そこは赤い土の荒野だった。  時折吹く強い風が地面を撫で土を削り、草が根付くのを妨げている。運良く岩陰に根付いたとしても水気の乏しい荒野で育つのはサボテンのような植物で、オアシスのような地下水脈の湧水点も存在しない。トカゲや砂鼠の類ならいざ知らず、この荒野に何の備えもなく人間が入り込めば待っているのは確実な死である。 「……」  絵に描いたような死にかけが、そこにいた。  年の頃は十四か十五、粗末な土染めの衣服を着て自身も土埃にまみれ岩陰の地面に転がっている。乾燥のため肌は皺とひびだらけ、濁った茶色の髪は伸ばし放題で目元も隠れ、表情も読めない。左の足首には重い鋳鉄の鎖が半分壊れた足枷と一緒にぶらさがっており、強い日差しを受けて熱を帯び足首の皮と肉をじりじりと焼いている。両手首にも、叩き割った鎖のついた鋳鉄製の手枷。 「……」  半ば砂に埋もれていたそいつは、せめて太陽を拝んでから死のうと、最後の力を振り絞って仰向けになった。声を出そうにも、舌が口の中で張り付いて動かない。言葉にならない唸りを上げて身体をひねれば、申し訳程度の小振りな乳房がわずかに揺れる。そいつは女であり、人買いの隊商から逃げ出した奴隷だった。  少女の奴隷が迎える運命は、国が違えど似たようなものだ。文化的統治を宣言するアポロジアの連合国家でさえ、属領のそのまた辺境ともなれば前時代的な風習が支配的だ。まして少女はアポロジアに攻め込まれ消滅した国の民であり、仮に人買いの手を逃れたとしても帰るべき場所もない。両親も兄弟も既にこの世にはいない。  ならば、このまま死のう。少女は荒野に逃げ出し己が助からないことを悟ると、そう決めた。少女に女の徴を刻み人買いに売りつけたアポロジアの騎士の倒錯的な仕打ちに比べれば、灼熱の太陽さえ慈悲の光に等しい。  程なくして少女は意識を失った。もしも彼女があと少しだけ意識を保つことができれば、砂塵を巻き上げ少女目がけて物凄い勢いで駆けてくる影に気付いただろう。  I.騎竜ベリアル  荒野の夜は驚くほど冷える。  日差しを遮るものがないように、熱を蓄えるものがない荒野は日没と共に急速に冷え込む。 「へっくし!」  少女は己のくしゃみで目が覚めた。日中の荒野で身体中の水分が失われていたはずなのに、口の中は潤っているしくしゃみと共に鼻水も出る。脱水症状による気だるさも今はない。 「……ここは」  少女は慌てて起き上がり、気付く。身体を冷やさぬよう身体の下に毛布が敷かれ、上等のマントがかけられていた。目の前では硬質の白炭が燃えており、やわらかな温かみが広がっている。また手足を縛る手枷に鎖も外され、擦り切った箇所には膏薬がつけられ包帯が巻きつけられていた。 『目ぇ覚めたんかい、お嬢ちゃん』  金属質の声が頭上から聞こえ、油断していた少女は慌てて転がり声の主を見る。 『一応回復したけど、今夜一杯は養生した方がいいと思うで。栄養失調に脱水症状、火傷に打撲に内臓衰弱。うちの旦那が都の医者なら全治二週間って言ってたわ』  饒舌な声の主。  それは竜の幼生だった。  いや、それは厳密な意味では竜とは呼べないのかもしれない。頭部や鋭い鉤爪などの造作は紛れもなく竜そのものだったが、強靭そうに発達した後ろ脚と長い尾で姿勢を保っている。翼に相当する部分には馬の鞍が置かれ、沢山の荷物を積めるようにもなっている。何よりそれが普通の竜と異なっているのは、全身が鎧のような金属質の外骨格で覆われていたことだった。  少女は絵姿で竜の姿を知っているだけだが、こんな生き物は断じて竜ではないと確信できた。 「お、おまえ何物なんだ」 『うちの名はベリアル』  よくよく耳を澄ませば女性っぽく聞こえないこともない声で騎竜ベリアルは頭を下げる。 『勝手な話やけど、うちらのワガママでお嬢ちゃんを助けさせてもらったわ』 「……うちら?」  ベリアルの背には鞍があった。マントや毛布も、竜の幼生には必要ないものだ。 『大体察してるとは思うけど、うちの御主人がお嬢ちゃんを見つけて助けたんや。水と薬も飲ませたのも、着替えを途中までやったんも御主人様や』  言われて少女は自分の着衣が変わっているのに気がついた。おそらくベリアルが御主人様と呼ぶ者の品なのだろう、素材不明の白い貫頭衣を少女は着ていた。その貫頭衣にしてもファスナーが仕込まれた、アポロジア地方では珍しい様式である。 「途中まで?」訝しげに問う少女。 「どうして途中までなのよ」 『御主人様な、お嬢ちゃんが女の子やって気付いてなかったんや』  だから、ほれ。  ベリアルが首を向けた先、焚き火の向こう側で黒髪の青年が鼻血を噴き出して引っくり返っていた。 『うちが紹介しとくわ。お嬢ちゃんの乳見て気ぃ失ったんが、クロル・ニトリス様や。そういや嬢ちゃんの名前は?』 「……名前も家族も国も、あたしには無いの」  うつむいて、少女は呟いた。 『そか、そら悪いこと聞いたわ』  主であるはずの青年をげしげしと蹴りつつ、騎竜ベリアルはのわははははと笑い、少女に申し訳ないと何度も頭を下げた。