アポロジア連合王国の発展は、その前進である聖アポロジアの歴史的な敗北にはじまる。  絶対神聖を謳い人間至上主義を振りかざし他国を侵略した聖国は、二十年に及ぶ大遠征の過程で大陸の北半分を支配した。聖国に驕りがあったとすれば、その先に先にある島国を手中に収めようとしたことだろう。戦略上それほど重要ではないはずの島国に全ての兵力を投入し、彼らは敗北した。二人の魔女が興し蒼き竜の女王が住まう島国は、大陸を支配し得る力の全てを軽く退けたのだ。アポロジアが誇る鋼鉄の軍船、それは大陸で唯一聖国が実用化に成功した蒸気機関を搭載した船だったが、軍船五十隻をはじめとする大軍団は完膚なきまでに敗北した。  どのような戦いが繰り広げられたのか、聖国の民は知らない。  しかし結果として、国の中心であり崇拝の対象だった太陽の女神は神性としての力を喪失した。太陽神の崇拝は宗教から哲学的なものに変化し、聖国は大陸の北半分を混乱なく治めるための方法を模索し、連合王国という形態に落ち着いた。それは聖国の遠征以前の形に国の形態が戻ったことを意味していたが、聖アポロジアが持つ幾つかの技術の価値を見出していた諸侯はアポロジアを中心として手を結ぶ道を選んだ。アポロジアにとって幸運だったのは、神性を失ってなお他国を圧倒する技術と文化を抱えていたことにある。  むしろ神性の喪失こそが、アポロジアの今日の繁栄を考える上で重要だったのだ。彼らは道路を整備し、安定した航路を確立し、食糧を増産させた。不毛と呼ばれた荒野を開拓し灌漑用水を設け、そこを人の住める土地に変えた。神の力に頼らぬ医療技術は疫病の発生を抑え、同時に乳幼児の死亡率を下げることに貢献した。  連合王国の発展が他大陸に影響を及ぼすのは時間の問題といわれていた。が、彼らが『星の樹』を発見したことで、それは一気に加速することになった。  III.地を這う騎士  星の樹。  それは大洋に浮かぶ島国の古い伝説に出てくる巨樹である。神なき世界に神々を招いた御柱の大樹をどのようにして入手したのか知る術はない。分かっているのは、その恩恵だ。  酒樽ひとつ分の板を組み込めば、百余人が乗り込む鋼鉄の軍船が地に浮かぶ。倍量組み込めば、空も飛ぶ。その木粉を内側に塗り込めば重厚な金属鎧も羽根より軽くなり、蹄鉄に仕込めば馬は文字通り天を駆ける。  舗装された道路以外では役に立たない車輪に代わり、これを仕込んだ陸船が大量輸送の要となったのは言うまでもない。水夫たちは陸の風を読み、あるいは疲れ知らずの鎧牛に牽引させることで大陸の内外を縦横無尽に駆け巡るようになった。 「おかげで陸船を手に入れた連中は関所を無視して各地を飛び回り、密貿易に人さらい、国の威光を笠に着て中立国を攻める連中も出始めた。  連合王国は聖国の敗北以来、自衛以外での戦争行為を基本的に禁じていると聞いているが」  クロル・ニトリスは奴隷商人の陸船を一瞥し、そう呟いた。  ガレー船にも似た旧式の陸船は、陸船の土台に中規模の邸宅を建てたような造りで、遠目には山が動いているように見えるほど大きい。陸船はクロルたちのいる岩場の近くで停船しており、錨を下ろしている。  陸船は娼館を兼ねているのか、派手で露出の高い服を着た女たちが窓や入り口より顔を出してクロルを物珍しそうに見ている。彼女たちが話している内容は聞こえてこないが、こちらを時折指差して笑っているところを見れば、どれほど好意的に解釈しようと腹立たしいものには違いない。  そして、その態度の頂点にあるのが奴隷商だった。 「わたしらの商売に口出しする気かい」  奴隷商、すなわちこの陸船の主は驚くべきことにクロルより少しばかり年上にしか見えない女だった。真鍮細工の長い煙管を口の端に噛み、文字通りクロルを値踏みする姿は妖艶だが、驚くほど隙はない。人身売買を生業としているのだから、荒事は慣れたものだろう。 (それにしては)  正式な訓練を受けた人間の仕草である。  きちんと着飾れば貴族相手に色仕掛けもできるだろう美貌の持ち主だが、色気では誤魔化しきれぬ鍛えられた身体である。彼女がいるのは陸船を牽引してきた鎧牛の御者台で、その両脇を旧式の機甲を着用した護衛が固めている。機甲兵の鎧は数世代前のものとはいえ聖国の制式装備であり、奴隷商はおろか連合王国に認められた公式の傭兵でも入手出来ない品である。商品である女たちでさえ、その半分近くは素人とは思えぬ身のこなしだ。  奴隷商というのは偽装か。  クロルはそう判断し、その上で胸を張った。  とても偉そうに。 「感心はしないが、批難はしない。ただ、我が保護した少女の身柄を貴殿らに引き渡すわけにはいかないということだ」  機甲兵の実力を知るものなら、とてもそんな態度はできない。  娼館の女たちは驚き、あらためてクロルを見た。彼の後ろでフードをかぶる少女は、奴隷商の陸船から逃げ出した時よりも立派な服を着て身体の汚れも綺麗に拭われている。アポロジアの騎士を名乗る男より買い取った時、少女はひどく汚れて傷ついていた。それに比べれば見違えたとさえいえる。  奴隷商の女は唸る。 「銀、十三枚。身請け代だよ」  都市ならば羊を群れで買える額で、それを女は吹っかけた。奴隷商が男より買い取った額は銀十枚だから、それほどひどい商売ではない。その種の商売を考えれば良心的でもある。 『銀で十三枚でっか』  それはまた微妙でんな。  主に代わり騎竜ベリアルが声を上げる。クロルは腕組みをして考えたままで、口は閉ざしたままだ。腹話術を用い声色を変えるにしてもベリアルの独特の声質は人間には真似できるものではない。奴隷商たちがぎょっとしてベリアルとクロルを凝視するが、一人と一匹は当たり前のように向き合って言葉を交わした。 「払うべきか」 『そらま、財布には余裕ありますし。トラブルはできるだけ避けておくのがベターでっしゃろ』 「それもそうだ」  ベリアルの言葉にクロルはもっともだと肯く。アポロジア大陸では人間型種族が優占種とはいえ、四つの大陸には十種を超える知的生命が国という形態で集団生活を営んでいる。だが、ベリアルのように生物かどうかも怪しい存在が人語を流暢に話すなど聞いたこともない。 『姐さん、少しは勉強してくれへんのか』 「わ、悪いね。こっちも商売なんだよ」  馴れ馴れしくもあるベリアルの言葉に、言葉を詰まらせ気味に答える奴隷商の女。 『仕方ないわな。ほな払いましょ』 「ああ」  クロルは頷き、腰のポーチから分厚い銀貨を取り出した。その大きさに奴隷商はひっくり返りそうになる。 「……エーテル銀貨だってえ!」 「アポロジアでも使えると聞いているが」  硬貨を数えながら不思議そうに訊き返すクロル。出てきたものはアポロジアで出回る銀貨より二回り以上大きく、十枚以上重ねるとちょっとした鈍器にも見える。表には美しい竜を描いた紋様が、裏面には交差する一対の剣と大角羊の図案が精緻に打刻されていた。アポロジアの硬貨も偽造防止のため非常に細かな打刻を施されているが、クロルの持つエーテル銀貨のような美術品としての価値までは有していない。 「もちろん、使えるさ」  息を呑む奴隷商。エーテル銀貨は連合王国に出回っている絶対数が少なく、貨幣というよりも美術品として取引の対象となっている。この硬貨をブローチやペンダントに仕立てる者も多く、美術品としての価値は銀そのものの重さの値より高い。アポロジアの銀貨十枚をもってしてエーテル銀貨を一枚交換できるかどうかである。 「銀、十三枚だったな」  知ってか知らずか、クロルはエーテル銀貨を十三枚取り出し束ねると麻紐で縛り、降りてきた奴隷商の小間使いと思しき女の子に渡した。大人の握りこぶしほどもある銀の塊なので女の子は受け取るや重みに耐え切れず落としそうになるが、辛うじてそれを堪えて奴隷商に届ける。 「驚いたね」声が震える「全部本物のエーテル銀貨じゃないか」 「偽物が出回ったという話はあまり聞かないな」  奴隷商の言葉の意味を理解せず、クロルは首を振った。エーテル銀貨を取り出した辺りで娼館の女たちは黄色い声を上げており、風の唸り声以外存在しないはずの荒野は随分と賑やかになっていた。 「地べたを這いずり回る騎士にしちゃあ、随分と羽振りのいい話じゃないか」  奴隷商が片手を挙げると、両脇の機甲兵が立ち上がり武器を構える。魔力により増幅された機甲の内部に仕込まれた金鉄の繊維が兵士の筋力を増幅し、鉄柱に等しい長槍を軽々と持ち上げさせる。 「あんた何者だい」  断じて奴隷商ではない、凛とした声で女はクロルに問う。返答次第では殺害することも厭わぬという決意がそこにある。 「この国の人間ではない、それは分かるよ……もしもあんたが『島』の人間だったら」 「だったらどうするのだ」  槍を突きつけられながら、クロルは落ち着いた表情でそれを眺めていた。己の命がかかった局面でありながら、彼はそれを楽しんでいた。