八章〜獣の王  それは、ひどく滑稽な光景だった。  造物主の代行者として生み出されたはずの、金銀に彩られた二人の人形娘。彼女たちは先刻までの凛とした雰囲気も消え、その外見どおりの振る舞いを始めていた。 『あうあうあうあうあう』『はうはうはうはうはう』  涙目になって転がりながら、エプロンドレスのふりふりをひらひらさせて、漆黒の天蓋に覆われた広間の中を縦横に駆け回る。  駆け回ったところで事態は解決などされないし、おまけに彼女たちは凹凸のない床で足をとられてすっ転ぶ。  すっとこどっこい。  そんな言葉が自然と脳裏に浮かぶ痴態である。 『どうしましょう、どうしましょう、どうしましょう』  金色の少女が目を廻しながら、バレリーナのように片足の爪先を軸にくるくると回転する。 『こんなの計算外ですわ、ですわ、ですわ、ですわ』  銀色の少女も目を廻しながら、曲芸師のように指一本で倒立し、閉脚のままくるくると回転する。エプロンドレスとスカートが垂れ下がる事はない。錯乱しようとも淑女としてはしたない振る舞いはしないという、見事なプロ意識である。 『そもそも殿方が赤帝の適合者というのが間違っているのですわですわですわ』 『倒錯ですわですわですわですわ。でも、ちょっぴり心ときめく倒錯ですわですわですわ』 『勝手に倒錯者に仕立てるな』  バールのようなもので再度フルスイングする千秋。金銀の少女は回転を止め、それから正座して恨めしそうに千秋を睨む。 『どのみち赤帝計画は失敗です』『最終計画の発動が承認されました』  睨んだかと思えば、少女達は滂沱の涙を流している。感情不安定な有様にジョゼをはじめとするエーテルの王族はぎょっとして、魔族であるルルは今まで以上に強く睨みつけた。 『最終、計画』 『計画なものか』吐き捨てる千秋『要するに、偶然に賭けてマノウォルトを大量発生させるのだろう? 一体でも獣の王が出現すれば、他のマノウォルトは駆逐できる』  マノウォルトという言葉に反応するのは金銀の少女のみ。 「……なんですか、それは」  全くわからないと首をかしげるジョゼに、千秋は唸る。 『今度はタタリでは済まないってことよ』  マノウォルト。  本来であれば、特異点を有した人間が正負の衝動を爆発させることで誕生する存在。無尽蔵に膨れ上がる衝動は特異点の燃料となり、欲求に直結する衝動はさまざまな形となって世界に現れ、それが新たな衝動を生み出す。  文字通り、世界を飲み込むまでマノウォルトの膨張と侵蝕は止まらない。本来であれば人間という種族のみが抱える業だが、セップ島においては妖精族にもその兆候があった。  この世界には、人間を含めて数多くの知的種族がいるという。 (獣の王を生み出すには、十二に分かたれた因素が必要)  だが、因素とは究極的に圧縮されたエーテルである。千秋が知る限り、マノウォルトを滅ぼすことでしか因素結晶は得られない。しかし、この世界には因素はない。  千秋は金銀の少女を見た。 『ジョゼ、頼み事がある』  泣いているばかりの金銀の少女を一瞥し、千秋は静かに言った。 『はるかな未来に村上文彦という魔人が、この世界に来ると思う。彼が来た時に、私がイイ男を捕まえて幸せな生涯を送ったと伝えて頂戴』  都からもっとも離れた場所を、千秋は戦場に選んだ。 『誘導よろしく』  金銀の娘のみを従え戦場に現れた千秋は、短く告げた。 『伝え残す事は、ありませんか』  金色の娘が、初めて罪悪感を表情に出し尋ねる。千秋は何かを言おうとして、だが無駄だと言わんばかりに首を振り、肩越しに小さく手を振った。話はそこまでで、金銀の少女は溶けるように消えた。紅で染めた麻織の衣を巻きつけた千秋は二人の人形娘の気配が消えたことを確認し、虚空より一枚の符を取り出した。彼女の流麗な筆跡ではなく、荒々しく未熟な文字の象りは文彦のそれであり、符に織り込まれた術式もまた彼のものである。  凛。  符が魔力の高まりを受けて織り込まれた術式を発動し、千秋の手に虚像の刃を生み出す。  すなわち、赤帝剣。 『貴様、自分が何をやったのか理解しているのか』  気配もなく、声が現れた。  見れば、万を越える軍勢が平原に集っている。いずれも神々しい鎧兜を身につけて、輝く武器を掲げている。しかし、そこに宿る力はひどく不安定で、暴走寸前のものが多い。千秋の元いた世界ならば、既に特異点を暴走させていたとしても不思議ではない。 『赤帝の巫女よ、貴様はこの世界を潰す気か』 『お互い様でしょう』  笑う、千秋。  数刻前まで麗しき御使いの姿をしていた者たちは、もはやその半数が原形を留めぬ姿となっている。この世界に満ちる力が急激に変質し、彼らの内側に埋め込まれたマノウォルトの因子が活性化し始めているのだ。第一世界の尖兵として送り込まれる彼らは、抵抗が激しく侵略に適さなければ自兵をマノウォルトに変え、世界そのものを因素結晶の苗床に変える。千秋の内に取り込まれた赤帝の力が、そう告げている。  この世界より退けば、変異は避けられる。が、どれほどの転移術を用いようとも彼らはこの世界を脱出することができなかった。時間の流れそのものに干渉する結界が内側より張られており、世界の律を支配していない彼らには結界を壊すことも結界を越えて脱出することも不可能なのだ。 『もう一つ、結界を張らせて貰ったわ』  文彦が三狭山で編み出したものに近しい、強力な結界。  たとえ世界を飲み込むほどの肉海が生まれようとも、その侵蝕を押さえ込むだけの、閉じられた不可視不可触不可侵の壁。異形や術師が得意とし、その原理を金銀の娘に伝えて再現した、おそらくはセップ島において現在もっとも強固な守り壁である。 『滅ぶのは、あんた達と私だけ』 『……この世界のために殉ずるというのかね』  半拍の間。 『まさか』  心底愉快そうに、笑う。  既に御使いの大半は羽毛とも触腕ともつかぬ器官に全身を覆われ、古代ローマ風の衣装を身につけた美丈夫たちは水晶柱のごとき結晶を全身より生やしつつある。彼らは己の力を尽くして自らの暴走を押さえ込もうとしているが、変異は少しずつ進行している。  絶叫。  心からの絶望が導く、叫び。神の名を口にし、絶対的な救済を求め、天軍を名乗る連中はおぞましい姿に変わりつつある。崇拝を得て莫大な力を発揮する御使いや神性は、今や自身が救済を欲する立場となっていた。そこに文彦がいれば、変わりゆく神々の軍勢の姿をかつて己が滅ぼしたヒルコ呪法の犠牲者に酷似していると気付いたに違いない。  もはや誰一人として千秋の言葉など理解できぬほど変わり果てた時、彼女は赤帝剣を錫杖の如く構え、うそぶいた。 『千年以上も魔人をやったのよ、これ以上生きる必要なんてないじゃない?』  千秋もまた叫び、赤帝として八十六万余のマノウォルトの軍勢に向かって駆け出した。  赤帝とは、本来それを狩るためだけの存在である。  獣の王とは異なる幽鬼王なるものが生み出した、兵器。形としての武具は一組のみ、しかし装着した者には赤帝の因子を植えつける。マノウォルトと戦うための力を与え、その宿命に巻き込む。剣や盾や鎧に、形状としての意味は大きくない。赤帝武具はそれぞれが独立した意思をもち、それぞれが敵を殲滅する能力を有する。  彼女の手にある赤帝剣は、そういうものだ。  なるほど異形や魔族のみならずマノウォルトに傷を負わせられる、優れた刃ではある。優れた武器ではあるが、敵の数が多すぎた。どれほど優秀な武器でも、八十六万余の敵を続けざまに切り伏せられるものではない。  凛。  剣が、震えた。赤帝剣は、八十六万余の敵を全て殲滅対象として認識した。彼女を囲む敵の中に、獣の王としての因子を持つものは一騎として存在しないと千秋に告げてくる。 『無駄だ……よ、赤帝、の、巫女』  理性を保つ最後の一騎が、骨格の消失した全身を痙攣させながら、嘲笑おうとする。 『我らは、全知全能ぞ?』 『へえ』  ぶるん。  全ての神性は衝動の顕現と成り果てた。全知全能たるものとして神性を目指したものは、たかだか世界の一要素を占めるものに「堕す」ことなど許容できない。どれほどの矛盾を抱えようとも、万能の支配者であることを彼らは望む。  剣の柄を、握る。  剣の形をしてはいるが、剣ではない。赤帝の虚像より生み出された、影である。刃を握るのは初めてのことではないが、敵の数は彼女の力量を超えている。  凛。  舞うように、剣を担いで低く廻る。右の爪先を軸に、膝を落とし、抜き放つでもなく、左足で蹴る地面が円弧を描く。円弧は赤色の輝きを帯び、肉海の膨らみを弾いた。 『五大招来式』  凛。  赤帝剣が輝く。精緻な魔術文字が刀身に浮かび、千秋の身体に宿る赤帝の力と、赤帝にあらざる力を収束させる。  凛。  既に肉海は閉じられた結界の果てに達している。増殖するもの、分裂するもの、一体の肉海でもセップ島を飲み込むほどに広がっており、素体となった神性の数だけ密度を増している。隙間は、千秋が描いた円弧の生み出す狭い空間のみである。膨れ上がる肉海は結界の天蓋に達し、その高さは雲をはるかに突き抜ける。  地面が震える。  結界により仕切られたはずのセップ島に、振動が伝わる。無数の獣が、エーテル王国の民が、その様を見ている。もしも結界が解けてしまえば、あの肉海は島を、おそらくは世界そのものを飲み込むまで広がり続けるのだろう。  その時である。 『風は虚より生まれ、虚に至る』  凛。  言霊が風に乗った。真紅の輝きが暴風となって結界の内部を吹き荒れていく。隙間がないほど肉海に満たされたはずの結界の内部を、である。  続けざまに起こる、絶叫。  風が吹く度に、風の路にある肉海は虚に還る。再生することもなく、分裂することもない。赤色の風は益々勢いを増し、暴風だったものは疾風と化して巨大なる渦を導く。  凛。  紅き疾風は山も谷も廃墟もまとめて飲み込んでいく。増殖するだけの肉海が隠れ逃れ得る場所など結界には存在せず、マノウォルトと呼ばれるものに変じた八十六万余の神々の軍勢は、肉海の増殖速度に匹敵する速さで虚無に消えた。日の出から日没まで待つまでもなく、肉海は消えた。  凛。  風は、全てを虚に還してなお勢いが止まることはない。そして、風の渦の中心には、赤帝の巫女たる千秋がいた。否、彼女こそ風の源である。  風は、胸に突き立てられた赤帝剣の傷より生まれていた。血は、出ない。突き立てた刃の先は虚であり、恐ろしいほど冷たく鋭い風が吹き出している。  風は、赤帝の力を帯びていた。胸の傷口を通り抜ける風は少しずつ千秋の身体を削り、その代わり、風は赤帝の威を帯びて吹き荒れる。 (風が止まる時……彼らが必要とする因素の結晶、少しは残るわよね)  痛みはない。  第一世界の天軍と同様に、彼女自身もまた変質は避けられない。そうなるように、千秋は頼んだ。今ここで敵を退ければ、次の大きな「侵攻」までに時間を稼ぐ事はできる。敵が誰なのか、何をすべきなのかは、それはジョゼたちが考えて決めればいい。彼女の身体が全て風に削り取られてしまえば、赤帝の因子は風を伝ってセップ島に根付く。たとえ不完全な因子でも、人が持つ可能性をもってすれば、世界を蝕むものに抗う者も生まれるだろう。  獣の王が誕生するかどうかは、もはや彼女の関わるところではない。  凛。  風が勢いを増す。虚より来る風は、赤帝の力に満たされた千秋の身体を削り続ける。肉海が消えたのを確認し結界の付近まで訪れた者たちは、今まさに消滅しようとする赤帝の巫女を目撃した。  ある者は、彼女を救い出すべきだと主張した。  賛同者は多かったが、無力だった。  魔族と呼ばれた者たちは、己の無力を嘆きつつ、赤帝巫女の最期を見届けることを決めた。エーテル王は、ジョゼは、彼女が自身の存在と引き換えに倒したものの恐ろしさをようやく理解した。  七日七晩をかけて、赤帝の巫女は虚に還った。  その間、彼女はただ一つのことを考えていた。ただ一人のことを考えていた。感情の起伏はなく、全てが消滅するその瞬間まで、そいつの事を考えていようと、理由さえ思い出せなくなろうとも、そいつのことを思おうとした。  八日目の朝。  風は止み、結界は消えた。言葉にできぬ衝動を胸にジョゼとルルは、彼女が最期を迎えた場所を目指した。山も谷も全てが削り取られ平坦な土地と化し、地面は磨き上げた鏡のように滑らかだった。  四半刻の時をかけて至り、      白銀に輝く猛禽の雛鳥を、その場に見出した。