の前にいる男、その身なりを見ればどれほど素晴らしいものなのか容易に察することができる。普通の街娘ならば、このロマンスに身も心も蕩けたに違いない。 「残念だ」  未練を自覚し、苦笑する。 「私は、共に未来を過ごしたい相手がいる」  貴様ではない、別の誰かだ。  それはとても罪深い願いで、大それた野望で、到底叶わぬことだと理解している。だけど、誰かを身代わりにして我慢できるほど悟ってはいない。  だから、貴様の求婚を受け入れる事はない。  男の耳にのみ届くように風を操り、それを伝える。 「悪いが妻にするなら別の女にしてくれ」 「ならば愛人兼肉奴隷で」  破裂音。  閃光の勢いで繰り出したシュゼッタの右足は男の後頭部を引っ掛け、そのまま一切減速されることなく地面に叩きつけた。石畳は砕けたものの男の命に別状はなく、男の頑丈さにシュゼッタは素直に感心し、短く賞賛の言葉を述べた。 「なるほど、頭の固さは彼に匹敵する」    見張り台にも使われている、城砦の壁に沿った塔の頂。  塔の壁面には烏賊が巻きついており、物好きな兵士が異種族との交流を無謀にも試みている。周囲の河川湿地を臨む高台の城塞都市は見通しがよく、人の軍勢では攻め込みにくい土地なのだとよくわかる。人と限定したのは、これほど堅固な城塞都市でも人以外の存在の前では無意味に等しいと誰もが理解したからだ。  空間跳躍。  魔族や魔法使い達が使うのとは数段違う水準のそれで、文彦は二人の異なる種族の少女を塔の頂に連れ出した。呪文詠唱も結印もなく、いつ魔力を編みこんだのかさえわからない。魔族の中でもアカデミーで優秀な成績を得ている狐面の少女にとっては、大きな衝撃だ。 「誤解がねえように言っておくが」  顔面に張り付いた二人の少女の足首を掴み、ひょいと安全な姿勢に戻して降ろしてから、文彦は壁に背を預ける。生まれて初めて空間跳躍した街娘の興奮や、狐面少女の動揺している様は、これから伝えることに影響はないと判断してだ。 「おれがここですべき事は終わった。仕込んだ人形がうまく起動して結末を一通り見届けたら、魔女が仕掛けた召喚術式は解けるだろう」  感慨深く街を見下ろせば。  野戦病院のあった辺りから破壊の火柱が今まさに天に向かって伸長し、樽魔人数体がちょっぴり焦げながら転がり逃げ出してくる様子が見えた。火柱が掻き消えた直後にメイド服を着た赤髪の娘が空の彼方に飛んでいき、一瞬だけ輝いた。パニックを起こす前に事態が収束した、それ自体はむしろ喜ぶべき事ではある。  が。  マンネリを通り越してはいるが伝統芸能と呼べるほど洗練されてもいない特撮映画のリメイク作品を見ているような、そんな微妙で居心地の悪い空気が漂っている。街にも、一部始終を目撃することとなった塔の頂でも。  もし此処に同級生の畠山がいたら、そいつはひどく真面目な顔でこう解説しただろう。 「最初に作られた人形も暴走したそうですからね。きっと仕様です」  米国資本のテレビゲーム機が読み込んだディスク表面を傷つける初期不良をそう言いのけたように、あくまで仕様だと言い切ったに違いない。  何しろこちらは二番目に作られた機体で、暴走原因を統計的に処理できるほどの数がない。まともに設計図も存在しないわけですから、米国じゃなくても訴訟でまける事はありませんよと嘘八百を並べ立てて相手の反論を待つことなく全てを丸め込もうとしたかもしれない。 (それで、直ぐに仲森とか井伊田あたりに鉄拳ツッコミを喰らうわけで)  現実逃避は、そこまでにしよう。  文彦は嘆息し、現状を理解できない少女二人に説明した。 「悪ぃ、あの人形暴走した」 『そんなの一目瞭然じゃないかーっ!』「戦争終わるかもしれない時にどうして余計な火種を増やすんですかッ!」  またもや息の合った二人の拳が文彦の顔面に炸裂する。やはり避けるわけにもいかず、しかし殴られても微動だにせずに文彦は頷いた。 「人形の本質的な能力や基本目的は既に完成していた。外敵を倒す人形としての機能に問題はないと思う」 『では、あれはどの部分の機能不全が原因だと』  エーテル王国の生み出した自動人形について多少の知識を有する狐面の少女は、術式を導くべき錫杖を鈍器代わりにしながら文彦に迫る。 「たぶん」最後に調律していた部分を思い出しながら、返す文彦「物事の加減が分からない、かもしれない」 「物事の加減?」『小魚の鱗を除くのに、大刀を振り回すようなものね』  ネズミ一匹葬るのに惑星破壊爆弾を取り出すレベルの方が正確なのだが、狐面の少女のたとえに文彦は満足した。 「学習能力はあるから、時間をかけて経験を積めば加減を理解するだろ」  その前にセップ島が滅ぶ可能性は高いが。 「あの人形が敵と認識した存在が暴れ出さない限り、能力は最小限しか発揮されないようにはなっている」 「さっきの火柱で?」 「誰も死んでないだろ」ガラス状に解けたレンガ造りの建物を眺めながら文彦「倫理は崩壊してないようだ」 『では、いつ再び暴走するのかも分からぬ不完全で凶悪な自動人形に世界の命運を託せとでも』  文彦の言葉に納得出来ないのか、狐面の娘は眉間にしわを寄せる。 『なるほど貴様は外敵を撃退するのに力を貸してくれた。貴様が赤帝に縁深く、赤帝巫女たるシュゼッタ様の命の恩人で、彼女に様々な魔術と力を与えたことも理解している。我ら魔族や恐るべき獣達が果たすべき盟約を代行してくれた事は感謝こそすれ、恨む理由にはならない。貴様がいかなる超越者なのか私にはわからないし、分かろうとも思わない。私が知っているのは、貴様が無償にも等しい報酬でシュゼッタ様を守り、今も我らに力を貸してくれるという事実だけだ』  しかし。  もとより接近していたのに更に一歩踏み込んで、狐面の娘は唸る。 『これは西方魔族の者ではなく、ひとりの女性体としての気持ちだ』  一族とは関係ないと念を押して、狐面の娘は続ける。 『貴様はいずれ故郷に戻るのだろう。私や魔法猫の王たちにも見せた、あの戦乱続く世界にだ。人と魔族が対立し、魔術がその存在を公には否定され、近い将来において人と魔の全面対決が避けられぬ煉獄に、貴様は帰るのだろう?』 「あの人形の動向を見守ったら」  煉獄という言葉に、なるほどと納得する文彦。  確かに文彦の故郷たる世界は、煉獄という言葉が相応しいのかもしれない。それでなくとも文彦は術師として、世界の影の部分を人より多く見てきた。異形と人間の対立。魔族と人間。術師そのものが抱える問題。石杜という土地。かつて父を封じられた時、魔人としての能力に覚醒した文彦は何をしたか。魔人たる文彦を葬るため、三課はどれほどの戦場に彼を放り込んだのか。  それに比べれば、このセップ島は楽園のようだ。人間と、ひとでなしが当たり前のように付き合っている。種族の壁があって子を残せなくとも愛を育む者もいるという。三課にもいる偏狭な人間史上主義者たちが見たら卒倒しかねない価値観と文化が、この世界にはある。この世界なら、故郷の魔族たちを受け入れてくれるかもしれないとさえ考えてしまう。 「この世界が大丈夫だと分かれば、おれはもうここには戻ってこない」  さもなくば今度は文彦の故郷が侵略に加担することになる。 「赤帝の力も、あの人形が存在する限りはここの世界に宿るだろう。おれは、もう不要の存在だ」 『シュゼッタ様は、どうする』 「例の貴公子との結婚式を見届けるまでは、こっちに留まれるだろ」面倒くさそうに空を見る「あの娘が幸せになるのを見届ける」  それできっと思い残すことはない。  そう呟く文彦を、二人の少女は心底呆れ軽蔑した目で見ていた。