『あるいは道上に』  あるとき旅人ニコラスは草原を歩き、そして立ち止まった。  彼の目の前には、一本の切り株。  手首の太さほどもなく、脇より若い枝が伸びている。  切り株の向こうには、牧童と思しき少年が金色に輝く羊の群を従えこちらを見ている。 「やあ」  静かに、ニコラスは微笑んだ。  牧童は担いでいた樫の杖をつき、ニコラスがこちらを見ていることに気付くと軽く会釈した。 「はじめまして」 「……こんにちは」  どこか懐かしいものを感じたのだろう、牧童は不思議そうにニコラスを見ている。 「ここは、君にとって世界の果てなのかな」 「うん」  ニコラスの問いに牧童は迷うことなく頷いた。二人が挟むのは杭のように草原に覗く小さな切り株、その周囲の景色に変わりはない。 「僕は村一番の羊飼いになる」 「素晴らしい夢だね」  頷くニコラス。 「たくさん羊を飼って、小さくていいから自分の家を持って。そうしたらエリスを迎えに行くんだ」  牧童は誇らしげに、しかし少し気恥ずかしそうに胸を張る。希望と生き甲斐に満ちた表情だ。ニコラスは少し羨ましいと思い、こう言った。 「君は……エリスのことが好きなんだね」 「よく分からないよ」一呼吸の間。「でも、いまの家族と同じくらい大切な人だよ」 「そうだね」  その通りだと同意するニコラス。彼は足元の切り株をぽんぽんと叩き、目を伏せた。 「ここは世界の果てだ」 「うん」 「だけど、この先にも世界があることを君は知っている」 「うん」 「君は新しい世界を知るかもしれないし、今の世界で全てを終えるかもしれない。どちらが君にとって幸せなのかなんて、誰にもわからない」  どんな生き方を選んでもそれなりに苦労するし、充実もする。  ここは君の運命を左右する分岐点だけど、全てを決めるのは君の意思だ。ニコラスは諭すように言い、腰の鞘より白の石剣を引き抜くと切り株に深々と突き立てた。  刹那。  空が砕けた。空だけでなく、全ての景色がガラス細工のように砕け散り、牧童もまたそれに飲み込まれた。刃の先にあるのは切り株ではなく、幾重にも組み合わさった歯車細工の時計だった。金鉄より造られたそれは懐中に収まるほど小さなものだったが、尋常ではない魔法の力を発している。突き立てられた石剣は鉄よりも遥かに硬い金鉄の機械仕掛けを文字盤ごと貫き、切っ先は大理石の床まで達していた。 「歯車ごときが人の運命を」  その先の言葉は轟音にかき消された。貫かれた金鉄の時計が爆発し、褐色の煙が大理石の床に広がっていく。ニコラスは片膝ついていた己の身体を起こし、黒の石剣をもう一方の手で引き抜いた。  そこは歯車と発条が支配する世界だった。  全ての生き物に歯車と発条が組み込まれ、それらは金鉄の牙つめを剥き出しにしてニコラス「達」に襲いかかろうとしている。 「……無事だったか」  立ち上がるニコラスの横には、赤毛半妖の娘。心配していたようだが、決してそれを表に出そうとはしない。ニコラスを信じ、共に危険を乗り越えることを彼女は望んでいる。  それはニコラスもまた同じだった。 「なあ、ニコラス!」  半妖の娘が叫ぶ。 「こういうのも悪くは無いな!」 「僕もそう思います」  苦笑し、ニコラスは剣を再び構えるのだった。