おさななじみ4  緑色のビール瓶が居間のテーブル横の畳に転がっている。  ラベルにハートランドと銘打たれたそれは、双葉の家ではあまり見かけない品だ。酔えばそれで十分という時代に生きていた彼女の父は質よりも量を好み、量販店で安売りしている発泡酒で満足している。いや、満足した気になっている。  佃島の姉弟は、あまり酒を好まない性分である。風呂上りに飲むのは麦茶か牛乳であり、疲れたときには梅干と昆布茶を欲する。洒落っ気を出したい時にも静岡茶を手放すことはなく、この姉弟にとって酒という飲料が数多ある嗜好品の上位に食い込むことはない。  とはいえ、飲む際の好みというのはある。 「どうぞ」 「いやいやいや、まあまあまあ」  どういう表情をすればいいのか判断しかねるといった顔つきの佃島俊明は、虹浦双葉の父が持つグラスに瓶を傾けた。昔からの近所付き合いで酌をしたことは何度もあるし、酒を酌み交わしたのも初めてではない。 「黒はんぺんしかありませんが」  皿の上の肴を指す俊明。 「十分じゅーぶん」  機嫌良さそうに、双葉の父はグラスを空ける。空ければ即座にビールが満たされる。俊明一人では一本分も飲みきれないから、俊明としてもありがたい。賑やかなのも、それほど嫌いではない。たとえキッチンのテーブルで己の姉と双葉が俊明の買ってきたビールをちょろまかして飲んでいたとしても、一人で沈んだ気持ちで酒を飲むのに比べればはるかにマシだと考えている。その姿が既に現実逃避だと多くの人間が考えていて当の俊明自身も十分に自覚していたのだが、それを認めると色々なものが決まってしまいそうなのでそれ以上深く考えるのをやめていた。  極彩色のアルミ缶が台所のキッチンテーブルの上に転がっている。  本来なら居間に供されるべき数々の料理は、作られたそばから消費されていく。次々と空けられるのはイギリスを代表する黒ビールの缶と、果汁入り甘口缶チューハイである。  テーブルを囲むのは女子学生である双葉と、俊明の姉――辛うじて二十代を主張できる――誉子である。既に缶を三つ開けている誉子は、未成年である双葉がチューハイを口にしているのを見ても、咎めようという意思はない。  むしろ双葉に酒の味を覚えさせようと積極的に働きかけたのが誉子である。双葉の母は酒の肴を作るのに余念がない。 「にーちゃんのガードが固いんです」  苦さを柑橘の甘味で誤魔化した炭酸酒を舐めながら、双葉はうーんと唸る。  なし崩しに恋人宣言して両家の父母を巻き込んだ上に味方に引き入れた、そこまでは双葉の戦略に問題はなかった。 「そこから先に問題があったのかな」 「んー、やっぱり双葉は学生だし」 「子供産む準備はバッチリっすよ、家族も育児に協力するって言ってるし」 「若いって、いいわよねえ」  呟いて、誉子は顔をしかめた。呪文のように、まだ大丈夫まだ大丈夫とうつむいて繰り返す。 「私もやはり十代に産みたかった、そして認知させたかった」 「赤ちゃんっすか」 「うん。俊明の赤ちゃん」  沈黙が生じた。  フライパンで肉がこげる香ばしい匂いと、油の爆ぜる音が、換気扇の唸り声より逃れて双葉に届く。安物だが牛肉だなあと漠然と感じつつ、誉子が酔ってても正気を失ってないことを確認した。 「やっぱりさあ、半ズボンの一番美味しいところで童貞を頂戴した以上は、行き着くところまで頑張るのが筋ってもんじゃない?」 「にーちゃんの女性不信は、ねーちゃんの仕業か!」 「だって近親相姦は犯罪じゃないもん」 「天が許しても、あたしが裁く!」  吠えた双葉は、出来上がったばかりの焼肉皿を掴んで一人で食べ始めた。その猛烈な喰いっぷりに双葉の母は呆れ、誉め子はかなわないやと笑って新しい缶を冷蔵庫から取り出した。  その頃、居間では。 「……うちの娘、不満かね」 「いえ自分ホモっすから」 「冗談だろう」 「はい、冗談です。本当は重度の二次元オタクでアニメ絵じゃないと勃起できないんですよ」 「……うそでしょ?」 「はい、嘘です。実は中学生の頃に神の声を聞いて以降、諏訪湖のちんこ蛇神さまに操を立てっぱなしなんで結婚するとちんこ食いちぎられちゃうんですよ」 「ははは、面白いジョークだね」 「はい、ジョークです。ところで」  いい具合に酒に酔った俊明のホラ話が三桁に突入しようとしていた。