一章〜エーテル王国  無知は時として罪になる。  暗くて靴が見えぬからと、札束に火を点して明るくした船成金の話を村上文彦は思い出した。 「薪の代わりに本を燃やす阿呆がどこにいる」  見渡せば、大図書館の六割以上の書架が空となっていた。空となった書架は壊されて燃料となっているから、失われた書物の量は実際には更に多いことになる。  余人であれば十年を費やして書きあげるものが、半刻の煮炊きのために灰と化す。その価値を理解しないものにとっては、よく燃える紙の束は木の枝よりも燃料として優秀ということなのだろう。民衆が持ち出した書物によるかまどの煙はあちこちで昇っている。 「読めない本に何の価値がありましょうか」  文彦に同行していた青年貴族が、そう弁解する。 「我らにとっては毎日を過ごすために必要な燃料なのです」 「本を燃やすってのは、文明人としてはなかなか野蛮な行為だがね」  そこは、前文明の図書館と案内された建物だった。  人間ではない種族が書き記したという膨大な資料は、彼らの残した文化の高度さを物語っている。明らかに版画とわかる書物の挿絵が二十四色刷りと気付いた時、文彦は青年貴族の胸倉を掴み、怒鳴るようにして民衆の蛮行を止めさせた。 「燃料欲しけりゃ、泥炭掘って乾して燃やせよ。羊の糞を乾したのでも、朽ち枝を落としたのだって十分だろ」 「面倒ではありませんか、それに不衛生だ」  なるほど書物をかまどにくべても手は汚れないか。  偉そうに胸を張る青年貴族の後頭部を蹴り倒しながら、文彦はそこが改めて異世界なのだと実感せざるを得なかった。なにしろ薪として燃やした本と本棚が、あちこちで再生を始めているのだから。 「……なるほど」 『歯車王国の歯車図書館は、黄金率の歯車動力で無尽蔵の歯車エネルギーを獲得しているから、不滅の歯車文庫を』 「黙れ哺乳類」  雨後のタケノコの如くにょきにょき生えだす書架を前に深く深く溜息をつきながら、文彦は勝手にしてくれと手を振った。  異世界。  漢字三文字で表現されるそれは、多くの術師にとっては別段珍奇な概念ではない。並行世界を移動する技術は以前より存在していたし、並行していない世界の存在も、ある程度は把握している。たとえば三課が魔界と認識している閉鎖世界は、文彦たちの世界以外にも接続する道を幾つも内包していた。 『並行していないとまずいのであるか』 「単純転移で帰れねえ」  魔術を記したと思しき書物を集めるだけ集めて、文彦は砦の部屋を借りていた。彼を拘束することの馬鹿馬鹿しさを今更のように知った城の人間は、文彦と魔法猫たちを好きにさせていた。魔力がほとんど回復していない文彦には城塞都市を吹き飛ばした時のような大魔術は使えなくなっている。 「時間軸がずれてるのか、空間構造に差異があるのか、条件がさっぱりわからねえ」 『無駄な努力であるなあ』 「てめえらが無駄にさせるからだろうが」  暇だからと魔術書に落書を始める猫は、人間の赤子より始末が悪い。 「とっとと召喚式を吐け」 『いやである』  魔法猫を代表して、ファルカが机の上でふんぞり返った。 『それに、魔力を出し尽くした邪悪生命体が召喚式を手に入れたところでなにができるというのであるか』 「色々と」  召喚の鍵となった接点。そのつながりさえ見つけ出すことができれば、召喚式を逆転させずとも元の世界に戻るのは簡単だ。それ以上に、文彦を召喚した術式は赤帝に絡むものだっただけに、そこに刻まれた情報を手に入れたかった。 『シュゼッタ王女を守るために汝は召喚されたであるよ、それを果たさずして逃げ帰るであるか』 「助け出しただろうが」 『おうよ。おかげで今は、人間どもの王宮で御馳走責めであるな』  畏れ多くもエーテル王国最後の王女、その後見に立てば古王国の継承者と名乗れるわけである。  少し湿った鼻面を押し付けるようにして、ファルカはふんがふんがと不満げに文彦に向き合う。 「なんだ、不満なのか」 『彼女は近い将来、それなりに家柄の良さそうな王子あたりと結婚するであろうな』 「そうなのか」 『彼女の種族は、もう生き残りがいないである』  それに妖精と人間は種族的に近しいから、交配も可能である。  ファルカの主張に、文彦は「ふむ」と一度だけ唸った。国の人間には理解できない歯車王国の文章を読了し、首を数度鳴らす。 「おれのいた国にも、そういうのあったな。絶滅寸前の鳥を維持しようって、閉経し掛けた年老いたメスに若いオスをあてがって」  結局駄目だった。  そういう話を思い出した。 「最後の一人なら、絶滅したも同然だな」 『涼しい顔で惨い事を口にするな邪悪生命体』  だって事実じゃねえか。  文彦は声を低くして答える。たった一人では駄目だ、男女一組でも、都合が悪い。 「言い繕えば、あの子の同族が天から降ってくるのか」 『そんなわけないである』  脇のテーブルにある山盛りの蒸し饅頭にかぶりつきながら、ファルカは首を振る。麦の味しかしない饅頭のようなそれは、城の者たちが文彦にと用意したものの一部だった。  農業や牧畜は、それなりに発達している。  青年貴族を通じて聞いた、この島国の食糧自給率は驚くほど高かった。十数個の小国家が存在するという話だが、肥沃な土地と適度に発達した農業技術の賜物だろうか。外敵があまりにも多いために領土を拡大できないという彼らは、確保できる限られた土地を有効活用する道を模索し続けたわけだ。  おかげで砦の窓より見える城の広間では、シュゼッタ王女を保護したことを祝う晩餐が大々的に繰り広げられている。 『エーテルの一族は星船と共に世界を去ったであるよ。振ってくるわけがなかろう』 「それはまたスペースオペラな夜逃げだな」  曖昧に返事をして、それから固まる。 「星船?」 『そうである』  その反応が予想外だったのか、ファルカは尻尾を振りながら残りの饅頭を飲み込む。 『シュゼッタ王女について俄然興味が湧いたであるかね』 「別に」  少々声を上ずらせながら、文彦は読み終えた魔術書を積む。召喚されて以来既に二日が経過しているが、水一滴さえ口にしていない。そのくせ喉の渇きを覚えることも、空腹に苦しむこともない。消耗した力の回復は未だだが、睡眠欲求さえない現状に違和感を抱いているのは事実だ。 「おれがこの世界に居座っても良い事はないぞ」 『そんなことない』  ファルカとは違う声。  猫たちが振り返れば、そこにはあふれるほど料理を詰め込んだバスケットを抱えた少女がいた。上等のドレスを着て立派な宝飾をつけた、耳の長い赤毛の少女である。おそらく酒盃を何度も空にしたのだろう、白い肌は薄桃色に染まっている。  酔いが廻ったのか半眼となっているが、少女はシュゼッタに違いない。 「フミヒコ、引きこもるのよくない」  見れば葡萄酒の酒瓶を右脇に抱えている。小柄なシュゼッタが運んでくるには、酒瓶もバスケットも大きすぎるものだ。魔法猫たちは目を輝かせてバスケットの中のご馳走に目を向けるが、シュゼッタは食欲旺盛な猫たちをひと睨み。 「これはフミヒコが食べるもの」 『あの邪悪生命体は食事も睡眠も必要していないであるよ』  がっしとバスケットを両手で掴んだファルカが真顔で言う。ファルカの口から涎が垂れていたのは、まあ文彦としては見ないことにした。シュゼッタがファルカを投げ飛ばしたことも、たっぷりの葡萄酒が詰まった酒瓶が凶悪な鈍器として見事に機能したことも。 「シュゼッタ」  散らばっている猫をベッドに放り込みながら、文彦はシュゼッタに近づいた。シュゼッタと文彦の外見年齢は、あまり差がない。身の丈も、文彦が童顔で幼児体型という事もあり、辛うじて頭ひとつ分の差があるだけ。 「君は強いな」  酒瓶とバスケットを受け取って、とりあえずの言葉を口にした。  彼女を幽閉し穢した存在は、文彦の手で滅びた。彼女が狙われる原因となった獣の力も分離した。彼女の保護に協力を申し出ている人間の王国も、彼女を後見することによる大義を狙ってはいても、過分の野心を抱いている様子はない。  それでも、彼女の心の傷は尋常ではなかったはずだ。  僅かに残っていた力で、できるだけの事はした。影使いだからこそ、心の闇を除き癒す術もある。だが、残っていた力での精神治療は不十分だった。依然としてシュゼッタの内には、故郷を喪った悲しみと、その後の苦難で負った傷が残っていた。到底二日間で癒えるものではない。 「私は強くありたい」  文彦の袖を掴み、シュゼッタが呟く。指が、肩が小刻みに震えている。鎮静作用のある薬草は、彼女にはあまり効果を持たない。数刻前に砦の薬師がそう相談に来た。妖精という種族の体質なのか、あるいは彼女だけの特質なのか、薬師と魔法猫は話し合っていた。 「過去は覆らない。私が見聞したこと、我が身に起こったことは決して消えない。言い繕うことも忘れることも、私は嫌だ」  顔を上げ、文彦を見る。下を向けば涙が零れ落ちそうだから、シュゼッタは目を潤ませながらも睨むように文彦を見る。 「フミヒコ、私は強くなりたい」 「なれるとも」 「私が強くなるにはフミヒコの力が必要だ。だから、食事をして力を取り戻してほしい……王に聞いた。もう二日間、水さえ口にしていないのは異常だ。このままでは死んでしまう」  ぎう、と。  袖を掴む力が強くなる。シュゼッタは抱きつくようにして文彦の胸に顔を埋め、そのまましがみつく。文彦が飯を摂るまでは動かないぞといわんばかりの意思表示だ。 「シュゼッタ」できるだけ優しい口調で文彦は少女の頭を撫でた「おれが飯を喰わないのは、それなりの理由があるんだ」 『処女の生血が大好きであるか』  ベッドに突っ伏していたファルカが起き上がり、直後、酒瓶を額に直撃されて昏倒した。 「生娘の血でないと……満足できないのか?」  シュゼッタも不安げに文彦を見上げる。  なるほど文彦の所業をみれば、処女の血どころか人の生き胆を喰らうと誤解しても不思議ではない。水の一滴でも口にしていれば話も変わっただろうが、丸二日間飲まず喰わずで調べ物をしていれば周囲が不安を覚えるの当然か。 「召喚式が、おれの身体に作用していると思う。この世界への干渉を最小限に留めるように、世界との接続を行わずに済むように」  召喚式を作った者の意図が、そこにあったと文彦は考えている。  この世界の食い物や水を摂れば、来訪者たる文彦は世界との接点を間接的に獲得する。消耗した魔力を回復させるためには、大地や自然に宿る気を無意識に奪う恐れさえある。せめて黄泉道反剣があれば霊脈の力を引き出せただろうが、それがなければ文彦は吸血鬼よりも恐ろしい存在に転じてしまう。 「あの魔法円に刻まれたのは、おそらく限定召喚の術式なんだ。この世界は魔人の能力が増幅されてしまうから、本来の力を大幅に抑制した状態で召喚している」 『……あれで?』  再び起き上がる、ファルカ。 『石兵の軍勢を敵の城砦もろとも打ち滅ぼして、恐るべき獣の力を中和して、それでも能力が抑制されているであるか』 「おうよ」  立ったままなのも間抜けなので、部屋に備え付けられた長椅子に腰を下ろして文彦は曖昧に返す。しがみついていたシュゼッタを隣に座らせ、これが小さい頃に妹小雪の面倒を見ていた頃の癖だと気付いて苦笑した。魔人と恐れられ異界において能力が拡大していようと、己の本質はそれほど変わっていない。 「魔力供給は経たれているし、使い魔とも連絡つかない」 『回復手段はないのであるか』 「おれの元いた世界と結びつきが得られれば、そこから力を受け取れるかもしれない。おれを召喚した、魔法円の源。帰還する方法も、手に入ると思う……おれの探しているものも、多分そこにある」 「赤帝……の、こと?」  怯えたような、悲しそうな少女の顔。 「おれが捜してるのは、赤帝の力に引きずられて姿を消した女の子。おれの代わりに、どこかの世界に引っ張られていった底抜けのお人好し」 『恋人であるか』  猫の問いに、言葉が詰まる。 「返事を聞く前に姿を消した」 『それはまた』 「並行する世界を幾つも渡って捜したけど、手がかりもなかった。赤帝召喚の法円は、おれにとっては最初で最後のヒントかもしれないんだ」  並行する宇宙。  分岐して、収束する、有限の可能性で満たされた世界。同じ時間軸に沿いながらも未来を共有しない異世界には、普通の転移術師は干渉できない。世界の可能性そのものに過度に干渉する行為は、歴史に手を加えることに等しい。  だが、赤帝は世界そのものに作用できる力だ。マノウォルトを屠り、神を自称する存在を時空を超えて滅ぼすための存在だ。赤帝は、並行世界の枷に囚われることなく、あらゆる可能性に導かれる。軸の異なる時の流れに赤帝が招かれていれば、文彦には感知することさえできない。 「この世界に彼女の痕跡があれば、それを知りたい」 『知って、見つけて、その後どうするであるか』 「そりゃもちろん」  元いた世界に。  言いかけて。  文彦は、あまり思い出したくないことに気付いた。自分を種馬扱いしようとしている三課。術師の名家でさえ、魔人の血を取り込もうとしていたではないか。たとえ千秋を探し出したとしても、彼らがそう簡単に引き下がるとは思えない。  まして、手がかりを掴んだ程度で帰還したら、次に探索を始める前に拘束されるのが目に見えているではないか。事実、召喚される直前に長老達は拘束術式を用意していたはずだ。 「……」  視線を落とす。  隣に座っていたシュゼッタが不機嫌そうに文彦を睨んでいる。千秋のことを口にしてから、ずっとこの調子だ。 「考えてみれば」 『ば?』 「帰る理由が、なかった」  バスケットの腸詰をひとつ口の中に放り込みながら、文彦はしみじみと頷き、葡萄酒でそれを流し込んだ。  少女は夢を見る。  空を覆う、万に至る光の軌跡。その一つひとつが星船なのだと、少女を産み育てた者が悲しげに教える。栄華を究めた豪奢な宮殿に人はなく、飲みかけの杯が至るところに置いてある。  自分達は此処に戻ってくるのだから、その時に片付けよう。船を呼ぶ女達は、そう呆れていた。決して叶わぬ願いだと知りながら、彼女達は気丈に振舞った。星船の向かう先は戦場だ。  形を持たぬ敵が、そこにいるという。自分達の始祖が後々の栄華を生み出すべき叡智と引き換えに交わした約束、それが国を滅ぼした。  五人の隠者は、智慧を守り愚行を伝えるために残った。  一人の王女は、彼らの罪を告白し償うために遺された。  宙の果てに星船は姿を消し、隠者は世界の闇に融けた。かくして独り残された王女は同胞が消えるのを見届け、囚われの身となった。 「……」  故郷の夢を思い出したのは、久しぶりだった。  目を覚ませば、まだ夜は明けていなかった。  汗を吸って重くなった寝間着を脱ぎ、絹布で汗を拭き取った後に着替えに袖を通す。貝のボタンで留めるシャツは、人間の国ではあまり見かけない衣装だ。勝手のわからぬ衣服では着付けも容易ではなく、彼女は着替えの自由を満喫している。袖口を留めるカフスに至っては貴族の一部が関心を示す程度で、留め方を知っていたのは来訪者であるフミヒコただ一人だった。  影を操る異界の者。  本人の弁を信じる限り、仙位を許される程度の術師。果たして仙位が何を意味するのか彼女はわからなかったが、不快な相手ではない。自分を助けてくれた。来訪者に囚われ全身と心に刻まれた傷は癒え、気持ちも驚くほど軽い。心を操る術を持つものは信用できないと城の者は言う、その者に対する親愛の気持ちが本物だと保証するものはどこにもない。  望むならば十万の兵を熱狂させ、小国ひとつの民を憤死させることも容易。  城の魔法使い達はフミヒコをそう評した。  魔法猫たちの示した最後の手段。いかなる結末を迎えようともシュゼッタを救うためには他に選ぶ路がなかったという禁じ手。禁忌故に招く業も返す業も秘匿。ファルカ王の思考と記憶を覗いた時、フミヒコは明らかに絶望的な貌を見せた。  魔人も、ああいう表情をするのだと。  シュゼッタは少しばかり驚いた。  髪を梳き衣装を調え、シュゼッタは寝室の扉を開ける。扉の両側に控えていた侍女兵は恭しく頭を下げ、彼女の後ろを歩く。よほどのことでない限り、彼女の邪魔をしてはいけない。  巨獣の襲撃に耐えられるよう壁は厚く、廊下はそれほど広くない。屋外では槍は効果的だが、城の中で身を守るのであれば剣に分がある。帯剣を許された侍女兵は騎士と同等の待遇を受けているが、その本質はあくまでも侍女である。 「フミヒコの部屋に行きます」  とりあえず、理由は聞かない。彼女達は侍女だから。  半拍の後に、侍女兵の一人が口を開いた。 「王弟の三女様が二刻前に、影法師殿に話があると」 「幼い割に乳が大きいので名の知れた、あの御方ですか」 「はい。第一王子の寝込みを襲って既成事実を作ろうとした、あの御方です」  沈黙が生じた。  シュゼッタはくるりと振り返り、侍女の一人にこう言った。 「剣を貸してください、いろいろと成敗してきます」 「ひとつだけ申し上げます、姫様」 「なんでしょうか」 「遠慮は要りませんから思い切りやっちゃって下さい」  侍女兵はあくまでも侍女なので。  これ以上ないほど爽やかな笑みで、切れ味鋭い剣を鞘ごと引き抜いて差し出した。シュゼッタはそれを無言で受け取ると、自分でも理解できない感情に飲み込まれながらフミヒコの寝室へと突撃を仕掛けたのである。  扉を蹴破れば、そこに転がっていたのは挑発的な寝間着姿の貴族令嬢が一人。細い紙帯で手首足首を拘束され、逆海老状態で縛られている。  一緒にいるはずの、魔法猫もいない。 「……フミヒコ?」  抜き放った剣の切っ先は、石畳を滑って火花を散らず。鋼に炭を巻きこんで鍛えた業物は、軽量ながらも切れ味抜群である。シュゼッタの本気具合を目撃した貴族令嬢は猿轡をかまされた状態で悲鳴を上げるが、シュゼッタが関心を寄せたのは令嬢を縛る紙帯に描かれた紋様だった。  旧い文字だ。  エーテル王国より旧い文字、二人の魔女が健在だった頃の民が使っていた言葉である。妖精たちが使う言葉の源に連なるが、今では死語となっており人の国に読める者はいない。シュゼッタ自身も存在のみを理解できるだけで、解読は難しい。  その旧い文字が紙帯に描かれて人間を拘束する呪を成している。 「フミヒコ?」  再度、シュゼッタは部屋を見渡して名を呼んだ。最低限の調度品を持ち込んだ質素な部屋は、飾り気もなく主の性格を表しているようだった。 「姫様」  異変を察した侍女兵の一人が失礼を承知で部屋に踏み込み、シュゼッタの様子の意味を確認する。城の離れにある部屋とはいえ、警備の兵は決して無能ではない。 「西の尖塔です」  窓より身を乗り出して、もう一人の侍女兵が叫ぶ。彼女の示す先、ようやく夜闇が濁り始めた東の空の下、足場の悪い城砦外殻の尖塔付近に二条の輝跡が彩を生んでいる。輝跡は幾度も交叉しているはずなのに争う音も聞こえず、城門を守る兵も巡回する侍女兵も異変に気付いていない。 「兵を!」  たとえ一方がフミヒコであろうとも、それと争うものの存在は尋常ではない。一人が貴族令嬢を、残りがシュゼッタの身を抱えながら、二人の侍女兵は場内に檄を飛ばす。侍女兵にとって最優先の任務は主人の保護であり、おそらく無音で戦っているであろうフミヒコの願うところなのだと彼女達は判断した。  尖塔を駆け上がるまでに十六の術式を組み立てて解放した。  錬気を用いて得た七つの術式では筋力と神経伝達を一時的に加速させると共に肉体損傷の回復力と神経過負荷への耐久性を上昇させる。結印により導いた四つの術式では地水火風の四精を構成する元素への経路を自身へと接続し、自らが生み出す術式がこの世界へ及ぼす悪影響を最小限に留めるようにした。衣服に編みこんだ法円より描いた二つの術式は飛翔能力と限定的な重力遮断を実行し、多重詠唱により生じた三つの術式は輝跡を描く魔弾となって襲撃者を部屋より追い出し、尖塔の屋根にまで弾き飛ばした。  三つの魔弾は九つに分かれ、九つの魔弾は各々八十一の流星となって襲撃者を追尾する。あるものは直撃し、あるものは爆風をもってこれを退けようとし、光条は網となってそれを追い詰めていく。威力は抜群で追尾性能も有能なので便利な術式の魔弾だが、閃光と爆音が激しいために隠密を尊ぶ現場ではまず使われる事はない。 (直撃弾が総て無効なのはわかるが、爆発した魔弾の音も消しただと)  最寄の窓を潜り抜けて跳躍、中庭を挟んで西の尖塔と向かい合う屋根に飛び乗って文彦は驚愕する。魔弾は今も襲撃者を追いかけていたが、夜風の音が耳に届くほど辺りは静寂に包まれていた。 「凄いな」  自身もまた一切の音を消し、夜風を追い越す速さで駆ける。屋根を踏む前に、風を足場に宙を走る。襲撃者にも負けぬ速度で西の尖塔に達すれば、手近な影に腕を絡め、闇色の雫を鋭利な刃に変えて一気に引き抜く。  交差する度に、繰り出す刃。  返ってくるのは、白と黒の剣。そして貴族令嬢を拘束した、呪縛の紙帯。それは文彦が知る符術や紙兵術にも似ているが、おそらくは根源で異なる代物である。白の刃先は影刃を切り落とし、宙に転がる影の刃に紙帯が絡み付けば白く爆ぜて粉となる。  理屈がわからない。  文彦の識る術式とはまるで違う体系に基づいた、驚愕すべき魔術の業。それも、文彦に決して劣らぬ水準で魔術と体術を繰り出してくる。それだけの力の使い手ならば、あの来訪者も退けられたに違いない。時間にすれば数秒の攻防で、実際には互いの手の内をさらすこともしていない小手調べに過ぎない。しかし、互いが力量を測るには十分な時間だった。 「それだけの力を持ちながら、シュゼッタを見捨てていたか」 「弁解はしない」  凛、と音が鳴る。  夜風とは質の異なる疾風が声の主より放たれる。闇色の衣に身を包んだそれは白と黒の石剣を鞘に納め、一度だけ暴れた風を鎮めた。 「彼女は罰を受けるためにこの地に留まっていたのだ。私が救うのは、亡国の遺志を潰すことになる」  声の主は、落ち着いた青年のそれ。体躯も、文彦より頭二つ分は高い。 「あれ以上の罰を受けろってのか」 「あそこまで酷いとは思わなかった、こちらの認識が甘かった……君が救ってくれて感謝してる」  声の主は素直に己の非を認めた。  案外こいつはお人好しかもしれない。 「とはいえ、君の存在自体に関しては別問題でね」 (前言撤回)  尖塔の頂に立つ青年を見上げて文彦は毒づいた。  今は薄墨色となった夜空に、闇色の濃淡が生じている。この世界に召喚されて最初に相対した石巨人よりもはるかに大きな影。いつよりそこにいたのかわからないが、認識した途端に放たれる圧倒的な威圧感。  恐るべき獣。  魔法猫達が口にしていた名前を思い出し、得心する。獣の王とは似て異なる存在、この国があるセップ島に住まうという強大なる獣たち。 「この世界の造物主ってやつか」 「残念、我らはその使い走り。その意味では君と大差ない」  フードを外し、青年が顔を露出させる。栗色の髪に琥珀色の瞳が印象的な、筋の通った面立ち。 「異界の者に問う」  獣達を代表するかのように、青年が感情を殺した声で訊ねる。 「君は赤帝の巫女に縁あるものか」 「過去に赤帝の武具を身につけたことなら」  嘘を伝えても即座に知られるだろう。こうして青年と向かい合っている最中も、空に浮かぶ獣達が文彦の存在を調べるべく様々な力で触れているのを感じる。 「ではもう一度問う」 「おうよ」 「君は、三狭山の守人たる村上文彦か?」  凛。  即座に反応できたのは幸運に近かった。青年が咄嗟に引き抜いた白の石剣に刻まれた無数の文字が発動し、不可視の障壁が青年の身を守る。 「どこだ」  それは回答であって回答ではない。手の上に現れるのは、白銀の猛禽。シュゼッタより分かたれた力の化身である。無意識の文彦の呼びかけに、猛禽はそこにいた。 「あいつは、どこにいる」  翼を広げる、白銀の猛禽。文彦の意識に同調しているのか、虚無に至る風を生み出そうとしている。 「千秋は、此処にいるんだな」  一縷の望みだった。  赤帝というつながりだけで異世界に召喚するのであれば、自分ではなく光たち赤帝武具が優先されるはず。文彦という個体を縛って招き入れる術式を組むことができるのは、その性質を理解するものだけだ。 「そうだ」短い返事「赤帝の巫女は、君が佐久間千秋と呼ぶ魔人の娘は、確かにこの世界にいた」 「別の世界に移動したのか」 「否、彼女はこの世界より出ることはなかった」  青年の顔が曇る。 『異界の者よ』  虚空より獣の唸り声にも似た囁き。 『貴様は彼女と如何なる関係か』 「男と、女だ」  威に負けず胸を張る文彦。獣達も息を呑み、沈黙する。  そこは、真っ平らな場所だった。  地平線に至るまで、ただひたすらに草原。地図の上では三日月状の小さな島だと言うが、平坦な地はどこまでも続いているような錯覚を起こすほど広かった。  その広い草原の真ん中に。  大きな碑があった。  魔法猫達が金鉄であると叫び驚く、不可思議な金属の、削り出しの碑があった。同じく金鉄を削りだしたかのような巨大な獣達は、碑と文彦達を囲むように座っている。  文彦はその碑の前で、言葉を失い膝をついている。 【文彦へ】  碑文は、あまりにも素っ気無い書き出しで始まった。千秋らしいと、頭の片隅で考えてしまった。 【あんたより良い男が見つかったので、そいつと結婚した。子供もばんばん産んだ。幸せ絶好調】  碑に刻まれたのは、現地の言葉と日本語と、おそらくは写真と同じ仕組みの金属絵画。貴公子と腕を組んでいる花嫁衣裳の少女が、幸せそうにピースサインで写っている。 【そういう訳だから、私の事は忘れてあんたも自分の幸せ探しなさい。千秋】  碑文に刻まれていた日本語は、それで以上だった。  現地の言葉も、高尚な文章に直されてはいたが、意味するところは変わらなかった。 『彼女は幸せな生涯を過ごした。そう伝えるよう頼まれていた』  翼の生えた獅子にも似た、金属質の獣が低い声で唸る。しかし、その言葉が硬直した文彦の耳に届き意味をもって理解されるには、それから三日三晩を必要とした。    丈の短い、芝生にも似た草原。  そこに腰を下ろし、大きな大きな金鉄の碑と向かい合う。過ごすこと三日三晩、文彦はそこにいた。  最初は茫然と、それから無表情に。碑に刻まれた文字の一つひとつを読み、絵姿を眺めた。思考は停止しているようで、頭の片隅では物凄い勢いで計算が進んでいる。術師としての業なのかもしれないが、計算結果が思考に結びつく事はない。無駄なことをしているのだと、文彦自身が理解している。 「フミヒコ」  金鉄と呼ばれる金属は果たしていかなる物質なのか。このセップ島でも希少貴重な結晶だと、魔法猫は驚いていた。これほどの大きさの金鉄を見たのは初めてだとも、こんな金鉄の使い方は無駄以外の何物でもないと、叫んでもいた。 「ねえ、フミヒコ」  彼女はこの碑で何を伝えようとしていたのだろう。  あの、千秋が。へそ曲がりで意地っ張りで、奥底にある本心を最後の最後まで見せようとしない女が。千年以上を生きて、それでも生き足りない魔人が。文彦にとっては本音で話し合える異性の友人で、同じ苦しみを共有できる魔人の仲間で、かつて己の子を産んでくれると約束してくれた相手で、いつか共に暮らそうと誓った恋人で、暦の上では半月前に姿を消した少女が。 「フミヒコってば」  仮説は幾つかある。  それを考えると絶望に囚われ、気が狂いそうになる。彼女はどうしてこんなものを残さねばならなかったのか。かつて三狭山の霊脈を封じ、神剣の所有者として認められたほどの術者が。文彦の内に留まっていた赤帝の力を吸出し、この世界に招かれたのであれば……彼女の力は今の文彦よりも強大ではなかったか? 「……」  千秋は、自分の意思でこの世界に留まったのだろうか。  魔人として強大な力を宿したまま、彼女は死んだのか。  いや。  そもそも千秋は何年生きて天寿を迎えた?  つまり、それは 「てい」  思考はそこで停止した。  三日かけて追いついたにもかかわらず無視され続けた少女シュゼッタの、渾身の力を込めたかかと落としが脳天を直撃したのである。 「……はいてない」 「記憶を失え!」  不用意な一言。  火を噴くほど赤面したシュゼッタの容赦ない二撃目が交差気味に文彦の顎を蹴り上げ、文彦は今度こそ気絶した。