『ヨセフとケイン』  風の強い新月の夜、ケイン・ハイマンは決まって剣を枕元に置いて眠る。  それは幼い日に夜森の異形に連れ去られた、彼にとっては忌まわしい出来事が関係している。あの日あの時に自分が魔物から逃げ切れば、兄ヨセフは家を捨て旅に出ることはなかった。小さい頃は恐怖から、真実を知ってからは悔恨から、ケインは新月の夜を憎んでいる。  眠らずに朝を迎えることも珍しくない。  その夜、やはり新月の闇が空を覆うのを眺めながらケインは屋敷の自室に篭っていた。晩餐は既に済ませ、兄を迎えるにあたって遠方より招いたケインの歳若い許嫁も今は客間にて眠っている。早馬で報せてきた宿場町からの手紙によれば、一両日中にも彼は着くという。  兄に会ったら何を話そう。  子爵家を継いでから一年が経過する。ケインの継承に反対していた遠縁の親族達も、今は文句を言わない。誰の目から見てもケインは立派な領主だ。彼の言動が兄を意識したものだということは本人も認めていたが、それが良い刺激となっていたのも事実だった。兄は兄であり、自分は自分である。剣の才能も魔法の力も無いが、それでも彼に劣っているとは思わない。  憎しみは今はない、そう考えている。  爵位継承に際し訪れた王都にて、ケインは兄の話を聞いた。旅人も、町役人も、家臣も、王までもがヨセフ・ハイマンという男を知っていた。優れた剣士にして魔法使い、万の兵を率いて戦う術も心得た将器、それでいて旅を続ける変わり者。その才覚と業績は賢人ニコラスに迫るものがあると言われながら、彼が手にした名誉と財は驚くほど慎ましいものだ。  彼さえ望めば一軍を任せられるほどの傑物である。  ケインがヨセフの弟だと知った時、王はそう兄を評価した。同時に、ケインが決してヨセフに劣ってはいないとも強く言った。なるほどケインがこの歳で子爵位を継いだのは、紅国という特異的な環境を除いても異例である。父は老いたとはいえ健在であり、ケインは半年ほど前に遠方の貴族より令嬢を迎え入れることが決まったばかりだ。野心的な青年貴族が寡婦貴族に取り入り爵位を手にする事はあっても、精力的で有能と評されたハイマン子爵が余力を残していながら仕事を実子に託したのだ。  王ならずとも都を訪れた貴族達はケインに対して興味を抱き、その力を試した。野心的な青年貴族は公的な場で挑発し、決闘を挑むものさえいた。爵位継承に臨んで訪れた都で揉め事を起こせば、ハイマン家が罰せられることもある。  彼らはそれを試み、ケインは無意識のうちに全てを退けた。  彼としては当たり前の事を行い、普段通りに過ごしただけである。才覚では兄に劣ると思い込むケインではあるが、ある意味でそれは彼の誤解である。ヨセフは巡回牧師の紙芝居に誇張されるほど絶大な力と才能に恵まれていないし、ケインもまた人に劣る存在ではない。むしろ兄が名を知られた存在であるだけに、ケインに対する評価が過小となっていたのかもしれない。  彼らが若き子爵への評価を改めるまでそれほどの時間を必要としなかった。  とはいえ人々がヨセフを知っていたことはケインや父にとって驚きであり、ヨセフに対する王や貴族達の評価は、複雑な感情を抱かせるものがあった。兄は、故郷を飛び出た八年という歳月でそれを成し遂げたのだ。ハイマン家の財も力も借りず、彼はそこまで評価される人物になった。  一国の王に才を惜しまれ、貴族だけでなく広く人々に知られている。太陽神の一派との戦いを評してヨセフを英雄と評する者も少なくない。ケインの中ではヨセフは今でも同じ父と母を持ち仲良く育った兄である。それが自分の知らない八年間の中で何を見て何を知ったのか、何をもって今のヨセフになったのか。弟として一個の男として、ケインはそれを知りたかった。自分と兄の違いはどこにあるのだろうか。  兄に出会えば、それが少しは理解できるのかもしれない。  それを考えていて。  我に返ると、ケインの前に一人の貴婦人が立っていた。  腰まで伸びた闇色の髪をまっすぐに流し、髪の色と大差ない漆黒一色のドレスを着ている。肌は山際にある満月のようにかすかな朱を帯びた白、胸元にはハイマンの家紋でもある鬼蓮花をかたどった白香木のブローチがランプの灯りに浮かび上がっていた。  人にあらざる美貌の持ち主である。 「夜森の主か」  本能的にケインはそれを口にした。十年前に彼を連れ去った形を持たぬ異形たちに似た雰囲気の貴婦人は小さく会釈して、彫刻のような顔をケインに向けた。 『あなた様は兄への復讐を望みますか』  夜森の主たる貴婦人は表情を変えない。  ケインもまた表情を変えず、しかし手に持つ剣を鞘より引き抜こうともしない。 『かつてあなた様は、兄であるヨセフの嫉妬により御身を夜森に囚われた。あなた様を恐怖させ、激しい憎しみを与えた兄ヨセフが戻られる……望むのであれば、あなた様の意思に従いヨセフに恐怖と苦しみを与えましょう』  あなたには復讐する正当性がある。  夜森婦人の言葉はそこで終わる。ケインの答えを待つように、あるいは若き領主という男を値踏みするかのように、異形の婦人は立っている。  ケインは考えた。  なるほど自分では意識せずとも、おそらく自分は生涯ヨセフと比べられるのだろう。ハイマン家の力も借りずに名誉を掴んだ兄は、たとえ実の兄弟でなくとも意識せざるを得ない。何も知らぬ世間の者は、その業績のみで兄と弟の差を比べるのだろう。才能に恵まれたものは、たとえどれほどの努力をしようとも、素質を持たず挫折した者の気持ちを理解することはできない。事情も知らぬものたちの陰口が、自分を苦しめるのだ。 「くだらない」 『ほう』  椅子の背に身体を預け、しかし全身の力を抜くことはなく、ケインは夜森の貴婦人を睨んだ。貴婦人は彫刻のように端正な顔をわずかに歪め、半歩だけ退いた。 「兄は自罰の旅を選び、私は自身の無知により兄を憎みそして悔やんだ。私も兄も既にこれ以上ないほどの罪を犯し罰を受け、その上で人生の選択肢を誤ってしまった」 『周囲がそれで納得するのですか。彼らはあなた様を不出来な弟と罵り、酒の席で肴とするでしょうに』 「ならば私は力を尽くし、彼らの誇りとなれるよう努力しよう。それこそ兄を憎む暇さえ惜しいのだから、貴様は去れ」  凛。  硬く澄んだ鈴の音が室内に響く。閉じられた部屋の中を風が吹き荒れ、その中心にある夜森の貴婦人は恍惚の笑みを浮かべた。 『あなたは闇を恐れぬか!』 「怖い」静かに呟くケイン「貴様のような化け物が、私の大切なものを奪うかもしれぬ夜闇が怖い。だから、貴様の取引には応じられぬのだ」  夜森の貴婦人は歓喜の声をあげ、その姿を消す。  吹き荒れていた風はおさまり、舞い上がっていた紙片が床に落ちると時を同じくして部屋の扉が開き、使用人や家族が押し入るように飛び込んでくる。 「旦那様」  小さい頃は教育係でもあった老執事が血相を変え、荒れ果てた部屋に驚いた。ケインは「片付けは明日頼む」と幾人かのメイドに指示し、それから床に刺さったものを引き抜いた。  それは柄から刀身までが漆黒の、やや細身の長剣だった。鍔部分にはハイマン家の紋章たる鬼蓮花が白香木の彫刻として埋め込まれている。優美ではあるがどこか妖しげなる気配を持つ長剣は、ケインの手の中で凛、凛と鈴のような音を時折奏でている。 「息子よ、それは」 「兄への贈り物です」剣を鞘に収めケインは苦笑した「これも兄の下に在りたくて私の部屋を訪れたのでしょう」  父母を含めて家人の一切はケインの言葉を理解できず、首をかしげた。      果たして数日後。  帰還を果たしたヨセフ・ハイマンは領主である弟より漆黒の長剣を贈られる。今まで携行していたものと対を成す剣にヨセフは驚き、喜んだ。  兄は立派になった弟の姿に感激し、弟は兄の女性関係に嘆き「そろそろ身を固めるべきです」と詰問した。  それより以後、ケインが新月の晩に夜更かしすることはなくなったという。