五章〜幕間あるいは真実に近いもの  転移は一瞬で行われる。  多くの術師は考える。先ずは、己の歩速を上げることから始まり、空気の抵抗を減らす。限界に達すれば、歩む距離を縮めようという発想に至る。  召喚術も、基本的には転移の思想と変わらない。  こちらが向かうか、向こうを招くか。  得体の知れない場所より呼び出すとしても、呼び出す側は迅速に来てほしいから召喚の術式を組み立てる。 「……」  つまり、呼び出されている最中は、呼び出される側も知覚できないようになっている。迂闊に自由意志が働けば逃げ出されることもあるから、途中で気絶させるよう仕向ける術式だって存在する。  わかっている。  そこがセップ島世界ではない事は、文彦は十分にわかっている。太陽王を自称する光使いと対峙した時、足下に現れた赤帝召喚の術式は、三課で文彦を拉致したものと同一だった。術式が同じである以上、本来ならそれはセップ島に文彦を転送する。  だが、それは果たされなかった。  薄暗く、酒臭い室内。  煤とヤニで汚れたミラーボールが回転し、いびつな形の光の珠が、安っぽい壁紙に下品な模様を描く。小学校の教壇と大差ない安物のステージには、もはや骨董というべきテープ式のカラオケ装置が唸り声を上げ、随分と使い込まれたマイクを片手に美女が叫ぶようにムード歌謡曲を唄っていた。  若いのか年上なのか、薄暗い部屋の中ではそれすらわからない。ゆるいウェーブを描く髪が、ミラーボールの光の下で金属質の色彩を帯びている。  髪形を見ただけでは正体などさっぱりわからないのだが。 『ノルマ十曲』  召喚術式に干渉して文彦を横取りした美女は理由も目的も告げずにマイクを押し付け、安物のテーブルに置いていた薄い水割りを飲み干した。 『下手くそ』  きっちり十曲分唄わせた後で、美女は笑顔のまま正直な感想を口にした。文彦を隣に座らせる仕草は、女のものよりは母親のそれに近い。 『下手も究めれば立派な芸だけど、君のは半端に下手ね。面白くない』  スプリングがすっかりへたったソファに尻を押し付けるようにしながら、美女は別のグラスにあった温いビールを飲み始めた。テーブルに置ききれなかった酒瓶や空き缶が床やソファの上に転がっており、整理整頓という概念はこの部屋にはない。  美女。  黒曜石を削り出したような髪は、光の具合で碧にも赤にも紫にも輝く。同じ色合いのドレスは肩と胸元を露出させた大胆なデザインだが、女の雰囲気もあって情欲は刺激されない。少なくとも文彦にとっては守備範囲外の美女。千秋ともベルとも沙穂とも違う。無論、シュゼッタとも。 (シュゼッタは関係ねえ)  思考の端に引っかかった少女の顔を脳裏よりかき消して、文彦は酔いどれ美女が口を開くのを待った。異世界への召喚術式に介入し、目標を横取りできるような相手である。  数分待って、それが意味を持たないことを理解した。 「音痴を承知で唄わせたんだろ」 『うん』  女はあっさりと認め、それから、不味い酒だわと空になったジョッキを放り捨てた。 『この部屋のセンスも、ひどいものだわ』  女の言葉と共に、場末の酒場じみた部屋は塵となる。焙られた薄っぺらい紙が燃えがるように壁や天井が消滅すれば、女と文彦は足場のない虚空に浮かんでいた。上下の感覚は働かないが身体を包む重量感は残り、落下時に特有の浮遊感はない。 「これ、あんたの趣味か?」  白でも黒でもない虚空を、金色の軌跡が幾条も走る。距離も大きさも、正確には理解できない。見方を変えれば花火かと思うほどの、光の筋。それが現れては消えていく。 『どうかしら』 「メルヘン過ぎて気が狂いそう」 『それは、本音?』 「御伽噺ってのは、残酷な内容が多いだろ」  凛。  世界が歪む。  色彩が消失し、そこは巨樹の森に変わる。天地の区別なく生える巨樹は奇態な果実を宿し、女を包むドレスは長大な漆黒の法衣に変化した。 「召喚術式に干渉してまで、おれを招いた理由があるんだろ」 『気まぐれかもしれないわよ』 「魔女ってのは、いつも気まぐれだと思うぞ」 『へえ』  距離を取る、文彦と女。  魔女と呼んだ直後、女の周囲に信じられないほどの力が生まれた。  奇妙な話だが、寸前まで女は無力に見えた。人としての体温も感じるし、匂いもある。それなのに、直前まで彼女には生命が持つべき精気の類も含め、一切の力を感じ取れなかった。 「おれが感知できる水準に落としてくれたのか」  全身に粟立つものを自覚しながら、文彦は推測を口にする。 「万物を構成する十二の因素にあって、生命が素で自覚し得るのは僅かに五つ。術式を修めた者あるいは魔族や異形をもってして知覚し得る因素は四つ」  詮索は時として自身の破滅を招く、術師ならば触れてはならぬ領域も多々ある。  自身の危機が、そこに迫っている。分かってはいる。 「竜頭を巻く者」  文彦の言葉。  息を呑む音。  視線の先にある魔女は黒曜石の瞳を輝かせ、言葉の先を求めている。 「始原と終末を司るもの。因果律の支配者。創造と破壊を天秤の両皿に載せ、天秤ごと振り回すゲームの撹乱者。読み取れるはずの未来を無視して賽を振り、万象を記した本を回廊書庫に溜め込む陰険司書……だが、あんたはそれとは違う」  凛。  世界が軋む。魔女は歓喜の声をあげ、その歌声は虚空に浮かぶ巨樹の枝枝を激しく揺さぶる。虚像に見えた背景が持つ意味を察し、文彦は奥歯を強く噛む。 「この世界は、筋道から外れたことで代わりを必要としたんだ。十二の因素を司るもの、霊長として君臨するもの、威を司るもの」  法衣代わりのジャケットが揺れる。  身の丈に等しい金剛杵を内懐より引き抜いて、構える。魔女の周囲をうねる力の奔流に反応してか穂先は紫電を帯び、小槍にも等しい法具は使い手の意思を受けて淡く輝く。 「シュゼッタの身の内に霊鷹に似た力があった」  それがどうしたと、魔女が口元だけで笑う。 「運命ってのは矛盾を内包しているから意味がある。だが、あんたは矛盾を内包できるほどいい加減には造られていなかった。そうだろ、終末の魔女」  雷が、飛ぶ。  金剛杵が柄ならば、雷は長大な刃である。まともに振るえば竜巻をも起こす勢いと共に薙ぎ払えば、閃光の蛇とも言うべき紫電の光条は魔女を黒衣ごと吹き飛ばした。 『アナスターシャ!』  それが私の名だと、塵に還りながら魔女は歓喜の叫びを上げる。文彦に手応えはなく、雷を放った金剛杵は魔女の塵に触れて腐食した。 『異界の者よ。赤帝に縁あるものよ。君は私の世界に干渉しすぎだから死ね』  塵は瞬時に元の魔女に戻る。文彦の金剛杵は完全に融けて宙に消えた。父が使っていたという強力な法具だったが、 「やなこった」  即座に言い返すと十枚の銀牌符を取り出す。符は虚空で爆ぜ、消滅したはずの金剛杵に姿を変える。十本の金剛杵は先刻と同様に雷を帯びるが、今度は長刀ではなく弓矢のように飛ぶ。その動きは直線でも放物線でもなく、転移さえ繰り返して魔女アナスターシャを牽制する。 「理由も動機も理解できるが、納得してやるもんか」 『私を滅ぼす力も持たずに、私の干渉を振り払って逃れられると思うのか』 「あー、無理無理」  至極あっさりと文彦は認めた。  仮にも魔女の名を冠する女である。司る力は文彦の知覚し得ぬ領域にあり、終末の魔女が本気を出せば文彦は防御どころか彼女の能力行使さえ気付く前に消滅する。十本の金剛杵は、それだけでは何の意味もない。 「おれの力であんたの力に対抗するのは、不可能」 『嘘つき』 「うん、おれ嘘吐き」  凛。  十本の金剛杵が、空間の一点に向かい突撃する。魔女より遠く文彦に近しい虚空にわずかな亀裂が生じ、金剛杵は弾けて消える。  凛。  空間の亀裂を突き破り、灰色の世界に色彩が生まれる。炎よりなお鮮やかな紅の輝跡が亀裂を広げ、文彦の周囲に紅い領域を生み出した。 『赤帝剣か!』  叫ぶ魔女。 『私と戦え、私の運命に終焉の時を与えよ! 赤帝!』 「やなこった」  亀裂に飛び込む寸前、疲れた顔で文彦は呟いた。  肌を叩く冷たい夜風を感じながら、文彦は己の位置を理解するのに努めた。  眼下には漆黒の大地。かがり火と思しき光点が数百あるが、それが都市か陣地なのか区別は難しい。視線を動かせば、月の光を受けて黒真珠のごとき照りを見せる河。蛇行する河の水面は穏やかでそれは地平線の先まで続いていた。  地平線。  文彦の視線は、鳥のそれだった。昼間であれば見事な俯瞰図を楽しめただろうが、パラシュートも持たない生身の術師が滅多に体験できる高度ではない。  手には、赤帝剣。 「助かった、ツバサ」 『ヒカリとアキラを見失っています』  申し訳なさそうな声が、剣を通じて伝わる。 『神々の軍勢も強力でしたが、それ増してに厄介なものが』 「ああ。干渉を受けた」  地面は迫り来るというのに平然と、文彦は頷く。 「華門に現状報告を頼む。おれは、シュゼッタの子孫でも探して対応を探る」  赤帝剣を宙に放れば、刃は虚空を切り裂いて剣は消える。  同時に文彦の周囲で闇が凝集し、両足の靴底に力場が生まれた。  凛。  空気とは別種の、粘性を持った抵抗。流動するそれが文彦の足に触れると、落下速度は急激に減少する。程なくして文彦の身体は、地面から数メートル程度の高さで静止し、ついでに弾んで転がった。 『とても痛い』  声の主は、高さ数メートルの身体を転がしながら、どこかのほほんとした口調で文句を言った。 「怪我は、ないか」 『それは大丈夫』  ざわざわと、気配が集まる。どれも人の身の丈の数倍はあろうかという、巨大な生命の力。 「……竜族とは、違うな」 『ああいう筋張った堅苦しい連中と一緒にされるのは失礼だと思うなあ』  別の声も、のんびりとしていた。が、気配が集まるたびに地響きが物凄い。象が暴れたとて、ここまで揺れるとは思えない。かつて巨大な石兵と戦ったときのようなプレッシャーが文彦を襲っている。 「明るくして、いいか?」 『それには及ばんよ』  内懐よりマグライトを取り出そうとした文彦を制止するように、これまた別の声が上がり、直後に辺りは真昼のように明るくなった。  色彩豊かな蛍光色。  中国の桂林地方を連想する、隆々とした柱。その模様は瑪瑙にも似て、絶え間なく変化している。光は連鎖的に灯り、八方一里に渡り光輝に包まれた。  現れるのは、巨大なる脚。象と喩えるよりはアパトサウルスと呼ぶ方が相応しい、体躯。見上げれば可愛らしい瞳があり、石柱のごとき胴体が天に向かって勃起している。胴体表面を覆う発光器官は色彩と光量を変化させ、たまに励起収束して夜空を浮かぶ雲を両断している。大出力のレーザーである。  文彦は考えた。  それ、に近しい生き物が何であるかを考えようとして、言葉にするのを理性が邪魔していることに気付いて苦笑した。 「喋る烏賊には初めて会った」 『隣の陣地には鯖がおる』  あとで紹介しておこうと烏賊は言い、光る触腕をくねくね動かした。  三千五百騎の巨大な陸生イカが河岸に陣を張る。  骨格を持たぬ故に強靭にして柔軟な筋肉組織に覆われた彼らは、特殊な発光細胞と光反射細胞で構成された外套膜に包まれている。筋肉組織の一部が神経細胞を兼ねているイカたちは、脳と特定できる器官が小さいにもかかわらず高い知性を誇っていた。  とはいえ、イカである。 『わしら、どうやって呼吸しているんだろうなあー』 『さー』 『鯖は、エラ呼吸だよなあー』 『あー』 『でもわしら、エラついてないぞなー』 『おー』 『ところで、正面の丘を越えて神の軍団が攻めてきたなあー』 『やー』 『石兵二十八、歩兵三万、騎兵千五百といったところだなあー』 『ほー』 『わしらは第一次防衛線で鯖よりは紳士的なので、総員れーざー準備だなあー』 『てー』  無音無反動で発射される光の筋は、大気を焼きながら河向こうの丘陵を越えてきた巨兵軍団を一掃する。  光速と音速の時間差を経て訪れる爆発音と衝撃波。 (レーザー?)  跡形もなく吹き飛んだ丘陵を眺め、恐るべき獣の破壊力に慄きつつ、どこか釈然としない現実に首を傾げる文彦である。  猫が二足歩行して喋るのだから、烏賊が陸上を歩き回って人語を解しても別に不思議ではない。 「百歩譲ってな」  河岸の湿地帯を沿うように都に向かう陸生イカの群れと共に歩きながら、文彦はぼそりと。 「レーザーはねえだろ、レーザーは」 『鯖はビームとか重力振動波とか空間切断とかやっとるぞなー』  淡水の河川を遡上していく鯖の群れを遠目に眺めつつ、隊長格のイカが触腕を振り回しながら抗議する。 『魔法猫に至っては異世界から邪悪生命体を召喚してるなー』 「ほほう」 『百年前に城塞都市ひとつを消滅させた上に、広大な平原を海に沈め、人間の国の民に異界の悪夢を見せて苦しめたという、伝説級の邪悪生命体だそうなー』 「そいつは邪悪だなあ」  わははははははは。  引きつった顔で文彦は笑い、がっくりとうなだれる。 「その邪悪生命体に出会ったらどーすんだ」 『とりあえず友好的に接触するなー』 「相手の印象が最悪だったらどーすんだ」 『仮にも邪悪生命体魔法のご本尊として崇められてるわけだし、それはないと思うのだなー』  うなだれていた文彦の動きが停止する。  千年紀という名を冠したOSが得意とする挙動のように、英語でいうならフリーズ状態で。思考形態が人類と共通しているとはあまり信じたくない陸生イカの言葉だが、内容が内容なので聞き流すこともできない。  回答は、別方向から。 『精通直後に身体の成長が停止してしまった!』  凛とした、張りのある透き通った女の声。  歌劇の主役としても通用しそうなほどの美しいソプラノの声と共に、漆黒の雷が辺り一帯を襲う。鯖は河に潜りイカは上空に光の障壁を生み出して雷の直撃を防ぐ。とはいえ雷の何割かは障壁を貫通し、イカを傷つけた。 『店の女客の八割は、男前の母親目当てだったから男としてのプライド崩壊の毎日だった!』  続けざまに、声が届く。  轟。  生み出された突風が真空の断層を生み出し、すべてを切り裂こうとする。イカは高速回転してそれらを辛うじて防御する。そんな器用な防御法を発動できなかった文彦は、魔法そのものよりも発動の鍵となった言葉に全身を貫かれて突っ伏していた。 『ぬう、邪悪生命体魔法の使い手だなー』  隊長格のイカが唸れば、おう、とはるか前方に現れる人影。  見る限りは、人間の小娘である。  金鉄の錫杖を手に掲げ、胸元に小さな狐面を首飾りのように下げている、法衣姿の娘である。ひょっとしたら妹の小雪と大差ないかもしれないほど、幼い。 『汝ら、人の都を目指してどうする』  凛とした声で、狐面の娘は問う。 『神々との戦いに助勢するためなのだなー』  隊長格のイカが、えへんと胸を張る。狐面の小娘と文彦には、どの辺がイカの胸なのかはさっぱりわからないが。 『エーテル王国との盟約に従い、魔女への恩義を返すために我らは遡上するのだなー』 『汝らの力を借りるわけにはいかないと、何度も説明したはず』 『太陽の王族については理解しているつもりだなー』  太陽という言葉に、倒れていた文彦が痙攣する。 『奴らには鯖ビームも我らのレーザーも通用しないのだなー。だからといって、我らは無能ではないぞなー』 『……一歩間違えれば汝らの存在は人間を滅ぼすのだ。聞く耳を持たぬのであれば』  錫杖を構え直し、呼吸を整える狐面の少女。 『私は容赦なく汝らを撃退する。邪悪生命体魔法なら、汝らにも有効なのは承知している!』 『同じ言葉を返すのだなー、西方魔族の娘よ』  ゆらり、と陸生イカが触腕を構える。  ……  ……  そして。  セップ島において禁断の秘術とされる邪悪生命体魔法が飛び交った。 『クラスメイトの女生徒に、公衆の面前でディープキスされて失神した!』  数珠状の雷が飛ぶ。 『押しかけ弟子に寝込みを襲われて童貞を喪失してしまった!』  白色の炎が竜巻となって地面を舐める。 『逆レイプ最中の映像が業界の内外に出回ってしまった!』  蒼い輝きを帯びた鋭い雹が空から降って全てを引き裂く。 『それなりに仲の良かった少女が、自分の使い魔に寝取られた!』  不可視の猛獣が現れ、その顎を開いて咀嚼を始める。 『実の妹が、自分の下着を握り締めて自慰に耽っている様を目撃してしまった!』  絶叫と共に分子を振動させ物体を崩壊させる振動波が拡散する。 『押しかけ弟子が初潮を迎えたのは、逆レイプから一週間経った朝だった!』  地面に走った無数の亀裂より、泥色の粘液が全てを溶かしつくそうとする。 『その事実を知った時に責任とろうとして、妹に刺された!』  光の軌道さえ歪めかねない高重力場が、周囲を飲み込もうとする。  地殻変動さえ起こしうる超絶的な魔法が飛び交い、地面は空気と共に沸騰し、魔法の射線上にある大気はプラズマ化する。なるほど先刻のイカの繰り出したレーザーなど比較にもならない強さである。戦いは膠着状態に陥っていたが、狐面の少女も陸生イカも、次の攻撃をもって決着をつけることを決意した。 『朝起きると、布団の中で実の妹が――!』 『押しかけ弟子が尻――!』 「いい加減に、しろぉぉぉぉぉおおっ!」  凛。  絶叫と共に文彦の繰り出した術が、小娘もろともイカの大群を吹き飛ばす。そんな文彦はちょっぴり涙目になっていたのだが、唯一無事だった鯖たちも河に潜っていたので目撃するものはいなかった。  角の取れた砂利の河原に、イカと狐面の小娘が正座していた。 「最初に言いたいのは、地形を変えるような魔法を連発するな。世界が歪む」  たとえ魔力の許容量が大きいセップ島世界でも、限界はある。鯖のビームやイカのレーザーが世界への干渉力が驚くほど小さかったのに対し、先刻使われた邪悪生命体魔法は世界の骨格を確実に歪ませる代物だった。  おそらくは魔法の質が違うのだろう。  現地に在住する精霊や魔物の力を行使するのではなく、人々の意識や世界そのものに刻まれた、邪悪生命体という存在への認識や情報を、無理やりに引き出して再現している。文彦の世界ではありふれた、神仏帰依者の祈祷の形態に近い。呪文そのものには何の意味もなく、しかし数千年をかけて蓄積した人々の想いを引き出して現出する祈祷は、珍しいものではない。だが、それはあくまでも文彦の世界の話である。 『その分、強力なんだなー』 「強力すぎて世界が歪むと言ってる」  抗議の声をあげる隊長イカをじと目で睨む。どれほど巨大で立派になろうとも、軟体動物であることには変わらない陸生イカにとって正座がどれほどの効果があるのかは分からない。その一方で生まれて初めて正座をしたであろう狐面の小娘は玉砂利の上で悶絶していた。 『く、ぬ、おおおおおおおおっ』  悶絶していても正座をやめられないのは、イカも小娘も揃って文彦の術式の支配下にあるためである。 『それにしても我らも西方魔族の小娘も、魔法に対する抵抗力はそれなりに高いと自負していたのだがなー』 「普通だったらおれの術式では縛れねえよ」  十体程度ならともかく、陸生イカ三千五百騎と強力な魔力を秘めた魔族の小娘を力ずくで同時に拘束する術など文彦にはない。 「お前ら、勝手におれを崇拝して術式組んでるんだもん。術式契約を打ち切らない限り、おれの支配下」  ぱん、と手を叩く文彦。  すると正座をしていたイカと小娘は身体を束縛する力が消滅し、身体のバランスを崩して前のめりに倒れてしまう。 「だから一方的に契約を破棄させてもらった。悪いが、その恥ずかしい呪文を叫んでも何もおきねえぞ」 『ゑ〜』  不満そうに声をあげるのは、陸生イカの隊長である。 『かっこいい呪文なんだなー』 「とてもそうは思えないが」 『とくに【実妹の舌先がたどたどしく股間の紳士を絡めるように】の辺りは、一篇の詩を朗読しているような気分になれるのだなー』 「なってたまるか!」  やはりイカとは理解し得ないと思う文彦だが。 『私としては【アルトリコーダーのマウスピースに、実妹の好きなライムミントの香りが染み付いていた】という部分に浪漫を』 「感じるな!」  結局のところ。  半日後に魔法猫の一団が到着するまで、文彦によるお説教タイムは続いたのである。 『いい加減にせんか、邪悪生命体』  聞き慣れた声と共に、魔法猫の王が文彦の後頭部を蹴る。セップ島の時間の流れでは百年以上経過しているはずなのに、ふてぶてしい魔法猫の姿は文彦がよく知るものだった。 「……ファルカ王?」 『久しいな影法師』  文彦の両頬を掴んで引っ張りながら、魔法猫は偉そうにふんぞり返る。 「一つ訊ねるが、何年ぶりの再会だ」 『百四年と半年程度かね』  今度は肉球でべしべしと文彦の頬を叩きつつ、楽しそうに言う猫の王ファルカ。 『シュゼッタ王女は十年経たずに戻ってきた』 「それじゃあ、曾孫あたりが生まれてる頃か」  顔面に張り付く魔法猫を剥がしながら、文彦はひどく真面目に、納得する。 「平和になったらあの子の孫あたりと昔話をしよう。だが今は、戦の話だ。おれを召喚するほどの事態なのは、わかってる」 『あー、影法師?』  文彦の言葉の意味をいまひとつ掴めていない魔法猫たちは、真剣でなおかつ悲壮な表情の文彦に面食らっている。 「お前ら娯楽好きだから、シュゼッタの結婚式の写真とかあるだろ。千秋の時の写真も残ってたわけだしさ。だから暇な時でいいから見せてくれ」 『影法師?』 「おお、いま走ってきてる娘がシュゼッタの子孫か。驚くほど瓜二つだな」 「だぁぁあああれが、子孫よ!」  前方宙返り。  振り上げた右足は戦斧のように。  踏みつけるように叩き込まれたかかとは見事な角度で文彦の延髄に炸裂した。