『ケインとヨセフ』  ケイン・ハイマンがハイマン子爵家を継いだのは、彼が十七歳の誕生日を迎えた日だった。  子爵とはいえ実際には伯爵領の補佐役に過ぎぬ地方貴族の家柄であり、貴族同士の付き合いよりも、領内を見回り用水や溜め池の管理に気を配り自警団の訓練に時間を割くことが多い。十を過ぎ兄のヨセフが出奔して以来、ケインはそういう生活を当たり前のようにしていた。  最初の頃は、兄を憎みもした。  慕っていたからこそ、彼が突然家を出たときには驚き悲しんだ。兄はケインにとって規範であり目標であり、よき相談相手であり、決して勝てない人だった。わずか十四歳で故郷を飛び出した時、彼の母は嘆き、父は兄の残した手紙を見て愕然とした。  どうして。  思春期に伴い両親にぶつけるべき憎しみを、ケインは姿のない兄へとぶつけた。それはやり場のない怒りであり、同時に自分がどれほど兄を尊敬していたかを再確認することになった。  父はケインを跡継ぎにすると方々に伝え、領民や親族はそれを受け入れた。彼らは兄ヨセフが消えたことを悲しみはしたが、ケインが良き領主になることを期待していた。 「自分は納得できません」  反対したのはケインだけだった。 「あの男を連れ戻し、家督を継がせます」 「駄目だ」  父は悲しそうに何度も首を振った。彼がその理由を教えてくれたのは、ケインが十四歳になった夜のことだった。  それなりに豪華な宴の後に、父と母はケインに三通の手紙を渡した。  封のあいた二通は父と母に宛てたもの。閉じられた一通はケインに宛てられたもの。それらは兄ヨセフが家を出る前に残したものだった。  彼は知る。  かつてケインが幼い頃、兄は弱い心を持ったが故に夜森の怪にそそのかされ、ケインを魔物に売ろうとしたことを。ヨセフはそれを悔い、夜森に踏み込み魔物を探し出し、ケインを取り戻す代わりに魔物たちと契約を結んだことを。定まった形を持たぬ異形のため、兄ヨセフは魔物を剣に変えて旅に出たことを。  兄の出奔は、償いの旅でもあった。  弟に宛てた手紙には、弟への謝罪の言葉でいっぱいだった。父や母に宛てた手紙もまた、親不孝を詫びるものだった。魔物が自分を許すまで、異形が真に形を得る時まで、自分の旅は終わらない。時々故郷に立ち寄ることはあるかもしれないが、もはや自分はお前の兄として振舞う資格などない。  ケインは手紙を抱きしめ慟哭した。  彼が恨み罵っていた日々を、兄はそのような覚悟で各地を旅していたのだと知り、泣いた。今の己と同じ歳に、兄はこれだけの決意で家を捨てたのだ。  その日を境にケインは良き領主として兄の分も頑張ろうと心に誓った。ヨセフへの憎しみが一夜で消えることはないが、いつの日か再開したときに彼に笑われぬ男でありたいと願うようになった。  民草は正直である。  今までにもまして仕事に打ち込むケインの姿に、彼こそが新しい主であると心より思うようになった。ケインもまた自身が守るべき領地と領民のため生涯を尽くすことこそ天命と考え、そのように振舞った。  時は過ぎる。  巡回牧師が町々で語る物語に、漆黒の剣を持った不可思議なる魔剣士が現れるようになった。  いまは数えるほどもいない妖精の娘を師と仰ぎ、世界の各地を旅する若い剣士。形を持たぬ魔物に形を与え、自身もまた魔法を使う不可思議なる剣士ヨセフ。物語の中で彼は、いつしかニコラス・ハワドと並び称されるまでになっていた。  恐ろしき鎧牛の群。  硫黄山に住まう火噴きトカゲ。  にごった海より這い出した無数の腐り蟹。  子ども達をさらう恐ろしい夜魔。  剣士ヨセフは異形の剣を手に、頼もしい仲間とともに困難に立ち向かう。かのニコラスと共に旅する話さえある。領内で兄を知る者は、彼こそがかつて出奔したヨセフその人に違いあるまいと考えるようになった。 『まあ、その通りではありますが』  黒白の翁より命じられハイマン家を訪ねた樽魔人が、背負っていた荷物をテーブルに並べながらケインの問いにあっさりと答えた。 『ヨセフ・ハイマン殿、あなたの兄上だそうで』 「兄は今も……苦しんでいますか」 『別の意味で苦しんではいるようですが』  短い手足をばたばたと動かしつつ、樽魔人は腕を組み唸る。 『もうじきこの町を訪れるのですから、その時にじっくりと話し合われるが良いかと』  お互いに子供ではないのですからと。  むしろヨセフの女性関係を見て再び兄に幻滅したりしないだろうかと樽魔人は心配になったが、あえてそれは口にしなかった。