『夜森の怪』  少年は走っていた。  どれほどの時間そうしていたのか自覚はなかったが、森の中を走り続けていたので膝から下は傷だらけだった。靴は気付かぬ内に脱げてしまったのか、それとも最初から履いていなかったのか       そんなことさえ思い出せない。  心臓が沢山の血液を全身に送り込み、身体中の血管が悲鳴を上げているのが分かる。一番ひどいのはこめかみと、それと肺だ。息を吸うのも、吐くのも辛い。強引に吐き出す息が喉を通ると笛のような音を鳴らし、それが実に耳障りだった。耳のそばで血が巡る音が聞こえてくるのも嫌だった。自分自身の身体が限界を迎えている、わざわざ誰かに指摘されなくてもわかるくらいだ。  かまうもんか。  意識が朦朧としている。それでも走る速度を止めようとはしない。いばらの棘が足を引っかく。折れた枝を勢い良く踏めば足の裏が裂けもする。もう何度もそれを繰り返していた少年は、悲鳴を上げるのも涙を流して転がり倒れるのも面倒になっていた。  そんなことは後でもできる。  少年を進ませるのは悲壮なまでの決意だった。傷だらけの足で泥を踏めば、最悪そこから肉が腐ることを少年は知っている。傷口に潜り込む恐ろしい蟲も知っている。たった一人で森の中に飛び込むことの愚かさも、たとえ自分が『彼ら』に追いついたとしても為す術がないことを知っている。  少年はあまりにも無力で、中途半端だった。  わずかでも愚かなら、それに気付かなかった。わずかでも賢ければ、見て見ぬふりができた。  だが結局少年はそれができなかった。自分の生命を天秤にかけること、それに自分の価値を金貨いくらで評価することにかけて少年は壊滅的なのだ。走るたびに、少年の商品価値は減っていく。今や少年の姿は奴隷商人も見向きもしないほどボロボロで、ちょっとしたことで肉屋が出向く程度にまでなっていた。それでもなお少年が立ち止まろうともしないのは、ある意味で驚嘆に値する出来事だったのかもしれない。  この世界に強い念を残しそうな、それほどの思いが少年を衝き動かしている。たとえ屍となり骨と化しても動き出しそうな執念が、限界を迎えつつある身体を維持している。遥か森の奥にかすかな明かりが揺らいでいる限り、それを追いかけようと少年は決意しているのだ。  あそこに、いる。  言葉は出ない。顎の筋が引きつり、舌が口蓋に張り付いて動かない。身体のあらゆる部位が悲鳴を上げている。心の強さだけが全てを動かしている。『彼ら』が連れ去った者を助け出そうという思いだけが少年を支えている。  あそこにいるのだ。  弟が。  自分が森の奥から『彼ら』を招き寄せてしまった。人里に現れた『彼ら』は弟を連れ去ったのだ。どうして自分は『彼ら』の言葉を信じたのだろう、どうして『彼ら』の言葉が魅力的に感じられたのだろう!  どうして自分は弟を売ったのだ?  後悔の念が、弟への思いを膨らませる。罪悪感が、家族の絆を強くさせる。兄である自分を慕って、連れ去られる瞬間まで自分を信じてくれていた弟を、売ってしまったのだ。母親の愛を一身に受けている弟を妬ましいと思ったのだ。  自分は兄なのに。  弟を売った瞬間、少年は走り出していた。『彼ら』が弟を連れ去って行った森の奥へと駆け出して、彼らに追いつこうとした。  そして。  少し大きな岩を乗り越えようとした時、少年の心臓は限界を超えた。痛みを感じるよりも早く全身が痙攣し、受身を取ることもできず前のめりに倒れた。びくんびくんと二度震え、それっきり少年は動かなくなってしまった。  痛みが蘇った。  骨が、肉が、皮膚が、内臓が悲鳴を上げる。火箸を押し付けられたような、熱さを伴う痛みが少年を襲う。まぶたは腫れ、眼球を動かすこともできない。鼻腔には血と、それとは異なる刺激臭が伝わってくる。  自分は?  朦朧とする意識。胸がわずかに上下して、肺を膨らませる空気が冷たくて痛い。意識が全身の痛みを認めると、聴覚が唐突に復活する。  自分は生きている。  何かが燃えている。虫も鳴いている。何かが歩いているのだろう、枯れ枝が折れる乾いた音も聞こえる。おそらく自分は倒れているのだろう、それは理解できた。 「生きているわよ、君は」  声だ。  女の声が聞こえた。少女ではない、自分より随分年上の……だが少年の母親よりは若いだろう、そんな女の声が聞こえた。諭すのでもなく、安心させようとするのでもなく、ただ事実を述べている。少年が命を落としたとしても揺らぐことのない心の強さを彼女は持っているのだろう、それを少年は理解した。 「おれは弟を救い出したい」  声が出た。そのことに少年は驚いたが、驚くよりも自分が倒れていたことを悔やんだ。もう『彼ら』を見つけることは出来ないが、諦める気にもなれない。 「少しは知ってるわ、その辺の事情」 「じゃあ力を貸して」 「やなこった」あっさりと女は吐き捨てる。「助けたかったら、自分で起き上がって何とかしなさい」  女の言葉と共に、少年は視力を取り戻す。腫れていた瞼が強引に、少年の意思とは無関係に開く。当然のように激痛が走るが、悲鳴を上げることは出来ない。  手足が勝手に動き、立ち上がったからだ。  焚き火に照らし出された全身には包帯がきつく巻きつけられ、そこには湿布薬と油紙が貼り付けられている。筋や骨にも異常があったのだろう、足首はもとより関節のいたるところに添木が当てられ、あと半年で13歳になる少年の乏しい経験と知識を総動員しても、自分の身体がまっとうに動くわけがないと理解できる。  その身体が、普段より二割り増しで勢い良く動き立ち上がったのだ。瞼を開いたことによる痛みなど吹き飛んでしまうような『神経情報』が、少年の全身を駆け巡った。しかも悲鳴を上げようにも、言葉が出てこない。咽は震えているのに口から出てくるのは絞り込まれた吐息のみ、狂い死にしそうな痛みなのに意識を失うことも出来ない。 「夜の森では必要以上に騒がない」  目の前に、女が現れた。  妖精の女だった。先年に隣村へ嫁いだ従姉を思い出す、落ち着いた雰囲気の女だった。人間ならば子を得ていても不思議ではない年頃だが、人の何十倍も長い時を生きる妖精の歳を推し量ることは出来ない。  妖精の女は長袖の旅装束を身にまとい、やや細身の短剣を引き抜いている。焚き木でも割っていたのだろう、空いた手には適度な太さの枝が握られていた。 「わたしはシュゼッタ」  それが女の名前だと理解するまでにしばしの時間を要した。少年は奥歯を噛み締めて痛みを堪え、こう返した。 「おれはヨセフ」肺が震える。「ヨセフ・ハイマンだ。弟を魔物から取り返すのに……力を貸してください」 「やーなこった」  シュゼッタは指でヨセフ少年の額を弾く。それだけでヨセフの全身は再び力を失い、糸の切れた人形のように崩れ落ち、そのまま意識を失った。  次にヨセフ・ハイマンが意識を取り戻したとき、彼は森の奥に立っていた。  どれほどの時間が過ぎたのかはわからないが、空は未だに暗く、虫たちも鳴いている。そこは樹齢百年を優に越える巨木が生える場所で、ひときわ大きな楢の根元に彼は立っていた。  全身の怪我は、驚くことに癒えていた。  あるいはもう自分は死んで、魂となってしまったのだろうかと彼は考えもした。だが土や木の根を踏む感覚が、自分がまだ生きていることを告げている。  手には、あのシュゼッタと名乗った妖精が持っていた細身の短剣。足には薄い革帯が幾重にも巻き付けられていて、歩くのも苦痛ではない。暗い筈の森だが、不思議と彼は森の様子を理解できた。冷たく湿った空気が、今は心地良い。 「……ケイン?」  弟の名が自然と口に出る。  根拠はないが、そうすることで弟が出てくると思ったのだ。  直後、数歩先の草原に幾つかの人影が現れる。眠っている幼い男の子を抱きかかえた黒衣の異形。人とも獣ともつかない姿だが、恐怖は感じない。一度死にかけた身だから怖くないのかもしれない、ヨセフは魔物を前にして落ち着く自分の姿をそう分析した。町中に現れて弟を連れ去った魔物をみた大人たちは悲鳴を上げ、気を失う者もいた。自分もまた魔物を恐れ、弟を連れ去られるのを黙って見ているだけだった。  だが今は違う。 「おれの不用意な言葉が、あんたたちを呼び寄せた」  すまないとヨセフは頭を下げる。  異形たちは互いの顔を見て、人には聞き取れない音で話し合い、再び視線をヨセフに向ける。 「おれは弟を憎んでなんていない、あんた達に売ったことを後悔している」  異形は首を伸ばし、あるいは触覚を回しヨセフの話を聞く。敵意を示しているのか、それとも無関心なのかは分からない。魔法使いならば魔物の眷属たるこれらの異形と意思を交わすことも出来るだろうが、ヨセフは生まれて12年間その種の修行を行ったこともなければ素質があると言われたこともない。それでもヨセフは言葉を続け、前に進む。異形たちは退くことはなく、襲い掛かる気配もない。 「タダで返せなんて言わない。命が欲しいなら、おれのをくれてやるから弟を返してくれ」  異形たちは再び互いの顔を見る。今度はヨセフの周りを、まるで家畜を値踏みするかのように上から下まで眺め、肌に触れ唇を軽くつまみ、耳の穴をのぞき込む。ひそひそと話し合い、異形はヨセフの前で立ち止まると抱えていたケインをヨセフに渡した。 「……ありがとう」  素直に返してくれるとは思っていなかったので、ヨセフは驚いた。それでもヨセフは眠っていた8歳の弟の肩を揺さぶって起こし、自分が持っていた短剣を握らせた。 「にいちゃん?」 「真っ直ぐ歩けば森を抜けられる。森を出る頃には、みんなが待っている」  一度だけ抱擁し、ヨセフは弟の背中を叩いた。夜の森は狼も山鬼もいるが、無事に森を抜けられるという奇妙な確信がヨセフにはあった。ケインは不安そうに兄を見るが、ヨセフの「大丈夫」という言葉で安心したのか振り返りもせず走り去っていく。弟の姿が完全に見えなくなった後、ヨセフは満足気に笑みを浮かべもう一度「ありがとう」と漏らした。 「これで満足して死ねる」  さあ、と手を差し伸べる。  黒衣の異形は横一列に並び、こう言った。 『お前は死にたいのか』 「あんたたちが望むなら、おれの命をくれてやるよ」  死ぬのは怖い。  でも、約束は果たしたい。自分が招いた災いなのだから、自分に責任があるのだ。ヨセフは覚悟を決めていた。 「魔物は人を喰うんだろ」 『そういうやつもいる』  だが我々は違う。  黒衣の異形が腰を下ろす。夜闇に溶け込むように、黒衣の輪郭がぼやけてくる。身体の端が陽炎のように揺れ、少しずつ崩れてくのが分かる。 『我らはカタチが欲しい』  異形の一つが言う。 『人の思いで姿を変えることのない形が欲しいのだ』  別の異形が囁く。  敵意や悪意はない。むしろ懇願に近いものを異形たちに感じ、ヨセフは戸惑う。彼らが何を言いたいのか、何を望んでいるのか。自分が理解できないことで異形たちを落胆させるのは嫌だったが、ヨセフは無力だった。 「おれの身体を奪うのは」 『とても数が足りぬ』  異形は嘆く。  ヨセフはしばし考え、上を見た。 「シュゼッタ、そこにいるなら知恵を貸しておくれ」 「やなこった、自分で考えな」  即答だった。  すぐさま返って来たシュゼッタの返事に、ヨセフは苦笑した。        ヨセフ・ハイマンは考えた。  目の前にある魔物たちは果たして何者かと。彼らの望みを叶えるために自分が何をすべきかと、あまり賢くない頭で考えた。  考えて。  魔物の一つを指差した。 「お前は刃だ」  きっぱりと言う。ヨセフの言葉に魔物は驚き硬直する。 「お前は鋭く、刃こぼれしにくく、硬く、折れにくく、切れ味が鈍らない刃だ。おれのような子供でも扱うことの出来る、手ごろな大きさの刃なんだ」  次にヨセフは隣の魔物を指差した。 「お前は柄だ。片手でも両手でも握ることのできる長さで、滑りにくい柄だ。おれが望めばいつでもおれの手に現れる柄だ」  次々とヨセフは魔物たちに名前をつけていく。刃、柄、鍔、鞘、それらの名前を一つずつ与えて後にヨセフは最後にこう言った。 「お前達は一つの剣になる。おれと共にある限り、おれはお前達に形を与える。旅に出て山犬や鬼に襲われた時、お前達は剣となっておれと共に戦う。おれはお前達を剣として扱う限り、おれを知る者たちもお前達を剣だと思うだろう。お前達がおれに力を貸してくれる限り、おれも、おれの子孫もお前達を剣として扱うだろう」  そうすれば、いつかお前達は本物の剣となって確固たる形を得るはずだ。 (ちょっと無茶な話かもしれない)  頭の隅に浮かぶ思いをかき消し、ヨセフは強く念じた。 「おれがお前達全部に与えられる形は、それしかない」  断言する。  黒衣の異形たちは硬直し、その後に咆哮する。森を揺さぶる大きな声を上げ、捻じれ、幾つもの影が一つに重なり姿を変える。その間ヨセフはただ一つの形を思い浮かべ、まばたきする事もなく異形たちを凝視した。  森の中だというのに強い風が吹き、風は渦を巻いて異形たちに吸い込まれる。恐ろしい唸り声が今度は地面を揺らし、それに驚いた森の獣たちが騒ぎ出す。ヨセフは姿勢を崩しそうになるが、視線を異形から外すことはしない。ヨセフはまだ自分の責任を果たしていないと考えていたのだ。 「お前達は剣か!」 『おお!』  風の中心より、異形が吠える。それに負けぬようヨセフも吠える。 「お前は『咆哮するもの』だ、それがお前の名前だ!」 『おおおお!』  異形が歓喜の声を上げ、  全てが沈黙した。風の唸りも地面の轟きも止まり、不気味なほどの静寂が森に戻る。そしてヨセフの前には、鞘に収められた小剣が一振りあった。鞘も、柄も、鍔も、全てが黒で統一された短い剣。 「おれと共にあるか?」 『おお』  誇らしく言う異形の小剣。ヨセフはそれを拾い腰に差し、息を吐く。 「シュゼッタ、ありがとう」 「ふん」  近くの木が揺れ、旅装束の妖精が降りてくる。 「わたしは何もやっていない。君が考え、君が解決した」 「でも、おれを助けてくれただろう?」  シュゼッタは直ぐには答えず、右手でヨセフの頬をつねり上げた。 「いだだだだだだだだっ」 「旅をするなら覚えてきなさい、傷つき倒れた者を助けるのは旅人の常識だと」  ヨセフが涙目になったのを見て手を放し、シュゼッタは満足そうに頷く。 「ねえシュゼッタ」 「なによ」 「おれと一緒に旅しない?」  やっぱ駄目かな、とヨセフは力なく笑う。すると今度は両手でヨセフの頬をつねり上げるシュゼッタ。 「旅の相手を誘うなら、言葉遣いにも注意しておきなさい。特にレディを相手にするならね」 「いぎぎぎぎぎ……一緒に旅に行きませんか、シュゼッタさん?」 「やなこった」  シュゼッタは笑い、両手を放す。頬を手で押さえるヨセフの頭をぽんぽんと叩き、彼女は森の更に奥へと姿を消す。 「おねーさんと旅に出たかったら、も少し鍛えることね」  こうしてヨセフ・ハイマンと妖精シュゼッタの最初の話は終わった。  この後身体を鍛えたヨセフはシュゼッタを遂に口説き共に旅に出る。その旅の途中、二人は様々な事件に巻き込まれ、かのニコラス・ハワドとも出会うことになるのだが。    それはまた別の話である。