『そのことばは勇気』  あるところに羊飼いの子がいた。  本人としてはそれ以外の生き方を知らず平々凡々とした毎日を過ごし、生きることはとても大変だったけど、それなりに幸せを感じていた。  羊飼いの子は、父親を尊敬していた。  穏やかな男である。吹き荒れる嵐の真ん中でなお己を見失うことがない、そんな穏やかさだと村の人は言う。羊飼いの子は多くのことを父より学び、父は知る限りのことを少しずつ教えた。  父は言う。 「勇気とは出し惜しみできるものではない」  気持ちひとつで簡単に増減できるのなら、それはきっと勇気とは呼べない。では勇気とは、どのようなものなのかと羊飼いの子が問えば、父はしばし考えてから答えた。 「例えるなら、鏡のようなものか」  心の有り様、生き様を反映するもの。  生まれついての勇者などいない。見聞きしたもの背負ったもの考えたもの総てをひっくるめて、それが勇気の源になる。そして源を多く抱えたとして、磨きが足りず曇った鏡では、心の有り様は正しく映し出されることはない。 「だから」  父は言葉を区切り、目の前の皿に盛ったそれを凝視した。 「父さん、これ以上もう勇気なんて振り絞れないんだよ」  皿の上でうごめくのは、一口サイズの奇怪な生命体。  造物主たる彼の娘を羊飼いの子が詰問したところ、材料はシュークリームと変わらないとの返事があった。  羊飼いの子と、その父の食卓には、それだけが並んでいた。きしゃあぐしゃあと奇声を発し、得体の知れないリズムに合わせて踊り狂う焼き菓子の群は、それだけで見るものの正気を奪いそうだった。 「どうしようか」 「どうしようもありませんよ」  父と子は嘆息ひとつ分の時間で覚悟を決め、先割れの匙をシュークリームに突き立てた。  きしゃぼあぁあ。 「羊を飼うのに勇気は要らない」 「はい」  父と子はそう結論付け、どちらが先に食べるかという新しい命題に取り組むことにした。