『臨終の看護』  一人の男が息を引き取った。  そこは陽もまともに差すことのない北向きの小さな部屋で、四方が剥き出しの石壁に囲まれていた。扉は鉄と銅で作られており、装飾もない。窓枠には鉄格子がある。部屋の中には、粗末な寝台とテーブルが一つ。排泄物を溜める陶器の蓋付桶だけが唯一の色彩であり、それは実に皮肉なものだった。  男は、牢獄に等しいその部屋に監禁されなくともいずれ死を迎える運命にあった。少なくともフランツ・バルゼットはそれを理解していた。  男の亡骸を寝台に乗せ、手を胸の上で組ませフランツはしばし祈る。神や精霊ではなく、この男の哀れなる魂に安らぎが訪れるのであれば如何なる者であっても構わないという思いを込めた。神なるものを信じようとしないくせに、このような時に限って祈ってしまうのは滑稽なことだとフランツは考えていた。自分は既に道化なのだから、今更笑いものになっても構うまいとも。  男は、かつて学舎の長だった。  多くの弟子を従え、学舎に通う魔法使い達の多くは男に憧れた。魔法を使うということでは、おそらくセップ島の歴史においても有数の実力を持っていたに違いない。都の郊外に屋敷を構え、彼の子供達は魔法の素質にこそ恵まれなかったものの優秀な官吏として地方を駆け回っている。最初の孫は十歳になって、次の春には学舎に入学するのだと嬉しそうに語っていたのをフランツは覚えている。  その男が全てを失い、この場で最期を迎えた。  看取ったのはフランツと、もう一人だけ。男の親族は半年前に縁を切り、おそらく亡骸を引き取りに来ることもないだろう。フランツは、それも理解していた。  男の口から息が漏れる。  肺の中に残っていた最後の吸気が、ひゅっと音を鳴らしたのだ。フランツはわずかに顔を上げるが、男はそれっきりだった。秋が始まるとはいえ、放っておけば二日と経たず肉は腐り虫が湧く。ましてこのような最期を迎えた男の骸を放っておけば、その強い思いが世に留まって亡者となる……それだけは避けたいとフランツは考えていた。  やがて。  鉄の扉が開いた。  馬上刀を腰に差した兵士に連れられて、若者が一人やってきた。フランツと共に男の臨終を看取った若者、すなわちニコラス・ハワドは一通の書状を兵士とフランツに見せる。兵士は舌打ちしてニコラスを見るが、言葉を口にすることなく部屋を出た。 「いいのかい」  そう言ったのはニコラスだった。  男の亡骸に上等の香油を塗り、テーブルの上に粗末な香炉を置き沈香を焚く。祈ることはせず、しかしフランツと変わらぬ表情でニコラスは男を見つめた。 「学舎は、ここに来ることを禁じているはずだよ」 「知っている」  短くフランツは答えた。学舎で将来を期待されていたはずの魔法使いはそれ以上何も言わず、ニコラスもまた沈黙した。      陽が西に傾くのを待って、ニコラスとフランツは都より外れた河原で火を起こした。  荷車一杯の薪を積み、薪に香油を染み込ませ、組み立てたやぐらの上に男の亡骸を乗せる。それを、兵士や学舎の人間が遠巻きに見ている。彼らは槍を構え杖を握り、二人の行いをただ見守っている。  香油を染み込ませた薪は青白い炎を上げて勢い良く燃えた。  炎は一晩続き、その間ニコラスもフランツも言葉を出さず、周囲の者も同じだった。川の流れる音と薪の爆ぜる音だけが響き、夜が明ける頃に男の骸と薪は全て灰となる。炎が消えるのを待って、二人は全ての灰をかき集める。 「……導師がさ、お前が送りつけた歯車を見て嬉しそうに笑ってた」  灰を全て壷に入れた後、フランツはぽつりと漏らした。 「お前の見つけた歯車は、導師が半生かけた研究を覆すものだった」 「うん」 「彼に残っていた、最後の誇りだった」  そうだね、とニコラスは呟く。フランツは手と膝についた灰を払い落とし、ポケットから黄金に輝く小さな歯車を取り出した。掌よりわずかに小さなそれは、複雑な模様が刻まれている。それを作る技術がセップ島にないことを、フランツは知っていた。 「だけどな」  今は灰と化した男の顔を思い出し、フランツは下を見る。灰がわずかに混じった河原の砂利を踏めば、乾いた音が鳴る。 「『我らの見知らぬものが、この地に眠っている。それの何と素晴らしいことか』と仰って、導師は笑われた」 「そっか」  フランツはそう言って、歯車を壷に入れた。振り返れば兵士は槍を立て、学舎の人間は杖を胸元で掲げ、二人の前に列を作り並んでいる。  ニコラスは言う。 「謀反人の亡骸は、肉片に至るまで灰に帰し壷に封じました」  兵士長と思しき鎧姿の男が、ニコラスの前に立ち頭を下げる。 「見届けましたね?」 「確かに」  兵士長と学舎の代表が壷の中身を確認し、聖別した水を灰に注いで掻き混ぜ、そうして彼らは去った。ニコラスは壷の口に荒縄かけて封を施し、これを抱える。既に旅支度を済ませていたニコラスは、その足で都を出て行くつもりだった。  導師の故郷に壷を納めると、ニコラスは言う。 「君はどうするのさ」  フランツは、まあ適当に生きてやるさと短く答えてニコラスに背を向けた。その姿が完全に見えなくなってから、ニコラスもまた歩き出すのだった。  数日後。  フランツ・バルゼットは、新しい学舎の長に退学届を叩き付けた。