『回廊書庫の亡霊』 #1    あるとき魔法学舎の下っ端学生ニコラス・ハワドは、それが日課であるように学長の部屋に呼び出されていた。 「何度目かね」  額に青筋を浮かべた学長は、そんなありきたりな質問などしない。  やや生え際が後退して頭とも額ともつかぬ部分をつるりと撫でて、それから人格者で知られる彼は、直立するニコラスと、その足下でぼろくずのようになっているフランツ・バルゼットを交互に見た。  もう何度この光景を見ただろうか。  どちらも学長が直々に預かる生徒であり、どちらもそれぞれの理由で学舎の内外より注目されていた。問題児という点でも、個性的という点でも。  だから、学長はこう尋ねた。 「今度は何を仕掛けたのかね」 「天井に紐を」  身振り手振りで、少年ニコラスは説明する。 「迂闊に引っ張るとですね」 「吊り天井でも落ちてくるのかい」 「いいえ」静かに首を振るニコラス「学食ウェイトレスのスカートがめくれ上がるだけです。盛大に」  沈黙が生じた。 「それは、誰か一人ではなくて」 「ええ」沈痛な表情で頷くニコラス「メアリもステシィもレビもグラナダもジェシカもひっくるめて全員」  ニコラスの説明に、美人でグラマラスだが気性の荒さでは山鬼級とも恐れられている学生用カフェテラスの名物ウェイトレスたちの顔を思い浮かべた。彼女たちを口説こうとして玉砕した男衆は、生徒だけではない。なにしろ力づくでも勝てない相手だし、金や権威にひれ伏すような性格でもない。  そのウェイトレスたちが。 「紐には注意書きを添えていて、きちんと読んでもらったんですけどね」 「バルゼットはそれをはったりだと決め付けた」  無言で頷くニコラス。  視線を落とせば、踏まれたり蹴られたりしてぼろぼろになったと思しきフランツが、どこか幸せそうな顔で気絶しているのがよく見えた。男として悔いのない、そんな表情でもある。 「なるほど。今回の騒ぎでは男子生徒の相当数が被害に巻き込まれたからなにごとかと思ったが、そういう理由だったのか」 「はい」 「そういうわけでニコラス・ハワド」 「はい」 「罰として地下倉庫の書を整頓しておくように」  難攻不落と呼ばれた本の迷宮を思い出し、ニコラスにしては珍しくうげぇと呻く。 「共犯者としてフランツを連行したいんですが」 「バルゼットは学舎倫理審査会より召喚されている。君が代わりに尋問されるかね」 「喜んで地下書庫の整理をさせていただきます」  即座に返答し、ニコラスはきびすを返す。閉めた戸の向こう側より学長の深い溜息が聞こえたが、ニコラス少年は何も聞かなかったことにした。 #2  紅国の魔法学舎はセップ島最大の、そして唯一に近い学究のための機関である。現在でこそ貴族指定の教育施設として社交界じみた扱いを受けてはいるが、今も魔法の知識や技術を磨く場として一目置かれていることに違いはない。たとえばバルゼット子爵家の長男は魔法使いとしての素質が認められ、家督を継ぐべきか魔法使いとして身を立てるべきかを悩んでいる。  また紅国の魔法学舎は唯一の教育機関であるため、紅碧両国とも迂闊に政治的な圧力をかけられず、二つの国にとって厄介な人物が逃げ込んだり押し込められる場として扱われることも多い。たとえば碧国王の叔母にあたる「耳なが王女」と迂闊にも婚約を結んだ少年は、魔法使いとしての素質が絶望的と早々に判断されながら、お構いなしに学舎に放り込まれている。  それらの事情をすべて取り払った時、紅国の魔法学舎は、過去に栄えて滅びた幾つもの文明の遺産を収集し保存する場としての側面が現れる。  幾つもの文明。  過去に栄えたのは、たった一つではない。  魔法に長けた妖精たちの国、歯車細工に長けた地の民たちの国、けもの人が興した国や魔法猫の国だってある。それらの文明や民は今は既に滅んでしまったり、どこか得体の知れない場所で平穏な生活を送っているわけで、セップ島には彼らの置き土産とも云うべき品々であふれかえっている。それらの多くは役に立たないか、役に立っても日常を送る上で大した意味を持たない。自動人形のように貴族の財産として扱われる品もあるが、それは少数派である。  では、これらに該当しない品はどうなるか。  無意味に迷惑だったり、有能でも使い道が極端に限られてしまったり、迂闊に扱えば大陸の半分くらいが消滅しかねない、そういう代物もセップ島には存在する。  その最たるものが書物である。  本というのは実に厄介だ。 「そうかね」  学舎の地下施設、懲罰房より更に奥深くにある書庫の鍵を持つ老人は、珍しいこともあったんだと首をかしげながらニコラスの呟きに反応した。 「ワシは長いこと学舎の管理をしているが、君は指折りの本好きに見えるがな」 「それはまあ、嫌いではないですよ」  途中立ち寄った学生用カフェテラスで買った揚げ餅と甘蔓茶を差し入れし、ニコラスはしぶしぶ頷く。学舎に放り込まれて既に一年以上がが経過し、幾つもの遺跡を見つけ出したニコラス少年は暇な時間があれば地下書庫を含めた各所の書を読み漁る。もっとも最近では遺跡を歩き回り恋人と会うのに忙しくて、書を読む時間もないのが実情だが。 「でも地下書庫の規模を知ってる身としては、これを全部整頓するのって」  気が遠くなるんですよね。  と、老人と別れたニコラスは格子扉を開けて、自分の育ての母親と義理の妹が本来の姿で親子喧嘩してもまだ安心して眠る場所を探せそうな、設計した奴の顔を一度でいいから拝んでついでに一発殴ってやりたいような、それはそれは広々として果ての見えない書庫に入っていった。 #3  魔法学舎地下の巨大書庫。  誰が呼んだか、暗黒書海。  書物という形態であれば巻物から石版にいたるまで、これまでに発見された本という本が放り込むように収められている。世界誕生の秘密から滅亡までの克明な記録が其処にはあると噂する者もいるが、実際のところは誰にもわからない。  学舎の記録が正しければ、そもそも学舎という組織が「広大な地下図書館を隠して封印するために魔法使い達が建てた」という経緯がある。ニコラスが図書館を発掘して発見した歴代の地下書庫管理人の日記あるいはメッセージを見れば、この書庫が文字通り幾つもの文明を渡り歩いて存在していたことになる。  妖精も地の民もけもの人も魔法猫も、厄介そうなもの厄介ではないものひっくるめて、書という書をひたすら溜め込んでいったのだ。  棚に収まりきらないのか収めることを放棄したのか定かではない本の海をかき分けるように進みながら、ニコラスは地下書庫中央に鎮座する大きな石碑の前に立った。御影石を鏡面となるほど磨き上げた石碑には、古い妖精たちの言葉とは異なる文字で次のような文章が刻まれていた。 【ここには、あらゆる智が隠されている。我々の技術を十年も二十年も進歩させるような、そのような素晴らしい智が。しかし我々の計算が正しければ、我々がその智を見つけ出すには、少なく見積もって五十余年の歳月が必要だった。故に我々は埋もれた智を掘り起こすことを諦め、先人に倣って我々の磨き上げた智を混沌たる書海に投じることにした】  石碑の最後に刻まれたのは、歯車王国最後の女王の名だった。  存在するかどうかも定かではない、いや、学者の公式見解では妖精たちの王朝と同一視されている歯車王国の、これまた説話の中にさえ出てこないような女王の名前である。  さて、どうしたものか。  石碑を前にニコラスは唸った。この広大な地価書庫を整理して目録を作成するのは、終身刑にも等しい苦行である。自分を主と慕ってくれる魔族たちの力を借りるのも一つの手だが、彼らの力を総動員したところで、普通にやってはどれほどの月日を費やせばいいのか見当もつかない。地下書庫に放り込まれるような本は壊れにくいように破れにくいように厳重な保存の魔法がかかっているから、投げようが蹴ろうがびくともしない。ちょっとやそっとの魔法を仕掛けても簡単に弾き返してしまうくらい、頑丈である。  まず大抵の魔法は通用しない。  魔法がかからないということは、魔法を使って整理整頓することができないということだ。すこし前にニコラスに用事があって現れた獅子面の魔族が、歩くのに邪魔な本を魔法で動かそうとして愕然としていた。ちなみに床に散乱している書の大半は、整理整頓に飽きた魔法猫が暇潰しと内部分裂で投げ合ってそのままになったものらしい。それはそれで歴史的価値があるような気もするが、過去を尊重しすぎて現在に生きる人間が迷惑を被るわけにもいかない。  見渡す限りの本の海。  腰帯に絡めていた幅広の布を取り出して、目を隠すように縛る。故郷で飼っていた羊の毛を紡いで仕上げた飾り布は、手拭い代わりにと育ての母が手ずから織ってくれたものだ。そうして己の視界をふさいだニコラスは、足下にある書の一冊を爪先で引っ掛けて蹴り上げるようにして手に取り顔を近づけた。  くんかくんかと鼻を動かし、本に染み付いた匂いを嗅ぐ。  紙の匂い、インクの匂い、糊の匂い。本が重ねてきた時間の匂い、仕掛けられた魔法の匂い。書き手の匂い、知識の匂い、ページとページの間に閉じ込められた過去の空気の匂い。もろもろの匂いを、ニコラスは丁寧に嗅ぎ、どういうものかを感じ取る。  尋常な嗅覚ではないが、ニコラスはそれが異常とは気付かない。育ての両親は当たり前のようにやっていたし、義理の姉妹も同じだった。試してみれば、目隠しをすれば自分でもなんとか嗅ぎ取れたので、誰でもできることだと今も考えている。  そうしてニコラスは書海に手を突き出して今しがた覚えた「匂い」を掴むと、ぐい、と掴んで一気に引っ張った。  どさどさどさ。  いたるところで本の山が崩れ、そこからニコラスが持つ本と同じ仕様の本が飛んでくる。一冊や二冊ではなく、山のように。それらは石碑の横にある少しばかりの足場に積み重なり、柱のようになった。ニコラスは続けて別の本を拾い、同じようにした。やはり数え切れないほどの本が飛んできて、積み重なった。  一歩進むごとに本を引っ掛け、二歩進むごとに匂いを引っ張る。暴力的な勢いで飛んでくる本を、目隠ししたままニコラスはひょいひょいと避ける。  歩くこと、ざっと十万歩。  目隠しを取ったニコラスの前には、積み重ねられた本の森と、その間に縫う本棚の壁が無数に存在していた。本の森は、広大な地下書庫の果てまで続いている。一部区域しか床が見えないほど本に埋もれていた地下書庫は、視界こそ塞がっているが床は完全に露出している。満足そうにこの光景を眺めたニコラスは、石碑の正面に戻り、一番最初に積み上げた本の山を見る。  古い妖精たちの歴史書が、順番通りに並んでいる。  ふう。  息を静かに吐いて、腰を落とすニコラス。幾度か立ち位置を変え、それから右の爪先をひょいと上げ、ステップを踏むように床を叩く。  とんっ。  石の床を鳴らす、乾いた音。音は小さく揺れることもなかったが、目の前の本の山が宙に浮き、再び床に着く前に指でつつかれて姿勢を崩す。  どどん。  崩れかけた本の山は、別の本の山に当たると跳ね返り、床で再び跳ねると一本の棒のようにくるりと宙返りをして、そのまま手近な本棚に収まった。その頃には充てられた別の本の山がまたもや崩れかけ、さらに別の本の山に当たって跳ねる。  どどん、どん。どどどどど、どん。  一つの本の山が二つに当たり、二つの本の山が四つに当たる。ドミノ倒しのように本の山は倒れたりはねかえったりして、空いている本棚に次々と収まっていく。  事情を知らぬ者が見れば、本が生き物のようにひとりでに本棚に飛び込んでいると思ったかもしれない。ニコラスは跳ね返る本から降ってくる埃に時折むせながら、油紙に包んでいた飴玉を一つ取り出して口の中に放り込んだ。  噛み砕くのはニコラスの趣味ではない。親指大の飴玉を舌の上でコロコロと転がしながら本の動きを目で追って――飴が溶けて消える頃には静かになった。果たして本棚は余るほど残っており、暗黒書海と呼ばれた地下書庫は、整然とした智の保管場所としての姿を取り戻した。  書物に関しては。 「巻物とか石版とか、どうしよう」  どうしようもないとわかってて、うなだれる文彦は後ろの石碑に背を預け。 「あ」  そのまま石碑に吸い込まれるようにして虚空に消えた。 #4  感覚としては、ぬるま湯に身体を沈めたようなものだ。  決して不快ではないが、肌にはり付くものは完全に無害とは言い難い。普通であれば元に戻ろうと慌て足掻き、溺れることもある。ニコラスもまた驚きはしたが、無意識の内に身体をより奥へ奥へと沈ませることにした。  そうして沈む先に身体を向け直したニコラスは、程なくしてそこより抜け出ることに成功した。  きゅぽん。  文字に表せば、こんな音だろうか。とにかくニコラスは、御影石の碑を突き抜けて、別の場所にいた。  程よく磨きこまれた木の床。  空気に混じる、種々のインクの匂い。  本来の用途を考えれば驚くほど大胆に広げられた、百歩はあろうかという通路の両脇には、三段はしごを使っても到達できそうにないほど高く整然と並んだ巨大なる書架。ごくごくわずかに勾配を生じ螺旋軌道を描いていると思しき通路の両端は、どこまで続いているのか見当もつかない。見上げた天井には、本を傷めぬよう抑えられた色調の光球を宿したガラス球が吊り下げられている。  無限回廊の書庫。  そういう言葉さえ脳裏に浮かぶ。 「これは驚いた」  ニコラスの気持ちを代弁するかのように、女の声がした。どちらかといえば若い、でも艶やかさとは無縁の声。  ぞくりとした。  意識はしなかった、ただ血液が沸騰した。妹のしつけに苦心した頃以来の戦慄と興奮がニコラスを支配した。百歩の距離を五歩で進み、それは歩を進めるごとに加速し姿勢は低くなる。視界が目標を捕らえるより早く繰り出したのは拳と肘、外れて膝。これも避けられる。姿勢を崩し別の膝、流されて腰をひねり前転気味に放つ蹴り、そのあたりで意識が追いつく。  目の前には赤毛の女。ウェイトレスのような濃紺のエプロンドレスを身につけ、真っ赤な瞳をぱちくりとさせながらニコラスの繰り出す技を紙一重で避けていた。どことなく耳なが王女を連想させるけど、かなり違う美女。  いいや。  蹴りについては、女はニコラスの足首を掴んでいた。掴んだ上で受け止めず、勢いの向きを変えて力を添えた。  ひょい。  紙飛行機でも飛ばすような軽い動作。それだけでニコラスの身体は宙を舞い――いまさらながらに呼吸することを思い出した。直後にべちっと天井に激突し、そのまま落下。  受身さえ取れずに落ちたが、大した怪我を負った様子もなく上体を起こし、再び女を見る。 「またもや驚いた」  天井と床を交互に見比べてから、女はこれ以上ないほど楽しそうに笑った。耳なが王女や学舎の女生徒たちのように、口元を隠して笑うのではない。腰に手を当てて胸をそらし、発声練習するように豪快に笑うのだ。 「威勢の良い来客だが、そういうのは嫌いじゃない」 「……そりゃどうも」  無自覚とはいえ襲い掛かってきたニコラスに手を差し伸べ、立ち上がらせる。こうして面と向かえば、綺麗な面立ちや物腰では隠しきれない圧倒的な力というものが彼女より感じられる。正面から喧嘩して勝てる相手ではない。 「回廊書庫へようこそ」軽く膝を折り会釈する女。手には、薄い黒瑪瑙の板「君の名は、ニコラスだな。歓迎する」  事務的口調ではあるが、不快ではない。  書を読むためにしては豪華なテーブルと椅子が、すぐそばにある。入れたての茶が上等なボウルになみなみと注がれており、柑橘にも似た香が湯気に混じる。そこに座れと促されたニコラスは、そういえばまだ女性の名を聞いていないと思い出して口を開きかける。 「そうか自己紹介がまだだったか、悪いことをした」  女の言葉が先だった。  ニコラスはなにも言えず、椅子に腰掛ける。テーブルの上には見慣れない焼き菓子と、書物でのみ知っていたチョコレート菓子が皿に盛ってあった。 「うん。どの名前を伝えるのか迷うところではあるが」  自身もまた向かいの席に座りながら、女はあれこれと考える。 「セーラ」 「え」 「この名を伝えるのが相応しいだろう。私のことはセーラと呼べばいい」  両手におさまるほどのボウルに角砂糖を放り込みながら、少し甘くしすぎたかと茶を口に含んで眉を寄せた。 #5  本棚からひとりでに数冊の本が抜けて、宙に浮く。そのままひとりでに頁が開き、やはりひとりでに現れたペンがなにかを書き込もうとして、べしっと虚空より現れた箒に横殴りに薙ぎ払われてペンは吹き飛ぶ。開いていた本は元に戻り、今度は別の本がひとりでに抜ける。  無数と呼んで差し支えのない書が並ぶ回廊書庫だが、一度に抜ける本の数はそれほど多くない。 「普通は書庫の存在に気付いても、あんな風に本を開いて内容を書き換えようとするくらいしかできないんだ」  干しぶどうをたっぷり仕込んだ焼き菓子をぼりぼりと齧りながら、セーラは興味なさそうに呟いた。 「ああやって本の中身を書き換えようとする連中は、そうすることで本の内容を自分達で決められると信じている」 「できないのですか」 「できるよ」  あっさりとセーラは頷いた。 「ここには書くための机とペンがある。それに紙もインクも。本を作ったり書き換えたければ、この回廊書庫に足を運べばいい」  セーラとニコラスのほかには誰もいない回廊書庫。果ての見えぬそこでは虚空に現れた箒が忙しく動き、ペンを追い払っている。 「少しばかり世界の仕組みを理解すれば、回廊書庫の存在に気付く。そこで多少頭が廻って運が良ければ、ここに並ぶ本の価値に気付く。努力すれば本を動かしペンを持つことも可能だ」  でも、そこまでだ。  つまらないとセーラは呟き、ひときわ大きく振りかぶった箒が、ペンを砕く。撒き散らされた破片とインクを、やはり虚空より現れた箒とちりとりがすべて回収して虚空へと還す。 「この回廊書庫に到達するには、もっと別のことが必要になる」 「僕はなにもしてませんけど」 「そうだな」意味ありげに頷くセーラ「君は、世界の真理に到達すべき魔法の力を持っていない。賢き者のようにまじない言葉を唱え杖をかざしても、蛍ほどの光を生むことさえできないだろうな」  彼女の指摘にニコラスは息を呑む。  そうなのだ。どれほど頑張ろうと、精確な発音と儀式を繰り返そうと、ニコラスは魔法を生み出すことができないのだ。魔法の代行者たる魔族たちでさえ首をかしげるのだから、重症である。 「もしも君にわずかでも魔法の素質があれば、この回廊書庫より持ち帰るであろう力で世界を制することも不可能ではなかった」 「はあ」 「でも、君はそういうのに興味ないだろ」  興味深そうにニコラスの目を覗き込み、うんうんとひとり納得するセーラ。 「そこでひとつ提案がある」  もったいぶった調子でセーラは両腕を広げ、目のつくところにある本棚全てを示した。 「どれか一冊でいい。君の名を書に記してみないか?  賢い君のことだ、この回廊書庫の本質を理解していることだろう。百万の軍勢をも退ける偉大な魔法使いでさえ、この書庫を飾り窓越しに覗き、脳が破裂するほどの念力を駆使してもペン一本を送り込むことしかできないのだ。  それを、君は!  ああ、わかるだろうかニコラス? 君は呪文のひとつも完成させられない、魔法使いとしては劣等生の極みとも云うべき男だ。君を抱え込む破目になった導師には心の底から同情するほどに――だってそうだろう、君という人間は魔法を必要としていない。  必要なものは総て自分でやってしまう人間だ。死の制約さえ君は自力で乗り越えてしまったではないか……そんな人間はね、存在の根本で魔法というものを弾き返してしまうんだ。揺るぎない存在を宿した人間が、世界の揺らぎそのものである魔法を使おうだなんて冗談以外の何物でもない」  舞台役者のような独白を終え、にじり寄るようにセーラはニコラスに問う。まるで悪魔が契約書を突きつけるように、逃れえぬ運命を見せ付けるように。 「どれか一冊を選びたまえ」 「それでは」  万とも億とも知れぬ数の本。  それらがすべてニコラスの前にある。彼はそれらの本を、本棚に納められた数々の本――そしてそれに書き込もうと次々と現れるペンをみてた。それから何か考えるように天井をみて、溜息をついて床を見た。  小さく溜息。 「この一冊をいただきます」  ニコラスが手を伸ばしたのは、何の変哲もない本だった。表紙に題名はなく、ページを開いてもなにも書かれていない。装丁こそしっかりしているが、本としての意味を持たない本だ。  それを見てセーラは問う。 「良いのかね。ここには天界の神々を従わせる書物も、歴史を好きなように作り変える書物もあるのだよ」 「でも、これじゃなきゃだめなんでしょ?」  静かに答えれば、セーラは微笑む。  ニコラスは本を抜き取った後の棚に触れ、それから一度だけ床を蹴るように強く踏み込んだ。  どんっ。  強くはあるが床を揺らすほどではない踏み込み。  若干の間。 「お見事」  セーラの呟きと共に、回廊の両側に並んでいた本棚という本棚が崩れる。本そのものは無事ではあるが、破片と化した本棚の瓦礫が覆い隠しているため、どこにどれだけの本があるのか調べる術はない。 「これで良かったんですか」 「さあな」  足の踏み場もないほど埋もれた本の山を眺めながら、セーラはニコラスのボウルへと楽しそうに新しい茶を淹れた。 #6  香ばしい茶を飲み終えてボウルを顔の前から下ろすと、ニコラスは魔法学舎の地下書庫に戻っていた。  整然とした、完璧なる秩序。  散在していた巻物や石板の類は相当数ではあるが、書が棚に収まったことにより「これはこれでよいのでは」という気持ちにもなれる。 「お手柄だぞ、ニコラス・ハワド」  書庫には大勢の魔法使い達がいた。  今まで踏み込むことも難しく必要な書物を発見するなど不可能に等しかった地下書庫だが、そこに蓄えられた知恵は誰もが認めるところである。  隠された世界の秘密。  禁忌とされた魔法の数々。  どこかにあるという星船の在り処。  今まで多くの賢人達が追い求め、生涯を費やしても到達できない数々の智が、そこにある。明らかになれば歴史を変え、セップ島の内外を巻き込む大きな戦争が起こるような智も、確実に。 「これで世界が変わるぞ」興奮気味に叫んだのは誰だったか「妖精たちの王国が築いた栄光が、俺達の手によって再現できるんだ」  彼らは書物の背表紙を見て、その題名を書き写していた。偽書の類もあるだろうが、蓄えられた智を体系化することで、後々の調査研究を簡潔なものにすることができる。過去に生まれては滅んだ幾つもの文明、その叡智を一つにまとめ上げることが可能ならば、どれほど素晴らしいことだろうか。 「気に食わんな」  異は入り口より唱えられた。顔面どころか全身を物凄い勢いで殴打されたり引掻かれて大変なことになっているフランツが、顔面に包帯を巻きつけながら現れた。彼の身柄を引き取ってきたと思しき学長も一緒である。 「無秩序だからこそ守られるものもある」  フランツの言葉を継ぐように、学長もまた重苦しい表情で地下書庫を一望した。ニコラスの姿が消え不審に思った管理人が通報したのだが、書海の整理を聞きつけた導師たちは我先にと駆けつけて貴重な書物の目録作りを始めていたのだ。魔法使いとしての功績を稼ぐことに我を忘れていた導師たちは、学長の判断を仰ぐこともしない――魔法使いが知識の探求者としての側面を有しているのだから止むを得ない話であり、問題児二人を抱え込んだために威厳が低下している学長の求心力が問われる場面でもある。  彼らが書の一冊とて強奪しなかったのは、学舎への僅かな忠誠心とか文化遺産への畏敬の念が残っていたからかもしれない。 「こうしてみれば、歯車の女王が遺した碑文の真意も見えてくるというものだ」嘆息するフランツ「金鉄の精錬法でも発見されてみろ、今まで静観していた大南帝国が攻めてくるぞ」  大陸諸侯の中で中立を保つ軍事国家の名を挙げ、絶望的な表情を浮かべた後、彼はニコラスを睨んだ。 「導師は貴様に頭を冷やす時間をお与えになるために地下書庫の整頓を命じられたのだ。智の刃がもつ鋭さも理解できん莫迦共に歴史と叡智が蹂躙されるためではないぞ」 「珍しく正論だね」  地下書庫の狂態に半ば呆れつつニコラスも頷く。 「でも、確かに僕はやりすぎた」  まるで、あさっての出来事を記した日記をいま読まされているような気分だ。  とはいえ学長の言葉さえ届かぬ彼らにニコラスやフランツが何を言っても無駄だろう。多少なりとも理性を残している導師や魔法使い達の一部はニコラスたちの様子に何事かを悟るが、そうでない者の方が多い。  ニコラスはなにかを考え込んでいるのか天井を見上げ、それから息を吐いて床を見た。  あっ。  誰かが小さく悲鳴を上げた。フランツだったかもしれないし、学長たる導師だったかもしれない。いずれにせよ反応できた者は残らず動きを止めた。  彼らとてわかっていたのだ。  混沌たる書海を片付けたのは、あのニコラス・ハワドなのだ。魔法の素養こそ絶無だが、下手な魔法では太刀打ち出来ないような罠を当たり前のようにどこにでも仕掛ける。それも、予測のつかない方法で。  いつの間にか、静寂が訪れた。 「――なにを、やったんだ」  全員の気持ちを代弁するかのように、フランツが低い声で唸る。  ニコラスは大したことではないように肩をすくめた。 「僕はなにもやってないよ」 「うそつけ」 「本当だってば」真面目な顔のニコラス「仕掛けたのは、ずうっと昔のひとたち。妖精とか猫とか人形とかその辺の連中が、整理整頓に挫折した折々に」  腹いせに後年の作業者への嫌がらせを実に陰険なやり口で。  あくまで他人事のように腕を組み唸るニコラス。 「後世の人が挫折するように、それはもう陰湿な仕掛けが満載で。さすがの僕もあれこれ手を加える気にはなれませんでした」 「……なにが仕掛けてあったんだ」 「整頓が完了するとですね」こほんと咳払いをして微笑むニコラス「一冊でも引き抜いたら、弾けるみたいです」  残酷なまでの沈黙。  ここにきて誰もがニコラスを凝視した。 「弾ける、とは」  問うのは導師である学長。  ニコラスは言葉では返さず、地下書庫の一角を指差した。  視線も動き、それを見る。いや、見てしまう。指し示されたのは、常々学舎の備品を横流ししているとか黒い噂の絶えない男である。彼が学舎を追放されないのは、曲がりなりにも国王の遠縁として家系図に名が連なっているためである。  その男の手に、数冊の書があった。読解出来ないものの高そうな装丁のそれを懐に隠そうとしているところを目撃された男は、無駄だと知りつつ本を後ろ手に隠そうとした。 「歯車の女王曰く」微笑をたたえたままのニコラス「我々は埋もれた智を掘り起こすことを諦め、先人に倣って我々の磨き上げた智を混沌たる書海に投じることにした」  直後。  地下書庫にある棚という棚より、本という本がバネ仕掛けのように飛び出した。それだけでは治まらず、堤防を突破した濁流のように本棚によって仕切られた地下書庫の通路という通路を流れていく。  障害物たる人間を、そのまま巻き込んで、容赦なく。  本の雪崩は絶え間なく発生し、目録作りに追われていた導師達を一人残らず飲み込んでいく。その勢いたるや本物の雪崩と比べても遜色はなく、唯一無事といえた石碑の周囲にいた数名のみが本の濁流より逃れているのみである。  本の濁流は、整然とした書籍が整頓以前の無秩序に還るまで七日七晩続いた――その後、学舎は地下書庫整理の野望を諦め、自身の研究成果に精一杯の防護措置と陰険な仕掛けを施して放り込むことにした。  騒動が静まった頃、ニコラスはセーラより受け取った無地の本に己の知る限りの世界の秘密と、己が知る限りの技と、己が知る限りの物語を書いた。やはり七日七晩かけて記した書を携えて地下書庫にもぐりこむ。 「古の哲人に倣って」  書を放れば、石碑より華奢な手がにゅっと伸びて本を宙で掴む。 「それじゃあ」  小さく会釈すると、書を持った手が上下してそのまま消える。ニコラスもまた書庫より立ち去り、混沌たる書海は今まで通りの秩序を取り戻したのである。